6,出会いの刻 楽を奏でる 壱
渕州は都の遙か北西に位置する。
渕州には郡が3つ、国が5つ設けられており、冱斡国はその内の一つである。
昔から、世界は郡国制を敷いている。
全土を州郡県に分かち、それぞれの長を皇帝が選任派遣するという仕組みである。
当初、州は13あり、1州の下に8つの郡が置かれ、1郡の下には10の県が設けられていた。
だが、時が流れ、王朝が乱れるに従い、新たな県が現れたり、併合されたりして、数に差が生じるようになっていった。
更に、皇族が封じられた郡は『国』とされ、これの長は『相』である。
郡の統治は郡太守が、県では県令が設けられ、これらを監視する役目として州刺史が置かれている。
州刺史は独自の軍隊を持たず、叛乱が起きても、鎮圧する力がない。
王朝末期に近付くにつれて各地で乱が起こるようになるが、打つ手がないのである。
そこで、朝廷は新に『州牧』という役職を設けた。
これは領内の民を組織して、独自の軍隊を作る権利を有していた。
乱を鎮めるために設けられたこの州牧が、やがて大きな力を得て、乱世を招いたとも言われている。
渕州冱斡国は、馬の産出地として、知られている土地である。
そして、それだけの土地であった。
冱斡城周辺に広がった街並みは都のそれとは比べものにならず、中央に通った大通り沿いこそ賑わっているが、何分、家々の間隔が広い。
どこか閑散とした雰囲気があった。
小さな城郭だ。峨瑛は馬を曳きながら、辺りを見回した。
男が家から出てきて、路を歩いてきた男に片手を上げた。
そして会話が始まるのかと思いきや、二人はすぐに己の仕事に戻ってしまった。
どうやら、軽い挨拶をしただけのようだ。
家から出てきた男は筋向かいの家に入っていき、路を歩いてきた男はまた別の男に挨拶をされながら、
峨瑛の脇を通り抜け、去っていった。
この城郭では、出会す顔は皆、知った顔なのだろう。
それほどに城郭は小さい。仮にも皇族が収める土地であるのに、だ。
「お待ち下さいっ!」
不意に声が響いた。
若いというより、幼い声で、甲高く響いて聞こえた。
「早くしろ。翠恋が苦しんでいるんだぞ!」
続けて響いた声は、更に幼い。
峨瑛は振り返った。
少年が二人、駆けてくる。一人は15歳くらいだろうか。
もう一人はそれより2つか、3つ年下だろう。
言葉遣いから察するに、二人は主従関係にあり、おそらく年下の少年の方が主なのだろう。
だが、身形から見ると、それは逆転して見えた。
年下の少年の方が泥だらけで、縒れた褐衣を身に着けている。
少年達は旋風のように峨瑛のすぐ脇を駆け抜けていった。
旋風に一瞥もされなかったことで、峨瑛は妙に興味を抱いた。追って駆け出す。
そこは今にも崩れそうな厩だった。
古い。些細な風でガタガタと音を立てている。だが、この古さで尚も建っている。
よほど主柱がしっかりしているのだろう。
この地には、腕の良い建設技師がいるのかもしれない。ふと、そんなことを峨瑛は思った。
厩の入り口に人垣ができている。
何事かと、側に立つ男に問えば、馬がお産をしているのだという答えが返ってきた。
それは昨日から始まったが、その牝馬にとって初めてのお産であるため、ひどい難産だと言う。
どうやら、二人の少年は人垣の内側にいるようだった。
――それにしても、と思う。
たかが、馬が仔を産むだけで、これだけの人が集まる必要があるだろうか。
思いが顔に出てしまっていたのだろう。不意に、男が振り返った。
目尻の垂れた、中年の男だ。
彼は峨瑛をジロリと見やり、薄く笑った。
「あんた、よそ者だな。あの牝馬は特別なのさ」
「ほう?」
「あの牝馬は翠恋って名で、媛さんの馬だからさ」
「媛?」
「あの方さ」
男は顎で厩の中を指した。
牝馬の尻から、枝のような脚が二本出ているのが見えた。
体躯の良い男がその脚に綱を結びつけている。
綱を引いて、仔馬を引っ張り出そうというのだろう。
少年達はどこだろうか、と見渡せば、牝馬の首を懸命に撫でていた。
「どこに媛がいると?」
媛どころか、婢女も、女らしい姿など見当たらなかった。
峨瑛が怪訝な顔をすると、回りの男達はドッと笑い声を上げた。
男は腕を真っ直ぐに伸ばした。今度はきちんと指し示したのである。
「あちらの、一見、少年としか見えないような御方が我らの媛さんさ」
「阿葵様だ」
「いや、もう幼名は使っちゃなんねぇー」
「そうさ。天連様さ!」
その時、ドサリと何かが落ちた。
男達は息を呑んだ。それぞれに見やる。
ヌルヌルとした黒いそれは、一度、ビクンと痙攣した。
「産まれた!」
少年が大声を上げた。あの、幼い方の少年である。
事もあろうか、男の指はその少年を指していた。
藁まみれ。
それだけなら、まだ良いだろう。
その少年は馬糞まみれの上、羊水を頭から被っていた。両手は母馬の血で汚れている。
――この少年が媛?
本当に、少年ではなく、少女だというのか?
ふと、少年の瞳が峨瑛を映した。顔が強張る。
彼は慌てて汚れを払い落とそうとしたが、すぐに思い直して峨瑛の方に歩み寄ってきた。
汚い。
なんて、汚い餓鬼だ。
近くで見れば、衣服の汚れは壮絶なものがあった。峨瑛は顔を顰める。
それに、ひどく臭った。
馬糞の臭いなのだろうが、羊水やらあらゆる臭いも混ざっている。
これでは、少女かどうかも疑わしい。
だが、男達が真実を言っており、本当にこの汚い餓鬼が媛だとすると、おそらく、蒼昏の娘の誰かなのだろう。
この地において、媛などと大層に呼ばれている者は他にいまい。
仮にも皇族に連なる娘が、こんな厩で、こんなにも汚らしくしているものなのだろうか。
可笑しさが込み上げてきた。
少年――いや、汚らしい少女は、峨瑛のすぐ側まで来ると、不快そうに眉を寄せた。
そして、言い放った。
「私は蒼潤。字は天連。蒼昏の娘だ」
なるほど、澄んだ高い声だ。少女のものだと思えば、当然だった。
峨瑛は眼を細めた。
これが蒼昏の娘、蒼潤なのか、と。
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