僕は毎年この時期、ちょうど卒業式か入学式がある時期に母校へと脚を運んでいた。別に誰か親族が入学とか卒業するっていうことじゃない。ただ、卒業生の僕でも気軽に出入りできる時期だから。
目的があった。大切な目的だ。
今年は、なんとなく涙の匂いをいっぱいかぎたくて、卒業式にした。
お祝いの看板が立てかけられている正門から堂々と、門の両隣で挨拶をしている教師たちに会釈をして入っていく。どうせ、父兄だと思っているんだろう。毎年そうだ。
チェックが甘いのは、正直今の時代危ないんじゃないのか?
そんな偽善ぶった心配を一瞬で忘れ、体育館へと着飾った父兄と一緒に進んでいく。
その流れから外れて、体育館の中には入らない。裏側へと周り、一本の大きな桜の木の前へと脚を進める。
校舎と体育館の間で日もあたらない、日陰の中で咲き誇る満開の桜。唯一体育館の上にある窓から、体育館を通して光が微かに桜の木の頭をこするように照らす。
なんでも、昔学校を作る際に植木職人さんがグラウンド内に植えるはずの桜の木と、何の変哲もない木を間違えて植えてしまったらしい。売れない落語家の小話ぐらい笑えない。どうせデマだろう。
春風に揺らいで、桜がざわついた。桜の花弁が一枚一枚こすれあう、優しい音だった。
その音と共に、待ち人が現れた。
「久しぶり、マキト」
その人は、桜を揺らしていた風に黒くて長い艶やかな髪をなびかせて、透明な声色で僕の名前を呼んだ。
桜によって桃色に彩られた風から生まれたように、音もなく現れた。
「久しぶり、姉ちゃん」
優しげで、儚さを滲ませる笑顔に、僕も不器用に笑顔を作って返す。毎年、一年に一回だけ、ここで姉ちゃんと会う。
姉ちゃんは制服姿で桜の木の前で、合唱するように手を後ろに組んでいる。ゆっくり姉ちゃんに近づいて、横に並んで木の幹にもたれかかった。
モデルみたいな体型の姉ちゃん。背は、今年になってようやく追い抜いた。
「元気だったマキト?」
「もちろん、何も変わりなく元気だよ。あ、そういえばようやく母さんのと父さん離婚したよ」
「ほんとに〜? ようやくしたんだーあの人たち」
別に大した事じゃない。僕らの間では。
昔から不仲だった僕らの両親は、姉ちゃんが家に帰ってこなくなった頃から拍車がかかったようにさらに関係が悪化していった。
なんら関係はない。学費を払ってくれて、生活できる場を提供してくれる人たちとしか、小さい頃から認識していない。
そんな夫婦の関係が、今年になってようやく解決しただけだ。
「姉ちゃんは、どうよ?」
なんとでも意味が取れるような、ずるい質問だけどこの一言で姉ちゃんには充分だ。
「幸せよ〜。好きな人とず〜っと一緒だもん。これもマキトのおかげよ、……ありがとね」
ず〜っとの部分で、春の香りを胸いっぱい吸い込むように、姉ちゃんは背伸びをした。
昔から綺麗で、勉強も出来る姉ちゃんが自慢だった。好きだった。だから、手伝っただけ。
僕は、別に大したことはしていない。ただ、姉ちゃんの願いを叶えただけだ。あれ、なんの、願いだっけ?
すぐ横の体育館から、歌声が響いてきた。校歌だ。泣き声や、最後だからだろうか、はちきれる様な大声も聞こえる。
僕が卒業するときは、どうだったっけ?
姉ちゃんが――
「ねえマキト」
ふと我に返ると、姉ちゃんが俺の目を覗き込んでいた。綺麗な瞳が迫ってきて、胸が高鳴る。
「私の願いをマキトは叶えてくれた。マキトも、そのことは誇りにすら思っているんじゃない? でも、本当の心は辛いよね」
何を言っているんだろう。僕は、姉ちゃんを手伝ったことを辛いとは一度も……。
「ココにはもう、来ないほうがいい。私のことは、思い出さないほうがいい」
「なに言ってんだよ、勝手なこと言うなよ!」
僕は姉ちゃんの言葉を認めたくなくて、姉ちゃんの肩を掴もうとした。その手は、確かに空をすり抜けた。
背筋がひやりとした。姉ちゃんの綺麗過ぎる泣き顔のせいか、別の何かのせいか。
「マキトには、汚い役を任せちゃったね……、ごめんね」
「何言ってんだよ、そんなことどーでもいいから! いつまでもこうやって僕の前に現れてよ!」
認めたくない、触れてはいけないスイッチが、僕の中でぐらつくような危うい音を立てる。
頭をかきむしり俯いて狂いそうだった僕の頬に、姉ちゃんの手が添えられた。
冷たさも、温かさも、触感も、何も感じなかった。
「ありがとう、ごめんねマキト。……でも、もうさよならなんだよ。こんなことは忘れちゃいなっ。母さんたちが離婚して、マキトも、新しく旅立てるときなんだよ。だから、さよなら」
「僕は姉ちゃんが!!」
顔を上げたとき、姉ちゃんはもういなかった。春風に舞い上げられた桜の花弁に混ざるように、消えていった。
消えるっていう表現は違う。そこには、元から姉ちゃんはいないんだから。
姉ちゃんが本当にいるのは、僕が立っている地面の中だから。
まだこの学校に通っていた頃姉ちゃんには付き合っている人がいた。運動、勉強が出来てカッコいい人だった。
その人が、突然自殺した。屋上から飛び降りて、この桜の木の根元に落ちた。原因が分かずに、ただ自殺してこの世を去った。
姉ちゃんがおかしくなったのは、その頃だ。しきりにこの桜の木に通い詰めて、誰かと話すような素振りをする。
見えていたんだろう。姉ちゃんには。
ある時、姉ちゃんは僕に頼んだ。
あの人が呼んでいるの、地面の中から呼んでいるの、手伝ってくれる、マキト――
耐えられなかった。あの憧れの姉ちゃんが壊れていくのが。僕の姉ちゃんが壊れていくのが。
僕は、姉ちゃんを生きたままここに埋めた。笑顔のまま、埋まっていく姉ちゃんを号泣しながら見送った。
僕の中の姉ちゃんは、ずっと綺麗なままで憧れの姉ちゃんになった。
思い出したくなかった。でも思い出してしまった。
涙が溢れ出して止まらない。崩れ落ちるように、その場に蹲った。
体育館からは、仰げば尊しが聞こえる。
二度、姉ちゃんを手放してしまった僕は、まだ姉ちゃんを追いかけることをやめたくはない。
涙が染み込んでいる地面を見た。
「姉ちゃん、姉ちゃん……」
涙で柔らかくなった地面を掘り返していく。
姉ちゃんに会いに行く。僕は、いつだって姉ちゃんのそばにいたいから。
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