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ひとつのたまご
作:浅葉りな


「あれ、咲希ちゃんなんで胸あるの?」
 つんつんはねた赤毛の青年が、由希の胸をつつきながら言った。
「なっ……あたしは正真正銘女ですっ! おにーちゃんと間違えないでっ!」
 由希は手を振り上げ、平手で青年を打とうとした。
 けれど、その手は青年につかまれ、下げさせられてしまう。
「だめだよ、咲希ちゃんのそっくりさん。こんな可愛いお手々で玲司くんのこと叩いたら、痛くなっちゃう。
 で、お名前は?」
 悪びれもせずにこにこしている青年に、由希は毒気を抜かれてしまう。
 女の胸をさわるなんて、とんでもなく失礼なことだけれど、この際許してあげようかな、という気になってくる。由希はため息をついた。
 兄から、友人が来ると聞かされていたのだから、もっと違った服を着ていればよかったのだ。
 そう、絶対に男と間違えられないような。
「雪村由希、咲希の双子の妹です」
「ああ、だからそっくりだったんだ。ゴメンね、間違えちゃって。丁寧にありがとう。
 玲司くんは笹原玲司、っていうんだけど、咲希ちゃんいる?」
「もう、中原さんも来てますよ。上がってください」
 アニマルスリッパを出すと、玲司はさほど気にした様子もなくはいた。似合っていないのだが、本人はそんなことはどうでもいいらしい。
 由希はちょっとした仕返しのつもりだったというのに、拍子抜けしてしまう。
「咲希ちゃんと双子ってことは、同い年だよね? 敬語なんか使わないでいいよ〜」
 玲司は手をひらひらと振って、階段を上がっていった。アニマルスリッパが、一歩ごとに、ばふん、と音を出す。
 やはり似合っていない。
 ストリートミュージシャンのような、くたびれ気味のシャツとジーパン姿の青年に、ファンシーなスリッパが似合うはずもなかったのだけれど。
 黙っていれば、それなりにかっこいい人なのに。
 惜しいな、と由希は思った。





 咲希は甘いミルクティー。
 中原悠はブラックコーヒー。
 それはいつものことだから、由希もよく承知している。
 けれど、玲司にはなにを出せばいいだろう。
 先ほどの様子からすれば、コーヒーかな、とも思う。なんとなく。
 ミルクと砂糖をたっぷり入れた、カフェオレに近いものを飲んでいそうな雰囲気だった。
「でも、人は見かけによらないし……」
 由希はティーポットとコーヒーメーカーを代わる代わる見ながらため息をついた。
 雪村家では、紅茶であれコーヒーであれ、ちゃんと淹れる。ティーパックやインスタントで妥協する、ということは滅多にないのだ。
 まあ、どちらを出すにしろ、咲希と悠が別のものを飲むため、両方とも作ってはある。残りは由希と母の美知子で片づけるのが普通だった。
「ねぇ、おかーさん、笹原さんになに出したらいいと思う?」
 居間でアイロンかけをしている美知子に声をかけた。
 しばらくして、
「両方持って行ったらどうかしら」
 おっとりした声が返ってきた。
「うん。そうしてみる」
 カップをもうひとつ用意して、紅茶とコーヒーをついだ。
 砂糖とミルクは入れない。スティックシュガーとミルク、銀のスプーンをひとつずつ添える。
 それでもまだ紅茶が余ったので、湯のみについだ。
 キッチンは洋風だが、居間は和室なのだ。白いカップよりも、湯のみの方が似つかわしい。
「おかーさん、紅茶ね」
 先に美知子に紅茶を出す。
 美知子は今日も和服姿で、大和撫子といった風情だった。由希は美知子を前にすると、いつも、タイムトリップでもした気になってしまう。
「でも、咲希がお友達を連れてくるなんて、高校に入ってからはじめてのことじゃないかしら」
 湯のみを包むように両手で持って、美知子がひとりごとのように言った。
 悠は毎日来ているが、厳密に言えば友達ではない。
「まだ五月だし、慣れてないのよ、きっと」
 そうでないということを、由希は知っている。
 当然美知子もわかっている。
 けれど口にはしないのだ。雪村家の暗黙の了解だった。





 転ぶ!
 そう思った瞬間、由希は玲司に支えられた。紅茶もコーヒーも、一応無事だった。
「由希ちゃん、大丈夫?」
 優しい笑顔がすぐそばにあって、由希は一瞬どきりとした。
「まったく、そそっかしいのは変わらないよな」
「……持ってきてあげたんだから、感謝してよ」
 ちっとも優しくない咲希の言葉に、由希はむくれた。
 自分と同じ顔で、しかも男で、それなのに数段色気のある咲希に言われるとおもしろくないのだ。
 髪が長めのショートで眼鏡をかけていないほうが咲希で、ウェーブのかかった髪を長く伸ばし、眼鏡をかけているほうが由希。
 そんなふうに区別するほかないほど、ふたりはよく似ている。
 瞳と髪が天然で茶色なのも、どちらかといえば可愛らしい容貌も、きゃしゃな身体の造りも、本当によく似ている。
 まるで、クローン人間であるかのように。
「あの、ありがとうございます」
 由希は玲司に微笑んで、運んできたものを机の上に置いた。
「いいよ、火傷でもしたら大変だしね。でも由希ちゃん、敬語は禁止だよ?」
 ニコニコ言われると、由希は曖昧に笑うしかない。
「玲司、由希ちゃんが困ってるよ」
 悠が苦笑しながらフォローを入れてくれる。つゆ草のような色をした瞳が印象的な悠は、仲睦まじげに咲希と寄り添いあってベッドの端に腰かけている。
 由希は悠にはコーヒーを手渡した。咲希には取りに来させればいいのだ。
「じゃあ、あたしはこれで」
 そそくさと出て行こうとする由希の手を、玲司がつかんだ。
「由希ちゃん、咲希ちゃんと悠くんてば、もぉラブラブで。玲司くん肩身狭いから、もし暇だったらここにいて?」
「おにーちゃん……」
 由希は咲希を半眼でにらんだ。いちゃつくのは勝手だが、少しは場所を考えたらどうなのか。
 ときたま、咲希は性別を間違えて生まれてきてしまったのではないかと、由希は思う。こうして悠と恋人同士であるという事実を見せつけられるときは、特にそうだ。
「別にそんなことないよな」
 咲希は小首を傾げ、悠に訊ねる。
 悠はとろけるような笑みを浮かべ、小さくうなずいた。
「そういうとこが、いちゃついてるっていうのよ」
 言いながら、由希は座る場所を探した。
 机とともに置かれているこの部屋唯一のイスには玲司が座っているし、あのカップルと一緒にベッドに座るのもよくない気がする。かといって、床に座るのは言語道断だ。
 けれど、この部屋には机とベッドしかない。クッションさえもないのだ。
 まあ、フローリングの床に直にクッション、というのも変かもしれないが。
「ここ座っていいよ」
 玲司がイスを空けてくれる。
 由希は少し迷ったが、好意に甘えることにした。
 玲司は床にぺたんと座る。
「すいません。あ、あの、笹原さんはコーヒーと紅茶どっちがいいですか?」
「やだなー、タメ口きいてよっ。玲司くん、もしかして怖いのかなー?」
 よよよ、と泣きまねをしながらも、玲司は楽しそうだった。
「そんなこと……」
「ちなみに、玲司くんはコーヒー党だからよろしく。それから、名前で呼んで♪」
 ぱっと顔を上げた玲司は、やはり笑顔。
 コーヒーを渡しながら呆気に取られていると、
「玲司はいつもああだから、気にしないほうがいいよ」
 悠が言った。
「そうそう、玲司って馴れ馴れしいしな」
「けっこういい加減だし」
「演技過剰でもある」
 咲希と悠が交互に言うと、玲司は情けない顔になった。
「ひどいなあ、玲司くんはフレンドリーなナイスガイだと思うのにっ」
 ちょっとかわいそうかな、と思った由希だったが、このせりふを聞いて、玲司にはこれくらいでちょうどいいかもしれない、と思い直した。
 つかみどころのない、変な人。
 由希は玲司のことを、そう覚えておくことにした。





 朝、学校に着くと、クラスメートたちが一箇所に集まって、超音波まがいの声を上げていた。
 由希が通っているのは女子高だったから、クラスには当然女しかいない。それがこれほどやかましいものだとは、入ってみるまでわからなかった。
 早くも、後悔の念が湧いてくる。
「なに見てるの?」
 由希はかばんを置くと、集まっているうちのひとりに声をかけた。
 みんなにあわせられないと、すぐに孤立してしまうから、興味がなくてもあるふりをしなくてはならない。
「男の子同士の恋愛もの、ってあるでしょ? ああいう雑誌買ってきた子がいるの。すごいわよ」
「そうなんだ」
 のぞきこむと、女の子たちの中心に、マンガ雑誌が見えた。ベージュと白のセーラー服を着た女の子たちには似つかわしくない、ハードなセックスシーン満載のマンガだった。ぱらぱらめくっているのを見ていると、そういうシーンばかりが目につく。
「すごいよねえ。やだ、見てよ、SMってやつ?」
「こっちなんか小学生相手にしてるし」
「男同士ってみんなこうなのかな? やだぁ、変態っぽい!」
 無責任で、無邪気さゆえの毒をたっぷり含んだ彼女たちを見ていると、由希は吐き気を抑えられなくなる。ひとこと、違うよ、と言いたくなる。
 だっておにーちゃんは、男の恋人がいるけれど、そうじゃないもの、と。
 あのふたりは、それはそれは幸せそうなのだ。
 いや違う、幸せそうに見せているのだ。
 自分たちが異端だと知った上で、それでもお互いが必要で。
 ふたりでああして寄り添うほかには、生きていけないふたりなのだ。
 たしかに身体の関係もあるけれど、それは快感を求めているからではなく。
 由希はそこまで考えて、首を振った。
 言ってわかるはずもない。
 彼女たちはとても普通で、善良だ。
 だから、珍獣に向けるのと同種の興味をあのふたりに対して持つことはあっても、理解することはないだろう。
「どうしたの、変な顔して」
 クラスメートのひとりが、心配そうに聞いてくる。
「ううん、なんでもないの」
 由希はあわてて笑顔を作った。ひどく空虚な笑顔でも、誰もそのことに気づきはしないのだろう。
 予想通り、そのクラスメートは輪の中へと戻っていく。
 由希は、そうやって善良でいられる女の子たちをいい気なものだと心の中で笑った。
 そして同時に、うらやましいとも思った。





 夜道を歩くのは、嫌いだった。
 中学生の頃は、どこへ行くにも咲希と一緒だったから。
 双子だから、まるでふたりでひと組のように、いつでも一緒だった。
 それが普通で当たり前なのだと、由希はずっと信じていた。
 けれども咲希は、由希よりも早く、大切な人を見つけてしまった。
 由希はその人を嫌いになれなかったのだ。
 どうしても。
 由希は悠のことも好きになってしまったから。
 あの、朝露に濡れたつゆ草のような色をした瞳は、まるで輝石のようにきれいだった。
 それに、悠はいつでも優しかった。
 本当に咲希を必要としているのだということも、すぐにわかった。
 どうして憎むことができるだろう。
 それでも由希は寂しくて、わざと反対方向にある女子高を選んだ。
 帰宅途中に、あのふたりと会いたくなくて。
 由希は重いため息をついた。
 口からため息の塊が飛び出して、足元にころん、と転がりそうだ。
「由希ちゃん、どうしたのかな?」
 独特の抑揚で、背後から声がかかった。
 振り向けば、昨日と同じつんつんはねた赤毛の玲司が、胡桃色のブレザーを着て自転車にまたがっていた。
 街灯の下だから余計にそう感じるのかもしれないが、赤毛とブレザーと自転車、というのはなんだかミスマッチだ。
 いわゆる不良のような頭と、かっちり着こんだ良家の子息風制服と、庶民的な自転車という組み合わせは、まるでキャビアをご飯にかけて、それにマヨネーズをしぼるようなものだと由希は思うのだ。
「家に帰るところよ」
「女の子のひとり歩きは危ないんじゃない? 送って行こうか」
 にぱ、と笑って手を差し伸べてくる玲司に、由希は思わず吹き出した。
「あたしのこと女扱いしたのって、笹原さんがはじめて」
「え、そうなの? でも由希ちゃん、こんなに可愛いのに」
 可愛い、という言葉に、由希の胸がかすかに痛んだ。
 少しも可愛い女の子ではないのだ。
 咲希の方が、ずっと可愛いくらいだ。
「あたし、169センチもあるから。男だったら、それほど大きい方じゃないんだろうけど」
「なんだそんなこと? それ言ったら、玲司くんは188センチ。由希ちゃんよりもなんと十九センチも大きいのです!」
 玲司は両手を天に向かって広げた。
 神に語りかけるかのような仕種は、どこかユーモラスだ。
「さあさ、由希ちゃん。うしろに乗って」
「でも、あたしスカート……」
「だいじょぶだいじょぶ、人のいないとこ通るから。それに玲司くんは、背中に目はないんだよ、残念なことに」
 悔し泣き、をするふり。
 玲司の動作はいちいち大げさで、由希はひとり芝居を見せられているような気になってくる。
 いや、どちらかといえばコントか。
 もしかすると、由希が落ちこんでいるのを知って、なぐさめてくれているのかもしれない。
 由希はかばんを差し出した。
「なーに?」
「乗せてってくれるんでしょ? だったら、このかばん、一緒にかごに入れてもらおうと思って」
 玲司は手を打った。
 かばんを受け取り、かごに収める。
 荷台にのって、由希は玲司の腰に腕をまわす。
「そうそう、玲司くんのこと笹原さんなんて呼ばないでね」
 おちゃらけた口調だったけれど、どことなく本気の香りがただよっていて、由希は無言でうなずいた。





 家に入ると、いかにも風呂上がり、といった風情の咲希と悠に出迎えられた。
「おかーさんは?」
 行き先はなんとなくわかっていたけれど、由希は訊ねる。
「父さんのとこ」
 答える咲希は、悠にもたれかかり、髪を拭いてもらっている。
 咲希と悠はおそろいのパジャマを着ていた。淡い青で、胸元には小さくて可愛らしい魚がプリントされている。
 そういうさりげないところで、ふたりはやはり恋人同士なのだと、由希は実感させられる。
「夕食、今日はオレが作ったから。口にあわなかったらごめんね」
 美知子がいないときの食事当番に組み込まれているほど、悠はこの家になじんでいる。
 悠の作る料理は、一風変わったものが多い。
 口にあわないなどということは一度としてなかったが。
 長身のこの青年は、北欧人の血を引いているのだ。つゆ草色の瞳は、そちらからの遺伝だった。
「ありがと。じゃあ、あたし、着替えてから行くね」
 言って、由希はふたりから目をそらした。階段を上がっていく。
 今、由希はどんな形の恋人たちも見たくなかったのだ。
 自分たちを捨てて出て行った夫を、美知子が真実、愛しているからだ。
 若い愛人をとっかえひっかえしている夫のもとに、愛人がいない短い期間だけ行くことにしている美知子を見ていると、由希は、どうして、と問いつめたくなるのだ。
 臆面もなく連絡を入れてくるほうもくる方だが、行く美知子も美知子だ。
 プライド、というものはないのか。
 たしかに、生活費も学費も、出してくれているのはかつて美知子の夫だった男だ。
 けれどもそれは、あちらに非があるからなのだ。
 呼ばれたからと、嬉々として行くその神経は、由希には信じがたかった。
 こんなときは、愛も恋も、すべて無意味なのだと思えて仕方がない。
 どんなに仲睦まじいふたりでも、いつかはああなってしまうように、由希には見えてしまうのだ。
 咲希と悠も、いつかはそうなるのだろうか。
 もしそうなら、それはできるだけあとであってほしくもあり、また早くあってほしくもあった。





 けたたましい音が、寝不足の由希の脳を撹拌する。
 由希はふとんから手を出して、目覚ましを止めた。
 昨日は普通に夕食を摂って、宿題をやって、そのままベッドに入ったのだ。
 が、結局帰ってこなかった美知子のことや、隣の部屋の物音が気になって、なかなか寝つかれなかった。
 隣は咲希の部屋だった。
 押し殺したようなあえぎや、がたがたという音が聞こえてきたということは、つまりはふたりがそういうことをしていたということなのだろう。
 物音は真夜中になってもやまなかった。
「でも、起きなきゃ……」
 咲希たちを恨むつもりは毛頭ない。
 ああ見えてあのふたりは、けっこう気を遣ってくれているし、普段はちっとも気にならないのだ。もう慣れている。
 由希はもぞもぞとはい出した。
 部屋の真ん中で、大きく伸びをする。
 由希の部屋は、咲希の部屋ほど殺風景ではない。
 机とベッドの配置は咲希の部屋と同じだが、壁にはリトグラフがかかっている。
 以前、衝動買いした、名前も知らない画家の作品だ。
 シャムの双生児のようにつながっている、どことも知れない場所をただよう卵の絵。
 作りつけのクローゼットの取っ手には、可愛らしいカバーもかけてある。
 ドアの真向かい、まるで通路だからこうなっているんですよとでも言いたげに存在している窓には、卵模様のクリームイエローのカーテンがかかっている。
 由希は思いきり、カーテンを左右に開いた。
 今日もいい天気のようだ。
 空は、スカイブルーの絵具に白をたっぷり混ぜたような色をしている。雲はほとんどなく、まだ低いところにある太陽は、それでもまぶしいほどだった。
 と、下のほうになにか赤いものが見えた。
「あれ……?」
 由希は目をこすった。
 けれど、下には玲司がいる。見間違いではないらしい。
 彼は制服姿で、雪村家の窓を見上げていた。
 いや、咲希の部屋の窓を、だろう。まだ由希には気づいていないらしい。
 遠くてはっきりとはしなかったが、とても切ない目をしているように見えた。
 どうしてあんな眼差しで、咲希の部屋を見つめているのだろう。
 見ている由希まで、胸がしめつけられるようだ。苦しくて息ができなくなる。
 玲司の目にはいとしさがあふれている。
 そして悲しさが満ちている。
 これ以上は見ていられなくて、由希はカーテンを閉じようとした。
 毎朝五時三十分に起きて走っているのだが、今日はやめにしようと思った。
 けれどもそのとき、玲司が由希の方に顔を向けた。
 目があう。
 玲司の顔に驚きとあせり、そしてあきらめと悲哀が広がった。
 こうなったらもう、由希にも見て見ぬふりはできなかった。
 由希が窓を開けようとした瞬間、玲司は身をひるがえし、走り去ってしまった。
 あとには、もやもやした気持ちだけが残った。





 咲希と悠を起こさないよう、由希は足音を忍ばせて階下へと下りた。
 居間に入ると、年代もののファクシミリが、耳障りな音をたてながら紙を吐き出しているところだった。
 冒頭に「由希ちゃんへ」という文字が見えた。丸文字だ。
 こんなに朝早く、FAXを送ってくるような友人はいただろうか。
 そんなことを思いながら、由希は紙を手に取った。


   由希ちゃんへ

  夕方五時、駅前の喫茶店「ラフレシア」 で待ってま〜す。
  もしよかったら、来てください。

               R


 ラフレシア、という喫茶店は知っていた。通学途中に見かけて、なんだか不思議な気がしていた場所だ。
 由希の通っている女子高では寄り道は禁止されていたし、ひとりで入るのも気がひけたので、今までは眺めていただけだった。
 このFAXを送ってきたのが友人だったら、いい機会だし行ってみてもよかった。
 けれど、Rなんて人間に、由希は心当たりがなかった。
 しかも、どこかのコンビニから送信したらしく、相手の番号さえわからない。
 普通に考えれば怪し過ぎる。
「行ってみようかな……」
 それでも、なんとなく、行ってみた方がいいような気がした。
 ほかの人間に見つからないように、由希は紙をたたんでポケットに入れた。





 ラフレシアは、ある意味名前にふさわしい店だった。
 照明は抑えてあり、採光もよくない。
 シンプルな内装で、メニューは紅茶とコーヒーだけだ。
 壁には、耽美と頽廃のムードただよう絵画やフォトグラフが数点かけてあった。
 爛熟した果実の、甘い甘い薫り。
 そんなものを連想させられる。
 由希のほかには客はいなかった。
 店主らしい若い男が、黒いエプロンを着けてカップをみがいていた。
 エプロンの胸元に、翅を広げた蝶が白く染め抜かれていて、ラフレシア、という文字が下に小さく添えてあった。
 由希は、小さく息を吐いた。
 ここはとても閉ざされている。
 空気も停滞していて、どこか重い。
 それなのに、濃密な空気を呼吸することは、由希には簡単なことのように思えるのだった。
 ここの空気は、由希を排斥しようとはしない。
 とても優しい。
 ふと、空気が動く。
 ドアを開けて入ってきたのは、玲司だった。
 これまでに会ったときと同じように、屈託のない笑みを浮かべている。
 けれどもそれは、うわべだけのものなのだろう。
 揺れる瞳には、思いつめたような、きっかけさえあればどんなことでもしでかしてしまいそうな光が宿っている。
「いらっしゃいませ」
 低くてよく通る、店主らしい男の声が響いた。
 玲司は男に軽く会釈すると、まっすぐ由希の方へとやってきた。
「待たせちゃった?」
「そんなには待ってないわ。でも、Rって玲司のことだったのね」
 玲司が向かいに座った瞬間、訊ねたかったことのほとんどが霧散してしまった。
 由希はお冷でくちびるを湿らせる。
「まずは、なにか頼まない? 由希ちゃんはどっちがいい?」
 由希は少し悩むふりをしてから、紅茶を注文した。
 玲司はコーヒーを頼む。
 待っている間、由希は黙っていた。
 今日の玲司は歯切れが悪かったからだ。
 考える時間は必要だろう、由希にも、玲司にも。
「……あの、ね」
 運ばれてきたコーヒーに口をつけ、言いにくそうに玲司が話しはじめた。
「今朝のこと、咲希ちゃんには黙っててほしいんだけど」
「――どうして?」
「オフレコにしてね」
 と、玲司はいったん言葉を切って、声のトーンを落とした。
 由希はうなずく。
 多分、玲司は悪意でもってあんなことをしているわけではないだろう。
「――好き、なんだよね。咲希ちゃんのこと」
 今日はいい天気だね、とでも言うように、玲司は口にした。
 はにかんだ様子が可愛らしい。
「でも……」
「わかってる。咲希ちゃんと悠くんの間に、割り込む余地なんかないってこと。でもそれでも、好きなんだからしょーがないでしょー?」
 玲司の顔はいとしさにあふれている。
 心底、玲司は咲希を好きなのだろう。けれどその笑顔が、由希には哀しく見えたのだ。
 決して伝えられない、想い。
 それはどこへ行くのだろう。
「おにーちゃんのどこがいいの?」
「どこって……さあ。気づいたら好きだったから」
 嬉しそうに、けれど哀しそうに。
 玲司の表情は、見ていて痛いほどだった。
「でも不毛じゃない、おにーちゃん相手だと。男だし、恋人持ちだし。
 あたしで手、打たない? 顔は同じだし……」
 紅茶のカップに顔を近づける。
 いい茶葉を使っているらしく、すっきりとした香りがした。
 眼鏡が曇った。
「冗談でも、そういうの、よくないと思うよ」
 どんな顔で玲司が話しているのか、由希には見えなかった。
 けれど、声音はひどく真剣なように聞こえた。
「由希ちゃんにも咲希ちゃんにも失礼だよ」
 由希は頬が熱くなるのを感じた。
 いつでも、由希と咲希はふたりでひとりだった。
 今でこそそんなことはないが、幼い頃は区別をつけられる人間は少数だった。
 だから、由希にとって、咲希と同じもののように振舞うのは当然のことで、逆もまた叱り、だった。
 いつのまにか、それが普通になっていた。
 本人でさえそうなのだ。
 周囲がそういうふうなのも、当然といえば当然だった。
 いつしか咲希は悠と出会い――いや、それ以前かもしれないが――由希と同じではなくなった。
 周囲は変わっていないのに。
 玲司は、由希と咲希を別々の人間だと認識してくれている。
 同じだとは思っていない。
「ありがとう」
 由希は湯気で曇った眼鏡を拭くふりをして、目の端に浮かんだものをぬぐった。
 今、この人が好きになったな、と由希は思った。





 家に帰っても、やはり美知子はいなかった。
 由希はため息をつき、肩を叩きながら居間に向かう。
 珍しいことに、居間では咲希がひとりでくつろいでいた。
 畳の上で長くなり、テレビを眺めている。
「今日は中原さん来てないんだ?」
 かばんを放り出して訊ねると、咲希は転がって由希の方を向いた。
「帰りに寄ってきたからな。疲れた」
「はいはい。疲れるようなことしてきたわけね」
 由希も適当なところに座って、足を伸ばした。
 筋肉がぱんぱんに張っている。
「由希だって今日は遅かっただろ。
 ……デート?」
「そんなわけないでしょ」
 だって、あの人はおにーちゃんのことが好きなんだもの。
 由希は心の中でつぶやいた。
 たしかに、ラフレシアを出たあと、玲司と少し駅の周辺をうろついた。
 が、あれは決してデートではなかった。
 由希がどう思っていようとも、多分、玲司にとって由希は『咲希の妹』でしかないはずなのだ。
 友人の妹、という、どっちつかずのポジション。
 特別親しいわけでもなく、かといって疎遠というほどでもない。
 まるで、蛇の生殺しのようだ。
「おにーちゃんはいいわよね。人生薔薇色で!」
 なんとなく悔しくて、八つ当たりしてしまう。
「そう見える?」
 起き上がった咲希は、どこか自嘲するような笑みを浮かべていた。
 咲希はちゃぶ台に肘をつき、頬杖をつきながら続けた。
「別にいいことばっかじゃないって。
 俺たちって結局、世間に顔向けできないわけだし。デートにだって気、遣うしさ。一緒に撮った写真だってない」
「そうだけど、おにーちゃん、中原さんと両思いでしょ。恋人同士じゃない」
 由希も玲司も、叶うはずのない恋をしているのだ。
 ついつい、語調が強くなる。
 叶っても人に知られてはならない恋と、叶えられずただ秘めていなければならない恋と、どちらがより幸福なのだろう。
「だからって幸せとは限らないだろ?」
「それじゃあ、おにーちゃんは不幸だって言うの?」
「幸せだけど、不幸だな」
「……よく、わからないわ」
「いつかわかるだろ」
 由希はくちびるを噛んだ。
 いつから、咲希はこんなにも遠くなってしまったのだろう。
 由希を置いて、ひとりで大人への階段を駆け上がっていってしまったのは、いつだろう。
 寂しかった。
 咲希の隣には、いつも悠がいる。
 咲希が大人びた口をきき、なにか由希にははかり知れないものをまといはじめたのには、すべて悠が関係しているはずだ。
「いつかって、いつよ」
 咲希は答えなかった。





 悩みがあると、眠りが浅くなるのかもしれない。
 由希はあくびをひとつして、教室に入った。
「おはよう……」
 とたん、視線が突き刺さってくる。
 教室内には、いくつかのグループができていた。
 そのすべての視線が、由希に集中している。
 興味本位の、不躾な視線だった。
 由希はひるまず、教室をぐるりと見まわした。
 何人かは、それだけで目をそらす。
「言いたいことがあるなら、言えば?」
 ざわめきつつ、非難するような視線を向けてくるだけのクラスメートたちに、由希は言葉を叩きつけた。
 けれど、誰もが顔を見あわせるばかりだ。それが由希をいらだたせる。
「由希……!」
 そこに、うしろの戸を開け、隣のクラスの上領明良が飛び込んできた。
 彼女は、驚くほどにセーラー服が似合っていなかった。
 黒髪はもったいないことにベリィショートだったし、目は切れ長で涼しげだった。肩幅も広く、体型も平坦。
 身長は由希より十センチは高い。
 まるで、青年が女装をしているかのようだった。
 彼女は、ものも言わずに由希のもとまで来て、肩をつかんできた。
「どうしたの? 明良」
「昨日、男とデートしてたんだって?」
 明良が早口に言った。
 これではまるで、浮気の疑いのある恋人を問いただす男だ、と由希は思った。
 明良はただでさえボーイッシュなのだ。
「デートじゃないわよ。おにーちゃんの友達。でも、どうして明良が知ってるの?」
「僕だけじゃなくて、学校中の人間が知ってるさ。ちょっと来るんだ」
「え?」
 明良は由希の手を引いて、わき目も振らずに歩いていく。
 明良のただならない様子に、由希は開きかけた口をつぐんだ。
「ほら、見てみろよ」
 連れて行かれたのは、隣のクラスだった。
 黒板には写真が貼ってある。
 由希と玲司の写真だった。
 鮮明で、由希の顔まではっきりとわかる。玲司は、容疑者の少年A、という感じに、目許を黒く塗りつぶされている。
 ふたりでクレープを食べている写真や、店を冷やかして歩いている写真。
 間違いなく、昨日、玲司といるところを隠し撮りされたに違いなかった。
「なによこれ……」
「ご丁寧に、きみのクラス以外の全教室の黒板に貼ってあるよ。指紋はなし、犯人の痕跡も見あたらない」
「隠し撮りなんて卑怯じゃない。第一、あたしになんの恨みがあるのかしら」
「さあね。とにかく、これは悪質なイヤガラセだ。ただのツーショット写真ならともかく、あんなところまで撮られたら……」
 明良が、一番高いところに貼ってある写真を指した。
 ただふたりが歩いている写真だったが、問題はその場所だった。
 どぎつい電飾が目に痛い、ホテル街だったのだ。
 しかも、ビジネスホテルなどの並ぶ界隈ではなくて、ラブホテルや風俗店の立ち並ぶ通りだった。
 昨日、遅くなりそうだったから、近道をしたのだ。
 別にやましいこともないから、気にしないで通ったのだが……。
「あたし、別になにもしてないわよ」
「わかってるさ。きみがそういう人間じゃないことくらい、わかってるつもりだからね」
 明良は、いつもこうやって、由希のことをわかってくれる。
 まだつきあいは二ヶ月にも満たないというのに。
「でも、先生方はそうは思わないだろうね」
 明良はくちびるを噛んでいた。
 くちびるには歯が食い込み、血がにじみ出しそうに見えた。
「……でしょうね」
 この学校では、明良のほかは、誰も由希をわかってくれないだろう。
 わかろうとさえしないだろう。
 由希は明良のくちびるに手を伸ばし、噛みしめるのをやめさせた。
「大丈夫だよ。僕は信じてるから」
「いいやつよね、明良って。
 ――明良が男だったら、あたし惚れてたわ」
 もたれかかると、明良は楽しげに髪をなでてきた。
「女子高らしく、恋愛してもいいよ?」
「やーよ」
 由希がくちびるをとがらせたそのとき、校内放送が入った。





 どこかおかしいところがないか確かめていたコンパクトをポケットにしまい、由希はもう一度深呼吸した。
 明良は、ついて行こうかと申し出てくれたが、由希は断ってひとりで来たのだ。
 校長室の扉は、重厚でどっしりとしていた。
 煮出し過ぎた麦茶のような色をした観音開きからの扉からは、圧迫感がただよっている。
 ただし威厳はない。
「1ーA、雪村由希です」
 お上品なノックとともに、上品さを失わない程度に声を張り上げる。
「お入りなさい」
 中からは、神経質そうな声が答えた。
 ドアを開け、入ると、八つの瞳が由希を見つめていた。
 きっかり四十五度の礼をし、由希はその場に背筋を伸ばして立った。
 校長室は、ひと目で高価とわかる絨毯が敷かれ、本革製だろうソファがふたつ、向かいあわせに置かれていた。
 ソファの間には重厚な木のテーブル。テーブルの上にはガラスの灰皿があった。
 もちろん、執務用らしき机や歴代校長の肖像もある。
 ソファの片方には、この部屋に似つかわしい豊満な熟女が座っていた。校長だ。
 派手な赤いスーツを着ていた。口紅もマニキュアも眼鏡のフレームまでもが赤だった。
 校長の向かいには、美知子が落ち着いて座っていた。
 その隣には中年の男がいた。
 由希の父である良一だった。
 もっとも、由希は父と呼ぶ気はさらさらなかったが。
 美知子は珍しく、スーツを着ていた。
 和服も似合うが、彼女はスーツ姿でさえつましい魅力がある。薄化粧もその一因かもしれない。
 逆に、良一はくたびれたスーツが似合っていなかった。
 目は落ちくぼみ、頬はこけ、素材は間違いなく美形と推測されるのに醜悪だった。目だけがぎらぎらと輝いている。
「由希さん、今朝、私のところにこのようなものが届きました」
 校長が立ち上がり、机の上の封筒を由希に見せてきた。
「あなたが、男性とホテル街を歩いているところですね。いったい、どういうおつもりですか」
 一方的に、由希の非を責める口調だった。
 反論など許さないと、口に出さずに言っている。
「誤解です」
 由希はきっぱりと言った。
「こんなところで写真を撮られておいて、誤解はありませんでしょう。婚前に男性とホテルを利用するなど、言語道断です」
 そこで、校長は美知子に顔を向けた。
「いったいどのような教育をなさっているのですか」
「すべての責任を負うつもりがあるなら、かまわないと考えていますわ」
 美知子はあくまでやわらかに返した。
 微笑んでいても、どこか迫力がある。
 大和撫子の典型のような美知子だったが、実は芯が強いのだ。
「失礼ですが、そのようなことだから、由希さんが不始末をしでかすのでしょう。もっと、親としての自覚を持ってください」
「我が家の教育方針ですので」
 校長はつばを飛ばさんばかりに熱弁を振るうが、美知子は動じなかった。
「美知子」
 良一がとがめるような声を出す。
「我が家の子供たちは、ふたりともいい子に育ってくれましたわ。由希が、間違いだ、誤解だというならそうなのでしょう?」
「なにを言っているんだ。おまえがそうだから、由希が非行に走ったんだろう」
 美知子の言葉は嬉しかったが、良一の言葉は不快だった。
 由希は下を向き、こぶしを握った。
「由希、どうしてそんな真似をしたんだ」
「――あたしの名前、呼び捨てにしないでよ!」
 どうして、あんな男に父親面されなくてはならないのだろう、と由希は思う。
 生活費も学費も、出してもらっているのは事実だ。
 けれど、それ以外なにもしていない、外に女を作って出て行った男を、父親と思えと言うのだろうか。
「娘の名前を呼んでなにが悪い」
「あたしはあなたの娘じゃないわ。血がつながってたとしたって、父親でなんかあるもんですか」
「由希さん、なんですか、その言い方は」
 校長がヒステリックにわめいた。
「思ったことを言ったまでです」
 やましいことなどなにもないのだ。
 由希は校長の目を見据えた。
「美知子、なんとか言ってやれ」
 良一は顔を赤くしていた。
 血管でも切れそうな勢いだった。
 由希は鼻を鳴らした。
「由希がそう言うのなら、そうでしょう。あなたは私の夫であって、由希の父ではないのでしょう」
 誰もが興奮している中、美知子は変わらず穏やかだった。
「……美知子!」
「なによ、おかーさんは悪くないでしょ!?」
「口答えをするな!」
 良一が立ち上がった。
 こぶしを振りながら怒鳴り散らす。
「お静かに!」
 耐えかねたのか、校長は叫んだ。
 もしも今ここに木槌があったとしたら、校長は机を叩いただろう。
 静粛に、と叫びながら。
「あなたには二週間の自宅謹慎と、反省文の提出を命じます」
 そして、判決が下った。





「ひとりで、大丈夫?」
 家の前で、美知子は何度目かもわからない問いを発した。
「平気、平気。おにーちゃんもいるし」
 由希はこともなげに言いながら、手をぱたぱた振った。
 美知子は、心配だからと家まで来たのだ。あの男のところへ帰るつもりではいるのだろうが、それは冷淡さからくるものではないのだろう。
 由希を信頼してくれているのだ。
 盲信ではなく、由希の気性や普段の行動をよく知った上での信頼だった。
 誰も信じてくれない中、美知子の態度は心にしみた。
 けれど、だから、由希は美知子に気にしないでほしいと思う。
 あの男のことは、決して好きになれそうにない。
 それでも、美知子はあの男を愛しているのだろうし、それは由希がどうこう言うべきことではない。
 それが、美知子にとっての幸せならば、それでいいのだと由希は思っている。
「二週間、休みをもらったと思えばいいし。ノートとかは頼んできたし、大丈夫。なにかあったら電話するから」
「……ありがとう」
 美知子がふんわりと微笑んだ。
 極上の羽根布団のような笑顔につられ、由希も口許をほころばせた。
「じゃ、またね」
 早く帰ってきてね、とは言わないでおいた。
 美知子には、できるだけ多くの幸福を得てほしいと願っているから。
 由希は、美知子を見送らずに家の中に入った。






 正確に、同じだけの長さで二回、ドアがノックされた。
 由希はあまりの腹立たしさに、一日中ふて寝を決め込んでいたのだが、実際に眠っていたわけではなかった。
 ぱっちりと目を開け、ふとんを足もとに押しやる。
「ふぁーい」
 時計を見ると、六時ちょうど。
 こんな時間、部屋に来るのは咲希くらいのものなので、由希は伸びをしながら答えた。
「あ、由希ちゃん。電話来てるんだけど……」
 コードレスホンを手にした悠が、ドアをわずかに開けて声をかけてきた。
 どうやら、完全に中に入ってくる気はないらしい。
「ありがとう。でも、どうして中原さんが?」
 普通は、咲希が来るものではないのだろうか。
 いくら悠が家族同然の存在だとしても、雑用までさせるとは、咲希はなにを考えているのだろう。
「今、咲希、夕飯作っててね。オレに手料理食べさせるんだから、って、一生懸命になってるよ」
 悠は、見ている方が恥ずかしくなってくるような笑みを浮かべた。
 とろとろとろけてしまいそうだ。
「――中原さんって、本当におにーちゃんが好きなのね」
「やっぱり、気持ち悪いとか思う?」
 由希が苦笑まじりにひやかすと、悠は不安そうな表情になった。
「まさか! いいじゃないの、幸せそうで。それが一番よ」
 ベッドから降りて、悠からコードレスホンを受け取る。
 幸せは、だいたいにして誰かの不幸せのもとに成り立っている。
 だから、幸せな人間は、めいっぱい幸せでなくてはならないのだ。由希はそう思っている。
「今度から、中原さん、じゃなくっておにーちゃんって呼ぶ? 咲希おにーちゃんに悠おにーちゃん」
「そうなったら、いいね」
 悠が寂しそうに笑った。
 この人は自信がたりないに違いない、と由希は思う。
 つゆ草色の瞳は、一度見たら忘れられそうにないほど印象的で、きれいだ。
 青年貴族を思わせる顔立ちだって、共学校に通っていたら女の子たちが放っておかないだろう。
 性格も穏やかで、控えめだ。好感が持てる。
 それに、なにより、もともとストレートだった咲希が、悠を好きになったのだ。
 恋人として認め、毎日、嬉々として悠とともにいる。
 それほどなのに、どうして自信が持てないのだろう。
 もっと自信を持ったとしても、どこからも文句はこないだろうに。
「いくらでも呼んであげるわ。
 悠おにーちゃん、ほら、咲希おにーちゃんが待ちくたびれてるわよ」
 由希は促した。
 悠は頬をほんのり桜色に染め、いそいそと戻っていった。
「やっぱ、可愛い人よね」
 咲希の可愛さは少女のような愛らしさで、悠の可愛さは忠犬のような微笑ましさだ。
 悠は、容姿は決して可愛らしい方ではないのだが、内面からにじみ出る可愛らしさがある。
「あー、っと、ごめん。お待たせしましたぁ」
 電話が来ていたことを思い出し、由希は保留を切った。
 コードレスホンを耳に当てる。
『由希ちゃん?』
「そーです。で、どなた?」
 向こうから聞こえてきたのは、男声だった。
 電話をかけてくるような男友達で、しかも自分をちゃんづけで呼ぶようなのはいたっけか、と、由希はかばんから手帳を出して探してみる。
『やだなー、忘れちゃったの? 玲司くんだってば』
「あ……なんだ。誰かと思った。どうしたの?」
『どうしたもなにも、大変だったね。自宅謹慎だっけ?』
「そうそう、そーなの! なんか、写真が貼り出されちゃって」
『ごめんね、近道なんかに誘ったから』
「気にしないで、別にやましいことないわけだし」
 言ってから、由希ははた、と気づく。
 どうして玲司は、そのことを知っているのだろうか。
 由希は、帰ってきた咲希と悠にはかいつまんで事情を説明した。
 もちろん、どうしてふたりで出かけたか、という理由は適当にごまかしたが。
 咲希はあまり信じていないようだったが、突っ込んではこなかった。
 明日あたりには玲司にも伝わってしまうだろうと思っていたが、まさか今日、伝わっているとは。
 咲希がわざわざ電話でもしたのだろうか。
「――どうして、知ってるの?」
 気づくと、由希は疑問を口にしてしまっていた。
『今日、由希ちゃんの友達がうちの学校に来てさ。なんか怒られちゃったよー』
「あたしの、友達?」
『明良ちゃんって子。謹慎のこととか全部ぶちまけて、由希ちゃん泣かせたら承知しないって言ってたけど。
 なんか、シスコンのおにーさんに釘刺されちゃった気分』
「やだ、なにそれ」
 シスコンのおにーさん、と聞いて、由希は咲希がシスコンだったら、と想像してみた。なんとなく笑える。
『本当にそんな感じだったんだもん』
 玲司は拗ねたような声を出した。
『それでね、玲司くんも、明日は自主休校にしちゃおうと思って。
 どっか行かない?』
「……え?」
 自主休校って、それはつまり、無断欠席というやつではないのだろうか。
『だって、由希ちゃんヒマでしょ? 玲司くんにも九割くらい責任あるわけだし。遊ぼうよー』
 どうしたらそういう考えになるのか、由希にはさっぱりわからなかった。
 それでも、玲司は由希を励まそうとしてくれているのだろうし、いいのかな、とも思う。
「謹慎初日にそんなこと、ばれたら大変じゃない?」
『大丈夫だって。誰も、初日に……なんて思わないよ』
 由希はしばし考え込んだ。
 玲司にその気はないにしろ、せっかくのデートのお誘いだ。
 断るのはもったいない。
「じゃ、行くわ。おにーちゃんの服、着て行こうかなー。変装したりしないとね、やっぱり」
『いいねえ。じゃ、玲司くん、女装しよっかな』
 由希は思わず、吹き出してしまった。
 赤毛のつんつん頭そのままの玲司が、セーラー服を着ていたりピンクハウスのふりふりひらひらを着ていたりしたら、これはもう笑うしかないだろう。
「女装するなら、思いっきりふりふりなのね!」
 笑いの隙間から声をしぼり出すと、向こうで玲司も吹き出すのが聞こえた。





「会いたかったよ、ハニィ!」
 唐突にうしろから抱きつかれ、由希は相手に、反射的に肘鉄をくらわせてしまった。
 今日の由希は、咲希の服を拝借し、長髪の青年に見えるように努力して来たのだ。
 もともと背の高い由希は、男装も意外と似合った。
 由希自身、満足のできだった。
 灰色のパーカーにジーパン、というかっこうで、髪はゆるくひとつに束ねてある。
「由希ちゃん、冗談も通じないなんてひどいよう……」
 腹を押さえながら、玲司が前にまわってきた。
 さすがに女装はしていないが、変装、を意識したらしい服装だった。
 着ているものはすべてよれよれで、その上、丸い薄いブルーのサングラスをかけていた。
 ミュージシャンくずれ、といったふうだ。
「このかっこうで、ハニィなんて呼ばれるとは思ってなかったの」
 ばつが悪くて、由希はうつむいた。
「あ、ごめんね」
 玲司が顔をのぞき込んでくる。
 由希は頬が熱くなるのを感じる。
「いいわよ、気にしてないし。早く行こ」
 あたりに視線を走らせて、ほとんど人がいないのを確認し、由希は玲司の腕を取った。
 平日の水族館は、本当に人が少ない。
 遊びに行こうとなったとき、人が少なくてゆっくりできるところということで水族館を選んだのは、正解だったようだ。
 遊園地、も考えないではなかったのだが、やたらに散財してしまいそうだったのでやめたのだ。
「ちょっと由希ちゃん、そんなに引っぱらないでよぅ」
 玲司が情けない声を出した。
 あわてて手を放し、由希は鼻の頭をかく。
「あは、ごめん」
「いいけど……もしかして、由希ちゃんって服に着られるタイプ?」
 それなら、もしもレースのひらひらワンピースを着たりしたら、ブリッコになったりするのだろうか。
 そんなわけないな、と由希はすぐに思い直した。





 玲司が足を止め、由希の腕を引っぱった。
「なに?」
 由希は玲司の指した方を見た。
 アイスクリームの売店がある。
「ねえ由希ちゃん、アイス食べたくない?」
 玲司の瞳は、なにかを期待しているかのように輝いていた。
「――そうね、食べてもいいわ」
 苦笑しながら答えてやると、玲司の顔に笑みが広がった。
 駄菓子を喜ぶ子供のような表情だった。
 由希も嬉しくなってしまう。
「どれがいい?」
 売店の前まで走っていって、玲司が言った。
 売店は、デフォルメした魚介類の絵が描かれた、可愛らしい屋台だった。
 限定アイス、というのぼりが立っている。全体的に青系統でまとめてあって、涼しげだった。
 ショーケースをのぞき込んで、由希は絶句した。普通ではないのだ。
 チョコチップやラムレーズンなど、普通のアイスはひとつもない。
 まぐろ、えび、いか、さば、わかめなどなど。
 なんとも生臭そうなラインナップだ。
「なにこれ……」
「おもしろそーだと思うけど」
 玲司が平然と言った。
 由希はがっくりとうなだれる。
 彼の感性は、どこか人とは違うらしい。
 けれど、由希も、ショーケースを見ていたら、だんだんおもしろいかもしれないという気になってきた。
 まぐろアイスはピンクだし、えびアイスはほんのり桜色。
 いかは純白、さばは銀。
 わかめは当然緑色だ。
 ダブルで頼んだら、なんともカラフルではないか。
 それに、もしかしたら、本当に魚の味がするわけではないかもしれない。
 水族館だから、わざと変な名前をつけているということだってありうる。
「あたし、えびとわかめ、ダブルで」
「じゃあ、玲司くんはまぐろ」
 注文すると、青に白抜きで、デフォルメされたヒトデがプリントされたエプロン姿の青年が、すぐに作ってくれた。
 よほど暇だったらしく、どことなく嬉しそうだ。
 由希はえびのアイスを食べてみた。
 えび味だった。えびの身らしきものも入っている。
 玲司の方を見ると、変な顔をしていた。
 みかんを食べたらソーセージの味がした、なんてことがあったとしても、こんな表情にはならないだろう。
 多分、玲司のアイスはまぐろそのものの味だったに違いなかった。





 手に吸盤でもあるかのように、玲司はくらげの水槽の前から動かなかった。
 由希はなんとなく、話しかけたらいけないような気がして、ひとりでフロアをまわった。
 なかなかに見ごたえがあって、戻ってきたときにはかなり時間がたってしまっていた。
 けれど、玲司は少しも変わらずに水槽に貼りついていた。
 由希は息をひそめて、玲司のうしろから水槽をのぞいた。
 海藻や石が箱庭のように配置された狭い空間の中で、白っぽい、きのこのかさのような形をした物体がただよっていた。
 ふよふよと、ふよふよと。
 それはどこか、寂しい感じがしてしまう。
 どうしてなのかは、そう感じた由希自身にさえ、いまいちわからなかったけれど。
「ねぇ、由希ちゃん――」
 いつのまに気づいたのか、玲司が声をかけてきた。
 由希には、声を出すと雰囲気が壊れてしまいそうに思えた。
 小首を傾げて玲司を見る。
「……おいしそうだよね、くらげって」
 やわらかく微笑まれながら言われ、由希は一瞬、頭の中が真っ白になった。
「は……?」
 ようやく、それだけ口にする。
「ほら、ラーメンにも入ってるし。あれは違う種類みたいだけど、焼いて食べたらおいしそう」
 悪びれもせず、玲司は言う。
 由希は額を押さえ、頭を振った。
 ラーメンに入っているのはくらげではなく、木くらげというきのこなのだと、教えてやるべきかやらざるべきか。





「ただいまー」
 結局、由希が家に帰ったのは、暗くなってからのことだった。
 玄関口で声をかけた瞬間、ばたばたと咲希が居間から出てくる。
 悠も一緒だった。
 ふたりともパジャマ姿で、髪が濡れている。風呂上がりのようだった。
「謹慎中だってのに、こんな時間までどこ行ってたんだよ!」
 まるで頭に角でも生えてきそうな勢いで、咲希が怒鳴った。
「デートよ」
 由希はさらりと答える。
 こういう場合、ひるんだら負けなのだ。
「デ……デートって!
 おまえ、俺がどれだけ心配したと思ってんだよ!」
「ふーん。そんなに心配してたっていうのに、ふたりでお風呂に入ってたわけね」
「しょうがないだろ。汗かいたんだから……!」
 咲希は顔を真っ赤にした。
 それを見て、由希はにやりと笑う。
「汗かくようなこと、したわけね」
 勝ち誇ったように言ってやると、咲希はあわえて口を押さえる。
 どうやら、図星だったらしい。
「おにーちゃんも好きよねぇ」
「いいだろっ、別に!
 悪いか!」
 由希がつつくと、咲希は当初の目的も忘れたらしく、ふんぞり返って開き直った。
「ごめんね、由希ちゃん。でも、心配してたのは本当だよ」
 悠がうしろから咲希を抱きしめた。
 嘘など一度も吐いたことのないような、清らかな微笑みを見せられると、由希は弱い。突っかかる気も失せてしまった。
「別に気にしてないわ」
「それはよかった」
 言いながら、悠が咲希にキスするのが見えた。
 由希は見なかったふりをする。
 咲希はそれだけで落ち着いたようで、悠の手をしっかりと握って大人しくしている。
「夕飯は作ってあるから、さっさと着替えて来いよ。それ、俺のだろ」
「……よくわかったわね」
 由希は舌を出した。
 それでも、内心、誰と出かけたのかと問われなかったことに安堵していた。
 こういうときには、プライバシーを尊重してくれる家族がありがたかった。





 ふと、目を覚まし、時計を見ると十時だった。
 反省文を書こうと、居間でレポート用紙を広げたはずなのに。
 いつのまにか寝入ってしまったらしい。
 つけっぱなしのテレビでは、主婦向けのワイドショーが流れている。
 レポート用紙にべったりとよだれのしみがついているのを見て、由希はそでで口許をぬぐった。
 一枚や二枚どころではなく、だめにしてしまったらしい。
 それとも、乾かせば使えるだろうか。
「コーヒーでも飲も……」
 声まで寝ぼけている。
 由希はのろのろと立ち上がり、緩慢な動作でやかんに水を入れた。
 と、そのとき、電話が鳴った。
 由希はやかんを持ったまま、電話のところまで走っていく。
「はい、雪村です」
 しばしの沈黙ののち、相手は咲希の通う高校名を言った。
 若い男の声だった。
『担任の久世ですが、お母さんでいらっしゃいますか』
「いえ、残念ですけれど。妹です。なにかあったんですか?」
 てっきり勧誘かなにかだと思っていただけに、由希は声を上ずらせてしまった。
 こんな時間に電話をかけてくるなんて、なにかあったに違いない。
 由希は胸に手を当てて、深呼吸した。
『咲希くんが階段から落ちました。今、病院からかけているんですが』
 由希の手からやかんが落ちた。
 水がぶちまけられる。
 水がじわじわと畳にしみていく。
 すぐに拭かないと、しみになってしまうだろう。
 けれど、そんなことはどうでもいいことだった。
 由希は震える手で受話器を持ち替え、訊ねる。
「病院は、どこですか?」
 家からそう離れていない、大学病院の名が告げられた。
 そこまでなら、自転車で二十分ほどだ。
「母には、こちらで連絡しておきます。すぐ行きますので」
 それだけ言って、由希は叩きつけるように受話器を置いた。
 詳しいことはまだ聞きたくなかった。心の準備ができていない。
「どうしよう……」
 声までも震えてくる。
 涙が込み上げてきた。
 由希は震える指で、母が今いる場所の番号をプッシュした。





 ひらりと自転車を降りて、由希は受付に走った。
「すいません、ここに、雪村咲希って人が運ばれてきてますよね!?」
 白衣の看護婦は、こんな様子で来る人間は見慣れているのか、機械的に307号室です、と言った。
 由希は軽く頭を下げ、今度は案内板まで急ぐ。
 走りたいぐらいだったが、病院内でそれはまずいだろうということで、必死に思いとどまっていた。
 307号室は三階の端だった。
 ちょうど着いたエレベーターに乗り、由希は三階のボタンを押す。
 エレベーターがやけにゆっくり上っているように感じられて、由希はくちびるを強く噛んだ。
 もどかしい時間が終わり、ドアが開く。
 由希は飛び出し、足音をたてないように走った。
 307号室の前で立ち止まり、めいっぱい息を吸い、吐く。
 控えめにノックして、中に入った。
 そこは個室だった。
 白ばかりの殺風景な部屋で、色があるのはベッドに横たわる咲希と、その隣でうなだれる悠だけだった。
「おにーちゃんは……?」
 入ってすぐのところに立ったまま、由希は言った。
 悠は答えない。
 無視しているのではなく、本当に気づいていないようだった。
 由希は動くのさえ悪いような気がした。この部屋には、悠の哀しみが積もっている。
 それはとても重く、由希には口出しできないものだった。
 悠は、咲希がいなければ生きている意味がないのだと、いつか真剣な目で言っていた。
 嘘などたったひとかけらもない。
 そのとおりなのだろうと由希は思った。
 悠と咲希の間には、由希が立ち入ることを許されないほどの絆がある。
 ふたりは、いつだってふたりだけなのだ。
 本当の意味では、ふたりの世界にはふたりしかいない。
 由希もいない。
 おそらく、玲司もいないだろう。
 様々な局面で、由希はそれを実感させられる。
 そのたび、胸がちりちり痛む。
 もとはひとつのたまごだった咲希は、とうに由希を必要としなくなっているのだ。
「ん……」
 小さなうめきが、由希を現実に引き戻した。
「咲希……!」
 悠が歓喜の声を上げる。
 由希はベッドに駆け寄った。
「俺……どして……」
 たった今、長い長い微睡みのふちから舞い戻ったような顔で、咲希はゆっくりとまばたきを繰り返した。
「咲希……」
 悠は答えず、ただ名だけを呼んだ。
 いとしげに、咲希をその腕の中に抱きしめる。
 子供が母親にすがるかのような仕種だった。
「――ああ、そっか……俺、階段から落ちて……」
 咲希は上体を起こし、悠の髪を手で梳いた。
 しがみついて離れない悠をうっとうしがるでもなく、咲希はいとおしむような眼差しを向けていた。
 見ている由希が赤面してしまいそうなほど、咲希は視線で愛情を語っていた。
 由希はそこにはいなかった。
 少なくとも、ふたりの意識からは除外されているようだった。
 ふたりきりの閉じた世界。
 そこで、咲希は惜しみなく限りない愛情を悠に与える。
 悠も、咲希だけを見つめる。
 ほかのどんなものも、必要ではないと切り捨てて。
 今、ここに広がっている世界には、由希の居場所は用意されていなかった。
 由希は異端者であり、幽霊のようなものだった。
「咲希がどうにかなったら、どうしようかと思った」
「俺はどこにも行かないし、どうにもならない」
 咲希が自信たっぷりに言い切る。
「それでも、心配だった。もうこんなこと……」
「悪かったよ」
 照れたような咲希の声を聞きながら、由希は病室をあとにした。
 静かにドアを閉める。
 ドアに背中をつけたまま、由希はその場に座り込んだ。
 涙をこぼしたくなかったから、上を向いた。
 視界がにじむ。
 多分、どこかで、由希は信じていたのだ。端のほうだったとしても、居場所があるのだと思いたかったのだ。
 そんなこと、あるはずがないのに。
 あのふたりにはふたりの世界があって、それはとうに完結している。
 それくらい、本当はわかっていたはずなのだ。
 認めたくなかった。
 咲希に置いていかれたことを、信じたくなかった。
 普段、どんな態度をとっていたとしたって、由希は咲希を好きだった。
 自分に一番近い存在なのだと思っていた。
 いったいいつから、こうなってしまったのだろう。
 咲希にとって、悠が一番になってしまったのはいつだろう。
「――由希ちゃん?」
 気づけば、上を向いたかいもなく、涙はぽたぽた落ちていた。
 そして、涙が少なくなったぶんだけ鮮明になった視界には、玲司が大写しになっていた。
 前髪が触れあいそうなほど近くに、玲司の顔がある。
「中、入らないの?」
「おにーちゃん、起きて、今、中原さんと話してるから」
 由希はそでで目許をぬぐった。
「ああ、ふたりして愛の世界を築いちゃってるわけね。まったく、玲司くんが気を利かせてコーラ買ってきてあげたのに」
 首をまっすぐに戻して、由希は玲司を見た。
 玲司はコーラの缶を二本、持っている。
「なんで二本なの?」
「咲希ちゃん、ひとりで一本飲めないからね。いっつも、悠くんと半分こしてるんだよ」
「ほんっと、呆れるくらいらぶらぶね」
 ばからしくなった。
 由希は立ち上がり、ズボンについた埃を払う。
「おにーちゃんたちは放っておいて、飲んじゃわない?」
「そうしよっか?」
 玲司がいたずらっぽく笑った。
 缶をひとつ、渡してくる。
「あーん、もう、あのふたりって妹でさえ入る隙間ないのよね。傷ついちゃう」
「そうだねえ。玲司くんも、今回の見てて、あきらめようって思った」
 コーラの缶を激しく振りつつ、玲司が言った。
「ちょっと、それ、やばくない?」
「え?」
 玲司は手にした缶を見て絶句する。
「うっわ、どうしよ。つぶ入りオレンジジュースばっかり飲んでるから、つい」
「今開けたら大惨事ね。で、あきらめるってどうして?」
「んー……なんかね」
「なにをしているんだ」
 玲司が言いかけたのをさえぎって、声がした。
 良一だ。
 見ると、美知子と並んで立っていた。
「見舞いに来たのよ。悪い?」
 けんか腰に答えてやる。
 どうしてここにいるのか、と由希はなじってやりたい気分だった。
 こういうときばかり父親面をする良一は、由希にとっては邪魔で不快で目障りなものだ。
「謹慎中に家を出るとは何事だ」
「放っといて。おかーさんに連絡したのだってあたしよ、そのおかげでここに来られたんでしょ? 感謝されたっていいくらいだわ」
「由希ちゃん……」
 玲司の手が肩にかかった。
 たしなめるような声の響きに、由希はますます依怙地になる。
 由希は良一をにらみつけた。
 視線で人が殺せるなら、由希はとうに人殺しだ。
「咲希はどうなの?」
 和服のままで、化粧もしていない美知子の声が雰囲気を和らげた。
「目を覚ましたところよ。中原さんも一緒」
「そう、なら安心ね」
 美知子は病室に顔を向け、目を細めた。
「それにその男はなんだ? あの写真の男だろう」
 良一が不機嫌そうに吐き捨てた。
 そして、せせら笑いながら、
「見舞いは口実で、そいつに会いに来たんだな」
 言った。
「ふざけないでよ!」
 一度は収まった怒りがまた湧いてきて、由希は良一につかみかかろうとした。
 それを玲司が止める。
 邪魔をしないで、と言おうと振り返り、由希は口をつぐんだ。
 玲司は怒っているように見えたのだ。
 静かに、静かに。
 表情はといえば、いっそ穏やかなほどだ。けれど目は深い怒りに燃えている。
 由希をうしろに押しやって、玲司は良一の前まで行った。
「その言い方は、ないでしょうに」
 低い、押し殺した声で言う。
 赤い缶を胸の前でかまえ、プルタブを引いた。
 コーラが噴き出す。
 茶色の液体が、スプレータイプの殺虫剤のように良一を襲った。
 とっさのことで動けなかったのか、良一はまともにコーラをかぶってしまう。
 髪やあごからコーラがしたたり、服には茶色のしみができた。
「まあ、大変」
 少しも大変そうではない口調で美知子が言った。
 美知子はコーラの直撃を避け、変わらない様子でいる。
「由希ちゃんは本当に、咲希ちゃんを心配してました。侮辱しないでください」
 玲司の声音は厳しかった。
 缶を良一にもたせて、由希のところに戻ってくる。
「行こう、由希ちゃん」
 なんとなく、拍子抜けしてしまう。
 言いたかったことを先に言われてしまったので、ほかにはもう言うことがなかった。
 うまく、言葉が出てこない。
 玲司が、促すように由希の手を引いた。
 そのまま由希が動かないでいると、もう一度。
 先ほどよりも強い力で引っぱられた。
 視線をさまよわせていると、玲司と目があった。
 いたずらが成功したあとの、それをばらしたくてうずうずしている子供の目。
 ああ、この目が好きだ、と由希は思う。
 なにものにもとらわれない自由な瞳だ。
 由希が持っていないものだ。
 疎外が怖くて、咲希と悠を負い目に思ってしまっている、自分。
 反発も反抗もするけれど、どういうわけか決定打を与えることをためらって、良一を拒否しきれない自分。
 由希はそんな自分が嫌いで、けれどもそれ以外のなにものにもなれないことを知っている。
 玲司ならそれができるだろうことも。
 知っている。
「行くなら、人のいないところがいいわ」
「了解」
 明るく言った玲司を追って、由希は走り出す。
「なにをするんだ!」
 良一がうしろで叫んでいたけれど、由希には少しも気にならなかった。
 玲司も、それは同じだろう。





 階段を駆け上がり、屋上にたどり着く。
 もの干し竿がたくさん並んでいて、シーツが風にはためいている。
「ほら、向こうに行けば人には見えないと思う」
 玲司が指したのは、もの干し竿の向こう側。
 たしかにあそこなら、シーツに隠れて入り口からは見えないだろう。
 由希はうなずく。
 玲司とふたりでゆっくり歩いて、シーツの向こうに隠れる。
「――ねえ、おにーちゃんのこと、どうしてあきらめようと思ったの?」
 風になぶられ、乱れる髪を手で押さえる。由希は静かに口にした。
「ん……なんかね、あのふたりを見てたら、勝手に想ってることさえ許されないような、そんな気がしたんだよね」
 ひとことひとこと言葉を区切りつつ、玲司が言う。
 よほど大量の整髪料を使っているのか、玲司の髪はまったく乱れていない。
 玲司もやはり、由希を置いて行ってしまう。
 そう思うと、由希は口の中に苦いものが広がるのを感じる。
「別にいいじゃない、好きでいるくらい」
 好きでいるということさえいけないのなら、由希はいったいどうしたらいいというのだろう。
 望みはないに等しいのだ。
 玲司は、由希の双子の兄を好きだった、のだから。
 同じ顔をしているということは、有利なことに思えるかもしれない。
 けれど、違う。
 由希は、身代わりにはなりたくないから。
 咲希と同じ顔をした人間だから、ではなく、由希そのものだから、と好きになってほしいと思う。
「たしかに、悪いことじゃないと思うけど」
 いいことでもないと思うよ、という言葉があとに続きそうな気がした。
 由希は耳をふさいでしまいたくなった。
 なら、どうすればいいというのだろう。
 好きだという気持ちは、どこへ葬り去ればいいのだろう。
 消してしまうことのできない思いを、どこに埋めればいいのだろう。
「――なら、どうしたらいいのよ」
 ぽろり、と言葉がこぼれた。
「思いきって言ってみるとか、そのままあきらめるとか……かな。振られちゃえば、かえってすっきりするかもしれないし」
「だったら、あたしを振ってよ」
「……え?」
 玲司が間の抜けた声を出す。
 由希はひっそりとため息をついて続けた。
「鈍い人。あたしが好きなのは、あなただって言ってるのよ!」
 型で息をしつつ、由希は黙り込んだ。
 風がふたりの間を駆け抜けていった。
 シーツのはためく音さえも、鮮明に由希の耳に届く。
「……ゴメンね。由希ちゃんはいい子だと思うけど、」
 玲司は今にも泣きそうな声を出した。
「いいわよ、謝らないで」
 泣きたいのは由希の方だ。
 けれど、玲司の言葉をさえぎって、由希は言い切った。
「でも、友達でいてちょうだい」
「――強いんだね」
 玲司はうつむいた。
 声には心なしか張りがなく、罪悪感に縛られているだろうことが推測できた。
「そんなこと、ないわ」
 返しながら、細く長いため息をつく。
 強いのなら、多分、こんなに悩みはしていないはずだったのだ。
 兄のことも、父のことも、玲司のことも。
 ひとりでなにもかも乗り越えて行けたはずだ。
 けれど、由希はまだ惑っている。
 どこにもたどり着けてはいない。
「あたしは、ひとりじゃなにもできないもの」
 ひとつのたまごの片割れの、兄が一緒でなければだめだ。
 それではいけないのに。
 ――玲司は、答えなかった。
 由希も、それ以上なにも言わなかった。














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