珍獣記(ちんじゅうき)
五月十六日
合土間の駅の通りで珍獣を見付けた。
旦那旦那、如何でしょう、ぐんとお安くしておきます。目敏く露店の親爺が此方を目がけて声を張る。
安いはいいが是は何だね。へえ、珍獣でしょう、近来随一の掘り出し物でさ。珍獣は良いが何だね是は。へえ何とも判りませんでしょう、その判らん所が珍獣たる所以でさ。
成程珍獣は珍獣だ、何処に目があるとも足があるとも判らぬが、確かにゆるゆると動き回って居る。膨らした麺麭生地の泡を孕んだのに似て居るが、泡ならこう奔放に彼方此方と伸び出はすまい。出鱈目な中にも此方に寄り付くようだから散歩杖の柄で突つこうとすると、親爺が袖を引き留めて、おっと其奴ァいけませんや、旦那。
奇妙な物だが稍々(やや)面白い。こんな物でも家に居れば娘の気晴らしには為るかも知れない。……安いと云ったが幾らする。へえ、見ての通りの珍獣で御座んすから、金で十ばかり頂きましょうか。
金で十とは如何にも高い。親爺は此方のしかめ面を見て、それじゃこの位に致しましょうと云って指を八本立てる。案外容易く値引いたものだが其れでも八金は高過ぎる。もう少しまからんかねと此方も指を六本立てると、へえ、それでは七金半で。七金にしないか。いやはや旦那、商売が御上手で。それでは七金でお譲り致しましょう。
親爺は愛想笑いして、珍獣を掴み上げて鳥籠のような中に容れる。骨張った親爺の手の中からぐにゃりと曲って零れ落ちようとするから、おいおい大丈夫かね。へえ大丈夫でさ、此れだけ目の細かい籠なら逃げやしません。少々重とう御座んすが。いや重ければ人を頼むさ。そう云いながら七金数えて親爺が突き出す掌に載せると、お有難う御座います、どうぞ大事にしてやっておくんなさいまし。云って頭を下げる親爺の前から、籠を抱えて道に出た。
珍獣の籠を抱えて家の玄関を潜る。
お父様お帰りなさいまし。満津子が上がり端へぱたぱたと出て来て、籠の珍獣を見て目を丸くする。まあお父様、其れは一体全体何ですか。珍獣は籠の中で上へ下へともそもそ動く。
面白いだろう、道々買った珍獣だ。まあと云ったきり満津子は矢張り声もない。
どれ此んな籠の中では狭苦しかろう。出してやるか。そう云ったが、気が付くと親爺から何一つ聞いて居らぬ。餌も飼い方も判らなければ、何んな危険があるかも判らぬ。いや親爺が手掴みにして居たのだから危険では無いかも知らぬが、あれとて手なづけた上での仕業かも知らぬ。ウウム弱ったと頸を捻った。
判りました、お父様。不意に満津子がきっぱりと云う。あと少し経てばお夕飯になります、是は私がお預かりして面倒を見てみますわ。しかし大丈夫かね。ええ何とかなりましょう。
此うして珍獣は籠のまま満津子の手に渡る。書斎に入って原稿用紙に向かう内に、段々に陽が傾いて、お夕飯ですと満津子が声を掛けた。……茶の間に行ってお膳に着く。
満津子は黙って飯をよそったり台所からお菜を取って来たりして居る。其の内、小皿に何か焼魚の切の様な物を載せてきたと思ったら、其奴を床の上に置く。さあお出でと云う。見ればお膳の向こうに先程の珍獣の籠がある、満津子は其の上蓋を開けて居る。麺麭生地に似た珍獣がむくりと膨れて床に半分伸び出る。
ちょっと待つがいい、其奴にも食べ物を遣るのかね。ええそうですわ、当たり前で御座いましょう。しかし其奴はものを食べるのかね。ええ食べましょう、いくら珍獣たって、生き物ですから食べなければ身が保ちませんわ。
成程、然う云われれば確かに然うであるような気がする。だが人間の食い物を遣る事もあるまい。犬猫と同じで残飯にして置けば良かろうに。いいえ、犬でも猫でも、矢っ張り食事が良くなくっちゃあ大きく育ちませんわ。増して此んな珍しい生き物ですもの、よっぽど大事に致しませんと。
フムと思ったが珍獣は大人しく畳の上の皿に覆い被さって居る。相変わらず口が何処に在るとも判らぬが、食物はちゃんと摂取して居るらしい。満津子がほぐした焼魚の身が、吸い寄せられるように順々に消える。……此方ももう何も云わずに飯を食う事にする。
夕飯後、藤山君が今号の原稿を取りに来たからかいて渡した。
五月二十二日
書斎の窓から表を眺めると、洗濯物が竿に懸かって、庭一面に翻って居る。其の下の地面に目を遣ると、満津子が洗濯桶に手桶で水を張って居る。
思わず窓をがらがら開けて、おい未だ洗濯をするのかね。いいえ、水浴びをさせますのと答えて満津子は再た手桶の水を零す。水浴び。はい、是に。と満津子は竹作りの巨きな籠を持ち上げる。籠の中には珍獣が居る。
其奴に水浴びが必要だろうか。よっぽど饂飩粉の捏ねたのに似ているから、水浴びなんぞしたら溶けやせんか知らん。まあ何を仰いますのお父様、生き物が水を浴びたくらいで溶けますものか。そら、御覧なさい、泳ぎますから。満津子は籠を開けて珍獣を洗濯桶に放す。
珍獣はぬるりと水に這入る。円とも楕円とも付かぬ体が、自身の重みでぐうんと伸びたと思えば、うねうねと曲る、尾を引く、まるで鰭の長い金魚の風情である。
そうら、泳ぎましたでしょう。嬉しそうに満津子が云う。成程泳いで居る。狭い洗濯桶の中を、ぐるりぐるりといっぱいに渦を描いて泳ぎ回って居る。其うして目鼻も足も無くて只管つるつると円かった物が、何時の間にやら紡錘形に尖って、胸鰭、腹鰭、背鰭に尾鰭、合わせて六つの長い鰭を引いて居る。鰭は鱶鮫の様に長く尖がって、芯は硬いが先は柔らかい。愈々(いよいよ)珍種の金魚だが、相変わらず目も鱗も無いから、生きた魚と云うよりは魚の模型の様である。そう云えば、麺麭生地の様なぬるりと生々しい色も、段々銀色に光ってきた様である。
ははあ、此奴は魚かね。魚かもしれませんわねえ、泳ぎが上手う御座いますから。其れにしては如何も足が有るようだが。其れじゃあ亀で御座いましょう。満津子は笑って珍獣を見る。
成程亀か、と思って見れば、確かに甲羅が出来て来た様に見える。足も四本生えた様に見える。体が段々濃緑に成ってきた様にも見える。と見る間に珍獣は泳ぎを止めて、其の四つ足で桶のふちへ這い上がろうとする。是は真に亀の仕種だ。
あらあら体に泥が付く。其れとも甲羅干しがしたいかい。云って満津子が襤褸で珍獣を包み、雫を払って縁側へ持って行く。
ああ、今日はほんとに好いお日和だことねえ。満津子が長閑な声を出すのを聞きながら、窓から離れて元通り執筆に掛かった。
五月二十九日
書斎へ入る扉の向こうで、最前から箒の音がして居る。書斎へ続く長廊下を、満津子が掃除して居る音である。
家は親子二人の住処にしては分不相応な程の広さである。満津子は昨日は茶の間を掃き、今日は廊下を磨くと云った具合に、日を別けて順繰りに掃除する事に決めて居る。裏を返せば満津子一人では到底家事の手が足りぬと云う事である。部屋は幾らも余って居るのだから、下女の一人も置けば良かろうと度々(たびたび)云うが、満津子は極まって、いいえお父様、私一人で充分ですわと云う。其れに続けて、お父様の御用は私でなくっちゃ判りませんでしょう、と笑い含みに云うのが習いとなって居る。
満津子の言い分も判らぬでは無い。数年前に家内が歿った後、少し暮らしを倹しくしようと、傭っていた下女にも暇を遣ってしまった。以来家の中は満津子が万端面倒を見て居る。固より一人娘である、家事手伝いを傭わぬならば、満津子が何でもするより他に手段も無い。満津子は特に不満も云わず、毎日一人で仕事を熟して居る。
満津子でなければ済まぬ用事も確かにある。是でも昔は人に教えなどして居たものだから、牧先生、伯光先生と、未だに卒業生の幾人かは家を慕って始終出入りして居る。すると折角来たのだから、一寸飯でも食って行かんかと云う事に為る。此うして我が家に集まった連中を、一人一人見覚えて、もてなして居たのが生前の家内であった。其うして彼等の膳に一つずつ好物を添えて遣ったり、欲しいだけ飯のお代わりをして遣ったりするものだから、若い連中に大層慕われて居た。
満津子は其んな気の遣い方を、母親の傍に居て覚えたものかと思う。彼等の一人でも家に来ると、茶菓子でも飯でも、まるで家内とそっくりのもてなし方をする。御蔭で家は家内が存命の時と然程変わらぬ盛況振りである。傭人では到底此の様な気遣いは出来ぬ。家内なり娘なりが家に居てこその事であろう。
だが其の半面、彼等が家に来るのは半分位は満津子の所為では無かろうかと思う。満津子も疾うに二十歳を越している、昔で云えば立派な年増である。しかし我が家に集まる若者連に引き比べれば、丁度釣り合いの取れる年齢と云って云われぬ事も無い。恐らく彼等の独身である者の内には、密かに満津子を心当てにしている者が居よう。いや是は別段学生仲間には限らない、仕事で良く家に来る編集部員の藤山君なども、どうも時折其んな素振りがある様だ。
是は満更此方の気の所為ばかりとも思われぬ。彼等は時折満津子の事を口に上せる事がある。あんな気の利く御嬢さんが先生の身辺を看ていて御羨ましいと云った者がある。専門学校まで出した才媛を、勤めもさせず大学にも行かせぬのは勿体無いと云った者もある。此の儘家に置いてはいずれ嫁き遅れに為ると、無論はっきりとは云わぬが仄めかした者もある。良く考えれば此の三者は、いずれも満津子に気があると無意識の内に明かして居る様だ。
しかし判らぬのは肝心の満津子の意思である。満津子は自分の年が長けて居る所為で、正面から縁談を持ち込む者が殆ど無い事はよくよく承知して居る。其の一方で、家に寄る若手の連中の目当てが己にある事も、密かに承知して居るのでは無いかと思う。満津子とて彼等と度々顔は合わすのだから、彼等の内に予て想いを懸ける相手が居たならば、少しは素振りにも表れよう。しかし満津子は何も云わぬ、其の様な素振りも全く見当たらぬ。満津子の意向は推し測りようも無い。
尤も其れは此方にも非が有るので、親子二人で居る時も、はっきりと満津子の意中を訊いた事は無い。其れは確かに本人に訊けば早かろう、しかし満津子は話題が其の辺りに及びそうになると、極まって話を逸らそうとする。其うして、私は此うして此の家に居られれば良いのですと云う。お父様の御世話をして、家の事をして、此の家で暮らす事さえ出来れば其れで充分なのです、と云う。……其んな時の満津子は大抵、不可解な迄に頑なな顔をして居る。
背後の方でこそりと云う音がした。
はて鼠でも出たか知らんと思う。書斎に鼠が出るのは困る。先に書斎に鼠が這入って、大事な書物や原稿を齧った物だから、後になるまで大いに難渋した事がある。其んな事件があった後、満津子が鼠捕りを仕掛けると云っていた様な気がするが、其れで鼠が捕れぬのなら、今度は猫でも飼わねばならぬのではあるまいか。
其う考えて居ると再たこそりと音がした。はっと思う間にガサガサと物の激しく崩れる音がして、キイッと鋭く何かが鳴いた。仰天して後ろの方を振り返った。
猫が居た。
書斎の壁際、本棚に入り切らずに積み重なった本の山の、一角が崩れた所に猫が乗って居た。……いや家に猫は居らぬ筈である。居れば固より鼠の害には悩まぬ。何処ぞから闖入した野良猫では無いかと思ったが、何うも違う様に思われる。野良にしては毛艶が良く、また随分と肥って見える。第一鼠ならば兎も角、猫の入るような隙間は其方の方面には無い筈である。
猫は頭を低く伏せて居る。見れば口に鼠を咥えて居る。只今の騒動は、如何やら此の猫が此の鼠を捕まえた所為であるらしい。
猫は足元に押え付けていた鼠を咥え上げて此方を見た。毛並は白いが、其の眼はまるで生々しい血潮の様な紅である。赤眼の猫など未だ嘗て見た事が無い。是は面妖なと思った途端、猫の紅い目が若緑に変った。
……是は猫などでは有り得ない。珍獣が、場所だの観る者の心だのに応じて自在に形を変える事は、先日来此の目で確かに見知って居る。矢っ張り此の猫は珍獣の変った物に相違ない。
猫に化けた珍獣は、鼠を咥えたまま此方へ向かってとことこ歩き出す。近付くに連れて、一面真っ白な毛並の背筋に大きな虎縞の斑が浮き出る。子供の時分、家の近所に居た野良猫に此んな風のが居た気がする。やがて座蒲団の下まで来ると、咥えて居た鼠をぽとりと落とした。鼠は恰も虫の息と云った風情で、只管髭を細かく震わせて居る。
珍獣が此方を見上げて、ニャアと鳴いた。
珍獣の声を聞いたのは是が真に初めてである。驚いて赤虎斑の背を見ると、猫は、否珍獣は、も一度ニャアと鳴いて膝に頭を擦り付けて来る。其の鳴声も、仕種も、肌触りも、完璧に猫である。珍獣では無い、猫としか思えぬ。
廊下の方からぱたぱたと、満津子の忙しい足音が近付いて来た。
お父様お父様、珍獣が何処へ行ったか御存知ですか。満津子は扉を開けるなり、狼狽した声で其う呼ばわる。
お掃除の最中に逃げたのです。不図寝間の方を見ました時に、珍獣の籠が目に入って。随分大きくなりましたから、此んな籠では狭苦しかろう、其う思いまして籠の口を開けた途端……鳥の姿に成って、ぱたぱたと。
満津子は余っ程愕いて彼方此方探し回ったらしい、泣きそうな顔になって居る。箒の音が途絶えて、鼠の騒ぐ音が聞こえたのは其んな訳合いであったかと思いながら、何ァに其んなら心配は要らないよ、珍獣ならば此処に居る。ほれ此の通り猫の形に成って居る。然う云いながら膝に擦り寄る珍獣の両脇を持って抱え上げると、まああと云いながら満津子は受け取り、おおお前、断りもなしに何処へ飛んで行ったかと思えば、此んな姿に成ったりして。
其うして足元で身を震わして居る鼠を目に留めて、おや、是はお前が捕ったのかい。良くやったねえ、いい子だねえ。所が其う云って居る間に、鼠は遂に金縛りが解けて、一目散に部屋の隅へと逃げて了う。あれまあ、鼠を押えるなら、ちゃんと最期まで押えなければ駄目じゃあないかと満津子が云うと、珍獣の猫は素知らぬ振りで、満津子の肩に凭れて喉をごろごろ鳴らした。
僅かに目元を潤ました満津子は、それじゃお父様、御仕事の最中に御騒がせしてどうも済みませんでしたと、珍獣を確りと胸に抱いて書斎を出て行く。間も無く部屋の外から鳥の羽撃きが聞こえた。
六月十三日
三時に藤山君が原稿を取りに来る約束になって居る。
先月は少し締切りを遅らしたから、今月分は如何にかして間に合う様に書いて遣ろうと思って居る。しかし作物は創造性の産物であるから、儘ならぬのが常である。今日も朝から書斎に籠って奮闘して居るが、中々(なかなか)思う様には捗らぬ。
此んな時は邪魔が入らぬのだけが救いである。仕事が急場に掛った時は、失礼乍ら忙中に付き急の来客の他は一切御断り申し上げ候と札に書いて玄関に下げて置く事にして居る。御蔭で余っ程の事態で無ければ、用事に煩わされずに執筆が出来る。……満津子は先程、御買い物に行って参りますと云い置いて出掛けた。其の為家の中は静として居る。
表は少し前に雨が上がって薄日が射して居る。軒の雨垂れを眺めて居ると、半分開いた窓辺に鳥が颯と飛んで来て止まった。頭は黒く羽は薄青、青い尾羽は尾長に似て居るが、烏程の大きさで、是程人間の傍だと云うのに全く怖じる様子が無い。珍獣か、と思った途端に鳥は赤虎の背の猫の姿に変って、書斎の床にとんと降りた。其うして仕事に使って居る座卓の直ぐ向こうへ来て、猫其の物の仕種でくるりと丸くなった。
珍獣は此の頃ではもう自由に歩き回って居る。時折元の不定形に戻って籠に収まって居るけれども、其れよりも猫だの鳥だの魚だの亀だのの姿に為って、其の辺りをうろついて居る時の方が多い。行いも殆ど化けた動物と同じで、別段害は為さぬが役に立つ事もせぬ。だから此方も何時しか慣れて、好きに振舞わせて遣っている。
餌は相変わらず家で貰って居る。満津子が懸命に智恵を絞って、たんと美味い物を遣るものだから、家へ来た当時より少しばかり大きくなった様である。尤も不定形以外の姿に為ると、大きさも幾分変わる様だから、精確な所は良く判らない。
其れと共に姿も大分安定して来た様である。今し方鳥だの亀だのと思った時に、少しばかり背筋の毛が逆立って、灰色だの緑だのに為り掛けたが、其れだけである。形は相変わらず猫の儘である。其う思った途端、珍獣はつと頭を上げて欠伸して、直ぐまた元の通りに丸くなった。
此方は珍獣の如く暢気にして居る訳には行かぬ。藤山君のやって来る時刻は刻一刻と近づいて居る。小説の構想は無論大方出来上がって居るのだが、未だ少し問題が残っていて、書いても一向に上手く進まぬのである。
此の小説の主人公は一組の若い男女である。彼等は間もなく結婚する事に為って居る。しかし女は他に惹かれる男があって、何とはなしに許婚との間に隔たりを持って居る。許婚は悪い男では無いが、少し純朴で正直過ぎて、女の心を測りかねて居る。其れが益々(ますます)女の心を違う男に近付けて居る。
問題は女が惹かれて居る男である。悪人にするのは簡単だが、其れでは少々物語として単純になり過ぎる様に思われる。矢っ張り主役の男女と同じ様に、善人でも無く悪人でも無い、極々(ごくごく)当り前の人間であって、儘ならぬ世に翻弄されて居ると云った風で無くてはならぬ。但し女が惚れる位であるから、其れなりに優秀で、また見目形も十人並み以上であろう。……海軍士官などは如何だろう。年の頃から云えば恐らく新任の少尉と云った所であろう。
此の青年士官が居るばかりに、主となる男女の周りには波乱が起る。結末は如何にか落ち着いた方面に持って行く心算で居るが、其れ以前に山や谷が無くてはならぬ。勿論其の山や谷には此の青年将校も荷担して居る。此の人物は物語の内で、何んな役割を演じるのであろう。何う物を云い、何う振舞い、物語に何んな影響を与えるのであろう。
固より女の親類か何かで、幼い頃より或いはと、将来を取り沙汰されて居た様な人物かも知れぬ。其れで女に許婚が出来て、間も無く婚礼に至るのを、他所ながら云うに云われぬ想いで以って見つめて居るのかも知れぬ。旧知の女が嫁に行くのであるから挨拶位には来るかも知れぬ、すると女と顔を合わせる事に為る。其処で踏ん切りが付くか付かぬか、是は作家の思案の為所である。或いは愈々女が嫁すると知って、何らかの行動を起すかも知れぬ。女の親または自分の親に訴えて結婚を止す様働き掛けるかも知れぬ。或いは女に直接逢って、駆落ちをするに至るかも知らぬ。……しかし果して此の男は、其処まで女に惚れて居るのであろうか。
……折角必死で其う考えて居た所だのに、俄かに目線の先で珍獣が飛び起きた物だから、思わず其方に意識を奪われた。
珍獣は何を思ったか、上半身をがばと起こして、若緑の目玉を零れ落ちそうな程大きく瞠って居る。総身の毛が皆ばさばさと逆立って、俄かに風邪でも引いたかの様にぶるぶる細かく震えて居る。……否、違う。其ればかりでは無い。猫の形の其の輪郭が、釜で焼かれた麺麭生地の、或いは火鉢の上の餅の膨らむ様に、見る見る内に滑らかに膨らんで、猫の面が平たくなる、鼻筋が通る、毛が薄くなる、代って頭が黒くなる、一杯に瞠った若緑の目玉は何時しか白目と黒目にくっきり分かれて居る。首と背筋は真っ直ぐに為って、床に突いた四肢は最早猫の物とは思えぬ逞しさ。其うして体は白に赤虎の猫の毛並だった物が、何時の間に……是は海軍の軍服では無いか。
最早珍獣は……否、是は本当に珍獣なのであろうか? ……私の目前に蹲って居るのは二十歳ばかりの青年である。若々しく引き締まった体をぴんと折目の付いた海軍士官の制服に包み、其の顔貌は眉根太く凛々(りり)しく、私が何とはなしに思い描いて居た物語の中の青年士官の面差しに何処か似て居る。そう云えば藤山君にも少々似て居る様な気もする。……未だ少し心焉に在らずと云った風情で顔を蒼白にして居る青年の唇が開いた。
ああ愕いた。人の観る目で姿も性も変わるとは、何と云う厄介な世界だ。
御前は、……いや、貴方は。腰を抜かしそうになりながら呟いた私を青年は振り返り、居住まいを正して一礼する。
此んな所をお見せして、定めし混乱なされた事だろうが、何はともあれ、今日までお養い下さった事には御礼を申し上げる。……私は確かに先生方が珍獣と呼ばれて居た者です。只今先生が此の青年の事を強く念って下さった御蔭で、やっと人の姿まで戻る事が出来た。自我も大方取り戻す事が出来た。
其れでは、……其れでは、貴方は人なのか。青年は微かに面を伏せた。私は世と世、時と時、空間と空間の狭間を始終行き来する任務に就いて居ります。先日も或る世界から別の世界へ跳躍した、其の途中に経由した地点の一つが此の世の此の時であった。ところが、何うやら此の世界を経由した際に、ほんの僅かに引っ掛かる物があったらしい。その所為で、私の欠片が此の世に取り残されて了ったのです。
世と世の間を渡り歩くには、航海と同じく正確な予測と判断が欠かせぬ。或いは此んな事故も稀には起るかも知れぬと云う予測は有りました。しかし何しろ此の度は、非常の事態でありましたから、何の対策も打てぬ内に、本性も、私の本体との繋がりも殆ど断たれて了った。私の性質が観る者の思いに影響される様に為ったのも、恐らくは其の所為でありましょう。私は殆ど本性を失って此の世に落とされて了ったのですから。……其れで正体も判らぬ儘、此の世の人の手から手へ、随分と彼方此方経巡った様だが、終に先生に貰われた御蔭で、此うして如何にか自己を取り戻すことが出来た。其れに就いては真に御礼の申し上げ様も無い、と青年は丁寧に頭を下げる。
ああいや、御話は大体判った。いや本当は判らぬ事ばかりだが、取り合えず判ったと云う事にして置きましょう。私は青年の話を遮った。しかし此の世と別の世を行き来するだの、其れでは貴方はまるで……。青年は軽く微笑んだ。いえ、先生が御考えの程難しい事では無い。後もう少し人が進歩すれば、誰でも出来る様になる事です。
其れで……、と青年は此の時、僅かに躊躇った。……其れで、何の御恩返しもせぬ内から此んな事を申し上げるのは甚だ心苦しいが、此うして曲りなりにも自己を取り戻した以上、私は一刻も早く本来の私に還りたいと思って居る。実の所私は未だ不安定です。今は如何にか此の人の姿を保てて居るが、或いは再た何かの強い想念を受けて、他の姿に変って了わぬとも限らない。私を御買い上げになった先生、どうか私を自由の身にしては下さいませぬか。何時か再び此の世に来た時、其の時には必ず報恩申し上げる。
此の申し出を聞いて、私は少しく考え込んだ。……青年の話は正直に云って私の理解の範疇を超えて居る。しかし此の目前の青年が、家に居た珍獣の化身である事は確かに紛れも無い。あの珍獣が存在するなら、青年の話の様な事があっても何ら可笑しく無かろうと思われて来る。……青年の目は真剣である。到底嘘を吐いたり騙したりと云った魂胆が有る風には見えぬ。
……良いでしょう、貴方を自由の身に致しましょう。私は遂にそう云った。是までは貴方の意思を考慮しようも無かったから此方の好きに扱って居たが、貴方がそうやってはっきり意思を示されるのであれば、私に其れを止める積りは無い。其れに今までは珍獣だったから飼って居た積りだったが、人間となれば飼う訳に行かんでしょう。然う云って私が笑うと、青年もほっと安心した様に笑いを零した。
其れでは、如何にも慌しくて申し訳ないが、直ちに失礼致したく思います。事情も真偽も判じ難き事であるのに、是程あっさりと私の解放を御承諾下さるとは、真に先生の御厚情の程は計り難い。此の御礼はいずれ必ず、とまた深く頭を下げて云い掛けるのが擽ったくて、其れは良いから早く行くがいい、で無いとまた大変な事に為るかも知れないじゃあ無いか、と私が笑いながら云った時だった。
康彦さん、と満津子の悲鳴に似た声がした。書斎と居間の間の敷居に買い物籠を放り出して、満津子が面を蒼白にして立ち尽くして居た、と見るなり満津子は疾風の如く書斎に駆込んで咄嗟に振り向く男の首にひしと取り付き、康彦さん康彦さん私です、桜の下の女学校の、牧の家の満津子で御座います。
いいえ御人違いです、私はと青年が云い掛けるのへ被せて、いいえ貴方は康彦さん、覚えていらっしゃらないとは何と恨めしい。桜の下であんなにも、目交ぜし文も取り交わしたと云うのに、今更御忘れになったとは言わせない。……満津子は早泣き喚いて居る。全く狂乱の体である。
満津子にしがみ付かれた青年の顔が目に入った時――青年の容貌はまた少し変って居た。其れを見た途端、私の心の奥にあった記憶がはっと一時に蘇った。あれは満津子が高等女学校の時分、女学校の構内は多くの桜が植わって居た。其うして其の桜並木の筋は、私の常の散歩道であった。折々暇の出来た時、此処で満津子は学んで居るのかと思いながら桜の舞い散る中を歩んだ、其処に何う云う訳か度々出会う青年の姿があった。高等学校の制服を正しく着て、若い顔立ちに物思わし気な表情をして桜の下から校舎の方を見詰めていたあの青年は……珍獣が変った青年は、今、彼に良く似た顔立ちになって居た。
いいえ、私は貴女が想っている方とは違う。青年の声で我に返った。青年は立って満津子を振り解き、玄関の上がり端から三和土の方へ出ようとして居る。しかし満津子は追い縋り、何故其の様な嘘を仰るのです、康彦さん、何処へ行かれる、私をお見捨てに為るのですか。私には還らねばならぬ所がある。其処へ貴女をお連れする訳には行かぬのです。青年は云い放つなり、はっと満津子を振り捨てて玄関の外へと走り出る。
お供します。あの時のお約束、私はずうっとあの場所でお待ちして居たのです。崩れ落ちた満津子は血を吐く様に叫んで、忽ち青年の後を追って、玄関の外へ駆け出した。
……ただ呆然として居た私は、やがて鈍々(のろのろ)と立ち上がり、玄関先に立って家の周りと門の先の往来を眺めわたした。……満津子の姿も青年の姿も、最早何処にも見当ら無かった。
六月三十日
あれ限り満津子は未だ家に帰らぬ。家に出入りの若い連中、殊に藤山君などは、八方手を尽くして捜索して居る様だが、当然ながら影一つ見つからぬと云う話である。彼等は周章狼狽して満津子を捜し求め、其の一方で私の落ち着き振りに就いて、何やら云い合いして居る様だが、私は一向気にして居らぬ。若しも彼女に縁が有れば……無ければと云う可きかも知らぬが、その内帰って来る事だろう。