要らないチカラ
いつ己が生まれたのかなど、とうの昔に忘れてしまった。もしかしたらもとより知らなかったのかもしれない。
気が付いたら暗いまどろみの中にいたし、そのころにはすでに天と地も別れており、ハジメのヒトも生まれていた。
言ってしまえば、己はヒトとともに生まれおちたのかもしれない。ヒトも自分たちがいつ生まれおちたのかなど、教わらない限り覚えていないだろう。
己にはそれを教えてくれるオヤというものはいなかったのだから仕方のないことだろう。
とにかく、それだけ長い間己は此処にいた。此処で生きてきた。
生きてきた、というのはおかしいことかもしれない。己はイキモノではないのだから。でなければとっくに身体が朽ち果てているはずだ。
幾千の時が流れようとも、この躰が朽ちることはなかった。老いることさえしない。目が覚めた時からこの躰で、この姿だった。
何も変わることなく、ずっとここにいたのだ。生きてきたわけではないかもしれない。それでも此処にいた。
もしかしたら数分、数秒しか時が過ぎていないのかもしれない。
――ずいぶんと時がたったような気がするが……。ここにいては時間の経過などまるでわからないのだ。
けれど、それにもそろそろ飽いてきた。
ココロを教えてくれる者はいなかったけれど――それ以前にココロというものが自分に存在するかも分からなかったけれど――、隙間風が冷たく身をすり抜けるような、そんな冷たい冷たいモノが胸の奥に生まれたのだ。
それを何と呼ぶのか知らない。ヒトが何か名前を付けていたのを聴いた気がするが、なんと言っていただろうか……。
それに、それが本当に今のこのイタミと一致するかどうかは分からない。
ただイタイ――。それだけだ。
だから出てみようと思う。
このまどろみの中から。暗くて、心地よくて、退屈で、退屈でしかたのないこの空間から。
覗くことはあったけれど一度も出て行ったことのない、地上へと――。
ヒト達が己のことをどう思っているか、十分に承知はしているけれど。
己が何と呼ばれているかよく分かっているけれど。
自分の役目がどんなに禍々しいことか理解しているけれど。
行ってみようと思うのだ。
路などない。路ができる訳でもない。ここがどこかよく分からない。
洞を抜けている訳でも、日の当たる道を歩いている訳でもない。強いて言うならば漂っているようだ。
何かにヒカリをさえぎられたようにぼんやりと薄暗い空間。そこを漂い、近づいていく。
路も、方向もないのに分かる。
感じる。
このさきに、何よりも愛しいヒト達が暮らしているのだ。
分かる。ひしひしと感じる。寒かった胸が熱くなるほどに。
触れることは叶わないけれど。
直接見ることさえ、許されないかもしれないけれど。
己を創った誰かもよくは思わないかもしれないけれど。
今まで以上にヒトリになってしまうかもしれないけれど。
さぁ、もうすぐ抜ける。
さぁ、行こう。
愛しく愛しく、何よりも憎いヒトのもとへと―――
……あれからどれほどの時が流れただろうか。
暗いまどろみの中から出た彼は、前となんの変わりもなくヒトリでいた。
違うのは日や月や星が頭上で輝くこと。
歩けば必ず景色が変わること。
そのくらいだろう。
彼は別に後悔していたわけではない。
日は暖かく己を照らしてくれるし、月は美しく輝く。星々のきらめきほど愛らしいものはないと思う。
すべて、まどろみの中からは感じられなかったものだ。
胸の奥のイタミはまだ疼いたままだけれど。
それでもまどろみの中の退屈さはどこにもない。
ずっと感じていた『淋しい』と言うらしきオモイも多少は薄れている。
ここには沢山のモノがあったから。
溢れるミドリも、遠く透き抜けるアオも、明けと宵の時間に見ることの出来るアカも、全てが目に新しく、飽きることなどない。
全てのモノが日々変化していく。
何も変わることのなかったまどろみの中とは比べものにもならない。
ヒトと同じように、それらのモノが愛しくて堪らないのだ。
もうあのまどろみに帰ろうとは思わない。帰ったところでなにもない。
これは保身であり、意地でもあった。
だが、淋しさというものは薄れたものの、まだ胸の奥が冷たくイタイときがあった。
確か、ヒトが虚しいとか哀しいとか呼んでいるものだ。
それは決まって、イキモノを見るときにかすめる。
特に、ヒト――
己の話を聞くだけで畏怖し、己の姿を見れば驚愕し逃げ去っていく。
己は決してヒトに近づくことはできない。近づくことは許されない。
他のどんなイキモノよりも似通った姿であるはずなのに。
他のどんなイキモノよりも近しい存在であるはずなのに。
他のどんなイキモノよりも己はヒトとかけ離れている。
他のどんなイキモノよりも己は穢れているから。
だからこそ他のどんなイキモノよりもヒトに近しいのだけれど。
日のヒカリに手をかざして見ても、彼の手が煌くことはない。
ただ、そこに暗い影ができるだけ。
万物を照らす太陽にも、彼だけは明るく照らせない。
それは彼の生まれた理由でも、存在している理由でもあった。
ある日彼は触れてみようと思った。
ヒトにではない。ヒトには無理だ。試せる訳もない。
そろそろ時期でもあったし、他のイキモノに――樹に触れてみようと思ったのだ。
恐る恐る手を差し伸べ、ひとつの樹に触れる。
己の躰からチカラが流れだすのが分かる。普段は出てこないようにと気を張り巡らせているモノ。
禍々しい、己のチカラ。
黒く、暗く、深い、あのまどろみと同じように己に心地よさをくれるモノ。
こんなにも禍々しいチカラを心地よいと思える己が何よりも穢らわしい。
触れた樹は、触れた途端からぐじゅぐじゅと崩れだし、力強い灰茶から穢イ黒へと姿を変えた。
そして間もなく、崩れ落ちる。
何年も前に腐ってしまった古木のように。
――触れるだけで、これだ。
――なんて脆い。
――イキモノなどこんなものか。
――ならば、ヒトも。
――こんなにも、脆いのだ。
差し出した手をゆっくりと引きもどし、もう片方の手で手首を握る。
何故、己にはこんなチカラがあるのだろう。
こんな、要りもしないチカラ。
ヒトビトを苦しめる禍。
すべてのモノを死の闇へと導くチカラ。
死とは苦しいものではない。
天寿を全うしたのであればなおさらだが……、事故、事件、災い、病、飢えなど、まだ幾つも経たないうちに死んでいく幼子たちがいる。ムラの力となる若い男たちもいる。
そんな子たちを想い、涙するオヤや伴侶達が見ていられないのだ。それらが神の創りし天寿だとしても、ヒト達はそんなこと、知るはずもないのだから。
それらすべての哀しみは、己の起こした禍のせい。
ヒトビトが己を畏れる理由。
こんなもの、欲しくはなかったのに。
いつまでも存在し続けることなど望んではいないのに。
ヒトビトを苦しめることなど、望んではいないのに。
ただ、愛しいヒトとともに笑い、悲しみ、触れあい、感情を共有しあいながら生き、そして愛しいものと共に眠ることができればよかったのだ。
永遠など、己にとっては何の意味もない。
ヒトビトは永遠を乞い望むが、己は永遠を知らないヒト達が羨ましい。
己にとって永遠とは虚しく、淋しく、哀しいもの以外の何物でもないのだから。
だから、ヒトは知らなくていいのだ。
永遠の虚しさなど。一瞬の美しさなど。
それを悟るとき、ヒトはもうすでにヒトではない。
神に選ばれ、神霊となるときか、己のような化けものになるときか……、だ。
おそらく後者のほうが多いだろう。
そのようなモノになって欲しくはない。
そんな思いをするのは己だけで十分なのだから。
詰めていた息を吐き出し、掴んでいたままの腕を解く。
胸の内で己とは違う己が語りかける。
『 さあ、仕事の時間だ―― 』
すっと目が細まる。瞳孔が狭まり、光の量が減る。
さあ、時間だよ……――。
ザァ……――と、
意識が黎へと落ちる直前、
耳に、
響いた。
清らかな、
水の音――……。
はっと眼を開く。
闇の世界から光の世界へと、一気に引き戻された。
ゆっくりと、脚が動き出す。
何かに誘われるように、何かに導かれるように。
ゆっくりと、ゆっくりと――……。
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