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第3話:未知との遭遇【前編】




 目の前にある低い木々で形成されている深い茂みが、奥の方でガサガサと音を立てて揺れている。どうやら森の奥のほうからこちらに向かって何かが近づいているようだ。

 侑人は視線を音がする方に向けたまま静かに立ち上がり、直ぐに逃げられるような体勢を整える。近づいてくるものがどういった存在なのか判らないが、先ほどの火炎ウサギもどきのような生物が生息している森であり、どんな危険な生き物がいるのか想像もつかない。
 今まで生活していた平和な日本での感覚のまま、安直に物事を判断する事がどれだけ危険な事なのか、先ほどの件で十分に理解出来ている。例え見た目が自身の良く知る生物の形をしていたとしても、全くの別物の可能性がある為むやみに近づかない方が良い。

 冷静な思考をしているように見せかけてはいるが、実は侑人は思いっきりびびっているだけだった。

 森の中を進む謎の物体は、何かを探すようにうろうろしながらも、確実に侑人の居る方へ向かって近づいており、すでに距離は目算で十メートルほどの位置にまで迫っている。
 時を追う事に侑人の鼓動はどんどん早くなり、背中はすでに冷や汗でぐっしょりと濡れ、かなり冷たくなっている。

 完全に相手の姿が確認出来る訳では無いが、春先でまだ葉が生い茂っていない為、枝の隙間から近づく物体の大きさが何となく確認出来る。
 おおよその目算で、侑人よりも二周りは小さなサイズであるが、もし正体が熊の様な危険な生物であったのなら、襲われれば命に関わる可能性が高い。先ほどは火を噴くウサギが登場したが、今回は意表をついて火を噴く熊が登場した……なんて出来事が起こったのならばもはや手も足も出ない。

「なんなんだよ一体」

 かなり焦っていた侑人は、自分の行動がどんな状況を引き起こす可能性があるのかを、全く考えずに思わず文句を口にしてしまう。
 そしてその不用意な行動がきっかけとなり、事態は次の展開に動き始める事となる。

 侑人の言葉が耳に届いた謎の物体の動きが突如止まる。辺りに静寂が訪れ緊迫した空気が周囲をどんどん満たしていく。
 茂みの中から何かがこちらを警戒しているような雰囲気を侑人は感じている。鋭い視線が自分を射抜いているような感覚と、相手の存在が発する気配が自分の肌を通じてはっきりと判る。

 侑人が日本で普通に生活している時には、これほどはっきりと他者の存在を肌で感じる事など無かった。何となく視線を感じるような気がするといった程度の事はあったが、確信を持つまでに至った事など一度も無い。
 実はこの世界に来てからの侑人の感覚は異様なほど研ぎ澄まされ、集中すれば周囲の状況がある程度は把握出来るようになっていた。しかし冷静な思考が出来なくなっている侑人は、その事に気が付いていなかった。




 お互いに警戒し、お互いが動きを潜める事数刻。永遠に続くかのような均衡を破るきっかけを作ったのは侑人であり、先に行動を起こしたのは相手の方だった。
 緊張感に耐え切れなくなった侑人が逃げ道を再度確認するために、不用意に視線を外し首を左右に動かしたのを相手は見逃さなかった。

 ガサッ

 突如大きな音が響く。
 侑人が慌てて視線を戻したのだが、その時にはすでに相手は茂みから飛び出し、侑人に向かって身構えて敵意をむき出しにしていた。
 うかつな行動を不用意に取った事を侑人は混乱しながらも反省し、とにかく状況を好転させるべく必死になって頭を働かせる。

 目の前には女の子が居た。
 金色のやわらかそうな長い髪を二つのおさげに結わえており、前髪の隙間から覗く金色の目がこちらを真っ直ぐに射抜いている。鼻筋はすっきりと通り、その下にある形の良い桃色の唇は、緊張の表れなのか固くへの字に結ばれていた。
 体型は細身であるが、女性らしい柔らかい曲線で各部位が描かれており、スレンダーという言葉がしっくりと来るプロポーションをしている。
 もし日本で見かけたのであれば、十人が十人とも振り返るような整った容姿をしており、芸能人だと紹介されれば素直に信じてしまうようなオーラを感じさせる。

 年齢ははっきりと分からないが、幼さの残る顔から判断すると多分未成年であろう。丈夫そうな素材を丁寧に裁縫した動きやすそうな服を着ている事から、活発な性格な子だと思われる。
 ちなみに耳が少し尖っているようにも見えるが、そんな事は今の侑人にとっては大した問題ではない。角が生えていれば少しは驚いたかもしれないが。
 大問題なのは彼女が金色の目で侑人を思いっきり睨みつつ、弓矢を構えている事だった。

「怪しい者じゃないから警戒しないで欲しいかな……」

 侑人は恐る恐る目の前の女の子に話しかける。その言葉を聞いた彼女は、目を大きく見開いて肩を一瞬震わせたかと思うと、さらに険しい眼で侑人を睨みつけてきた。
 構えた弓矢を持つ両手には力がこもりわずかに震えている。あと少し刺激を与えれば直ぐにでも矢が放たれそうである。

「まっ…まってまって撃たないで!」

 そんな彼女の姿を見て侑人はかなり慌てる。好戦的な外人なのか? むしろ異世界人か? ひょっとしたら日本語が通じないのかもしれないぞ。そんな事を考え大昔に学校で習った内容を一所懸命思い出す。
 錆び付いた頭を無理やりフル稼働し、記憶の片隅に追いやってしまった遠い学び舎の記憶を呼び覚ましていく。どうでも良い記憶ばかりが数多く蘇ってくるが、何とか目的の内容を思い出し一気に口にする。

「ア、アイ アム ノット デンジャー!」

 侑人の英語の成績はかなり悪かった。

 侑人は必死になって、自分が怪しい者じゃない事を相手に伝えようとしている。スーツ姿で山の中をうろうろしている時点で十分怪しいのだが、怪しいと判断されたらその時点で人生が終わる可能性がある。
 ジェスチャーやボディランゲジを駆使して自分の思いを伝えようかと考えたが、大きな動作が相手を過度に刺激して、そのまま撃たれて昇天するのは余りにも洒落にならないので自重した。

「イッヒ リーベン ディッヒ」
我爱你ウォーアイニー
「アニョハセヨ」
「アヤシイモノデハナイアルヨ」

 思いついた言葉の全部を使って説得を試みる侑人。もはや説得の言葉ですら無く、傍目から見れば余計に怪しさ満点な姿ではある。
 しかし言葉が通じたのか必死な姿が伝わったのかは定かでないが、彼女は弓矢の構えを解いてくれた。しかし表情はまだ硬くこちらを警戒している事には変わりが無い。

「言葉が通じたのかな……とにかく助かった……」

 矢の鋭い先端から逃れられた侑人は、全身の力が抜けその場に座り込む。人間死ぬ気になれば何でも出来るという事を実感した一瞬である。

「信じてくれてありがとう」

 日本語が通じているのかは分からないが、侑人は彼女を見上げて微笑みながらそう告げる。とにかく感謝の気持ちを素直に伝えたくなったのだ。
 そんな侑人の姿を見た彼女は何やら考えているような素振りをしていたが、やがて少し困ったような顔をしながら恐る恐る口を開く。

「ёдк☆Шйоз?」

 彼女の口から発せられた言葉は、侑人の聞いたことが無い言語であった。




「ここはどこかな?」
「клзаи$йШегв?」
「日本って分かる?」
「зквд☆ё£★З?」

 相手に危害を加える気がない事をお互いが理解した後、コミュニケーションを図ろうと会話を開始した侑人であったが、更なる問題が立ち塞がった。言葉が全く通じないのである。
 何となく相手が相槌を打っているような気もするが、間違いなく気のせいであり、いまだに意志の疎通は図れていない。

 仮に相手が英語を話していたとしても日本語しか話せない侑人では、まともに会話を成立させる事は出来ないが、多少なりとも聞いたことがある言語なら単語の意味から内容を少しは推察出来たであろう。
 しかしまったく聞いたことが無い言語が相手となると、会話のきっかけすら掴めない状態であり、侑人には完全にお手上げであった。

 侑人は困った顔で少し考え込む。
 このまま意志の疎通を図る事を放棄して、彼女とここで別れてしまうという選択肢も存在するが、知り合いが全く居ないこの世界で初めて知り合う事が出来たこの僥倖ぎょうこうを無駄にするメリットなど一つも無い。
 何とか意志の疎通を図り、最悪でも街まで案内して貰わなければここで犬死する可能性もある。それだけは何とか避けたい。

 彼女も困った顔をしてこちらを見ている。
 当初は金色の瞳がこちらの姿を興味深く観察しているような雰囲気を感じたが、今は彼女自身もどうしたら良いのか考えてくれている様だ。
 暫く二人でウンウンと唸っていたのだが、不意に彼女は何かを思いついた顔をしたかと思うと、彼女自身を指差してこう言った。

「マйШ」
「マニア?」

 彼女は少し怒った様な表情で頬を膨らませている。実は言葉が判っているんじゃ無いかと侑人は一瞬疑いそうになったが、彼女がそんな事をするメリットが思いつかずその考えを頭の隅に追いやる。
 すると直ぐに立ち直った彼女はもう一度彼女自身を指差して、今度はかなりゆっくりした口調で話しかけてくる。

「マ、リ、ア」
「マリア?」

 嬉しそうな顔をして何回も頷く彼女。
 マリアというのは彼女の名前だろうか。多分この流れからして間違いは無いだろう。侑人は目を瞑りながら少し考えてそう判断する。
 とりあえず相手の名前が判った事によって侑人に少しの余裕が生まれる。未知なる言語を相手にしているので現状では全く言葉が通じないが、こうやって単語を積み重ねていけばいつかは解り合える。そんな事実がかなり嬉しかった。

 侑人は再度マリアに目を向ける。
 自分の名前が理解してもらえて嬉しいのだろうか、彼女……マリアは全身で喜びを表現しているようだった。
 胸の前で小さなガッツポーズをしながら何度も頷いている仕草はとても可愛らしく、満足げに浮かべている笑みは見る者全ての心を鷲掴みにする破壊力を秘めている。

 侑人はそんなマリアの仕草と表情に見とれて、暫く呆けてしまったが、左腕を軽く突かれるような感触に気が付きふと我に返る。
 ゆっくりと左腕の方に顔を向けると、マリアが上目使いで何か聞きたそうな顔をしながら、侑人の腕をしきりに突いていた。
 あどけない子供のような仕草に少しどきどきしつつも、侑人は名前を聞いているのだなと判断し、自分自身を指差しながら名前を伝える。

「小坂侑人」
「コサカユト?」

 小首を傾げながら復唱するマリア。
 日本語のような言語体系が独特な言葉は、その他の言語体系で生活している者にとってかなり聞き取りにくいという雑学を思い出し、もう少しゆっくりと伝えようと再度自分の名前を口にしようとしたが、ふとある事に気が付く。
 欧米では基本的に氏・名では無く、名・氏の順番だったはず。異世界ではどうなのかは判らないが、マリアの外見から名・氏の方が良さそうかなと判断して、もう一度自分を指差しながらゆっくりと名を告げる。

「ユ、ウ、ト・コ、サ、カ」
「ユート・コサカ」

 頷きながら復唱するマリア。
 侑人に確認するかのような目で見つめてくるマリアに向かって、頷きながらにっこりと微笑み返す。自分の名前を伝えただけなのに何故だかかなり嬉しい。
 そんな自分自身の気持ちに気が付いた侑人は、先ほど喜んでいたマリアの事を全く笑えないなと考えて思わず苦笑する。

「ユート・コサカ、ユート・コサカ……」

 マリアは侑人の名前を暫く間、ぶつぶつと何度も復唱している。かなり真剣な表情で侑人の名前を繰り返し口にするマリアの姿は、見ていて少し微笑ましい。
 やがてマリアは突然笑顔になり、左手を腰に当て右手の人差し指を侑人に向けたポーズをとり、大きな声で話し掛けて来る。

「ユート!」

 何故かとても得意そうな姿で侑人の名を呼ぶマリア。侑人はマリアの姿を見て笑顔を見せる。この世界に召喚された侑人が初めて心から笑えた瞬間であった。



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