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決してこない、いつかという日
作:浅葉りな


 舞い散る桜は、涙に似ている。夜桜は特にそうだ。
 月影の下、薄ピンクの涙を浴びながら、その人はそこに立っていた。なにをするでもなく、立っていた。
 闇に沈む校舎。校庭。そしてその片隅に生えている桜の大木。
 その人は白い綿着を着て、袴をはいていた。闇の中に、桜の薄ピンクと綿着の白だけが、浮かび上がっていた。
 夜闇。月。桜の花びら。その人の、白い綿着。
 どれも、きれいだ――そう、佑は思う。けれども、佑は、そんなものはどうだっていいとさえ思っていた。
 佑は、その人を見ていたのだから。その人の頬を伝う、涙を見ていたのだ。
 その人はある一点を、じっと見つめている。別に悲しげではない。それなのに、ひと筋、涙を流していた。
(どうして、泣いているのだろう。どうして、あんなに透明な涙を流すのだろう)
 佑は数度、まばたきした。
(でも――きれいだ。とても)

   *

「――できた?」
 和馬先輩がディスプレイをのぞいてくる。ぼくはあわてて、ディスプレイを手で隠した。
「できましたっ、できましたから! 恥ずかしいから、まだ見ないでくださいぃっ!」
 冗談じゃない。こんなものを見られたら身の破滅だ。
 だって、ぼくが今書いていたのは、ぼくと和馬先輩をモデルにした恋愛小説。名前は佑と和樹って変えてあるけれど……多分、和馬先輩に見られたら、すぐばれるだろう。今までに書いてきたことは、だいたいが事実だし。
 ぼくが和馬先輩を好きだってことがばれたら、困る。
 ぼくは今の文書をフロッピーに保存してから、別の文書を開いた。プリンターに紙がセットされているのを確認して、印刷をはじめる。やっぱり、あれを部誌に載せる勇気は、ない。
「あの、すいません。こんなに遅くなっちゃって」
 ぼくはうつむく。
 明日は、先輩方が卒業する日なのに。最後まで迷惑かけちゃうなんて最低だ。だから、和馬先輩にも嫌われるんだ。
 ここは文芸部の部室。年に一回発行している部誌の編集が終わらなくて、午前授業だったっていうのに、ぼくはこうして居残りをしている。
 他のページは全部できているのに、ぼくの原稿ができていなくて……。
 本当に、明日の卒業式が終わったあとで先輩方に渡せるのかって途方に暮れていたところを、面倒見のいい和馬先輩は手伝いを申し出てくれたんだ。大好きな先輩と密室にふたりきりなんてすごく嬉しかったけど、それ以上に申しわけなかった。
「いや、いいよ、暇だったから」
 和馬先輩が優しく笑う。白い歯がこぼれる。
 胸がきゅうんとしめつけられる気がした。ああ、ぼくは和馬先輩が大好きだ。嫌われていたとしても。
「ありがとうございます」
 ぼくもつられて笑った。切ない笑み、だったけれど。多分和馬先輩は気づいていない。
 ――そう。
 ぼく、木村悠一は、森末和馬先輩に恋をしている。
 けれども、それは、明日終わる。先輩の卒業式の日に。
 思い出す。先輩とはじめて出会ったのは、春。そして別れが訪れるのも、春。
 ぼくは春に嫌われているに違いない。先輩に出会いさえしなければ、こんな想いはしなかっただろう。

   *

 はじめて先輩に会ったのは、春。桜の散る頃だった。
 ぼくは文芸部の部室で居眠りしちゃって、帰ろうとしたときには外はもう真っ暗だった。細い月が出ていて、星のきれいな夜だったことを今も覚えている。
 靴をはき替えているときに、ふと、校庭の桜が目に入った。花びらを降らせている桜の下に、誰かがいるのに気がついた。
 誰だろうって思って、ぼくはこっそり近づいてみたんだ。物陰に隠れて。
 桜の下にいたのは、和馬先輩だった。桜を見上げて、泣いていた。
 弓道のときに着るような、袴姿だった。先輩は背が高くって、袴がすごく似合っていた。
 禁欲的っていうのかな。厳しい雰囲気があったから、そのとき、ぼくは声をかけられなかったんだ。
 そうして見ているうちに、和馬先輩は、静かに立ち去ってしまった。でも、ぼくはそこを離れられなかった。
 当時のぼくは、先輩のことをなにも知らなかった。それなのに、気になって気になって仕方なくって……。
 一瞬で恋に落ちるってことは、本当にあると思う。
 ぼくが、先輩は森末和馬っていうことや、弓道部の副部長だってこと、目立たないぼくとは違ってすごく人気者なんだってことを知ったのは、もっとずっとあとのことだった。



「文芸部ってここかな?」
「えっ……あ、はい、そうです。ようこそ文芸部へ!」
 ぼくは驚いて、いすを倒しながら立ち上がって、上ずった声を出してしまった。
 ドアを半分開けて、顔をのぞかせていたのは、桜の下で泣いていた人、だったから。
 その頃ぼくは、もう、和馬先輩のことは知っていた。和馬先輩はぼくのことなんか知らなかっただろうけど。
 もう、どうしてこんなときに誰もいないんだ!
 ぼくは頭をかきむしりたい気分だった。文芸部は掛け持ちの人が多くて、放課後、部室には入ったばっかりの一年生、つまりぼくしかいなかった。
「あの、どうぞお入りくださいっ」
 部室にある中で一番上等な、背もたれのあるいすを出してくる。ハンカチを敷いて、和馬先輩の前に置いた。
 そんなぼくを見て、和馬先輩はくすり、と笑った。
「ありがとう。でも、こういうのは彼女にやってあげた方がよくない?」
 先輩は、ハンカチをたたんで返してくれた。そのときちょっと手がさわって、ぼくは奇声を上げてしまいそうになる。
「彼女なんていませんよ……ここ、男子校じゃないですか。自分にいるからって、からかわないでください」
 ぼくは内心の動揺を押し隠して言った。
「やだな、俺はずっとフリーだよ」
 だったら、ぼくにも望みあるのかな。勝手に期待してしまう。
「――えっと、先輩、どうしてここに来られたんですか?」
「入部したいんだ。いい?」
 和馬先輩はさらりと答えた。ぼくが「先輩」って呼びかけたこと、少しも気にしていないらしい。
 それはさておき、ここ、私立青林学園では、部活の掛け持ちは自由だ。その辺は、個人の裁量に任されている。
 でも、和馬先輩の所属している弓道部は厳しいって評判の部。しかも和馬先輩は弓道部の副部長。いくら文芸部が忙しくない部活だっていっても、両立するのはつらいと思う。
「実は、前から興味はあったんだけどね……。なかなか踏ん切りがつかなくてね。弓道部のほうも、三年生になったから、少し余裕ができたし」
 ぼくがなにも言えずにいると、和馬先輩は言いわけするみたいにつけ加えた。
「多分、新入部員は大歓迎だと思います。えっと、これが入部届で……」
 ぼくはとんでもなく動揺していた。いつもよりも大げさな動作で、辺りを散らかしながら入部届を見つける。ペンを添えて差し出した手は、アル中みたいに震えていた。



 ぼくは下を向いたまま歩いていた。
 だって、隣には和馬先輩がいるんだ。辺りには人気もなくて……正真正銘、ふたりっきりだし。
 和馬先輩が文芸部に入部してから三ヶ月、季節はもう秋だ。
 ぼくと家と和馬先輩の家が同じ方向にあるってことがわかってから、ずっと、ぼくたちは帰路をともにしている。
「悠一はなにかやりたいこととかあるの?」
 和馬先輩に名前を呼ばれるだけで、ぼくはもう爆発しそうになってしまう。赤面はしなくなったけど、動悸・息切れなんていう病気みたいな症状は治りそうにない。
「え……特には、まだ。そういうこと、全然考えてないんです」
 和馬先輩の受験が近づいてきたこの時期、話題は勉強のこととか将来のこととかが多かった。
 和馬先輩はぼくと違って本当に頭のいい人だから、そういう話をするのは楽しい。ぼくは優等生って言われてはいるけど、記憶力がいいだけなんだよね。だから、ちょっと和馬先輩がうらやましい。
「そっか。まだ、一年生だしね」
「これじゃいけないって思うんですけど。先輩は工学がやりたいんでしたっけ?」
 答えはわかっているのに、ぼくは首を傾げて訊ねた。
「ロボット工学をね。人間そっくりの、思考できるロボットが作りたいんだ」
 先輩はロボット工学のことと弓道のことを話すとき、本当に楽しそうなんだ。
 こういう言い方って失礼かもしれないけど、子供みたいで可愛いと思う。先輩のこんな表情を知ってる人って少ないんだろうな、と思うと、ちょっと幸せだ。
「人間そっくりのロボットなら作れるでしょうけど……思考する、なんて難しそうですね」
「そうだけどね。でも、夢なんだ」
「将来、完成したら見せてくださいね」
 夢がかなうといいですね、と思いながら、ぼくは別のことを言った。
 ぼくは、和馬先輩にとってはただの後輩でしかないから。そんなこと、言えない。



 ――先輩が、渡米する。
 それを聞いたのは、つい最近のことだった。一番寒い時期もすぎて、そろそろ暖かくなってくる頃。
「あれ、知らないの?」
 一緒に弁当を食べていたクラスメート、山岸透が首を傾げた。
 透はちっちゃくてふわふわしてて色素が薄くて、砂糖菓子みたいな雰囲気がある。首を傾げるって動作ひとつ取っても、とんでもなく可愛らしいんだ。
 無粋な連中からは『双子のお姫さま』なんて呼ばれてるぼくたちだけど――聞いたところによると、可愛いところが共通だから、なんだって。ぼくなんか全然可愛くないんだけどね。銀フレームのめがねはかけてるし、どんくさいし――実は一番の友達なんだ。
「悠くんって、和馬先輩とは仲いいんでしょ? それなのに聞いてないの?」
「う、うん……そうだけど……」
 売店で買ってきたパサパサのたまごサンドをかじりつつ、ぼくは歯切れの悪い返事をした。
 だって、本当に、聞いてないんだ。部活で週に一度は顔をあわせてるっていうのに。帰りだってほとんど毎日一緒なのに。
 もうぼくは、叫びだしたい気分になっていた。
 もちろんここは教室だし、人がたくさんいるからそんなことしないけどね。
「ヘンなの。ね、それでどうするの?」
 透の吐息がぼくの耳をくすぐる。やわらかい髪の毛も耳のうしろをなでるものだから、ぼくは首をすくませた。
「どうするもなにも、別になにもしないつもり」
「え〜〜〜〜! なんでっ!?」
「なんでって、それが普通だから……」
 ぼくは耳を押さえた。
「普通? 普通とかなんとか、それってヘンだよ。好きなら好きって言わなきゃ。男同士だからって幸せになれないなんてこと、ないんだからね」
 ひそひそと、でも強い調子で透が言う。
「現に、ぼくだって……だし」
「まあ……そうだけど」
 ぼくは息を吐いた。
 透には男の恋人がいるんだ。相手は家の近所にある和菓子屋の跡取息子らしい。
 ふたりは、ちょうど今、幸せの絶頂らしくって。ぼくはよくノロケ話を聞かされている。
 そういうのを聞くと、元気は出てくるんだけどね。でもぼくは、そういうのはほんの一部なんだってことも知っている。
「どうせ会えなくなっちゃうなら、今のうちに言っとくべきだよ」
「……うん、そうだね」
 適当に相槌を打っておく。そんなことできるはずがないって思った。
 だって、もしも拒絶されたら――
 いや、違う。
 ぼくが恐れているのは、変態だとかそういうふうに思われてしまうこと。嫌われてしまうことなんだ。
 普通の人は、同性に好かれたりしたら気持ち悪いって思うよね。ぼくだって、和馬先輩以外の男の人と――なんて、考えただけでぞっとする。
「悠くん、大丈夫? 顔色よくないよ」
 透の、心配そうな声。
 ぼくは微笑んで見せた。ちゃんと、引きつつたりしないで笑えているだろうか。おかしなところはないだろうか。
「うん――大丈夫、だよ」

   *

 和馬先輩の隣を歩くぼくの足取りは、心なしか重い。
 結局、印刷は何とか終わらせた。製本は、先輩方に渡す分だけ、ぼくが家でやることになった。
 夕方には作業も全部終わって、いつものように和馬先輩と帰ることになったんだけど……。
「どうかした? 浮かない顔して」
「ちょっと疲れたかもしれません」
 ぼくは無理に笑った。
 あのときから、ぼくの心には小さなとげが刺さったまんまなんだ。
 どうして先輩は、渡米のこと、ぼくには黙ってたんだろう……って。そんな名前のついたとげ。
「それに、先輩方とも明日でお別れかと思うと、さみしくって」
 少しの嘘を混ぜて真実を告げる。和馬先輩と、一緒にいたいんです、と。
「別に、いつでも会えるよ」
 嘘、だ。
 アメリカに行ってしまうのに、どうして『いつでも会える』なんて言うんだろう。
 みると、和馬先輩はなんでもなさそうな顔をしている。うしろめたさとか、そういったことを感じているようには見えなかった。
 やっぱり、ぼくは好かれてなんかいないのかもしれない。
 みんなの言うように、ぼくと和馬先輩の仲がすごくいいなら、先輩は嘘なんかつかないだろう。
「じゃあ、たまには遊びに来てくださいね」
 ぼくはくちびるを噛んで、けれども笑って見せた。
 こうして顔の筋肉に力を入れていないと、泣き出してしまいそうだったからだ。



 部屋に入るなり、ぼくは見本にと一冊だけ製本しておいた部誌を取り出した。
 ベッドのふちに座って、ページをめくる。目当ては、和馬先輩の作品だ。
 それは、部誌の最後の方に、薄い色のインクで印刷されていた。


 厳しく辛い冬の日
 すばらしく懐かしい日々
 外国に今もいる僕
 水の向こうにいる君

 季節がめぐるたびに思い出す

 ただ側にいたかった
 月のように静かに
 ああ 今君はどうしているだろう

 出会った頃に戻りたい
 ためらいがちだったあの頃
 死んだ時流の中へ

 望みは叶わない
 楽土は決して見つからない
 悲しみの中でのたうつのみ
 最果ての地は何処


 タイトルはなかった。作者名はもくじにあったけれど、本文ページにはない。
「先輩が詩を書くなんて、はじめてかな……」
 はしゃいだような調子で言う。けれど、口調とは裏腹に、視界はにじんで歪みはじめた。
 和馬先輩は、文化祭の展示のときにだって、詩は書かなかった。展示用ボードに貼られたのは短歌だった気がする。しかも、恋愛とはまったく関係なさそうな。
 部誌を閉じ、かばんの中にしまった。涙で汚したらいけないから。
 ぼくは手で顔を覆った。
 和馬先輩は誰かに恋をしているんだろうか。だから、こんな詩を書いたんだろうか……?



 そして、卒業式。
 ぼくは上の空だった。送辞も答辞も聞いてなかったし、卒業生に送る歌は自動人形にでもなったみたいに機械的にすませた。
 寒がりのぼくだけれど、体育館の肌寒さなんかちっとも気にならなかった。
 ぼくの関心事はただひとつ、和馬先輩のことだけだったから。
 微動だにしない先輩の後頭部を見つめているうちに、卒業式は終わってしまった。



 和馬先輩は――どこにいるんだろう?
 文芸部の部誌は、もうほとんどの先輩に渡した。残るは和馬先輩のみなんだけど、どういうわけか、なかなか見つからない。
 あんなに目立つ人なのに、みんな知らないって言うんだ。
 ぼくはきょろきょろしながら、人ごみをかきわけて走っていた。
「あ、悠くん」
 と、うしろから肩を叩かれる。振り向くと、透が真っ赤な顔で肩で息をしていた。
「よかった……探したんだよ。あのね、和馬先輩から伝言を頼まれてるんだ」
「……先輩から?」
「うん。あのね、校庭の桜の下で待ってるって」
 透は、一度息を吐くと、満面の笑みを浮かべて続けた。
「桜の下でふたりきりなんてさ、チャンスだよ! がんばってね!」
「チャンスって……」
「だって、そうでしょ?」
 首を傾げた透の表情には、なんの屈託もない。徹は無邪気で、残酷なんだな、と思う。ぼくの気なんか知りもしないで、こうやって励ましてくれちゃうんだから。
「そうだね……ありがとう」
 でも、ぼくは、そんな透が好きで、そしてそれ以上に和馬先輩が好きなんだ。
 ぼくはちゃっちゃっと手を振って、校庭へと駆け出した。


 和馬先輩は、桜の下に立っていた。
 今日は制服だったし、月も出ていなかったけれど、あの日と同じように立っていた。まだほころびはじめてさえいないつぼみを見上げていた。
 声をかけがたい、すべてを拒絶しているような雰囲気。
 そこだけ空気がはりつめている――そんな気がした。
「……和馬先輩」
 ぼくはゆっくり近づいていって、ひっそり声をかけた。
「悠一……。よかった。来てくれて」
 和馬先輩が振り向くと、空気が和らぐ。ストイックなモナリザみたいな微笑を浮かべた先輩に見とれて、ぼくは一瞬言葉を失った。
「来てくれないかと思ったよ」
「――そんな、来ないなんて、そんなことあるわけないじゃないですか」
「そうか……気づいてないんだね。気づいていたら、こんなところに来るわけがない」
「なんのことなのか、よく、わかりません」
 ぼくは言葉を選びながら言った。
「ずっと、好きだったんだ」
「嘘です」
 反射的にぼくは叫んだ。
 だって、ぼくだけが聞いてない。和馬先輩の渡米のこと。噂にだってなってたのに。透だって知ってたのに!
「本当のことだよ」
「なら、どうしてぼくだけが知らなかったんです? 渡米のこと……」
 和馬先輩は額に手を当て、首を振った。
「言えなかった。いつ言おうか悩んでるうちに、今日になってしまって」
 和馬先輩の腕がぼくを包んだ。強くもなく、けれども決して弱くもない、抱擁。
「信じてほしい。気持ち悪いと思うならそれでもいい。変態扱いしたければしてもいい。だから、信じてほしい」
 耳に届くのは真摯な言葉だ。切なさであふれた胸を裂いて、人前にさらすかのような言葉だ。
 和馬先輩もぼくと同じ気持ちでいてくれたんだ。そう思うと、幸せすぎて胸が張り裂けそうになる。
「気持ち悪いだなんて、思いません。だって、ぼくも、先輩のことが好きです」
 言いたいことはたくさんある。ぼくの中で渦巻いている。
 けれども結局、口にできたのはそれだけだった。
 多分、無理に言葉に変換したなら、「行かないで」とか「ぼくも連れて行って」とか、おおよそ不可能な願いばかりが出てくるだろう。
「そう……か……。嬉しい……どうしよう、嬉しいって言葉しか出てこない。急に馬鹿になったみたいだ」
 和馬先輩はぼくの耳もとにくちびるを寄せて、ただ「嬉しい」とだけ繰り返した。
 実際、それはよくわかる、と思う。あまりにも感動が強いと、単純な言葉しか出てこなくなる。ぼくにも経験があった。
「でも……ごめん。もう、行かなくちゃならない」
 名残惜しそうに身を離した和馬先輩は、ふと思いついたようにぼくのくちびるに先輩のそれを触れさせた。
 小鳥が木の実をついばむときよりもずっとささやかな口づけだった。
「……っ、先輩……!」
 ぼくは一歩あとずさった。先輩は愉快そうにくちびるの端をつり上げる。
「いつか、また会おう」
 キスは、和馬先輩のくれたサヨナラなんだ。
 ぼくはとっさに理解した。
 もう、ぼくたちは会えない。和馬先輩はアメリカへ行き、ぼくはこの地に残される。
 だって、いつかなんて日は来ない。いつかというのは、決してやって来ないからいつかなんだ。
「ええ……いつか」
 けれど、ぼくは微笑む。
 和馬先輩は夢を叶えにアメリカへ行く。だからぼくは邪魔しちゃいけない。
 ぼくは抱えていた部誌を和馬先輩に差し出した。
「見送りには行きません。さよならも言いません。またいつか会いましょう」
 先輩はうなずき、部誌を受け取る。そのとき、わずかに触れた手は温かかった。
 そのまま、和馬先輩はぼくに背を向けた。ぼくは黙って、そのうしろ姿を見送った。
 小さくなっていく先輩の背中を、ぼくはいつまでも見つめていた。
 気づけば、あごから水滴がぽとんと落ちていくところだった。ぼくは泣いていた。
 桜の下で涙を流す先輩に恋をしたぼくは、今、桜の下で涙を流して恋を忘れる努力をしている。
 いつかは決してやって来ない。ぼくはそれを知っているから。
 ぼくは上を向いた。
 空には雲ひとつない。薄い青空がどこまでも続いている。
 まだ、春は遠そうだ。














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