第1話:微細な兆候
カタカタカタ…………。
濃紺のスーツを着た二十代中盤の男が、自分が作業する机の回り以外の電気が消えたオフィスで、一人黙々とノートパソコンのキーを叩いている。
三月になったばかりのこの季節は、太陽が顔を出している昼間であれば春の気配が感じられ、割と過ごしやすくなってきてはいるが、夜間となるとまだまだ気温は低く肌寒い為、大通りに面した窓は締め切られていた。
しかし締め切ったはずの窓の外からは、自動車のエンジン音や春の陽気に誘われた酔っ払い共の騒がしい声が時々男の耳に届き、その事が静まり返ったオフィスの中で一人作業しているという今の状況を如実に感じさせる。
「そろそろ切り上げないと、実家に着くのが夜中になるな……」
彼はそんな雰囲気のなか、溜息をつきつつノートパソコンの右下の時計に目を向ける。時刻はすでに二十二時に差しかかろうとしていた。
「はぁ……気が重いな……」
今日は金曜。古い表現で言えば花の金曜日……略して花金。彼自身も半年前まで遡れば週末のこの時間は、友人や仲間と飲みに行ったりプライベートでの有意義な時を過ごしていたりと悠々自適な生活をしていたのだが、ここ半年の間はそんな事をする時間が全く取れない状態が続いていた。
ちなみに彼の勤めている会社の業務時間は十八時迄であり、特に忙しい状況でなければ定時で上がっても文句を言われる事は無い。しかし『特に忙しい状況でなければ』の部分がかなりの曲者であり、かなり忙しい彼は楽しいはずの金曜日の夜に四時間近くも残業している。
しかし彼の心を重くしているのは残業のせいではない。
彼の働く会社は全国展開している住宅メーカーであり、彼は設計と施工現場管理に携わっている。半年前までは不景気の影響で仕事が半減し、早期退職の募集やリストラ勧告の嵐が社内を吹き荒れていたのだが、今の状況はがらりと変わっている。
少し景気が良くなって来た彼の会社は、人員整理のせいで逆に人が足りなくなりかなり忙しい。週の半分は午前様になるのがあたりまえの状態となっており、彼は残業する事に対して全く抵抗が無くなっている。先を見越せない上層部の先見の明の無さのつけを払わされてしまっている状態なのだが、人の良い彼はすっかり会社に飼いならされてしまっていた。
「行かないって選択肢はありえないんだよな……」
誰も居ないオフィスで、彼は数日前の出来事を思い返していた。
――――数日前。
『来週の土曜日お見合いだから、何があっても実家に帰ってきなさい』
「……」
数少ない休日の朝早くに突然電話でたたき起こされ、ただでさえ頭が廻っていない状態で予想外の言葉をぶつけられて彼は混乱していた。しかし電話口の相手はそんな彼の状態などお構い無しに話を続ける。
『相手のお嬢さんは私の知り合いの娘さん。私も会った事があるけど性格も良いし、見た目も凄く綺麗であんたには勿体無い位のお嬢さんよ。母さんもあの娘なら安心して侑人を任せられるわ』
「……は?」
『あー、相手方も小坂さん家の長男さんなら安心だと乗り気だから、あんたは全然心配しなくていいわよ……って、あんた話し聞いてるの?』
「……へ?」
あまりの事態に状況をまったく把握できない侑人。
母親から立て続けに紡ぎだされる怒涛の言葉の嵐を前にして、パニックになりつつある思考を無理やり抑えて何とか言葉を紡ぎだす。
「見合いって誰の?」
『あんたの』
再度思考停止……いや停止はまずい。
どうしてこういう状態になっているのかは理解できないが、このままだとなし崩し的にお見合いをさせられてそのまま結婚させられてしまう。そんな事を侑人は本能的に察知して反撃を開始した。
「なんで二十七歳でお見合いなんてしないとならないんだよ!」
『あんただけ良い話が無いから心配なのよね』
「……」
母親の言葉が侑人の心に深く突き刺さり、反撃はあっさりと終了する。
侑人には二つ下の弟と五つ下の妹が居る。侑人はどちらかというと内向的な性格なのだが、下の二人はかなり外交的な性格をしていた。
しかも下の二人にはすでに将来を誓い合った相手が存在している。侑人も学生時代には彼女がいた事もあったが、社会人になってからは一度も浮いた話が無く、母親の言葉は侑人の心に深く突き刺さった。
弟はすでに入籍をしている。というより入籍しなければならない事態を自ら引き起こしたのだ。結婚式はまだ執り行っておらず今年の夏に挙げる予定である。
正月にぽわぽわしたかわいい感じの女性を突然家に連れてきて、結婚すると急に宣言した時には家中がお祭り騒ぎになった。
秋にはパパになると続けて言いだした時、親父は唖然とした後激怒し母親は呆然とした後卒倒した。新年の挨拶で集まっていた親族を巻き込んで親族会議になりかけたのも良い思い出だ。
その後も様々な紆余曲折があったのだが、つい先日うちの両親と相手方の両親が親族挨拶の席で顔を合わせ、そのまま意気投合し今では良い飲み友達になっているとの事なので、これ以上の問題はもう起きないはずである。
妹はこの春に大学を卒業し都内の企業に就職する事が決まっている。そしてそれを機会にして高校から付き合っている彼氏と同棲を始めるらしい。
侑人の脳裏に『二人でお金を貯めて数年後には結婚するんだ』と、彼氏の横で嬉しそうに話す妹の顔が思い出される。娘に甘い親父がよく同棲を許可したなと弟と二人で感心していたが、それは彼氏の人徳の賜物であり、親父も認めざるを得なかったのであろうという結論に落ち着いている。
兄馬鹿の入った侑人の多少厳しめな目線からみても、妹の彼氏は非常に出来た男である。容姿端麗・成績優秀で大学も東京の有名大学に現役で合格し、おまけに学力がやや足りなかった彼女である我が妹を、同じ有名大学に現役合格させたほどの指導力を併せ持っている。
ちなみに妹が彼氏と同じ大学に受験すると言い出した時、家族全員で受験に失敗した妹をどうやって慰めればいいのかという議題で対策会議を開いた。結果的にこの会議は無駄になったのだが、対策会議を開いた事は妹に対しての永遠の秘密である。
おまけに非常に性格も良く浮気など絶対にしない。『良い男なんだから浮気の一つや二つあるだろう』と、軽い気持ちでからかった彼女の実の兄達に、どれだけ自分の彼女がすばらしいのかという話を延々聞かせ、最終的に全面的な謝罪を勝ち取った剛の者でもある。
あの日は朝まで語られ、黄色い太陽を眺めながら仕事に向かった。ある意味トラウマになっている出来事である。
『……侑人? おーい侑人?』
とまあこんな感じで、二つ下の弟と五つ下の妹はすでに落ち着きそうな環境になっている。長男の自分だけがいまだにフラフラし、落ち着いていない事に対して侑人も少し気にはしていた。
大方心配性な母親がふらふらしている長男を心配して、お見合いの話を持ってきたって所だろうが、それにしても突然すぎる。
『もしもーし! あんた話聞いてるの!?』
「はっ! あ、ごめんごめん、少し考え事してた」
『それならいいけど……で、いまさら聞くことじゃないけど、あんた今付き合っている人とか居るの?』
「聞かないでくれ……」
そういった人は居ないがまだ結婚など考える状態ではないと、暴走する母親相手にこの後三十分ほど孤軍奮闘したが、息子の為と強く思い込んでいる母親の翻意を促すことは出来なかった。
最後に藁をも掴む気持ちで親父に電話を変わってもらう。電話口でなにやら親父と母親が話しているのが聞こえる。
待つ事数分、ようやく電話口に出た親父からは
『諦めろ』
との力強い一言を頂き、続けて
『時間は土曜日の十一時だ』
と伝えられ、そのままこちらの返答を待たずに電話が切られる。侑人の抵抗がすべて徒労に終わった瞬間であった……。
――――現時刻。
「はっ」
ノートパソコンの右下の時計に目を向けると二十分ほど時間が過ぎていた。物思いにふけりすぎて軽くトリップしていたらしい。
「そろそろ切り上げて出発するか……でも何か眠い感じもするしどうするかな……」
誰に聞かせる訳でもなくそうつぶやく侑人。実家までは車で片道一時間半ほどの距離であり、今この瞬間に出発すれば計算上では今日中に着けるはず。
侑人はそのまま出発するかどうか少し悩んだのだが、最終的には仮眠してから出発することに決め、椅子を並べてその上に身を横たえる。
その瞬間に不可解な出来事は起こった。
『………を……むか?』
不思議な声が頭の中に響き渡り、何とも言えない感覚が侑人を突然襲う。
理解出来ない出来事が身に降りかかって来た侑人は、慌てて椅子から飛び起きて訝しげに辺りを見回す。しかし周囲の景色は普段と全く変わらないオフィスのままであり、違和感を覚えるような部分は一つも無い。
しかしその事が逆に先ほどの出来事に対する不気味さを如実に感じさせ、侑人の鼓動をほんの少しだけ早くする。
「気のせいか……寝よ寝よ」
侑人は嫌な雰囲気を断ち切るかのように少し大きめの声で独り言を呟き、再度椅子の上に身を横たえる。静かなオフィスに椅子の軋む音だけが響く。
気が高ぶって眠れない事を少しだけ危惧したが、蓄積していた疲労が急速な眠気を誘い、侑人の意識は徐々に夢の世界へ向かって旅立っていく。
『………を……むか?』
意識が途絶える瞬間、再度不思議な声が脳裏に響き渡る。しかし侑人はその声に反応する事無く眠りに落ちていくのであった。
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