4,幼き刻 血が告げたもの 参
ふと、瞼を開いた。
眼に突き刺さってくる日射し。
頭が重い。
どうやら寝過ごしたようである。
峨瑛が目覚めたと察すると、女が一人寝室に入ってきた。
主の身支度を整えようとする女に向かって、峨瑛は片手を振った。
「後で良い。汐銚を呼べ」
女は声なく頷き、寝室を出ていった。
しばらくあって、厳つい顔が現れた。
5つ年上の従兄である。
薪塢。
字は汐銚。
彼は昼過ぎても尚、臥牀に腰掛けている峨瑛を見やり、眉間に皺を寄せた。
「皓煽。人を呼ぶ時は、せめて身支度を終えてからにするものだぞ」
皓煽とは、峨瑛の字である。
この従兄と自分は主従関係にあり、峨瑛が主であるのだが、
彼には自分を字で呼び続けることを許していた。
祖父も父も亡い今、自分を戒めてくれる者が一人くらいあっても良いように思ったからだ。
峨瑛は自分を諭そうとする従兄に、恨めしげな眼を向けた。
「汐銚、不快な夢を見た」
「夢だと?」
「実に、忌々しい夢であった」
「それで?」
彼は臥牀の足下に腰を下ろし、峨瑛を見上げた。
悪夢如きで自分は呼び付けられたのかと、呆れたような顔をする。
峨瑛は笑った。
「幼い頃、お前はいつも儂を助けに駆け付けてきてくれたが、
一度だけ助けに来てくれなかったことがある。
その一度で、儂はとんでもない思いをしたのだぞ。未だに夢に見てしまう程だ」
「そいつはすまないことをした。
その話をお前から聞かされる度に、過去に戻って助けてやりたいとは思うが、
さすがの儂もどうすることもできん。
ならば、せめて、お前の夢に飛び込んで、助けに行ってやりたいとも思うが、夢の中のこと。
どうにもならん」
諦めてくれ、と彼も笑った。
峨瑛は眼を細め、話題を変えた。
「昨日、冱斡国相から文が届いた」
「冱斡国相? 例のあの返事か?」
「そうだ」
「そうか。それで?」
膝を打ち、薪塢は身を乗り出した。
葵暦192年、春。
琲州霖国の峨瑛の元に、渕州冱斡国から文が届いた。
冱斡国相――蒼昏からの文である。
峨瑛は歓喜した。
彼は13年近くも、この文を心待ちにしていた。
蒼昏には娘が3人いる。
蒼彰、蒼潤、蒼麗である。
峨瑛は3人のうちいずれかを娶りたいと前々から申し出ていた。
だが、いくら文を出しても、蒼昏からの返事はない。
理由は容易に察することができた。
蒼昏は恙太后を恐れていたからだ。
蒼昏が皇太子であった時、彼には5人の男子がいたが、
蒼昏が失脚すると、これらの子達はすべて恙太后の企みで殺されている。
失脚後、雛夫人が男子を1人生んだ。
しかし、この子も、葵暦178年、5歳を迎えた時、何者かの手によって暗殺されてしまった。
おそらく、恙太后の手の者の仕業だろう。
だが、証拠はなかった。
恙太后は蒼昏の存在を恐れていた。
彼が多くの者に期待された皇太子であったため、その子どもに期待する者が尽きなかったからだ。
蒼昏の元に男子が生まれては、礎帝の、そして自身の立場が脅かされると、
彼女は常に恐怖心を抱いていた。
彼女の恐怖は、蒼昏にとってもまた恐怖であった。
都から遠く離れた渕州冱斡国にあっても、彼女の目の輝きを何よりも恐れ、
人との接触を避けるように生きている。
下手に人と接触をし、謀反を企んでいると思われては、命はない。
それは多くの者たちも同様だった。
皇族の血を引く娘ならば、本来、縁談は引く手あまたなものだろう。
だが、蒼昏と結んだと見られ、恙太后の不興を買っては、宮中では生き難くなる。
生き難くなるだけであるならば、まだ良い方だ。
蒼昏と共に謀反人に仕立てられては堪らない。
宮中では、口実はいくらでも作れるのだ。
峨瑛が蒼昏に文を出したのは、そんな中だった。
彼は恙太后を恐れはしなかった。
たかだか女1人。
永遠の命を持っているわけでもない。
ただの女だと、彼は見ていた。
恙太后の権威は脆い。
息子の礎帝が玉座に座っている間にしか保たれない力である。
――いや、その前に時が彼女を殺すかもしれない。
いずれ状勢は移る。
恙皇后が権威を失い、再び蒼昏の回りに光が当たるようになる。
そうなってからでは手遅れだった。
誰もが蒼昏の存在を無視しようとしているこの時だからこそ、
峨瑛などという大した家柄でもない男が、蒼昏に文を出せるのだから。
峨瑛が天下に号令を発するには、高貴な血が必要だった。
人は高貴な血に引かれてやってくる。
反呈夙連盟を結束し、豪傑晤貘に敗退したのは、昨年、葵暦190年のことである。
その時、連盟を作ろうと呼びかけたのは他の誰でもない、峨瑛だ。
だが、自分の下では誰もが納得しないだろうと、盟主は他の者に頼んだ。
頼むしかなかった。
盟主には瓊倶が選ばれた。
瓊家は4代に渡って三公を輩出した名門だ。
誰もが納得して、彼を選んだ。
名門だというだけで兵が集まる。
瓊倶は5万の兵を擁していた。
対して、宦官の孫である峨瑛は5千である。
血がこれほどまで強いのか、と思った。
峨瑛の言葉では誰もが耳を貸してくれない。
それでも連盟を呼びかけられたのは、峨瑛の言葉がよほど巧みであったからだ。
そして、呈夙の悪政に誰もが、腸を煮えくり返る思いをしていたからである。
――高貴な血。
そんなもの、と思う。
だが、それは、自身の内にないからこそ思うのかもしれない。
持っていれば損をしない。
わずかだが、天に近くなる。
その程度のものなのだろうと思う。
それでも、今の自分には必要なものであった。
蒼家の血は、この世界で最も尊い血だ。
誰もがその血を欲しないと言うのならば、自分が手に入れてやろう。蒼昏の娘を。
今が期だと、蒼昏に文を出した時、彼の娘はわずか2歳だった。
それから13年の歳月が過ぎ去り、恙太后が死んだ。
おそらく呈夙に暗殺されたのだろうと、峨瑛は見ている。
思いがけず早く、そして、あっけなく死んだものである。
だが、同時に、そんなものだろうとも思った。
とにかく、恙太后は死んだ。
もはや蒼昏からの返事はないものだと諦めていた。
しかし、文は届いた。
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