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9/15 文量調整

調整していたら書き残した事が頭の中にいっぱいある事に気付いた。けど、まぁ、いいや。

うーん、ちょいちょいスランプ気味ですね。セラナ難しいなぁ…―。
第5章
第五章 【鵲の白昼夢】(5)
 ***

「私めがセラナ様の御代理として休暇を…―でございますか?」

 ウィアドは私の言葉を半ば鸚鵡返しに呟いた。薄暮色に染まった執務室のデスクの前でIDカードを取り出し彼に手渡す。彼はカードを眺め少し困ったような表情を浮かべた、私はそんな彼には構わずに散らばっていた書類の耳を揃えデスクの端に重ねた。

 ミコトからサルティファーナへのIDを渡されたのは約1時間程前であろうか。彼女は彼女の為すべき仕事を総て終え、デスクの上を几帳面に拭くと突然私にIDカードを差し出してきた。「セラナ様…―。」彼女はどこか言い辛そうに黙り俯いたが、意を決したように私の目を見つめて言った。

「先の遠征の件では、大変御身に御負担が掛かった事と存じます。私などの進言、大変恐れ多いのですが…―セラナ様にも一度休暇を取って御身体をお休め頂きたく、その…―。」
「……これは?」
「はい、サルティファーナへの渡航申請の為されておりますIDカードです。その、一週間ばかり…―ではございますが。」


 彼女から休暇を取れと口煩く言われるのは珍しい事では無かったし、彼女の独断の計らいで私が休暇の扱いになっていた事は今までにもあった事なので、彼女がこういう事を言い出す事には別段不思議とは思わなかった。しかし一週間とは長すぎるのではないか…―私は思った事を率直に口にする。

「一週間も…―政務を預けてしまって大丈夫なのか?」
「その点に関しましては御心配無く…―アスラとギィゴール卿に諸々と火急の件に関しましては引き継ぎましたし…―何かあれば私まで連絡をと申し付けております故…―。」

 その言葉尻が引っ掛かり私は彼女に尋ねる。

「……ん、それは…―どういう意味だ? 公式に私自身この塔には存在しない事となるという事だろうか?」
「……――申し訳ございません!」

 すると彼女は勢いを付けて腰を深く折った。彼女のふさふさとした黒髪がやや遅れて背から落ちる。彼女はそのままの姿勢で捲し立てた。

「私が全て手前勝手に取り仕切ってしまいました…―アダム様にも了承を頂き……そうしましたらセラナ様には私が付いているようにと仰せつかり…―その……もしご迷惑とあらばすぐにでも解除申請を致します。」

 彼女の声が少し震えていた。彼女は彼女なりに心を砕いての事だったのかもしれない。

「……まぁ、ミコトが言うなら…―。」
「え?」

 ミコトが顔を挙げて黒目がちの目を大きく見開いた。その頬が紅潮している。

「暫しの休暇も良いだろう。」

 そう言うと彼女は飛び上がるような勢いで上体を起こした。そうして身を翻すと去り際にこう言い残していった。

「御出立は明後日となります、セラナ様! 支度の方はミエ、マエに言いつけております故御心配はなさらずに。」



「……とは申されましても…―それはミコト様にも悪い気が致しますが。」

 事の顛末をウィアドに端折って要点のみを伝えると彼は眉を少しハの字にして言う。勿論、彼が塔の外に出る言われは無いし、アダムが私が1週間留守にする事を把握しているのであれば寧ろ私はその機関塔に居る事は許されない……とまではいかずとも、居ないほうが良いだろう。

「私が身代わりとして赴いたとして、セラナ様はその間如何なさるおつもりですか?」

 ウィアドの問いに私はデスクから1通の書簡を取り出して彼に見せた。

「これは?」
「先日、直接私宛に届けられた物だ。とある男からの…―サルティファーナでの会談を申し込む物だ。」

 彼は文字を追って神妙な表情を浮かべる。彼は私の血液を取り込む事で、私と記憶を共有している。その為私の過去を知っている数少ない人物っであり、だからこそ手紙の意味が解ったのであろう。何も言わずにその手紙を私のデスクの上に置いた。

「お会いなさる、と。」
「…―いい、タイミングだよ、全くまるで謀ったかのようだ。」
「それも懸念事項ではありますよ。」
「アダムがミコトに根回しする事は考えられるだろうな…―しかし、だとしたら尚更、行かずには居られないと言う物だ。」

 ミコトから手渡されたサルティファーナ行きの渡航許可申請の日付の中に手紙に書かれた期日はおさまっており、まるで「会え」と言わんばかりのそれに作為を感じ得ずにはいられない。ただ、私もそうせざるを得ない。それにはミコトが傍にいると何かと不都合なのだ。

 彼女には何も知られたくない。彼女とは今のままでいたい、そして彼女を私は守りたいと思う。

「それに、アスラとギィゴール卿が居れば1週間は大丈夫だろう。どの道私は傀儡だ。私が居ようが居まいが何も変わりやしないさ。」

 私は先日ザクセンに赴いた時に使用したIDを取り出しウィアドに見せた。このIDにサルティファーナの渡航申請を上書きすればいい。

「判りました。セラナ様の意志が私の行動原理の全てでございます故。しかしくれぐれも危ない橋を御渡りになりますな、何かありますればすぐさまに私目を御呼び下さいませ。」

 ウィアドは言い、恭しく礼をして下がった。私は彼がデスクの上に置いた手紙に再び目を通す。ザクセンの、風の香りがするような気がして胸がざわめいた。

 きっとあの人は…―。

 師父はこんな私の事を愚かだと言うだろうか、言うだろう。しかし断ち切らねばならない。彼の想いも、私の過去も。

 さようなら…―。



 そういった気持ちで私は単身サルティファーナに入った。遠くからミコトと私の形をしたウィアドの姿を眺めていた。ミコトが歩くたびに花柄のシフォン生地のスカートが跳ねて揺れる。彼女にしては珍しく嬉しそうにはしゃいでいたのが印象的だった。ウィアドは目立ち過ぎる銀の髪を隠すために濃い茶のウィッグを被り、大きめのサングラスをかけていた。その格好が我ながら滑稽で思わず溜息を吐いた。

 もう少し無邪気な彼女を眺めていたかったがあまり近くに居過ぎると何かと勘付かれてしまうかもしれない。ウィアドが付いていれば彼女に危険は及ばないだろう。私は宿に向かった。

 宿は市街地のはずれにあった、閑散とし少し寂れた古い建物は二階建てで従業員は経営者の家族というような宿だ。錆びついた蛇口の小さなシャワールーム、ベッドのスプリングは壊れかけていて異常に柔らかい。中心部に行けば近代的な造りのホテルがいくつもあるのだが、高層階に宿泊する事を避けたかったのだ。

 建付けの悪い出窓を力いっぱい押して開らくと高山特有の冷たい風が部屋に雪崩れ込んできた。やにで黄ばんだカーテンが靡く、風に頬を晒していると心地良く、しばらくそこから往来を眺めていた。

 宿の主人が気さくな人柄で、彼のはからいでこの地方の民族衣装を仕立ててもらえた。観光客用に服を貸し出すのが慣例(というか国策)となっているらしいが、私の場合は特別だという。(宿に丁度いいサイズの物が置いていなかったらしい。)その代わりに仕立て代は地元住民と同じ価格で良いという事だった。

 生地やデザインには特にこだわりが無いのでその辺りは仕立屋に勝手に選ばせた。パターンの作成から縫製と全ての工程を終えるにはどんなに急ぎでも2日はかかるという事だったので、その間は殆ど部屋に籠って過ごした。(私服だと逆に目立つので嫌だったし、する事も特に無い。)

 夕食は質素な物だったが、薄味で香草の香りが楽しめた。私の他に宿泊客が居ないのか1階のダイニングで経営者の家族とテーブルを囲んだ。彼らの他愛も無い会話や、子供たちの学校の話など聞いていると自然と穏やかな気持ちになれた。ただ女将が「もっと食べなさい、若いのだから。」と私の取り皿に勝手におかずを乗せてくるのには困った。まぁ、昔からこの手の宿に泊まると必ずと言っていいほどこの様な扱いを受けていたが…―。おまけに「もっと身体を作らないと元気な子供が産めないよ。」などと言う。余計なお世話だ。誰が誰の子を産むというのだ…―私は子供なんか作りたくも無いし、作らされたくも無い。どうせ私は玩具でありただの入れ物なのだから。私という意識があるうちは玩ばれて、私が私で無くなれば殺される…―ただ、それだけの事、それだけの為の存在、出来れば早く終わらせてほしいのに、それをしないのは彼なりの私に対する仕打ちなのかもしれないが…―。

 けれどそんな関係性だったとしても、彼との5年間は私にとっては救いだったのだ。いつ解放されるとも知れない自分の中に眠る暴力に怯えなくてもいいあの時間が、安らぎだった…―その安らぎが好きだった。全てが満たされていたわけではない、こんな安宿を泊まり歩いて各地を巡って。

 大きいと思っていた掌が、それほどでもないと感じるようになったのはいつだったろう? 見上げなければならなかった背中が目の前にあったのはいつからだっただろう。それらがすべて遠くにあって、決して届かないと諦めて、決意して、なのに私はさめざめとして、それらを求めてしまう。それは酷く我儘で自分勝手な事だと恥じているのに、だ。

 ベッドにうつ伏せているとうっ屈した想いに呑まれてしまいそうで…―天井を見上げた。頭の芯がジワジワと痛んだ。天井が揺れている…―。

 ここに来てから時折、酷い目眩と頭痛に襲われた。頭痛は常にあったがいつもの様な片頭痛ではなく頭の芯が痺れる様な感覚のものだった。この土地は〔魔素濃度〕が酷く薄い、おまけに管理システムの関係で〔魔素〕との接続が制限されてしまっている。私もこのような特性の地に赴くのは初めてだった為、自分がこういう状況になるとは思って居なかったし、概ね他の人間であれば影響もそれほど出ないのだろう。全身が〔魔素〕で構成されていると言っても過言ではない私にとっては酸素濃度が薄いのと同じような状況に身を置いているようなものなのだ。(と言う事を考えればウィアドの事も心配だったが…―。)相手に〔魔術〕を使用させないという点ではこれ以上適した地は無い。今になってエゼキがこの土地を指定した意味が解った。彼は彼自身の〔召喚獣〕を連れずにただ一人のエゼキ・ハゼルとして私に会うという意思表示なのだろう。

 私は愛されているのだろうか、否私は求められているだけである。


 三日目の朝に主人が私の部屋を訪ねてきた。仕立てさせていた衣装が出来上がったという。さっそく着て見てくれ、と仕立屋共々せがまれたので袖を通した。腰のあたりまで大きくスリットの入った立襟の上着はやや光沢のある透ける様な紺地で、細い金糸で模様が施されている。上着の丈は足首のやや上くらいまであり、袖口が広がっていて風通しがよさそうだった。下には少し濃い色のやはり丈の長いスカートを履くのだという。着て見せると何故か無駄に喜ばれた。女将が日傘を貸してくれ、私は久しぶりに外を歩く事にした。

 特に行く当ても無い。ふらふらと彷徨って小道を縦横無尽に歩いていると一台のハイヤーに行く手を阻まれた。助手席からスーツに身を包んだ男が降りてきて私に対して一礼をする。

「(失礼ですがお一人でいらっしゃるのでしょうか? この車に居ります我が主は大変な影響力の持ち主故その名を明かす事が憚られるのですが、貴女の御姿の麗しさに是非お食事を御馳走させていただけないでしょうかとの事で、大変恐縮ではございますが宜しければ貴重なお時間を私どもにいただけないでしょうか。)」

 私が黙っていると彼は概ねこの様な内容の事を言った。ハイヤーの後部座席を覗こうとするがスモークが貼られておりどんな人物が乗っているのかは分からなかった。ただ、その男の言い分を信じればそれなりの地位若しくは権力を有する者なのだろう。私を誰と思っている…―などとは言わない。今の私はセラナ・クロノワールと言う肩書をウィアドに託しているのだから。ただ誰だかは知らないが不躾で無礼な御方だと思った。

 声を掛けて来た彼には気の毒だが相変わらず黙ったままでいると相手も困ったようで、権力が云々と脅しを掛けて来た。逃げる事も騒ぐこともできるがそれは周囲の人々に迷惑を掛けてしまうような気がしてただ車体の脇を通り過ぎようとすると、腕を掴まれた。後部座席の扉がけられて車に押し込まれそうになる。

 なんだ、絶対の治安を誇る観光都市の名が泣くな…―無言で抵抗を試みながらも頭の隅では冷静にそんな事を考えていた時だった。

「(お嬢様、探しましたよ?)」

 背後から声がして振り向いた。見知らぬ青年が一人、漂々とした風体で立っていた。彼は笑みを絶やさずに私の反対側の手を引きもう一人彼の後ろに控えた人物の方へ私を押しやった。バランスを失って倒れそうになるのをその人物が後ろから支える。

「(申し訳ございません、お嬢様が何かご迷惑をおかけいたしましたでしょうか? 深窓の姫君故、世俗に慣れておられないのです。御見受けする限りさぞかし名のある方と存じますが、どうかその寛大な御心でお見逃し下さいませ。)」

 彼が言うと、スーツの男はバツが悪そうに助手席に引っ込んだ。ハイヤーが走り去る。

「(大丈夫ですか? お怪我はありませんか?)」

 私の背後で背を支えるその人の声を聞いて息を呑む。振り向く事が躊躇われたが恐る恐る目の端でその顔を確認して、驚きの余り声も出なかった。

 キリトが…―そこに居た。


 ***


 彼女を見かけて立ち尽くす俺にクラウスは「声、かければいいじゃない?」と言い、彼女の去って行った方向に足を向けた。俺は彼の後をただ追う、視線は地面に落ちたままで、胸が張り裂けそうなほどの動悸を鎮めようと深く息を吸う。小道をまがった所で彼女は立ち止っていた。彼女の前には行く手を阻むかのようにハイヤーが止まり、背広姿の男性が彼女に対して熱心に語りかけていた。

 聞こえているのか居ないのか、彼女は微動だにしない。知り合いなのだろうか…―クラウスと俺は暫し様子を伺っていた、徐々に男の口調が荒くなっていく。それでも彼女は黙ったままで、彼を無視するかのように歩みを進めようとした、瞬間…―後姿が儚く揺れて、日傘が路面にパタリと落ちた。男が彼女を車に押し込めようとしている、彼女は小さく抵抗を試みているようだが決して声を上げようとはしなかった。だから、彼女と彼とのやり取りが正当なもので、彼女が今のような状態に陥っているのかまたはそうでないのか、俺には区別が付かなかった。脚が竦んで身体が動かない。

 だがクラウスは違った。彼はその様子を確認すると足早に彼女に近づきその腕を引く。

「(お嬢様、探しましたよ?)」

 いつもの表情で淡々と告げると彼女を俺の方に押しやって、男に対してのうのうと言う。
「(申し訳ございません、お嬢様が何かご迷惑をおかけいたしましたでしょうか? 深窓の姫君故、世俗に慣れておられないのです。御見受けする限りさぞかし名のある方と存じますが、どうかその寛大な御心でお見逃し下さいませ。)」

 彼がそう言うと男は何かを小さく罵り(彼の国の言語なのだろう、俺には意味が解らなかった。)、ハイヤーに乗り込み去って行った。相変わらずクラウスの機転には舌を巻く。

 俺はバランスを崩して倒れかける彼女を抱きとめていた。咄嗟の事でさして意識もしていなかったのだが、冷静になった途端に彼女の身体を痛烈に感じて焦る。細い体は力を込めたら折れてしまいそうなほど繊細、キメの細かい白い肌、さらさらとこぼれる黒髪からは仄かにムスクの香りが漂う。これは不可抗力だから、と自分で自分に言い訳をして胸の中で感じる彼女を出来るだけはなすまいと指先に少しだけ力を込めた。

「(大丈夫ですか? お怪我はありませんか?)」

 ただ、その一言を発するのがやっとで、酷く惨めで情けない。彼女が俺の言葉に振り返る、深く蒼い瞳に一瞬の驚きが火花のように散ったのを俺は見逃さなかった。俺の事を覚えていてくれた…―そう思うと嬉しくもあり、恥ずかしくもあった。彼女の整った顔がすぐ目の前にある。青のシャドウで色付いた瞼、紅の映える薄い唇、長い睫毛が頬に影を落とした、見つめていると吸いこまれてしまいそうな表情にはどこか憂いを潜ませていて、そのまま抱き寄せて額に唇を寄せたい思いに駆られる。(というのは本当に幻想でしかない、哀しいかな俺の方が彼女よりも身長が低いのだ。)

「キリト…―。」

 彼女の唇がゆっくりと微かに動いた。落ち着いた低音が耳に心地よい。

「うわぁ~、綺麗な人だね。」

 クラウスの声が切り裂いて、ふと俺は我に返った。そして慌てて彼女から手を退ける。彼女は一歩下がって俺とクラウスに対して交互に視線を巡らせて、小さく頭を下げた。

「……ありがとうございます。助けていただいて。」

 黒髪を耳に掛けながら顔を上げる、その仕草までもが洗練されていて美しく、クラウスが口笛を吹いた。

「シエラ…―さん、です。あのこちらは…―ユベ…―。」
「クラウス・ディーガと言います。」

 クラウスが俺を遮って言った。ザクセンでの名前を告げたのは、彼女がザクセンの言葉を解し、そして俺の知人であり俺の名を知っているからであろう。

「はじめまして、キリト君とは…―同僚といった所ですかね。」

 彼は言ってシエラに彼女の傘を拾い渡して手を差し出した。彼女が彼の手を握る、ただそれだけなのに少し、妬けた。クラウスは相変わらずの笑顔だ、シエラの視線が俺を刺す。何かを伝えたいのか瞳が揺れていた。

「もしよかったら何処かでお茶でもいかがですか。」

 クラウスが気を回してくれた。(俺達の沈黙に耐えられなかっただけかもしれないが。)少し戸惑った様な表情を見せるシエラに「折角ですから、行きましょう。」と声を掛けると、彼女は小さく頷いた。


 強い日差しを照り返す道を三人で歩く。俺とクラウスが並び、その後ろを少し間隔を保って彼女がついて来た。歩くたびに衣装の金糸がキラキラと輝き、白い足首がたまに見え隠れする…―その様子を眼の端で盗み見ていると脇腹をクラウスに突かれた。彼は俺の方を見ずに、早口で小さく呟く。

「彼女とはどんないきさつで知り合ったの?」

 諜報員特有の最低限の発音で構成された言葉だった。彼女を気遣っての事なのかもしれないと感じ俺も同様に短く小声で答えた。

「湖畔の黒の慰霊碑で、偶然。」
「関係者……? ザクセンの人じゃぁ……。」
「無いみたいです。」
「それにしては言葉が流暢だね。」
「ですね。」

 クラウスがチラリと背後を見た。

「気を付けてね、キリト君。彼女、限りなく怪しいよ。君にわざと近付いたとも考えられる。」
「そうですか? どうみても訓練されているようには見えないですよ、第一僕に近付いたって仕方が無いじゃぁありませんか、義兄ならばともかく。」
「だから、君を足がかりにそういう事も考えられるだろう? 注意に越した事は無いよ。」

 果たしてそうだろうか…―それならば直接義兄に声を掛ければいいのだ、それに俺に関してだって、あれは俺が勝手に自爆したようなものなのだし、彼女にはそんな意図は無かったように思う。訝しげに、しかしどこか楽しそうに言う彼の態度に少し腹が立ったので、意趣返しに彼の行動に対して斬り込んでみる。

「ならば何故、ザクセンでの名を明かしたのですか?」
「向うさんはキリト君の名前知っているみたいだったし…―。」
「俺はともかくクラウスさんは通せるじゃないですか。」
「IDの名前で検索を掛けられたとして該当名が出てこなかったらそれこそ怪しまれるだろう?」

 そう告げてクラウスは小さく唇の前で人差し指を振った。

「だったら下手に偽名で通すより、通り名で明かしておいた方が良い。僕らの名前で検索すればデータベース上では一般兵卒扱いになってるから、ダミーで。」
「はぁ…―。」
「キリト君だってそれ、戸籍上の名前じゃぁないでしょ?」
「多分。」
「多分って……。」
「いや、自分の戸籍なんて見た事無いですし、記憶も無いし興味も無いんで。」

 俺はややふてくされて言葉を投げ捨てると、その後はもうただ黙って歩いた。彼は彼女に気取られない程度に肩を竦め小さくため息を吐いた。クラウスは優秀だ、諜報員としては戦闘特化型の俺よりもずっと頼りになる存在だろう、だからこそ彼の言葉は重たく圧し掛かって来た…―考えられなくは無い、けれど…―理性よりも感情が彼女を疑うなと叫ぶ。先程よりも広がった俺たちと彼女との間には陽炎が揺らめいていた。

 俺達は、俺達の宿泊しているホテルのすぐ近くにあった喫茶店に入った。シンプルなデザインの、オーク材のテーブルが並ぶ店内には数枚の絵が飾ってあり、洒落た照明の使い方をしている。各テーブルには小さな観葉植物が飾られていた。

 窓際の席に着きウェイターにアイスコーヒーを三つ頼んだ。暫し無言でただ向かい合う。シーリングファンの風を切る音が耳に付いた。ウェイターがグラスをそれぞれの前に置いた、それをきっかけにしてクラウスがまず口火を切る。

「不躾な質問で大変恐縮ではありますが…―あなたは一体何者なんです? ザクセン諸島にお住まいでは……無いと思われるのですが。」
「お察しの通り、縁者では無いとは言い切れない。ただそれすらも曖昧になってしまうような、その程度の距離感を持っている…―と考えていただきたい。聞くところによるとこの国では民族も国境も、国内に入った者はすべて関係無いと聞く。このような場所でそのような質問は無意味であると、そう考えたいのだが。」

 彼の、本人も言うように不躾な質問にやや気を悪くしたのか、彼女は早口で言った。

「お気持ちを逆撫でしてしまったようなのでしたら大変申し訳ありません。僕はそこまで深いラインで話をしたかったわけではなく、ただちょっとした興味本位でお尋ねしたに過ぎませんよ?」

 クラウスは慌てて宥めるような言い方をして苦笑した。彼女は表情を崩すことなくその言葉を聞いていた。俺は気が気では無くてコーヒーを一口啜る、上目づかいに彼女を見れば、彼女の藍い瞳がテーブルの丁度中央位を見つめている事に気付いた。

「あなた方は…―。」

 彼女が紅い唇を開いた。

「僕たちは、御察しの通りザクセン諸島で、まぁ国に帰れば兵卒を生業としております。それくらいしかあの島には職がありませんからね。」
「そうなのか。」
「まぁ…―実際裕福な国ではありませんから。」

 クラウスの言葉を聞いて俺に確認を取った彼女に対し、曖昧に答えながら視線を外した。見つめられると責められている時の様なざわめきに支配され、そんな自分が情けなくて黙ってしまう。クラウスが気を使って相槌を打つ。

 それから少し、他愛も無い会話をした。その間彼女は飲み物には一度も手を付けずに少しだけ笑みを浮かべていた。ただ何処か寂しさをたたえるその表情に俺は自分が何を話しているのかも良く解らなくなるほど、胸の内をかき立てられた。

「いや、まぁまぁ…―しかしまぁ困った世の中です。」
「…―そうだな。」
「世界が分断されて160余年、たかだかそんな短期間でしかないのに人間ってのは恐ろしいと常々思いますよ。政治もまた然り……。偉い人たちってのは国民を駒としか思っていないのでしょうね。」
「…―そう、かもしれない。」

 クラウスの漏らした愚痴とも取れる様な内用に興味があるのか無いのか定かではないが彼女が答える。彼女の前に置かれたグラスから水滴が滑り落ちた。

「折角世界が半分にまで統一されたってところで厄介なのがヴァローナですよ。」
「そうだな……。」

 彼女がクラウスの言葉に肯定的な反応を示したので俺も会話に参加する。

「俺は…―政治やら情勢やらといった所には人並みの興味しかありませんが……正直ヴァローナは何を考えているのか解りませんよ。宣戦国宣言をしていたとはいえ先日の作戦の意図も意味も見えてこなければあんなのただの…―いえ、こういった場所でこういったナイーブな話題に触れるべきでは無いですね。」

 俺が言う傍から彼女の瞳から急激に色が失われて行く、俺を見つめる視線が不安に揺らぎ、そして酷く平らな物になって突き刺さった。何か、拙い事を言ってしまったのか……徐々に声のトーンを下げ、最終的には消え入りそうになりながら言葉を紡ぐ俺に向かって彼女は自嘲的な笑みを浮かべ、冷やかに言う。

「……はっきり言ってしまえばいい。私もそう思っている、あの国は虐殺の流血の上に成り立っているただの慰霊碑なのだ、と。」
「いえ、いえ。国家など所詮万民の屍の上に成り立った領土にすぎません。掘り返せば何処からだって遺骨が出てきますよ。」

 今更フォローにすらなりはしないであろうが、それでも何とか会話を繋いだ。彼女が何に引っかかりを感じたのか…―そればかりが気がかりで不安になる。俺は徹底的に、彼女に嫌われたくないのだ。

「争いは嫌いだ。」

 彼女が言葉短く告げた。大輪の花が萎れずにそのまま地面に落ちた時の様な、そんな印象を与える言い方だった。少し顎を上げて彼女の様子を覗っていたクラウスが小さな声で呟く。

「あなた、皇国に所縁が?」
「……。」

 その問いには答えずに彼女は薄い唇を閉ざしたままでいた。そして、そっと左手をこめかみにあてがい眉を顰める。

「まぁ、致し方ないのではありませんか。他人が死のうが自分が生きている事が正義ですよ。でなければそうこう考える事もできないのですから。第一中立国の面々だって、自分の手を汚していないだけで彼らが食いつなぐ為の経済を回しているのは、観光客や商品・技術が何処の国の生まれなのか、彼らはもっと考えるべきですよ。でもまぁ、こういった穏やかな場所が無いと、須らく生きるに耐えない世界になってしまいますがね。あなたも先程仰ったように、この国にいるうちは国境など関係ありません。」

 クラウスが言って肩を竦めた。彼の言葉を最後まで律儀に聞いて、彼女がすっと立ち上がる。紙幣を一枚取り出してテーブルの上にそっと置いた。

「…―すまないが、少し体長が芳しく無い、私はこれで失礼させていただこうと思う。代金は置いて行くので。」
「あの、まだ…―いえ、もう行かれてしまうのですか? お金なら気にしなくても…―。」

 引き止めようとしたが思い直して止めた。彼女のただでさえ白い顔がさらに白く、あからさまに血の気が引いていたからだ。本当に体調がすぐれないのであれば、ここで自分の感情だけを理由に彼女を拘束するのは愚行だと思う。俺の言葉に彼女は微笑んだ。その笑顔も弱々しい。今になって気付いたが、先日ザクセンで出会った時よりも少しやつれているような気もした。クラウスは、「また出会えるといいですね。」などと他人事のように言っていた。(まぁ、彼にとっては本当に他人事だが。)送ろうとして席を立とうとすると手で制された。「近くなので。」とそれだけ残して彼女は去って行った。

 クラウスが既に氷が溶けてしまったコーヒーを啜る。俺は席について頭を抱えた。結局の所、俺は彼女の近くに居たくてたまらない癖に、どこかこんな自分の性格が彼女を傷付けてしまいそうで積極的にはなれないのだ。自分自身が不甲斐ない。

「追いかけなよ。」

 横からの声に耳を疑う。振り向くとクラウスが相変わらずの表情でストローを咥えていた。

「ほら、何て言うかこのまま僕が居るのも邪魔だろうし。それに僕は僕で一人の時間って結構大切にしていたりするんだよね。仕事は明日にするとして、あぁ~明日も夕暮れ頃には一人でバーに行きたいなぁ…―、それと……。」

 俺は今になってクラウスの不躾すぎる物言いの意味を知る。今まで彼の事をどこか何を考えているか知れない信用ならない人物だと思っていたが……案外、良い人なのではないか、明日の事までさり気無く言うあたりが心憎いと言う物だ。

「彼女を追って行った輩がいるみたいだから、気を付けて。」

 椅子を鳴らして立ち上がった俺の背に彼の忠告が向けられた。俺は振り向かずに手を上げて了解を示し、やや速足で彼女の去った方向に向かった。


 ***


「さて…―。」

 クラウスはやや浮かれた様子で店を出たキリトの背を見送って一人呟いた。別に彼の為にあんな事を言った訳ではない、クラウスに取ってみれば先程の会話の内容は彼の仮説を裏付ける目的の為に彼女の出方をうかがう目的があったのだ。

(いやまぁ、しかし彼女の近くにいたら恐らく僕は無敵だね…―彼女が全て糸になって消えてしまわない限りは…―。)

 クラウスは人差し指を目の前にかざした。彼には薄らと〔魔素〕の糸が見えている。それは喫茶店の扉を貫通して更に長く続いていた。

(普通、体内における〔魔素〕の含有率がどれだけ高くたって、対象自体を分解しながらストリングを精製するなんて物ならまだしも人で出来た試し無いんだけどな。)

 彼は持っていたカバンの中からノートサイズの端末を取り出して開いた。画面には人名のリストが映し出されている。指で画面に触れてスクロールしながら対象となる名前を探すし視線を上下に動かした。

(キリト君が反応したから間違いは無いと思うんだけど…―。)

 シエラ…―とキリトが呼んだ彼女は飲み物には一切口を付けようとしなかった、その事実は彼にとってはややマイナスに作用した。彼女は証拠を何も残さずに立ち去った、それこそ飛び立つ鳥のように。彼女から取りだして精製しているストリングを分析するにしても、一度自分が〔魔素〕を使用してしまっている故に、情報が書き換えられてしまっている事だろう。髪の毛一本でもあれば…―と彼は思うが、しかしそれも見当たらない。まだだ、まだ足りないのだ、彼の仮説を立証するには。彼は思考し、そして溜息を吐いて頭の後ろで腕を組んだ。見上げる彼の視線の先にはシーリングファンがゆったりと回っている。

「僕には僕の個人的な使命があるのさ、申し訳ないけれど。」

 彼は人差し指の先に繋がる糸に向かって話しかけた。


 ***


 店を出て彼女の姿を探す、だが夕暮れ時と言う事もありメインストリートは酷く混雑していた。その人波を掻き分けながら走る、不安と焦燥感に煽られた、クラウスの言葉が脳裏を何度も過る。

(「彼女を追って行った輩がいるみたいだから、気を付けて。」)

 彼は彼女の事をどこぞの国の諜報員だと勘ぐっているらしかったし、事実彼女はヴァローナにも所縁があるらしい…―だからといって、俺は自分の気持ちを捨て去ることなんてできなかった、たとえそれが真実だったとしても俺は…―。

 大人しいシエラの事だ、少しでも脅されたのなら意のままにされてしまうかもしれない、先程のように…―暫くすると、日傘が眼に入った、彼女の日傘だ、足取りは少し早目で、その後ろにはスーツ姿の男が歩いている……あれはハイヤーの…―俺は前を歩く二人組の間を裂くように押し退けて、走った。例の男の肩を掴み押し退ける、驚いて声を上げた彼に対して振り向きもせずに、その前方を歩く彼女の腕を掴んだ。

「え?」

 目を丸く見開き驚きの声を漏らすシエラに「走ってください。」と早口で言って、手を引いたまま人だかりを縫って駈けた。男が慌てて追いかけて来る、だが彼女が取り落とした日傘に躓いてバランスを崩した。彼女は振り返り、そして俺を見て困惑した表情を浮かべる、俺はそれを気に掛けずにただただ彼女の手を引いて走った。走った道は覚えていない、あべこべに曲がり角を曲がって細路地に入りこんだ。人の気配が無い事を確認して彼女の手を離した。

「すみません、急に…―。」

 軽く息を整えながら詫びると彼女は「いや、また助けられてしまった。」と手首を擦りながら言った。

「すみません…―手首、痛みますか?」
「いや、少し、驚いただけ…―。」
「本当に…―あの…―いや、心配で。」
「私の事など…―気にせずとも。」
「いえ、いいえ…―俺は…―。」

 言いかけて顔が火照るのを自覚し俯く。勢いに任せて何をカミングアウトしようとしているんだ俺は…―後悔と、けれど彼女と二人きりであるというこの状況に酔いしれる。いっそこのまま時が止まってしまえばいい、そうすればその間だけでも彼女は俺だけの物になる。

「いや、何でも無いです。あの…―。」
「……?」
「その、シエラさんは…―。」

 彼女の正体よりもずっと疑問に思っていた事があった、あの日彼女から感じた…―微かな男物のフレグランスの薫り……しかし、同時にそんな事関係無い、とも思う。だから何だと言うのだろう、知った所で何が変わると言うのだろう。いっそ知らない方が幸せな事もあるだろう。

「…―俺を迷惑に思って…―いますよね?」

 頭の中で色々な事が錯綜して思わず下手な方向に舵を切ってしまった、しかし拙いと思っても時既に遅かった。彼女はきょとんとした表情を浮かべて小首を傾げた。その様子が何となく彼女の雰囲気とちぐはぐで愛らしく胸が高まる。

「私の方こそ、ではないか。」
「そんな事ありませんよ。」
「そう言ってもらえるとありがたいな。」

 言って彼女は弱々しく笑い、そしてこめかみを押さえた。

「大丈夫ですか?」
「ああ、よく、ある…―。」

 気丈に手を振りながら言う彼女は、しかし次の瞬間ぐらりと身体を傾けた。咄嗟に抱きとめて支える…―緊張で身体が強張った、こんな事は初めてだった、自分自身に驚く。頭の中で「どうしよう?」ただそれだけが渦巻いていた。

 腕の中で彼女は眉間に皺を寄せて微かに呻き身を捩った。彼女の、俺の胸に縋る指に力が入る。支える為に背に回した手を滑らせて尖った肩を抱きしめた、徐々に力を込める。彼女の身体の細さが痛い、息が首筋に触れて、彼女の小さな鼓動を感じた。

 初めて自分の身体が邪魔だと思った。個を隔てる壁を取り去って彼女と一つになってしまいたい、混ざり合ってしまいたい。腕の中で彼女が顔を上げる。見上げる彼女の熱に浮かされたねだる様な瞳に、不意に段差を踏み外した時の様に頭の中が真っ白になった。

 少し開いた唇に唇を重ねる、ほんの少し触れるだけ。彼女の肩が大きく跳ね上がった、見つめ合う、藍い瞳が震えている。今度は確認するように少し長く重ね合った。

「…―キリト…―私は……。」

 何かを言いかけた彼女のその言葉を、言わせまいとして唇を塞いだ。今は何も聞きたくない、今は何も考えたくない、お願いだから考えさせないで欲しい罪悪感に潰されてしまう前にどうか、今この一瞬を…―。彼女が身を捩る、軽く息を整えて

「俺は…―あなたの事が、好きです。」
「……いや、それは…―。」
「国が違うからですか? そんなの、関係無いじゃないですか。ならば俺があなたの元に亡命してもいい。」
「…―! 来てはいけない…―お前は…―。」
「傍に置かせて下さい、例えこの地にいる一瞬でも良い…―今生こそ俺は貴方を守りたい。」

 それは自分の言葉ではないようだった、内から湧き上がる想いに任せて綴る。

「お願いだ、そんな事言わないでくれ。私の想いを無碍にしないでくれ。」

 殆ど泣きそうな表情で訴える彼女の唇を再度塞いだ、今度は逃がさない様に頬に両手を添えて奪う。何度も何度も角度を変えて…―歯列をなぞり舌を絡ませる、熱が移る。彼女の手が俺の腕を掴み爪を立てる、けれどそれも徐々に力を失ってされるがままになる。鼻に掛かった甘い微かな声が鼓膜を擽る。

 嫌われたくない、けれど無理ならば無理矢理にでも物にしたい…―感情が波打って、相反する二つが混じり合う。身体の力が抜けて倒れそうになる彼女の腰を支え壁際に押し付ける。再び彼女の肩が震えた、名残惜しくもあったが唇をそっと離す。

 荒い息を吐き俯く彼女の顔を額を付けて覗きこむ、潤んだ瞳を想像していたのだがその藍は寧ろ強く濃く、妖艶な光を宿して俺を捉えていた。その氷の様に冷たい視線に一瞬躊躇した俺の顎を彼女の細く長い指が捉えた、今度は彼女から唇を重ねる。数秒ただ重ねるだけのキスだというのに、甘美な行為に脳幹が痺れる。彼女は俺の頬を撫で髪を梳き、そうして眼を細めて笑った。蟲惑的な笑みを湛えた唇が薄く開き眼前に迫った。そのまま俺の耳元に寄せてそっと囁く。

「ならば一つになろうというのか? そうしてまた繰返すのか? お前はまだ、かの呪縛に囚われようと、そう言うのか。」

 先程までの頼りなく儚い彼女の物とは思えないような凛とした強さを宿す声にはっとして我に帰る。彼女は指を滑らして俺の胸を軽く押し距離を取った。そうしてクスクスと楽しそうに笑う。俺はどうして良いのか解らなくなった、元々勢いだけで突っ走ったのだ、今になって冷や汗が背筋を伝う。触れてはいけないものに、触れてしまったような気がした、けれど彼女に翻弄されている、そういう今の自分に陶酔している自分がここに居る。

「禁忌に彼女が耐えられると思っているのか、お前のそれは愛か、無知か…―まぁ、良いでしょう。私は、嬉しくてけれどとても…―。」

 そう言って少し寂しそうな表情を浮かべるシエラはとても高貴なものの様に思えて見惚れた。彼女は言いながら俺と距離を取り、一度右手を大きく払った。そうして踵を返しゆっくりとした足取りで去って行く。

「…―ごめんなさい、俺…―。」

 引き止めようとして、しかし口を付いてでたのはそんな情けない言葉で、言い訳なんてある訳でもなく、ただそれは俺のエゴだと解っているのに…―ああ、どうすればいい、こんな失敗は初めてだ、思わず泣きそうになる。俺の声に彼女の歩みが止まる、そうして振り返らずに告げた。

「私はまだ暫くここに滞在するようだ…―会いたくば祈れ、さすれば必ず叶うだろう。」


 ***


「あ!」

 クラウス・ディーガは不意に声を上げた。傍らに侍る観光客と思しき女性がきょとんと彼を見上げた。

「どうしたの?」
「いや、気にしなくっていいよ。忘れ物を思い出しただけ。それより何か呑む?」
「うーん、ならシャンディ・ガフがいいなぁ。ユベールさんは?」
「僕は、じゃぁカシスオレンジ。」

 クラウスは言って赤毛の彼女の腰に手を回した。実際の所、彼が声を上げたのは自らが精製していた〔魔素〕のストリングが断線した事に気付いたからであり、それは彼女にストリングを気取られたということと同じ意味だったが、この女には到底理解のできない事だろう。

「忘れ物ってぇ…―ちょっとまだその気になるのは早いんじゃないのぉ?」

 彼女は甘ったるい声でクラウスに囁いた。彼等の眼の前でバーテンダーがシェイカーを振っている。薄暗い照明に女の艶やかな唇が映える。

「だって、出会い求めて来てるんでしょう、君だってさ。」

 クラウスはにこやかに笑った。女が彼の肩にしなだれかかる、彼は横目でチラリと彼等を覗うバーテンダーにちょっと困った様に笑って見せた。バーテンダーは「良き旅でございますね。今宵は甘い夢がお二人に訪れん事を。」と二人の前にグラスを差し出した。
今日は先輩の結婚式でした。旦那は2次会へ行きましたが私は先に帰ってきてしまった、明日も仕事ですしね。あとなんか腹の虫の居所がよろしくなくて。。。はぅ。次は自分の番か―?と思うと気が重いですね。

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