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リセマラ

作者: 木下秋

 彼が初めて自殺をしたのは、ある雨の日の夜のことだった。


 彼の父親は大酒飲みで、毎日のように酒を飲んでは彼や、彼の母親に暴力を振るった。幼かった彼にとって、身体の大きな父親は恐怖の対象でしかなかった。優しかった母は働き者で、いつも笑顔を絶やさなかったが、全身に染みのように浮いた痣や傷は消えることがなかった。その日、いつものように癇癪を炸裂させていた父は、手に持っていた酒瓶で母の頭を強く殴った。彼にとっては毎日のように繰り返されるーーかといって決して慣れることのない、恐ろしいーー光景だったが、その日がいつもと違ったのは、母親が、もう二度と、立ち上がることが無かったということだった。息荒く、顔を赤くしていた父は意外にも冷静で、狼狽えることなく酒を飲み続けていた。彼は恐怖にわなわなと身体を震わせて、声も出せずに母の身体を揺さぶっていた。彼の世界は狭かった。彼にとっての世界とは、恐ろしい父と、優しい母、そして近所の何人かのいじめっ子の住む、この小さな山間の村だった。そこから出たことのない、そこしか知らない彼は、唯一の救いであった母を亡くし、絶望の淵に追いやられた。終わらない夜の中、たった一人で震えていた彼は、たまらず逃げるように家の外に飛び出した。降りしきる雨を物ともせず、暗い森の中をひたすら走った。そしてしばらくして、切り立った崖を見つけた。


 幼かった彼は、自殺という言葉も、行為も知らなかったが、そこから飛び降りれば死んでしまうであろうことはわかっていた。彼は誰に教えられるわけでも無く、自分で見つけたのだ。自分の人生の、終わらせ方を。


 彼は走った。暗闇の中にぼんやりと見える、崖の淵を踏みしめて、闇の中へ飛んだ。


 彼にとって、初めての自殺だった。



 二度目の自殺は、静かな夜の海だった。


 一度目の自殺をぼんやりと覚えていた小さな彼は、途方に暮れていた。なぜなら、今度は恐ろしい父親こそいないものの、たった一人の母親が麻薬に溺れていたからだった。彼は静かに泣いていた。ーーどうしてぼくは生まれてきたのだろう。誰に求められているわけでもないのにーー。最初、彼は涙と鼻水で汚れた顔を洗おうと、海に近付いた。そして、思いついたようにゆっくり水の中へ入って行き、帰ってくることはなかった。



 それから、彼は自殺を繰り返した。両親、容姿、家庭の経済状況、社会的地位。何か一つでも気に入らないことがあれば、親の目を盗んでこっそり家を抜け出し、自殺を図った。高いビルから飛び降りることもあれば、プールに沈むこともあった。首を吊ったり、薬を飲んだり。彼は自殺についてはひたすら詳しくなっていった。文明の発達によって、その方法にも多種多様なものが生まれた。特に彼は、車に轢いてもらうのが一番楽だと思った。彼は生まれては、幼いうちに環境を審査して、気に入らなければ早急に車に轢いてもらった。


 彼は、自分が生きるべき、最も価値ある人生を厳選し続けた。



 その日、彼はまた一つの人生を終えようと決心した。部屋を出て、玄関に向かう途中、後ろから呼び止められた。


 「どこ行くの?」そう言ったのは母親だった。「ちょっと散歩に」顔も見ずに彼は言った。「車に気をつけろよ」そう言ったのは父親だった。


 彼の足取りは重かった。彼はその人生で、もう二十一歳になっていた。彼が今まで何度も生まれ変わってきた中でも、特に長く生きていた人生だった。


 特に裕福な家庭に生まれたわけではなかったし、容姿が特別美しいわけでもなかった。ただ、彼は今回、特に求められて生まれてきた。母親は、もう子を産むには歳を取りすぎていた。何年もの不妊治療の末、待ち焦がれやっと生まれてきた子、それが彼だった。両親の溢れる愛は、彼にとっては時に鬱陶しく、重いとさえ感じた。しかし、彼はなんとも死ににくかった。ーー自分が死んだら、この人たちはどうなってしまうのだろうーーそんな風に思うと、なかなか自殺に、次の人生に踏み切れなかった。


 目の前を、風を切って車が走る。彼はその車を目で追っていた。


『車に気をつけろよ』


 彼は小さく笑った。ーー車に気をつけろよ、か。もう二十一にもなるってのに。


 父は彼が幼い頃から、彼が家を出る際にはそう声をかけた。


 彼は踵を返すと、言われた通り、車に気をつけて帰った。

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