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  蒼い翼 作者:海土龍
3,幼き刻 血が告げたもの  弐
「何をしている?」  


 不意に響いた声だった。
 太く、低い。
 少年のものであったが、威厳に満ちていた。

 峨瑛を取り囲んでいた少年たちは、その一言だけで、慌てふためき、我先にと逃げていった。
 取り残された峨瑛は身動き取れず、じっと彼が歩み寄ってくるのを待つ。
 彼は石畳の上に転がる峨瑛の元に来ると、その脇にしゃがみ込んだ。


「大丈夫か?」


 彼が腕を引くので、峨瑛は上体を起こした。
 年上だろうか。
 従兄よりは年下だろう。
 すると、自分より二つか三つ上というところだろう。

 身形が良く、一目で名家の者だと判った。
 彼は峨瑛を立たせると、腕を組み、自分より背の低い峨瑛に合わせるように少し上体を屈めた。


「ひどい怪我だ。わたしの家がこの近くにある。来てくれれば、手当くらいしてやるぞ」

「いらない。俺の家もすぐ近くだ」

「ほう。お前、どこの者だ?」

「名を訊く時は、自分から名乗るものだろう?」

「名を訊いた覚えはない。家名を訊いたのだ」

「同じことではないか」


 腹が立った。
 人とは、その人自身より、その人物の背景にあるものの方が大事なのだ。
 そう言われたようなものだった。
 背景。
 ――要するに、血筋だ。
 峨瑛は眼を細めた。氷のように冷ややかで、鋭い視線を相手に向ける。


「姓は峨だ」

「峨旦の縁者か?」

「孫だ」


 祖父の名を口にされて、峨瑛は苛立つ。
 だが、彼は気にする様子もなく、ふーん、と鼻を鳴らした。


「わたしは瓊倶けいぐ奔帷ほんいと呼べ」
「瓊家の……」


 瓊家と言えば、四代に渡って三公を輩出した、青王朝きっての名家で知られる。
 なるほど、だからこそのこの振る舞いなのか。
 自信に溢れ、まるで己が王であるかのような態度である。
 峨瑛は奥歯を噛み締めた。
 そんな峨瑛の様子にも気付かず、瓊倶は続けた。


「ここでわたしと知り合えたのは、お前にとって幸運だったな。
 これからは、先程のような目に遭ったら、わたしの名を出せば良い。
 大抵の者ならば、わたしの家来には手をださんからな」

「家来だと?」

「そう思わせておけ。その方がいろいろと得をするぞ」


 唾を吐きたかった。
 だが、耐えた。
 瓊倶は己が何を言っているのか分かっているのだろうか。

 ――なんという傲慢。

 峨瑛はわなわなと全身を振るわせた。
 そうとも気付かずに瓊倶は続ける。


「助けてやると言っているのだ。お前の眼の輝きは生意気だが、なかなか見どころがある。
 そのうち、わたしの右腕になれるかもしれんぞ。
 確かに、お前の生まれは良いとは言えんが、わたしの側にいれば、それしきのこと、
 いくらでもわたしがどうとでもしてやろう」

「……」

「どうだ?」


 瓊倶は背筋を伸ばし、峨瑛に向かって手を差し伸べた。
 峨瑛はその手と彼の顔を交互に見やった。
 悩んでいたわけではない。
 ただ、瓊倶の言葉が信じられなかったのだ。
 それは、信頼できないという意味ではない。
 心底、耳を疑っていた。
 震える己の腕を、もう片方の手で押さ付けた。


「わたしの側にいれば、宦官の孫だろうと、こんな風に虐められることはなくなるぞ。
 あいつらを見返してやることもできる」

「お前の家の権威を笠に着て……か?」

「わたしはああいうことが嫌いなのだ。ああいう、弱い者虐めというものは」

「弱い者」


 ゾッ、と肌が粟立った。

 ――何を言われた?

 再び、耳を疑う。

 ――弱い者? 誰が? 俺が?

 カッ、と頭に血が上った。
 見る見るうちに顔が赤く染まる。
 バシン、と我に返った時にはすでに、瓊倶の手をうち払っていた。
 血走った眼を彼に向ける。


「俺は絶対にお前の下には付かん!」

 瓊倶は嗤った。
 年下の餓鬼の言う事など、戯れ言としか思っていない様子である。

 峨瑛は腹立った。
 怒鳴り散らしてやりたかった。

 だが、おそらく瓊倶は嗤うだけだろう。
 格下の言うことだ、と相手にさえしないだろう。

 やり場のない怒りは、どす黒く胸に溜まっていく。

 吐き気がする。
 目眩がする。
 頭が痛い。
 息苦しい。

 峨瑛は瞼を閉ざした。








 瓊倶。
 ――瓊家に生まれてきた。
 ただそれだけの男だと、峨瑛は思っている。

 偶々、瓊家に生まれ落ちただけの男。
 なぜ、それしきの男の下に付かねばならんのか。
 腑に落ちないことばかりが、この世では多くまかり通っている。
 そんな気がしてならない。


 10の時、13の瓊倶と出会い、それ以来、彼は何かと付けて峨瑛に話しかけてくるようになった。
 いらぬ、と言っても、彼は峨瑛が遠慮しているのだと思っているようで、
 取り囲まれていると知ると駆け付けて助けてくれる。

 弱い者を助けることで、優越感に浸りたいのだ。
 自分は良い事をしている、弱い奴を庇っているのだと、自己満足したいのだろう。
 迷惑だった。

 彼が優越感に浸るほど、劣等感が峨瑛の胸を苛んでいく。
 悔しい。
 だが、この悔しささえ瓊倶には通じない。


 20の時、梨蓉という女に心を奪われた。
 どうしても妻にしたいと願ったが、
 聞けば、すでに彼女は瓊倶の妾になることが決まっているのだと言う。
 親の出世の道具とされるのだと言う。
 それも、正室でも、側室でさえない。妾だ。

 初めは妾として侍り、気に入られて側室となる例も多くあるが、
 梨蓉は妾扱いして良いような女ではない。
 梨蓉程の良い女を、峨瑛は他に知らなかった。
 許せなかった。
 瓊倶も、梨蓉の親も。


 彼女を盗むように奪い、峨瑛は強引に己の妻とした。
 こんなことをすれば、さすがの瓊倶も自分に腹を立てるだろう。
 厭い、二度と話しかけたりはしないだろう。
 そう思っていた。

 だが、彼は嗤った。


 ――あんな女が良いのか。


 そう言って嗤ったのだ。

 自分が妾にするような女を、お前は正妻にするのだな、と瓊倶は言った。
 実にお似合いだ、と大きく手を叩いて祝福の言葉をくれた。
 あまりの怒りに吐き気を催した。

 唇を噛みすぎてしまったのだろう。
 血の混じった唾を吐く。
 眼の奥が熱くなった。
 焼ける。

 悔しい。
 悔しい。
 悔しい。

 彼が憎くて堪らない。


 どす黒いものが峨瑛の胸を犯していく 。


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