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第0話:マグナマテル


 大地の神、豊穰ほうじょうの神に祝福された世界。

 神々に祝福された大地に根を下ろした様々な種族は、何時からかこの世界をマグナマテルと呼称し、豊かな大地に国を建て、繁栄し、争い、衰退し、滅亡し、国を建て……幾星霜いくせいそうに連なる悠久の歴史を紡いでいた。

 人族の王を掲げ人族が中心となって統括する国、エディッサ王国。
 建国以来、千五百年の歴史を誇るエディッサ王国は、二千年程前に誕生したマグナマテルの中心的な宗教の一つである『ハルモ教』を国教と定め、同じ様にハルモ教を国教と定めている王国の集合体『ハルモ教法王庁教圏国家群』の中心的な役割を果たしている。

 そのエディッサ王国の北に位置するハルモ教の聖地『ハルモ教正教会』に、一人の賊が侵入した瞬間から物語は始まる。




「はぁ……はぁ……」

 ハルモ教正教会。
 敬虔なハルモ教信者の聖地として千年を超える悠久の時を刻み、その長い歴史の中で無数の増改築を繰り返している壮大な建築物は、年を追うごとに内部の構造が迷宮のように複雑化し、教会に勤める神官でさえ年に数名が迷い、時には遭難するとまことしやかに囁かれていた。

 そんな無限回廊化した様相を呈しているハルモ教正教会内部にある、冷たい大理石で囲まれた長い一本の廊下を、周囲に気を配りながらも無我夢中で駆け抜ける一つの影がある。
 耳を澄ますと遠くから聞こえてくる複数の金属音、甲冑の金具や携帯する武器が擦れる無機質な音が、その影に対する多数の追っ手の存在を如実に知らしめている。

「警戒はしていると思っておったが……予想以上じゃった……わらわのミスじゃな」

 所々刃の欠けた血糊のついた剣を忌々しそうに見つめる紅い双眼。
 彼女の眼は今の状況に対してというより、この状態に陥らせてしまった己の軽率な行動に対して怒りに震えているようだった。

 年の頃は十六・七歳といったところだろうか、漆黒の軽鎧に身を包んだその肢体は、同年代の若者と比べてかなり華奢きゃしゃといっていいだろう。
 事実、膂力りょりょくだけを比べれば同年代の若者より大きく劣るといっても過言ではなく、多少の剣技の心得はあるがそれだけでは到底身を守ることも出来ない。

「しかし忌々しい仕掛けじゃ」

 彼女の最大の武器は剣技などでは無く、膨大な魔力量とそれを操る天性の才能である。
 本来であれば周囲に発散される魔力の凄まじさが外見の華奢さを大きくを裏切り、外見とのアンバランスさと相まって異彩な存在感を放っていた。
 しかし今の彼女から発散されている魔力は、一般の魔道士から感じられる魔力の十分の一にも満たない微々たる量であり、その事が彼女を窮地に陥らせている原因だった。

 一月半ほど前に彼女は、ハルモ正教会に伝わるとある重要な伝承の調査の為、エディッサ王国に単身で忍び込む事を勝手に決め、両親を含めた周囲の者達に向かって突如宣言をした。
 その際、彼女の両親を含めた周囲の者達は良い顔をしなかったが、軽率な行動を控え目立たないように行動する事を条件として、彼女の申し出を渋々許可したのだが既にその条件は守られていない。

 彼女も忠告に従い潜入当初は目立った行動をしないように心掛けていた。
 しかしエディッサ王国内の城下町で有用な情報を掴めなかった事に苛立ちを感じ、強引にハルモ教正教会内に忍び込んだのは完全に彼女の独断である。

「むぅ……わらわともあろう者がこそこそ逃げまわる羽目になるとは」

 通常であれば逃げる事はもちろんの事、百の兵を撃退する事ですら彼女の膨大な魔力の前ではたやすい。しかしその事実が彼女の驕りや慢心に繋がっていたのは否定できない。

「この仕掛けを施した者は、絶対に性格が捻じ曲がっておる!」

 ハルモ教正教会の中は強力な魔術封じの結界が仕掛けられていた。
 強力な結界が仕掛けられているハルモ教正教会の中では、多少の身体強化を自身に掛けることが彼女の膨大な魔力をもってしても精一杯であった。
 とはいえ結界内で多少とはいえ魔法を使う事が出来るのは、教会関係者から見れば異常な事態である。普通の者なら魔力を発散する事すら不可能であり、彼女の魔力量が尋常では無いから出来た行為である。

「とはいえ……どう考えてもわらわの不手際じゃな」

 国家の重要施設に何らかの対策が仕掛けられているという事は、少し考えれば簡単に想像できる事であり、それに対して何の対策もせず忍び込んだ事は、彼女の過失であることは疑うべくも無い事実であった。

「なんとかここから脱出する手はずを考えなければ、父上や爺に会わせる顔が無いの」

 天窓から見える重なりかけた二つの月明かりを見ながら、彼女は死地に生を得ようと思考を走らせ自分の状況を再確認する。

 逃げるのに邪魔だった視界を遮る兜はすでに投げ捨て、露になった長い紅い髪は汗と返り血で額に張り付いている。体を覆う軽鎧は所々傷つき、体中のあちらこちらには細かい切り傷が出来て出血している。
 そして最悪なことに左の上腕は深く切られ、魔力をほぼ封じられている現状では止血もままならない。応急処置で強く巻いた布の上からもとめどなく血が滴り落ち、もはや感覚はほとんど無い。このままではあと数刻ほどで失血による昏倒は免れないであろう状況である。

「状況は悪いを通り越して最悪じゃな」

 クーラント魔国の第一王女、ヴァンパイア族のアンジェリーナ・ヴィヘルム・ケトラーは誰に聞かせる訳でもなく、一人暗闇の中で自虐的に呟くのであった。

 数刻後、アンジェリーナは最悪な状況を打開すべく行動を開始する。何も行動を起こさなければ死は静かに、しかも確実に彼女を訪れる。
 悪あがきでも良い、何か行動しようと判断した彼女は、細心の注意を払いつつ、追っ手が居ないであろうと判断した教会の奥へ向かい進み始める。

 注意深く周囲に気を配りながら回廊をゆっくりと進む。あわよくば隠し通路などの脱出経路が発見できれば生還できるのだが……そんな事を彼女は考えながら進んでいた。
 注意深く進むアンジェリーナの目に、不意に回廊の一部の不可解な光が飛び込んでくる。目を凝らしてよく見れば回廊の一部の床が不可解に光を帯びている。無我夢中で駆け抜けて居れば見落としていたであろうほどの淡い光であった。

「何か仕掛けがあるかもしれんの」

 彼女は警戒しながらも、おそるおそるその床に手を触れる。しかし彼女の予想に反して触れただけでは何の変化も無い。

「何か魔術的な仕掛けがあるように感じたが……わらわの勘違いだったかの?」

 光る床から意識を外し再度周囲に気を配るアンジェリーナ。
 しかしそんな彼女の言葉や行動をあざ笑うかのように、左腕から滴る血が光る床に触れた瞬間、まばゆい光が周囲を包み込みアンジェリーナの姿は長い回廊から突如消えうせた。




『………か?』

 誰かが呼び掛けている。

『……は……むか?』

 意識に直接呼び掛ける不可解な声を無意識に感じ、アンジェリーナは意識を取り戻す。

「ここは……?」

 辺りは完全な静寂に囲まれている。
 アンジェリーナはそっと体を起こしゆっくりと周囲を見回す。大理石で作られた部屋は大きな祭壇を中心とした半円形の形をしており、祭壇の上の蝋燭には炎が灯り淡い光を放っている。祭壇の正面には大きな神の像が祭られ、その左右には天使の像が傅くように控えていて荘厳な雰囲気を醸しだしていた。
 そして彼女の背後にはこの部屋への唯一の出入り口である、華美な装飾が施された大きな扉が見える。どうやらここは礼拝堂のようであった。

「異国の神の祭壇か」

 アンジェリーナはそれらを横目で眺めつつ、忌々しそうに一人呟く。
 ハルモ正教会に伝わるとある重要な伝承の調査の為には、必ず立ち入らなければならない部屋ではあったが、実際に目の当たりにすると様々な感情が巻き起こり、上手く気持ちが制御出来ない。

「こやつが余計な事をしたせいで我が国は……」

 ハルモ教に伝わる有名な伝承。
 八百年以上前に神からマグナマテルの大地に異世界より使わされた、黒髪の勇者『クロウ・ミナト』の物語。勇者の鬼神のような活躍により、世界に平和がもたらされたという英雄譚である。
 そしてその物語は、クーラント魔国討伐戦を主な舞台として、クーラント魔国から虐げられていた人族を解放する聖戦という位置づけで語り継がれていた。

 しかしクーラント魔国側からすれば、クロウ・ミナトが現れてからわずか数年で領土の半分を奪われたという屈辱の歴史が刻まれた物語であり、クーラント魔国の第一王女、アンジェリーナにとってもそれは同じ事である。

 ハルモ教法王庁教圏国家群からすれば華々しい栄光の歴史として、クーラント魔国の全ての領民にとっては忌々しい過去の汚点として、この伝承は語り継がれられている。
 もっともクーラント魔国にとっては勇者などではなく、異界の悪鬼として語られていたのだが、問題なのはそこの部分ではない。

「再度光臨する……か」

 ハルモ教に伝わる伝承には続きがある。『世が乱れ大地が嘆く時、二つの月が重なり異界の勇者が再度光臨する』という一文が書かれている事は、マグナマテルの万民が知る事であった。

 マグナマテルは今、群雄割拠の時代に差し掛かっている。ハルモ教法王庁教圏国家群、グランツ帝国、ファーディーン帝国、ヴァロア共和国、そしてクーラント魔国。各々の勢力が大陸の覇権を賭け、しのぎを削っている。
 そして夜空に輝く二つの月が重なるのは八百と数十年に一度の現象。天文学者によれば、あと数日のうちに完全に重なると予測されている。

 現在のマグナマテルの状況は預言書の伝承とあまりに似すぎていた。

 今回アンジェリーナがエディッサ王国に忍び込むきっかけとなったのも、この伝承の確認がクーラント魔国にとっても急務と考えられたからである。とはいえ第一王女が自ら潜入すると言い出した事に対しては、多数の反対があった。
 しかし彼女の能力の高さが国中の誰もが認めるものであり、彼女の能力を持ってすれば任務の成功の確率が大いに上がるという厳然たる事実と、言い出したら聞かない彼女の頑固さを知っている彼女の父親が説得を諦めた事が重なり、あまり軽率な行動は控える事を条件にしぶしぶ認めたのだが、現実はなかなか厳しい。

「まったく……見れば見るほど忌々しいの」

 アンジェリーナが再度呟いた時、不可解な声がまた聞こえる。

『汝は…を……むか?』

 意識に直接呼び掛ける声が段々とはっきりしてくる。不可解な現象にアンジェリーナは思わず声を上げる。

「誰じゃ!!」

 剣を構え警戒しながら周囲を見渡す。部屋全体を見渡したが気配は無く、辺りはひっそりと静まり返っている。
 過度の緊張と疲れ、そして失血が起こす幻聴の類だと判断し、アンジェリーナが警戒を少し緩めたとき、今度ははっきりと彼女の頭の中に言葉が響いた。

『汝は何を望むか?』

 理解をはるかに超えた状況に、アンジェリーナの警戒心は一気に高まる。剣を強く握り締め、不測の事態にも即座に対応できるよう構えを取りながら、彼女は慎重に謎の声に尋ねる。

「お前は誰じゃ?」

 アンジェリーナの問いかけに明確な返事は無く、返事の代わりに同じ問いかけが彼女の頭の中に響く。

『汝は何を望むか?』

 アンジェリーナがハルモ教の敬虔な信者であったのならば、教会の礼拝堂で意識に直接呼び掛ける謎の声が聞こえるという、一種の奇跡じみた出来事を神の奇跡として大いに歓迎して、ひょっとしたら涙を流して感動したかもしれない。
 しかし彼女の立場は敵対する魔国の姫。仮に神の奇跡だとしても所詮は異国の神。このどうしようもない不愉快な茶番に早々に蹴りをつける為、彼女はその問いにぞんざいに答える。

「どこの誰かは知らぬが、そんな事を聞いてどうするつもりじゃ?」

 またしてもアンジェリーナの問いかけに明確な返事は無く、返事の代わりに同じ問いかけが彼女の頭の中に響く。

『汝は何を望むか?』

 どうもこの謎の声の主はこちらの質問には答える気が無いらしい。そう判断したアンジェリーナは一方的に問いかける無礼な声に対して、声を荒げて宣言する。

「わらわの望みは、この死地よりどんな形でも良いから生還する事だけだ! 侵入者の望みを叶えられるものなら叶えてみろ!!」

 アンジェリーナの荒々しい怒気が含まれた声が礼拝堂の中に響く。不思議なことに謎の声の問いかけは突如止まり、辺りは不気味なほどの沈黙に再度包まれる。
 何か予想外の出来事が起こっても即座に対応できるように、彼女は最大限の警戒をしながら周囲を見渡していたが、何かが起こる気配を全く感じられない。

「ふっ……所詮は異国の神。望むだけ無駄なことじゃの」

 アンジェリーナは軽蔑の眼差しをしばしの間だけ異国の神の像に向けた後、くるりと神の像に背を向け礼拝堂の扉に向かい歩を進め始める。
 とんだ茶番であったとぶつぶつ文句を言いながら扉に向かうアンジェリーナの後ろで、神の像が段々と淡く光り始めた事に彼女は気がつかなかった。

 ギギギ……

「何者だ!?」

 先ほどの茶番劇で若干緊張感を欠いていたアンジェリーナは、無警戒に礼拝堂から出る扉を開け放ってしまう。
 扉を開ける時に響く重厚な音を、間の悪い事に侵入者を探し警戒していた教会を守護する聖騎士隊の小隊に聞かれてしまったのだ。

「ちっ……しまった」

 どんどん近づく複数の金属音。もはや一刻の猶予も無い。回廊の左側から音が近づいていると判断したアンジェリーナは、無我夢中で回廊の右側へ向かって逃走を始めた。

 アンジェリーナの逃走劇は不可解な幸運が重なる。
 まず幸いな事に回廊の右側は警戒する聖騎士隊の数が少なかった。まれに多数の聖騎士隊と鉢合わせしてしまっても何故か直ぐに他の逃走経路が見つかり、難を逃れる事が出来た。
 逃げ道が無く戦闘を覚悟した時は相対する兵の数が少なかったり、また練度がかなり低く軽くあしらう事が出来たりと、不思議で不可解な幸運が度重なり彼女は無駄な体力の浪費を避けることが出来ていた。

「案外あの声の主は、お人好しの神だったのかもしれんの」

 徐々に失われる血の影響で疲弊しながら、アンジェリーナはそんな事を考えている。
 闇雲に逃げ回っているだけの自分の行動が全部良い方向に進んでいる事を、偶然という一言で片付けてしまうのは簡単な事ではあるが、先ほどのやり取りと今の状況を考えると、謎の声の主が望みを叶えてくれたとも考えられる。

「感謝はしてやるかの……あっ! 出口じゃ!」

 数刻の逃走劇の後、彼女はテラスを見つけ外に飛び出した。幸いな事にテラスの外は魔術封じの結界の効果が及ばないようである。
 多量の出血のため魔力は枯渇しそうになっていたが、彼女を追う聖騎士隊はすぐ後ろに迫っていて一刻の猶予も無い。彼女は最後の力を振り絞り蝙蝠に擬態する。

 進入者を取り逃がした聖騎士隊の苦悶の声を背に、蝙蝠の姿に変化したアンジェリーナは、南西の方角に飛び去っていく。
 朦朧とする意識の中、死地から脱出する事に精一杯だった彼女は、自らの体が淡い光を放っている事に気が付かなかった。

 明朝、エディッサ王国の国王、ジョシュラン・アンテオキア・ブローニュの元に、ハルモ教正教会に賊が侵入した事、そしてその賊が不思議な淡い光を放つ蝙蝠に姿を変え、セルビナ王国との国境方面へ逃走した件が報告された。
 エディッサ王国のジョシュラン王の勅命により、ハルモ教法王庁教圏国家群全域で、ハルモ教正教会潜入犯の捜索が大々的に行われるのは、これから数日後の事になる。




――――とある遠い世界の出来事

 今回の事件が、遠く離れた別の世界で暮らすある男の運命を大きく変える事になるのだが、その事に気が付いた者は誰一人として居ない。
 二つの世界はその瞬間に向かってゆっくりと時を刻んでいる。どう足掻いても避けようの無い未来が静かに、そして確実に忍び寄って来ていた。

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