鬱蒼と、蔦の絡まるレンガ造りの紅の建築物が立ち並ぶ施設は湖に面しており、“ゆうら”と凪ぐ水面が写し取った西日を跳ね返して壁が脈動しているようだ。陰りを帯びた長く湿った渡り廊下を風が駆け抜ければ、身を捩る様に蔦を遊ばせ“びょう”と啼く。
先程まで「晒し者」だった彼は、まるで生物の体内に捉われたかのような錯覚に寒気を感じ(しかしながらそれを滑稽と自分自身を嘲笑する余裕も持ち合わせているのだが)ちょっと立ち止まって身震いをする。
彼のような身分の物は滅多に訪れる事の無いこのような場所をなぜ彼がひょうひょうと歩いているのかと問われれば、彼は「不可抗力による」と答えるであろう。
そう、不可抗力であった。あれが「理不尽」というものなのだと彼はいい歳をしてやっと気付いた、というような。つい先日の、あの……――。
「おい、キリト。あの言い方は無いだろう?」
彼の思考を中断した、自らの名を呼ぶ声に彼は気だるそうに振り返った。ハスキーな凛とした声には聞き覚えがある。
彼の上官だ。
“びょう”……と、二人の間を遮る様に吹き抜けた風に上官の……彼女の艶やかな黒いボブが揺れた。
深緑色の軍服を身に纏い、大きくスリットの入ったロングのタイトスカートを優雅に着こなす彼女は、歳の頃では三十過ぎかそこらなのだろうか(彼は年齢の事などさして気にした事は無い)。
彼女は徐に胸元から葉巻を取りだすと手慣れた仕草で先端をカットした。そうしてその整った紅い唇にそれを咥え、腕を組み、ただ立ち尽くす。
(火を点けろ、って事か)
気付いた彼は不機嫌そうに立つ彼女の元まで歩み寄ると、内ポケットから取り出したマッチで火を点けた。残った火種で自身の安物の紙煙草にも火を着ける。
マッチの炎で吸うタバコは格別に美味いと彼は思っていた。特に最初の一口目、マッチの火力の影響なのか何だかは分からないが咽喉の奥で甘く香るのだ。“ふぅ”と彼女の唇から毀れた紫煙は一度その場に留まって彼の紫煙とゆるりと交る……がすぐにそれは再びの風に運ばれ消えた。
「お前、被害者装うのはやめろ。いつもそうだ。私の顔が立たないだろう。一日丸々フルコースの精神鑑定でも受けたいのか?」
彼女の、柘榴の様な赤い唇から漏れたのは苛立ちを含んだ声音で……彼、キリト・ネロクロウ少尉は破顔した。彼はつい先程まで査問会議に召喚されていたのだった、そして議席には当然、彼の上官であり軍の重要な地位を担っている美しい彼女、リリィ・フェルザロッテ准将も出席していたのだが……。彼女が言っているのはその際の彼の証言が気に入らなかった、という事らしい。
被害者といえば被害者なんだけどな――彼はそんな不満を胸の内で殺して、わざとらしく大げさに砕けて見せる。
「あぁ、バレましたか、すみません。あまりの激務に休みが欲しくてつい」
彼女の拗ねたような表情に思わずにやけてしまった事へのてれ隠しであると言う事は彼の胸の内だけの秘密だ。
リリィはそんな彼に対して白けたと言うように、煙の混じった溜息をついた。そうして数分、ただ煙だけが行き交う。
もとはと言えばあんな無茶な、時代錯誤な大規模作戦なんかをやったりするものだから『あんなこと』が起きて『こんなこと』になり、何故だか分からないが何の奇跡か生き残ってしまったが故に『こんなところ』に呼び出されたのだから、被害者なんだけれども……彼は思いながらも眼前の、自身よりもやや背の高い麗人の表情を覗きこんだ。
彼女の視線は思いつめた様にどこか遠く、瞳は水面を映しきらきらと瞬いていた。何を見つめているのだろうと、彼は彼女の視線の先を追う……――。
ザクセン諸島連合は巨大な湖の上に浮いた大小無数の島々と湖に面する大陸側の諸国からなる連合国家だ。連合の中心を担うのはザクセン諸島でも主に人が住んでいるのは大きな四つの島だった。昔はもう一つ大きな島があって、そこにも人が住んでいたのだが、十数年前に火山活動の影響で湖の底に沈んでしまったという事だ。
彼等の佇む渡り廊下は、島の北部の施設と東部の施設を結んでいる。その為かその趣は渡り廊下というよりも煉瓦作りの橋といった方が似合っていた。湖面は細波がきらめき、その中に時折漁船が行き交っている。緑の微風、緩やかな斜光。
彼女は最後に大きく煙を吐き出すと、葉巻の火を煉瓦のメジで捩り消した。そうして去り際、一言吐いた。
「後で私のオフィスまで出頭しろ。」
ヒラヒラと手を振りながら去る彼女の、凛とした百合のように華やかな背中を見送りながら、彼は恭しく敬礼をした。恐らく彼女には聞こえていないのであろうが、小さく口の中で『了承』と告げて。

挿し絵:香 氏
***
キリトは、特務機関に所属する一兵卒に過ぎない。
そう、只の一兵卒に過ぎないはずなのだが、「あの件」以来すっかり有名になってしまった哀れな一兵卒だった。先程だって「あの件」に関する査問会議に招聘され調書を取られたばかりだった。
(うんざりだ、もう……――)
彼はぼんやりとそんな事を考えながら施設を後にして、市街地へと向かった。日は既に大分傾き、湖から吹いてくるザクセン特有の冷たい風が、細路地に立ち並ぶ屋台を掠めて吹き抜けていく。この風のせいで金属製の手すりや看板は赤く錆びついてしまう為、古びた煉瓦造りの街並みをより一層暗く、古めかしく見せている。
人波を縫うようにしてかわしながら、キリトは肩で風を切って歩いた。こうしてこの街を歩くのは久しぶりだった。
ザクセンでは街の至る所から、島を囲んでいる湖が見渡せる。彼はこの湖が好きだった。彼だけではない、この国の人々は皆、この湖を誇りに思っている。世界的に干ばつの続いているこの時世に、浄水が飲め、そしてあの強大なアルディアナ帝国に対抗できる力を持てているのも、この湖があっての事だからだ。まぁ、湖の利権を巡ってアルディアナから攻められている事もまた事実なのだが……。
元来……――といっても彼の生まれる遥か昔、約160年前、世界は一繋がりの巨大な大陸であったらしい。しかしある時、空から大量の隕石が降り注いぎ、広大な国土は所々抉れ、人口は半分に減少したのだった。それまであった技術は消失し、国は国としての機能を果たさなくなった。そんな絶望的な時代には大抵野心を持つ人物が現れるものだ。これを機と、彼らは独自の国を立ち上げだした。そうしてそれらの国々が、覇権を巡って血で血を洗う戦乱の時代が幕を開けた。
その中でも、比較的隕石の被害が少なかった地域に興った国が、現在のアルディアナ帝国だ。彼らはそれまで培ってきた技術を駆使、発展させ次々と近隣諸国を吸収し、現在ではユグラシア大陸の殆どの国を掌握するまでの巨大国家となっている。
一方でその戦乱の時代、争いに明け暮れる中、不思議な〔奇跡〕が扱える事に気づいた人々がいた。彼らはその〔奇跡〕を分析し、大気中に含まれる〔魔素〕と呼ばれる物が関与していることに気が付いた。そうしてその技術を発展昇華させた国があった。それが現在のザクセン諸島だった。
武力によって貪欲に国を吸収合併していくアルディアナ帝国に抵抗する国々がザクセン諸島の〔奇跡〕を頼り、ザクセン諸島連合は成立したのだった。
暫くしてキリトは繁華街にたどり着いた。彼は商店街の細い横路地を抜けた先にある、一軒のバーに向かった。彼の行きつけの店だ。まだ日があるというのに既に店内は多くの客で賑わっていた。
店内を一瞥してキリトはカウンターに行くと、マスターに耳打ちして、ワインのボトルを一本、梱包させた。彼女のお気に召すようなワインは結構な値が張るのだが……(給料日前だというのに痛い出費だ)彼は頬を掻き項垂れる、だが背に腹は代えられないのもまた事実だった。
「キリト、キーリートー君」
呼ばれて振り返ると、満面の笑みを浮かべた青年が一人手を振りながら近付いてきた。赤く上気した頬、覚束無い足どり、目は据わっている、つまり完全に出来上がっている状態だ。
「キリト?!」
青年は彼の名を呼び叫ぶと“がしぃ”と音が聞こえそうな勢いでキリトの頭を鷲掴みした。
青年はロイ・ロバートという。キリトとロイは大体同じ年であり、兵卒養成機関であるアカデミー時代から何かとつるんでいた仲だった。
「相変わらず小さいなぁ、ちゃんと食べてる?」
酒臭い息を撒き散らしながら言うロイを「殺すよ?」と牽制してキリトは彼の頭に乗せられた無遠慮な手を叩き払った。
実の所キリトは自らの低身長を気にしているのだが……それを知っていて尚、それをネタにして軽口がたたける間柄、キリトとロイはそういった関係であった。
「何? 正装、居たなら声掛けてくれても……それとも何か悪いことした? 何? ワイン、お持ち帰り? あぁ……――」
一通り自分の聞きたい事だけを並べ立てて、それで自己完結したのかキリトが答える前にロイは一人腕を組んで、うんうんと頷いた。
「若い燕は大変だねぇ」
「……まぁね」
キリトにさらりと流されたのが気に入らなかったロイは、彼の肩を掴むとガクガクと揺らしながら、「チクショー! 何でお前ばっかりモテるんだよぉぉぉ!!」涙を流しながら叫ぶ。
(まったく、いい迷惑だ、面倒くさい)
「キリちゃぁん!」
「ちょっと、ロイやめなさいよ!」
「キリ君こっちこっち!」
店の奥、先程ロイがやって来た方で、キリトの顔馴染みの娼婦達が手を振っていた。他にも数人の兵士達がウィスキーボトルを傾けながらワイワイとやっている。
「情けないぞロイ!」
「そうだよ、キリトがモテんのは、てめぇとは格が違ぇんだから仕方ねぇんだよ」
「久しぶりだなぁ、キリト? 顔出せや。」
「むきゃ?!」
仲間たちから責められたからか、何だかよく分からない奇声を上げてロイは彼を解放した。
「何? 今日何かあるの? 皆集まって」
キリトはマスターからラッピングされたボトルを受け取ると、ロイに率直に疑問を述べる。いくら非番だからって、彼等の中には家庭を持つ者だっているのだ。ここまでの人数が集まるのは珍しい。
「馬鹿、何言ってんだ、お前今日は……――」
一人がそう言って、口を噤んだ。重苦しい空気があたりを包む。兵士たちはロイを始め皆正装だった。
「今日は、
一月目のセレモニーだったんだよ。第一師団では……」
ロイはバツが悪そうに言った。
「そうか……もう、
一月か」
キリトは呟き、目を細めてテーブルの上に置かれていた誰のものとも知れないバーボンのロックに口を付けた。
「そうだ。ジーンが、ギルトが、サラが、ルードが、皆が消えて一月だ」
誰かが言った。その言葉には、少なからずの棘がある。ロイが困ったような表情を浮かべキリトの顔色をチラリと盗み見た。『何故、彼らでは無くお前なんだ、お前だけが生き残ったんだ』そう、遠巻きに言われている気がして、キリトは手にしていたグラスの中身を一気に飲み干した。
一か月……――月日が経つのは早いものだ、彼はそう思った。
アルディアナと正面きってぶつかった、最後の大規模戦闘になるのではないかと謳われた、「砂塵の群狼作戦」……今思い出しても虫唾が走る。誰が敵で誰が味方か、分らなくなる様な乱戦で、記憶が定かではなくなるくらい無我夢中で、気付いた時には、彼だけが生き残っていた。
彼、キリト・ネロクロウだけが、だ。
彼の眼前には巨大なクレーター。そしてふと、太陽に手を翳した彼は、天空に、見てはいけないモノを見てしまったのだった。
そう、それは、
そいつは、
例えるならば
「天使」
けれどそんな事、誰に言ったって、非現実的で、信用して貰えないのだろうと彼は思っていたし、事実、査問会議でも参考として呼ばれた軍医に危うく「PTSD」と診断されそうになったのだ。しかし彼は心の中で一人呟く。
俺は、あの破壊の主を、知っている。
俺は、あの殲滅の主を、知っている。
俺は、あの絶望の主を、知っている。
表情にも出さず、ただ心の中でだけ、だ。何も言ってはいけない気がして彼は口を閉ざしていた。彼の手の中でグラスの氷がカラリと音を立てた。