1,始まりの刻 天昇る炎
幼い頃、天高く手を伸ばせば、白い雲も太陽も、天上に在るすべてのものを、手に入れられると信じていた。
ただ、今は幼いから、
天まで手を伸ばすことができないだけだ、と。
両腕を伸ばす。
手のひらを目一杯に広げた。
空は蒼い。
この蒼だけを見上げて生きてきた。
今はまだちっぽけな自分だけど、いつの日か、この蒼の中に飛び込んでいくのだと、信じている。
▲▽
葵暦189年。
青の都、葵陽が紅く燃えた。
紅。
――いや、黒い炎だった。
すべてを焼き尽くすまで燃え続けるだろう炎から、濛々と黒い煙が立ち上っている。
男は剣を振り下ろした。
朱。
飛び散ってきたものを避けるように、顔を逸らした。
ごろん、と頭が転がる。
それは男を見上げた。恨めしそうな眼だった。
忌々しく思い、蹴り飛ばした。
悲鳴が響く。
最期の声だ。
そこかしこから響いてくる。
再び剣を振り上げた。
振り下ろすと、悲鳴が響く。
幾度も聞いているうちに、次第に耳障りなものではなくなってきた。
悲鳴。
すぐ手元から響いた。
乱世では、あり得るはずのないことが起こってしまうらしい。
悲鳴は皇城。
それも後宮の方から響いてくる。
逃げ惑う女達。
武器を片手に猛る男達。
廊下に転がる宦官の首。首。首。
もしも、蒼潤が、乱世の始まりはいつかと問われたならば、彼は迷わずこの年を答えるだろう。
だが、同様の問いを別の者にすれば、その者は蒼潤とは異なった答えを言う。
例えば、蒼潤の夫である峨瑛は、農民叛乱が頻発するようになった年であり、己が渕州搾邦の県令になった年でもある葵暦179年こそが乱世の始まりだと答える。
そして、蒼潤の父、蒼昏ならば、己が失脚した葵暦167年こそがそうだと答えるだろう。
乱世というものは、そういったものなのかもしれない。
始まりなんてハッキリしたものはなく、誰が起こしたということもない。
なるべくしてなる。
いや、誰が起こしたと言うのならば、皆が、その時代に生きた者たち皆で起こしたと言うべきだろう。
そして、そのように促したのは時だ。
時の流れというものなのかもしれない。
葵暦189年。
恙釜という男が殺害された。
恙釜は大将軍という三公と等しい権力を持つ地位に着いていた男だ。
三公は官制における最高位であり、軍制における最高位が大将軍である。
だが、どちらも名門出が独占する名誉職のため、その実力は求められていない。
恙釜も妹の威光でこの地位を得た。
彼の妹である恙媚は、青王朝12代皇帝の貴嬪として後宮に上がった女だ。
そして、策略を用いて甄皇后を廃し、皇后の地位を得、更には太后の座までも手にした女である。
彼女は多くの宦官を従えていた。
宦官とは男性性器を切り落とした者のことで、後宮に足を踏み入れられる女とは異なる性を持つ者のことである。
多少の例外もあるが、宦官は性欲を持たない。
代わりに、金欲や食欲など他の欲に強く執着するようになるようだ。
醜く太るか、貪欲に金を集めたがるか。
そして、大抵の者は、権力を欲するようになるのだという。
恙媚に従った宦官は、彼女の威光を笠に着、後宮における己の権力を強めようと企む者たちだった。
彼らは己自身のために恙媚を皇后に据え、彼女の生んだ皇子には玉座を用意した。
そんな宦官たちは恙媚にとって宦官は目であり、耳であり、手足であった。
恙媚もまた己の皇子に皇位をと渇望する女だったからだ。
彼女は宦官たちを寵愛し、その意見によく耳を傾け、絶対的な庇護を与えていた。
ところが、恙釜にとって、宦官は目障りな存在でしかなかった。
どこまでも貪欲で、気味が悪く、さほどの学もないくせにやたら小賢しく立ち回る宦官たち。
恙釜は幾度、歯痒い心地を味わったことだろう。
皇帝が宦官の一言で、すでに決まっていた事柄を覆してしまうことが度々あった。
皇帝の権威が失墜しているだけではなく、幼い頃から宦官によって育てられ、宦官たちの手によって皇位に着いた皇帝は、宦官に逆らえないのだ。
虫だ。
宦官など、青王朝に根深く宿った寄生虫としか思えない。
もしくは、獣。
己の欲だけを追って生きているケダモノだ。
せっかく後宮に入れた妹も、自分よりも宦官たちの意見を重んじるのも気に入らない。
恙釜とて、甥である皇子を玉座に着かせたいと望んでいた。
そのためにあらゆる手を尽くしてきた。
それなのに、なぜ、妹は宦官ばかりを寵愛するのか、彼にはまったく理解できなかったのだ。
そして、恙釜は密かに宦官の誅滅を企てた。
だが、これは妹である恙皇后に知られてしまい、彼女から宦官の耳に入ってしまった。
恙皇后は、実兄よりも、欲に忠実な宦官たちを取ったのである。
そして、恙釜は宦官たちの騙し討ちに遭い、首が胴から切り離された。
これを受けて兵を挙げたのは、瓊倶という男である。
瓊家は四代に渡って三公を輩出した名門であり、青王朝きっての名家で知られる。
この時、瓊倶は恙釜の副将を勤めていた。
上将の死は後宮に乗り込む良い口実となった。
『宦官を討て。宦官を誅滅し、青王朝を建て直すのだ』
彼の命により、後宮は炎に包まれた。
男――瓊倶は、再び剣を振り下ろした。
首が飛ぶ。
女装して逃げようとした宦官の首だった。
宦官には髭がない。
生えていた者も次第に薄くなり、また新に生えることはなくなるらしい。
これが目印となった。
髭のない生首が後宮の廊下に並べられた。
うち幾人かは、誤りで殺された者もいたやもしれない。
宦官だと判断を下した髭のない者を切り捨てながら、瓊倶は辺りに目を配った。
頬を雫が伝った。
己の汗なのか、返り血なのか確かめる余裕はない。
彼はかげろう景色の中、たった1人を探していた。
青王朝13代皇帝、礎帝。
その姿を求めて、後宮の回廊を駆け抜けていた。
皇帝を傀儡としていた宦官を誅し、この混乱から救い出せば、その名目を持って皇帝を擁立した己が実権を握れるだろうと、彼は考えていた。
彼だけではない。
おそらく後宮に足を踏み入れた将すべてが思っていたことだろう。
紅蓮の炎が瓊倶を焦らせていた。
皇帝がいない。
後宮のどこにも、その姿はなかった。
日が昇った。
だが、未だ濛々と黒い煙が立ち上っている。
不意に歓声が上がった。
誰かが叫んだ。
帝だ、と。
瓊倶は駆けた。
そして、唇を噛んだ。
血が滲む。
己の不運を呪った。
幸運は呈夙という男が掴み取った。
瓊具が後に知った事実としては、
礎帝は城内から逃げる宦官の盾に使われて、城外にまで連れ攫われていたのだという。
そして、皇帝を伴って逃げようとしていた宦官の馬車と、葵陽に攻め込む途中であった呈夙の軍が、偶然にも、かち合ってしまい、皇帝は宦官の手から呈夙の懐の中へと移されたのである。
それは、呈夙にとっては幸運としか言い様がなく、血を流したのは自分であるのにと、瓊具は歯軋りするより仕方がなかった。
彼は自ら天を手に入れる機会をつくったが、その天を逃してしまったのだ。
こうして、乱世が、呈夙の暴政が幕を上げた。
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