第2話:非日常への誘い
「……みは……だけ………みろ………」
侑人は爆睡している。なにやら夢を見ているらしく、しかめっ面をしながら時々もごもごと寝言を口走っている。
度重なる残業やオフィスへの泊り込みのおかげで上達した、椅子の上で微動だにしない侑人の睡眠テクニックはかなりのものであり、なかなかの安定感を毎回誇っていたのだが、今日の夢はあまり心地よいものではないらしく、珍しい事に寝床からずり落ちかけていた。
「…こえ……しれ………ぐぁ!!?」
浮遊感を一瞬感じたと思った直後、後頭部と背中に激痛が走る。床に全身をしこたまぶつけた侑人は、あまりの痛さに一分ほど床を転げまわっている。
見る人が見れば百年の恋も冷めるような余りにも情けない姿なのだが、幸か不幸か今は一人きりである。それはそれで少し寂しい気がするのだが、今の侑人にとってそれ所では無い。
何とか立ち上がれるほどに痛みが回復した後、侑人はゆっくりと周りを見渡した。普段の寝起きと比べてなにやら違和感がある。何かがおかしい。
そんな感覚のままに侑人は思わず呟く。
「部屋じゃない……? ここは何処だ?」
侑人はオフィスで寝たことをすっかり忘れている。侑人の寝起きはかなり悪かった。
「久々に夢を見ていた気がするんだけどどんな夢だったっけかな……」
紅い髪の毛が印象的な少女の姿が、侑人の脳裏に浮かびあがりそうになる。しかし顔を思い出そうとすると突然イメージは霧散し、何度試してもおぼろげな姿しか思い出せない。
思い出す事を諦めた侑人は、オフィスに備え付けられているキッチンの水道で顔を洗い、意識をしっかりと覚醒させ時計を確認する。時刻は二十三時半を少し廻っている。
「少し寝るつもりが一時間以上寝ちゃったのか」
今から実家に向かうと到着は午前一時を間違いなく過ぎる。翌日に控えたイベントのことを考えると逃げたい気持ちで一杯ではあったが、逃げれば逃げるだけ状況は悪化することが目に見えている。
「……行くか」
出発の準備を整えるべく、侑人は自分のデスクを片付け始める。手早くノートパソコンの電源を落としPCケースに入れ、会社の施工基準書と最近発表された環境配慮型の新建材の資料をまとめたファイルと筆記用具を鞄にしまう。
実は侑人はお見合いの待ち時間に軽く仕事をするつもりである。侑人は会社から見て都合の良い仕事人間であるが、本人も納得しているので特に問題は無い。
『汝は…を……むか?』
手早く準備を整えた侑人が、オフィスの戸締りを確認するべく窓のほうに歩こうとした時、激しい頭痛が突如侑人を襲う。
あまりの痛さにこめかみに右手を添えその場に座り込む侑人。朦朧とする意識をなんとか繋ぎとめようと思考を集中させた時、意識に直接呼び掛ける不可解な声をはっきりと感じる。
『汝は何を望むか?』
突然の頭の中に響く声に侑人はかなり驚いたが今はそれ所では無い。不可解な現象に対する驚きよりも、激しい頭痛による生命の危機のほうが何倍も緊急性が高い。
そのまま数分間うずくまった後、頭痛が収まりやっと動けるようになった侑人は、ゆっくりと辺りを確認する。
「特に変わったところは無いな……さっきのは何だったんだろう?」
目の前に広がる景色は普段と変わらないオフィスの光景であった。机が整然と並べられ、後ろの棚には書類が所狭しと詰め込まれている。
主電源を落としていないコピー機は待機中のランプが点灯し、電話はしっかりと留守電モードになっている。
そして電球の切れかけた非常案内灯は規則正しく点滅していたし、大通りに面した窓では侑人が戸締りの確認をしていた。
「なにもおかしい所はな……あ!!?」
体を一気に襲う強烈な違和感。侑人はその原因に気が付いてしまった。いつもの景色に紛れ込んだありえないモノを。
「俺が居る……」
日常が一気に非日常に切り替わってしまった瞬間であった。
唖然とする侑人の前で、帰宅準備を着々と進める侑人。侑人の事に全く気が付かず、いつもの行動をしている侑人。そんな侑人の姿を唖然とした表情で侑人は眺めている。
「俺は……侑人だよな」
ガラスに写った自分の姿を確認しながら侑人は呟く。
「実は双子だったとか?」
古い記憶から順番に呼び起こしながら確認するが、侑人は3人兄弟であり、生き別れた双子が居るなどという話は聞いた事が無い。
「おーい。お前は誰だー」
勇気を出して、でも小さな声で目の前の侑人に話しかけてみる……どうやら目の前の侑人にはこっちの声は聞こえていないようである。
もう少し勇気を出して、目の前にいる侑人の髪の毛を引っ張ってみる。不思議そうな顔をしながら周囲を見渡す侑人。どうやら触れられる感覚はあるようだが、こちらを認識出来ていないらしい。
「不思議な事もあるものだ……」
侑人は目の前の不可解な現象を認めつつも、原因を探る事を放棄して、準備を進めている侑人をぼんやりと眺めている。
目の前にいる侑人……便宜上侑人Bとでも呼ぼうか……の帰宅準備が終わったらしく、オフィスの出口に向かって、机の上に置きっぱなしになっていた先ほど侑人がまとめた荷物を持ちながら歩き始めた。
なんでお見合いなんて……などとぼやいている所から判断すると、侑人Bは侑人と全く同じ記憶を持っているようだった。
「ますます訳が解らん……」
同じ記憶を持っているという事は、双子や他人の空似ではないという証明になる。百歩譲って侑人の知らないところで実は双子が居て、誰かと共謀して侑人を騙して喜んでいると言う状況なのなら、納得は全然出来ないが理解は出来る。
ドッペルゲンガーという単語も頭に浮かんだが、『ドッペルゲンガーを見ると死期が近い』という民間伝承をあわせて思い出してしまった為、侑人は気が付かなかった事にする。
「あ!」
侑人はある事に気が付く。
「侑人Bがお見合いに成功してしまったら俺は一体どうなるんだ?」
それ以前に自分が二人居たら家族や周囲の人間が混乱しパニックになるのだが、そこにはとりあえず目をつぶろうと侑人は考え、目先のお見合いの成否という直接的な問題点のみに着目する。
「このまま放置すると、見ず知らずの女性と夫婦になる可能性もあるのか……さすがにそれは不味いな」
いくらお見合いをしたくないとは言えこのまま流されたままで、自分の人生が自分の知らないうちに勝手に決まる事態を、このまま見過ごすわけには行かない。
人生の岐路に立たされている事に改めて気が付いた侑人が、慌てて侑人Bを追いかけるべく出口に向かおうとした時、事態は再び動き始める。
『汝は何を望むか?』
先ほど感じた意識に直接呼び掛ける不可解な声が頭の中に響き、急に後ろから強い力で引っ張られる感覚を覚える。侑人はその力に対して必死に抵抗するが、自分の意思に反して視界はどんどん暗くなり意識も段々遠くなっていく。
『汝は何を望むか?』
侑人は遠くなっていく意識の中で、『一級建築士の試験も夏にあるし、驚異的な理解力が欲しいなぁ』などとぼんやりと考えている。
それに反応するかのように、謎の声が何か返事をしたような気がしたが、その事を確認する前に意識が完全に暗転し、侑人はこの世界から突如姿を消すのであった。
*****
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
瞼の裏に光を感じて意識を取り戻した侑人は、目の前に広がる光景を見ながら有名な純文学小説の冒頭の文章を何故か思い出している。何時の間にか時間は夜から昼に変化していたが、問題はそんな小さな範囲では収まらなかった。
三百六十度見渡す限りの春の木々。侑人が立っている周囲だけは少しひらけていて、頭上を見上げれば青空が、新芽を付けた木々の枝の隙間から覗いている。オフィスに居たはずの自分が、ふと気が付けば大自然に抱かれて佇んでいるという状況を受け止めるのには、かなりの時間を要しそうである。
そもそもここが何処なのか全く分からないので、国境を越えたのかどうなのかは謎だし、トンネルどころか、どうやって此処に移動してきたのか理解出来てはいない。そもそも周囲に雪がないので雪国ですらない。
自分が思い出した文章と目の前に広がる光景を比較検討してみたが、状況が変わるはずもなく、侑人は今後の対策を考える為にとりあえず現状を確認する事にした。
最初に状況。
まずはっきりと分かる事は、オフィスで変な声を聞いた事、気を失ったらこの場所にいた事……以上。逆に考えればそれ以外の事はまったく分からない。
空気は澄み切っているので、どこかの森の中であろう事は予想できたが、場所を特定できるものが周囲に何もない為どうしようもない。
次に体の状態。
手足を動かしてみるが異常はなさそうだ。頭を振ったり、体のあちらこちらを触ったりして確認してみたが、どこにも異常は無い。
むしろ普段より体が軽く、体調はいまだかつて無いほど良好である。
次に服装。
下着と肌着の上にチェックのワイシャツを着ていて、その上に濃紺のスーツをまとっている。そして左手には愛用の太陽電池の腕時計をはめており、いつもの仕事用の服装である事が確認出来た。
ちなみにロッカーに入れたままであった愛用のコートはどうやら着ていないらしく、周囲にも落ちていない。ボーナスで奮発して買ったお気に入りのコートがない事で侑人は少し凹んだ。
最後に持ち物。
スーツの内ポケットに財布があり、中身は……社会人としてどうなのかという金額しか入ってはいなかったが、まぁ二・三日の食事には困らない程度のお金が入っていた。
上着のポケットには携帯電話と百円ライターが入っており、とりあえず携帯電話を開いてみたがどうやら圏外のようである。携帯を開いたまま少し周囲をうろうろしてみたが電波は入らない。
分かったのは日にちと時刻だけであり気を失った日から数えて、その日の午前十一時を少し廻ったところだった。侑人はネットで見た事がある遭難マニュアルをふと思い出し、電池の節約のため携帯電話の電源を落とした。
タバコはちょうど切らしていて入ってはいなかったが、ごくたまに息抜きをする程度にしか吸っていなかったので困らないだろう。これを機会に禁煙しようと考えながら周囲を見渡すが、特に何も落ちておらず持ち物はこれだけである。
とりあえずよく判らない場所にいることを除けば昨晩のままであり、侑人はほんの少しだけ安心した。
侑人が現状の確認を終え、今後の身の振りをどうしようかと幾許か悩んでいた時、目の前の茂みがガサガサと揺れる。
狼はすでに絶滅しているはずだが、日本にはまだ熊が居る。野生の猪や猿であっても、襲われたらただではすまない事は、ネットやニュースで見ているので知識として持っていた為、侑人は警戒しながら茂みを見つめつつ少しその場から後退する。
ガサッ。
ひときわ大きな音を立て、その物体は侑人の前に姿を現した。体長五十センチ程のその物体は灰色の体毛で覆われていて、身体的特徴として前足が短く後ろ足が長い。瞳はつぶらであり、耳も長かった。
飛び出した物体は侑人もよく知るウサギのように見えた……頭の中央に角がなければの話だが。
「……角があるけどウサギだよな?」
侑人は半信半疑ながらも警戒を解く。『ウサギは警戒心が強く臆病であるので飼育には注意が必要だから兄貴達は近寄るな』と、数年前にウサギを飼っていた妹に力説された記憶があったのだ。
角があってもウサギはウサギ。侑人はそんな事を考えながら目の前のウサギに近づいたのだが、数秒後に後悔する事となる。
「キシャー!」
突如目の前のウサギ……いや、ウサギはこんなに怖くないから、この瞬間にウサギもどきと命名された生物は、侑人が数歩近づくと雰囲気をがらりと変える。
つぶらだった瞳が赤みを帯び、体毛が逆立ち始め、威嚇するような唸り声を上げる。どうやら怒っているらしい。
「そんなに怒らなくていいのに」
軽口を叩きつつも実は軽く怯えていた侑人は、ウサギもどきから少し距離を取る為に後ろを向いたのだが、その行動が侑人の明暗を分ける。
ボウッ。
後ろを向いた侑人の頭のすぐ右横を小さな火球が通り過ぎる。後ろを向いた際に頭の位置が多少ずれた為、頭への直撃を免れたのだが侑人はそこまで気が付いていない。
「なっ!」
あまりの状況に侑人の思考は停止したが、髪の毛の焦げたような異臭に鼻が刺激されて、幸いな事に一瞬で持ち直す。
恐る恐る右手で髪の毛を確認すると、頭を掠めた火球によって髪の毛の一部が焦げてチリチリになっていた。
まさかと思いつつウサギもどきに再度視線を送る。ウサギもどきの口から侑人に向かって火炎の小球が放たれたのを確認した瞬間、侑人は全速力でその場から逃げ出す。
この時侑人の中で、ウサギもどきは火炎ウサギもどきと名を変え、愛玩動物から危険生物へと格上げされた。
木々の間を駆け抜け侑人は疾走する。かれこれ三十分以上かなりのスピードで走っているのだが不思議と息が切れない。
元々体力はあるほうだったが、ここまでの身体能力を侑人は持ち合わせては居ない。普通に考えれば違和感を覚えるはずなのだが、今の侑人にそんな余裕などはない。
「こえー! まじこえー!!」
侑人は無我夢中で逃げ続けている。あまりのびびりっぷりに、火炎ウサギもどきがすでに追いかけて来ていない事すら気が付いていなかった。
そして火炎ウサギもどきと出会ってから一時間後、侑人は川のほとりで一人たそがれて……もとい、いじけていた。
「ウサギが火を噴くとは……危険生物を駆除しない国は、何をやっているんだ……」
ぶつぶつ文句を呟く侑人。
体育座りの姿勢で川に小石を投げながら、高い税金を払っていたのにとか、政権が変わったから悪いとか、呟き続けて現実逃避をしていた。
実は侑人は内心自分の置かれている非日常な状況と、自分が今居るこの世界の異常な状態に気が付いている。
不思議な声を聞いたと思ったら見ず知らずの場所に自分が移動していた現状と、自分が知る世界のウサギが火を噴くわけが無い事を合わせて考えると、どうも今自分が居るこの場所は日本どころか地球でも無さそうだという事を把握しつつあった。
――――異世界召喚。
侑人の脳裏にそんな言葉が浮かぶ。
子供の頃に憧れていたゲームやお伽噺の主人公の様に、強制的に世界の平和の為に行動を起こす義務でも背負わされたのだろうか。そもそもこういった非日常な世界に巻き込まれるのは、バイタリティ溢れる十代の若者だというのが定番のはずであり、少々くたびれ始めた自分を呼び出しても意味が無いのではないか。
もしくは今ここに居る事に何の意味も無く、この世界に紛れ込んでしまったのは単なる事故であり、戻る方法をただ探すだけの運命が待っているだけなのかもしれない。そうなった場合はどうやってこの世界の住人に、自分が異世界出身だという事を伝えれば良いのか見当も付かない。
そもそも戻る手段は有るのだろうか。もし戻れたとしても元の世界にいきなり現れた、もう一人の自分との兼ね合いはどうなるのだろう。
無事に元の世界に戻れたとしても、既に自分の居場所が無くなっている事も十分に考えられる。既にお見合いが行われている時間になっている事だし、ひょっとすると意気投合して将来の伴侶が決まっているかもしれない。
様々な疑問が浮かびあがるが、その疑問の回答となりそうな物は周囲に無い。深く考え込む侑人の頬を初春の少しだけ肌寒い風が静かに撫でていく。
色々と考えては見るものの、今後自分はどうなるのかという不安の方が大きく、思考が上手くまとまらない。侑人が現実を認めるまでにもう少しの時間が必要だった。
周囲の小石を全部川に投げる事さらに一時間。侑人はなんとか立ち直り、今後の身の振り方を考え始めていた。
「サバイバル生活には自信が無いし、とりあえずは町や村を見つけるしかないか」
くよくよしていても仕方が無い、暗くなる前に行動しようと立ち上がりかけた時、侑人の背後の茂みが、再びガサガサと音を立て始める。
「勘弁してくれ……」
侑人は泣きそうに……実際に半泣きしていた。
主人公が異世界に飛ばされちゃうなら、もう一人の本人が元の世界に残れば家族は心配しなくて良いじゃないか!の精神です。
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