2,幼き刻 血が告げたもの 壱
額に痛みが走った。
痛みは次第に熱を帯び、つうー、と血を伝わせた。
コツン、コツン、コツン。
小石が石畳の上を弾みながら去っていく。
少年は血走った眼で、石を自分の額に投げつけた相手を睨み上げた。
「なんだよ、その眼は!」
「気に入らねぇ」
「生意気な奴だ」
「宦官の孫のくせに!」
――腐った血。
耳障りな音が大気に響く。
少年は下唇を噛み締めた。
ドクドクと額が脈打つ。
熱い。
燃えるようだった。
あまりの怒りに目眩を感じ、瞳を閉ざす。
血が額から左目へと伝い、更に頬を、顎を伝って胸元に落ちていくのを感じた。
薄く眼を開くと、麹塵色の袍が、じわりと赤く滲んでいくのが見え、再び瞼を閉ざす。
歯を噛み締めた。
どんなに悔しかろうと、そうして耐えるしかなかった。
少年は己よりも年上の少年達数人に取り囲まれていた。
こういう事は度々あることだった。
外とは、自分の想像を絶する愚か者で溢れているところである。
こういう事があるのも、仕方がない。
そう思い、少年は諦めていた。
外にさえ出なければ問題ないのだ。
家の中は安全で、自分に傅いてくれる者が大勢いる。
だが、外に出る必要があった。
外を知る必要があったのだ。
こういう時、いつも、5つ違いの従兄が駆け付けて来て、助けてくれた。
従兄は15歳で、その年齢にしては大柄な体躯を持っていた。
厳つい顔をしている。
大きく見開いた眼で睨まれては、大人でさえ竦むほどである。
だが、今は、その従兄は少年の父親の用で出掛けていた。
助けは期待できない。
更に、運悪いことに、自分を囲んでいる少年達はいずれもどこそこの名家の子どもだった。
やり返したかったが、そうすれば、後でもっと面倒なことになる。
こんな下らないことで煩わされるのは、今のこの時だけにしたかった。
彼らは気に入らないのだ。宦官の孫という存在が。
そして、その穢れた存在が我が物顔で街を出歩いている事が――。
この少年の名を、峨瑛といった。
彼の祖父――峨旦は、宦官である。
これは少年にとって、どうすることもできないことだった。
世は、血の繋がりを尊ぶ時代である。
学があれば、そこそこの地方官になることができるだろう。
コネがあれば、そこそこの国官になることができるだろう。
財があれば、そこそこの地位を得ることくらい、できるかもしれない。
だが、『そこそこ』から脱するためには、血統、つまり家柄が重視されていた。
峨家は、元々は塩の商いをしていた家だった。
だが、峨旦の野心は商人で生を終えるには大きすぎるものであった。
学はあった。コネは少しだが、あった。
金は大いにあったが、高貴な血だけは持っていなかった。
彼には自らの性器を切り落とすしかなかった。
そうすることしか、彼の野心に応える術がなかったのである。
後宮で自由が利く宦官は、皇帝や皇后、未来の皇帝や皇后に取り入る機会に恵まれていた。
皇族さえ抱え込んでしまえば、金も地位も、権力も、思うがままだ。
人当たりの良い彼は胡帝に気に入られ、彼の皇子で後の礎帝の教育係を任されることになった。
こうして、峨旦は礎帝にとって、師であり、 親のような存在だと思われるような地位を得たのである。
それほどの権力を手に入れた彼だったが、宦官である以上、 彼には子をつくれない。
子に財を残すことができないのだ。
自分一人で遊び切れない程の財を譲るために、親戚筋に当たる薪家から養子をとることになった。
それが峨瑛の父――峨威である。
峨威の長子、峨旦の孫として生を受けた峨瑛は、幼い時こそは何不自由もなく育つことができた。
広い庭のある大きな屋敷の中で暮らすだけならば、財があるということだけで、不自由しなかったのである。
だが、少年となった彼は度々街へと遊び出るようになって、彼は思い知ることとなったのだ。
宦官というのは、本来、自分の子孫を残せない存在。
だからこそ、莫大な財や地位を得る。
それらは、子の代わりなのだ。
――ならば、父は何だろう? 自分の存在は何だろう?
宦官の孫など、あってはならない存在なのではないだろうか?
実際には、峨旦のように養子をとる宦官は他にも多くいる。
だが、その子らは皆一様に穢れたような目で見られるようになるのである。
本来、あってはならない存在だからだ。
――腐った血。
ポツリと呟かれた、その言葉を初めて聞いたのはいつだっただろうか?
もはや、彼は覚えてはいない。
だが、そうと言われる度に、負けてなるものかという野心が燃え上がったこと、
それだけは大人になった後でも忘れられなかった。
鈍い音が響いた。
少年――峨瑛は腹を抱えて蹲った。
蹴られたのだ。
そうと気付いてからも、そうされたことが信じられなかった。
相手を睨み付ける。
すると再び、生意気だと言われて、顔を殴られた。
唇が切れる。
血が滲んだ。
背を蹴られ、地に這い蹲る。
脇腹を蹴られ、転がされた。
仰向けにされた時、ふと瞼を開いた。
蒼。
――立ち並ぶ家々の屋根の遙か上方に蒼があった。
空か、と峨瑛は吐く。
憎らしいほど澄んだ蒼い空。
腐っていると言われる自分を見下しているかのような空だった。
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