空色カタルシス
2008.08.21公開(2008.09.20修正)/2009.03.02移転
生きるべきか、死ぬべきか。
それが問題なのは、確かハムレットだった気がする。究極の選択。それは何も物語の中だけのものではなくて、例えば今の僕にも当てはまったりしてしまう。
別に僕の命がどうこうという悩みではない。そういう意味では僕は幸せだし、確実に生きるの方しか選択する気はない。僕は特別正義感が強い方でもないし、倫理がどうこうといった話はむしろ嫌いだ。だから悩んでいる理由もひどく利己的で、やっぱり寝覚めが悪くなるのは嫌だから、とか、そういうことだったりする。
放課後の屋上。校庭からは部活動のざわめきが絶え間なく聞こえてくる。気付かなければ良かったと今更ながらに思うけれども、そうはいかない僕の現状。
端的に言うならば、止めるべきか、放っておくべきか。それが問題なのだ、僕にとっては。
台風一過だか何だか知らないが、空はやたらと晴れている。部活動に所属していない、いわゆる帰宅部の僕がどうして屋上なんかに来てしまったのか。
秋空があまりにも高いから、なんて。逆恨みしても仕方がない。
思いつめた表情で校庭を見つめる友人に、思い切って声をかけてみようか。いや、それでもし勢い付いてしまったら、それこそ寝覚めが悪くなる。
自殺は良くない。何で? 今の僕にとっての至上命題だ。答えなんて知らない。
とりあえず捨て置けないのは確かだろう。あいつは一応僕の友人だし、何よりやっぱり目の前でそういうことをされるのは嫌だ。止める側の理由なんて簡単で。問題は、取り止めさせる理由の方だ。
「……長田」
さも今初めて気付きましたといった雰囲気を醸し出し、声をかけた。大丈夫だろうか。上手く、演技が出来ているだろうか。
背中を押すように、台風の名残の強風に襲われた。僕は流されるまま、フェンスに手をかける長田の前へと歩み出る。
「工藤……どうしてここに?」
慌てた様子でフェンスから手を離し、長田が僕に視線を移した。焦りのせいか、妙な笑顔を浮かべている。
「え、と。その」
何と答えればいい? 僕の脳内のあやふやな完全自殺“防止”マニュアルには、答えなんて載っていない。とりあえず刺激をしないこと。とりあえずは、無難な返答を。
「天気が良いなあと思って」
失格。なんだこの答え。僕は思っていた以上に、間抜けな回答しか用意出来なかった。僕の脳内マニュアルはちっとも役に立ちやしない。
「あ、お、長田は?」
最低。何を尋ねている? 理由なんて関係ない。今ここでこうして思い詰めている。それが答えだ。
「俺?」
だから答える必要なんてないんだよ。そう言いたい心をぐっと抑えて、僕は口を閉じた。どのような回答が飛び出そうとも慌ててはいけないのだ。悟られたらお終いだ。
「俺も、天気が良いなあと思ってさ」
嘘だ。いや、嘘だと言ったら僕の負けだ。違う。これは勝ち負けの問題ではなくて。自殺という言葉は出てこなかった。とりあえず、胸を撫で下ろそう。
問題は次の一手。長田をフェンスから離す方法。死のうとされては困るのだ。
「……あ、ひょっとして、これ?」
僕の動揺を勘違いしてか、長田が指を口に近付け、煙草を吸うようなジェスチャーをする。なるほど、そういう手もあったのか。そう思うと同時に、未成年は『ダメ。ゼッタイ。』という奇妙な倫理感にも襲われる。
それに何より、僕は持っていないのだ、それを。
「違えよ」
だから否定することしか出来そうにない。
「ふーん……」
値踏みするように僕をまじまじと見つめ、長田がフェンスから遠退いた。僕の横にゆっくりと歩いてくる。
とりあえずは、上手くいったのかもしれない。何か裏があるような気がしなくもないが、とりあえずは、成功だ。
「……いる?」
僕を風除けにするつもりらしい。長田が風下にしゃがみ込み、ズボンのポケットから煙草を取り出した。『ダメ。ゼッタイ。』が頭をよぎる。
「いらねえよ。早死にすっぞ」
慣れた手つきで火を点ける長田を見下ろしながら、僕の心配は杞憂だったのではないかと思い始めた。
ひょっとしたら。僕の思い過ごしに他ならないのかもしれない。あまりにも思いつめたような表情をしていたから、勝手にそう思ってしまっただけなのかもしれない。
「……別に良いよ、死んでも」
いや、思い過ごしではなさそうだ。
「何で?」
口が滑った。違う、今の言葉は本意ではない。けれども今更、口に出してしまった言葉を打ち消す方法なんてものはない。僕は反射で言葉を発してしまう自分を、恨めしく思った。
僕の短絡的な行動を嘲笑うかのように、遠くでカラスが鳴いている。
「別に。……誰だっていつか死ぬし」
灰色がかった煙を吐きながら、感傷的な真理を説く。それはまるで、夜が明ければ朝が来る、のような、当り前の事象。
「まあな」
止まない雨はない。明けない夜はない。死なない生物はいない。全てが正しくて、間違いなどはない。けれども、同列に語るのは違っているような感覚。
おそらく僕は、人生は永遠だと信じているのだ。
僕はまだ若いから、人生の残りは永遠に近い。ニアイコール、ほぼ等しい。近似等号で結んでも構わない程度に、人生は永遠。
僕は長田の隣にしゃがみ込み、空を見上げた。見上げた空の果ては遠く、どこまでも繋がっているように見える。これは、無限大。僕の残りの人生と等しく、無限大。
「でも、死ぬのなんてだいぶ先じゃね?」
やたらと広い青空に浮かぶ小さな雲を見上げながら、僕は呟いた。
「せっかく天気も良いんだしさ」
何がせっかくなのかは、自分でも判らない。
長田は煙草の火を携帯灰皿で揉み消すと、そのまま屋上のコンクリートの上に寝そべった。両腕を頭の下に回し、昼寝でもするような恰好で空を見つめている。
僕も倣って横になった。背中に当たるコンクリートが、ごつごつとしていて落ち着かない。
それでも、目を開くと正面に青空が広がっている光景は、なんだかとても心地が良かった。
「ああ、確かに。天気良いよな、今日」
空を見据えていた視線を僕に移し、長田が呟く。
「台風一過だっけ? 確か」
空に浮かぶ小さな雲が、風で千切れる。柔らかな風が、頬を撫でた。
「……なあ」
視線を空に戻し、長田が口を開く。
「空ってさ、どこまでが空なんだろうな」
小さな雲が浮かぶ青空。それは僕には無限に広がっているように見えるが、長田にはどう見えているのだろうか。
僕が見ている空と、長田が見ている空。同じようで、きっと、違う。
ふいに、空を二分するように。カラスが空を横切った。
「俺もああやって飛びてえなあ」
どこかに停まり、どこかから鳴き声を響かせる。黒い身体を持つ空の支配者は、我が物顔で力強く主張した。この空は自分のものだ、と。
「あ。で、でもさ。飛ぶのって体力要りそうじゃね?」
沈んでいきそうな空気を変えるため、僕はわざと、明るく無駄な話を振ってみた。
「持久走みたいにさ、息上がったりして」
胡散臭いほどの笑顔を浮かべ、話の流れが僕に寄るように。
「なら、何も考えずに飛べるんだろうな」
けれども、長田には通用しなかった。
「……そうだな」
長田は何も考えたくないのだろうか。何も考えずに空を飛ぶ。少なくとも、人間には不可能だ。
「飛びてえなあ、空」
落ちることしか適わない。長田の言う飛びたいは、ひょっとしたら。
「飛ぶなよ」
落ちて消えたいという願いではないだろうか。それだけは避けたい。僕の寝覚めが悪くなるし、友人を失うのも怖い。
僕は極めて利己的で優柔不断で。だから今、こうしてここにいるわけで。
要するに、力尽くでも構わないから長田を止めたいと願っている。
「飛ばねえよ。てか、飛べるわけねえし」
それは、他人の権利の侵害になるのだろうか。
「なら良いけどよ」
死にたい願いは叶えない方が良いというのは、死にたいと願わない僕の、ただのエゴなのだろうか。
「……なあ、工藤」
長田は上半身を起こすと、僕を見下ろし口を開いた。
「俺さ、怖えんだよな」
陰になってあまり表情が見えないが、ひどく真剣な口調から表情を察することが出来る。
校庭を見つめていた、あの表情。僕が止めたいと思った、あの感情。
「……今がさ」
屋上を吹き抜ける風が、長田の髪を乱していく。
「今じゃなくなるのが」
常に、今は今でなくなり続けている。
「ずっとさ」
無限の時間は無限に広がり。
「今で居続けてえんだよな」
有限の今は過ぎ去っていく。
当たり前の真理。こうして息を吐く間にも、刻は流れていく。吸い込む今は、吐いていた瞬間とは違う時間を持っている。
流れ続ける時間。止めることは適わない。留めることは、叶わない。
「……長田」
何といえば良いのだろう。無理だ、の一言で済むのかもしれない。けれどもそれでは、あまりにも冷たい。
「僕は……」
僕の伝えたい言葉は否定ではなくて、かといって肯定でもなくて。
「僕はさ、このまま流れてても良いかなって思うよ」
だからといって自分の考えを述べるのも違うような気がする。
「だってさ、まだまだ先は長えんだし」
口にしてから反省したところで、どうしようもないのだけれども。
「工藤にゃ判んねえだろうよ、俺の気持ちなんてさ」
冗談めかした口調。しかし、本気だというのが判る。
どこからともなく吹いてきた風が僕の髪を触り、逃げていく。秋の風は夏の匂いを残しつつも、乾いていた。
「……なあ、工藤」
カラスの鳴き声が響いてくる。
「人間ってさ」
野球部員がボールを打つ音。
「何で、生まれて」
サッカー部員の筋トレの掛け声。
「何で……死ぬんだと思う?」
すべての雑音が、通り過ぎていく。
永遠なんて嘘っぱちだ。人は限りある中を生きている。今を積み重ね、今を生きている。留めることの出来ない流れの中、生きている。
屋上を強風が吹き抜けていく。身体に触れるその一瞬を、僕は感じた。
「俺が言ってるのはさ、長生きしたいとかそういうんじゃねえよ」
長田の言葉の意味は判る。足掻くべきか流されるべきか。多分、そういうことだ。
時間の流れに恐怖するのは、終わりに気付きたくないからかもしれない。死に疑問を抱くのは、永遠を信じているからかもしれない。
空に浮かぶ雲が、ゆっくりと、形を変える。人生は有限で、終わりは必ずやってくる。けれども。
「死ぬ時ってさ、判るのかな」
自分で、自分の終焉を。
「どうなんだろうな。答えが出る頃には死んでんだろうけど」
知るまでの時間は、永遠。
例えば今、次の瞬間に僕が死を迎えると仮定する。けれども少なくともこの一瞬は、僕にとって、人生の残りは永遠だ。
目の前に広がる空と同じ。残りが永遠に続くものだと信じている。
終焉に気付くことなく生きている間は、少なくとも、永遠だ。
「俺は知りたくねえな」
空を見上げ、長田が呟く。
「僕も知りたくねえよ」
目の前の空を見据え、僕は呟く。
「最後なんてさ、その時になんないと判んねえっしょ」
絶えず形を変化させ続ける雲のように。次の瞬間にどうなっているのかなんて、きっと、誰にも判らない。
「……なあ、長田」
判らないからこそ、引き留めたい。
「死ぬなよ」
直接的な言葉しか出てこない自分を呪ったが、これ以上的確な言葉もないと思う。寝覚めも大事だが、友人も大事だ。
利己的だからこそ、永遠を願うのだ。僕だけでなく、僕の周囲の人間の分も。
「バーカ。俺が死ぬわけねえっしょ?」
ゆっくりと長田は立ち上がり、僕の身体に影を落とす。
「せっかくさ、天気が良いんだし」
無限大の空を見上げ、目を細める。長田の制服が、風ではためいた。
「え? だってさっき……」
死のうとしてたじゃねえかよ? と、口にしそうになった。そう思ったのは僕の思い過ごしだったというのに。
「さっき? 何?」
少なくとも、思い過ごしになったというのに。
「何でもねえよ。天気が良いなあと思ってさ」
身近で遠くて、どこにでも転がっていて。だからこそ見逃してしまう。目の前に広がる青空のように、何処までも広がっている人生を。
僕は横になったまま長田を見上げ、小さな声で呟いた。
――To be, or not to be.
生きるべきか、死ぬべきか。やるべきか、やらざるべきか。進むべきか、立ち止まるべきか。
そんなもの、進むに決まっている。
「工藤何て言ったの?」
「何にも言ってねえよ」
流れゆく雲と同じように、今という時間も流れている。流れに身を任せることも、進んでいることと同義になるような気がする。
僕は立ち上がり、長田の肩に手を置いた。人生なんてなるようになるさ。それが、僕の出した結論だ。
見上げた空は眩しくて、けれども目を細めた一瞬で、別の空になっているのかもしれない。流れているのは、空も同じだ。
流れているのは、僕も同じだ。
To be, or not to be.
今日も空は青い。
拙作に最後まで目を通して頂き、本当にありがとうございました。
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