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たとえ、どんなキミであっても
作:浅葉りな


   1

 ふっ……と意識が遠のいた。
 ヤバイな、と思う。ここで倒れたら、アスファルトとキスするはめになる。あとで痛いだろうなぁ。
「ちょっと……大丈夫ですか?」
 でも、おれの予想に反して、優しく抱きとめられた感覚があった。
 うしろからだったから、顔は見えない。
 身体をひねって顔を仰ぎ見ようとしたけれど、おれが意識をたもっていられたのはそこまで。
 安堵もあって、抗いさえせずに意識を手放してしまった。



「……」
 うめき声をあげようとして、のどを押さえる。
 そうだ、声は出ない。出るはずがなかった。
「ああ、やっと気がつきましたね」
 横から声が降ってきた。体の下にあるやわらかいふとんの感触だとか、別荘風の見慣れない調度品が置かれた部屋の中にいることとかを不思議に思うより先に。
「放っておくわけにもいきませんでしたので、家まで連れてきてしまいました。別に他意はありませんので、お気になさらず」
 声のした方を見ると、男がいた。ハーフめいた整った顔立ちをしている。薄い茶色の髪と、同色の瞳には違和感がなかった。こういうのって軽そうに見えるものなのに、この人にはそれがないんだ。
 ポロシャツにスラックスっていうラフなかっこうなのに、そこはかとなく気品がただよっている。
 おれは無作法だと知りながら、周囲の様子をうかがった。あれがないと、会話ができない。
 目当てのものはイスの上に置いてあった。
 イスの上のかばんを持ってきてくれるよう、身振り手振りで伝える。
「あれですか?」
 彼はおれのかばんを指しながら言った。
 おれはうなずく。
 いぶかしげな顔をしていたけれど、男はかばんを取ってきてくれた。
『ありがとうございます。声が出ないので、これで失礼します』
 かばんから出したB5横置きサイズのホワイトボードに、お世辞にもきれいといえない字でつづって見せる。
「様子がおかしいと思いましたが……そういうことでしたか。ところで、お名前は? 電話番号も教えていただければ、連絡もしておきますが」
『広岡久司です。ちゃんと帰れますから、気にしないでください』
「もう遅いですよ。一度くらいは連絡を入れておきませんと、ご家族も心配なさるでしょう」
 心配なんかされるわけない。そう思ったけれど黙っておいた。
 腕時計に目をやると、もう六時だったから。家を出てきたのは十時だから、普通の家だったら確実に心配されてるはず。ちょっと図書館に行くって言って出てきて、こんなに遅くまで帰らないのはおかしい。
 ――そうだ、図書館。
 春休みの課題をそろそろやらなきゃいけなくて、資料を借りに行く予定だったのに。こんな時間じゃ、とっくに閉まっているだろう。
 ホワイトボードに電話番号を書いたあと、おまけのように『お名前は?』と書いた。
「ハルナサトシです」
 どっちも名前みたいだ。
 ハルナさんはおれのペンを抜き取って、『榛名哲』と書いた。これでハルナサトシと読むらしい。
「では、電話してきますので。それと、なにか欲しいものがありましたら言ってください。ついでに持ってきますから」
 立ちあがろうとしたおれを制止して榛名さんが続ける。
「しばらくおとなしくしておいた方がいいですよ。病人は遠慮なんかするものではありません」
 おれのは病気じゃないんだけど……。ああ、でも、寝不足で倒れるのも病気にはいったりするのかな?
『じゃあ、水を一杯いただきたいんですが』
 榛名さんが好意で言ってくれてるってことがわかったから、結局、素直に受け取っておくことにした。
「かしこまりました」
 執事みたいに礼をして、榛名さんは出ていった。
 彼がどことなく楽しそうに見えたから、ほっとする。いかにも、わざわざしてやってるんだ、みたいな態度をとられるのが一番苦手だから。
 榛名さんはきっといい人だと思う。大人はあまり好きになれないけれど、榛名さんなら……。




   2

 次の日、おれは榛名さんの別荘の前に立っていた。 図書館に行くついでに昨日のお礼を言いに行くよう、祖母に菓子折りを持たされてしまったんだ。
 昨日、別荘風の、なんて思ったのは大正解で、本当に別荘だったらしい。今時そんなの持ってる人がいるんだな、なんて思うとすごい気がする。実際には多いのかもしれないけど、おれの周りにはそんなもの持ってたりする知り合いはいない。
 おれとしては、居心地の悪い祖父母の家にいるよりか、こっちに来る方がよかったから大歓迎ではあるけれど、どうにも気後れしてしまう。
 ……やっぱり、菓子折りのランクをもうひとつ上げとくべきだった。
 榛名さんの別荘はちょっと変わった造りをしていて、だから余計にインターホンを押しにくかった。
 なんて言ったらいいのか――そう、洋館って感じの建物。歴史の教科書に出てくる、鹿鳴館みたいな外観なんだ(というか、おれが名前を言える洋館って、鹿鳴館しかないんだけど)。中は、おれが見た限りでは、現代風でホテルみたいだったけど。
 でも、せっかく来たわけだし。決心してインターホンに手をかける。
 押してからしばらくたって、館の扉が開いた。
「……どうしたんですか?」
 姿を表した榛名さんは、昨日と同じようなポロシャツとスラックス。でも、昨日とはどこか違う。きっと似たような違う服、なんだろう。
『昨日のお礼にうかがったんです』
 大きめに書いて掲げる。見栄えはよくないけど、こうしないと意志の疎通がはかれないんだからしょうがない。
「わざわざありがとうございます。こんなところで立ち話もなんですから、どうぞ」
 言われるままに中に入る。何気なくおれを招き入れてくれる仕草が、どこかいい家の跡取息子って感じでさわやかだ。
 昨日はそれどころじゃなかったからよく見なかったけれど、館の中は入った瞬間からホテルみたいだった。外から見ると普通の洋館なのに(洋館を“普通の”って言うのもなんかアレだけど)、カウンターがあったりする。従業員がひとりでもいたら、ホテルって言われても信じられそうだ。
「ここは、もともとはホテルになる予定だったんですよ。でも、バブルのあおりをくって計画が頓挫しましてね。遊ばせておくのももったいないしで、たまに、掃除がてら泊まりに来てるんですよ」
『ここには、ひとりで?』
 ボードを見せると、榛名さんはあでやかに微笑した。男の人に“あでやか”なんて形容を使うのはおかしいのかもしれないけど、そうとしか表現しようのない笑みだったんだ。百年に一度だけ咲く花が、月影の中で固いつぼみを徐々にほころばせていくかのような。
「そうですよ。もっとも、最近は暇を持て余しはじめていますが。ひとりだと、やることがだんだん尽きてきますから」
 映画なんかでおてんばなヒロインが滑り降りるような、カーブを描いた階段を上がって、明るい部屋に通される。
 上を見ると、天井のほとんどがガラス張りだった。あれはどうやってカーテンを引くんだろう、なんて心配をしてたら、それを察したのか榛名さんが吹き出した。
「ここは、一日中あのままなんです。星空も見られるんですよ。……でもそのおかげで、絨毯が色褪せして仕方ありません」
『設計ミス、ですか?』
 榛名さんの言う通り、絨毯の色はすっかり褪めてしまっている。しかも日当たりに差があるらしくて、濃淡差ができていた。
「居心地はいいんですよ。人を中心に設計したからかもしれません」
『人を中心にって、いいですね』
 維持費なんかを気にせずに、単純に住む人のことを考えて作られた家。なんだか、あったかい感じがした。
 ここがこんなにも居心地がいいのは、きっと、そのせい。おれがなにより望んでいるものが、確実に存在しているからだ。
「ここで待っていてくださいね。お茶でも淹れてきますから」
 出て行きかけた榛名さんに、慌てて菓子折りを押しつけた。なにも言わないでやったのはちょっとまずかったかな、と後悔。
「ありがとうございます」
 けれど榛名さんはやわらかく微笑んでくれた。
 おれにイスを勧めて、榛名さんは出て行く。
 家主がいなくなったのをいいことに、おれはまた部屋の中をみまわした。さすがに、榛名さんの前でじろじろと見るのは気がひけるから。
 おれが勧められたイスは、リゾートホテルのバルコニーに置いてありそうなものだった。白くて、同じデザインのテーブルにパフェが乗ってたりしたらぴったりだ。
 テーブルセットは窓のそばに置いてあった。庭が見渡せるような大きい窓で、イギリスかどこかに迷い込んだみたいに錯覚させられる。もっと暖かくなったら、さぞかし花が綺麗だろう。
 窓から少し離れた壁際には、CDコンポと本棚。本棚にはCDがたくさん入っていた。文庫本は少々。
 イスの上にかばんを置いて、CDを見に行った。音楽はジャンルを問わず好きだから、どんな曲があるのか興味がある。
 指紋をつけないように注意して手に取った。
 どれもこれも、クラシックだった。歌のある曲はほとんどなくて、あってもオペラか合唱曲。
 チャイコフスキー、メンデルスゾーン、ショパンなど誰でも知っている作曲家のものが多い。でも、同じくらい、マイナーな作曲家のものも多かった。
 ――涙が、のどの奥まで来ている。
 懐かしくて懐かしくてたまらない。声さえ出れば、歌のひとつも口ずさんでいたかもしれない。
「お口に合うかわかりませんけど。紅茶でよかったですか? あれ、久司さん?」
 榛名さんは、戻ってくるなり驚いたような声を出した。
『紅茶は、好きです。すいません、勝手にCD見てたりして』
「かまいませんよ。なにかかけましょうか?」
 テーブルの上に運んできた紅茶とケーキを置いて、慣れた様子でCDを選び出した。タイトルに「ワーグナー」とあるのが、ちらりと見えた。
 やがて流れ出した曲は、オペラの一部らしかった。話の邪魔にならない程度に音量をしぼって、榛名さんは女の人をエスコートするみたいにしておれをテーブルまで連れて行く。
「自家製なので、味の保証はありませんが」
 と、向かい側からケーキを勧めてくれる。
 見ただけでふんわりしてるのがわかるチーズケーキで、店で売っていたっておかしくなさそうだ。
『榛名さんが作ったんですか?』
「ええ。料理は好きですし、外食ばかりでは不経済ですからね。似合いませんか?」
 最後の方に拗ねたようなニュアンスがあった。大人の男の人に言うのもなんだけど、可愛い感じだ。
『そんなことないです』
 正直、この人に料理は似合わないと思う。でも、フランス料理とかイタリア料理とか――そういう、気取った料理なら似合いそうな気もする。
 やたらと高いシェフの帽子をかぶって、卵白をあわ立てる榛名さんを想像して、吹きだしそうになってしまった。どんな顔をしてケーキなんか作るんだろう?
「似合わない、って顔に書いてありますよ」
 榛名さんは気を悪くしたふうでもない。朗らかな笑い声をたてた。
「そういえば、音楽に興味がおありなんですか?」
 指で目許を拭いながら、ついでのように訊ねてくる。
『歌が好きなんです』
 それだけ、書いた。
 ちゃんとわかってくれるだろうと思ったし、それ以上書いたら泣いてしまいそうだったから。
「綺麗な声をしてらっしゃるんでしょうね」
 榛名さんにしてみれば、何気ないひとことだったんだと思う。
 でも、おれの涙腺をゆるゆるにするにはそれだけで充分だった。
「っ……」
 今までたまりにたまった涙が、ついに反乱をおこした。
 いくら止めようと思っても止まらなくて、あとからあとからあふれてくる。ポケットを探ったけれどハンカチはない。しょうがなく袖でふいていたら、榛名さんがハンカチを差し出してくれた。
「なにか、悪いこと言ってしまったんでしょうか」
 榛名さんの顔がにじんで見えた。声音から、心配してくれてるんだってことがわかったから、遠慮なくハンカチを受け取った。
 目許にハンカチを当てながら、首を横に振った。榛名さんは悪くない。
「ケーキ、食べてください。甘いものを食べれば落ち着きますよ」
 言われたとおり、ケーキをひとくち。
 ほわほわやわらかくて、ほんのり甘いチーズの味がする。家庭の味って感じの、優しい味だった。
 鎮まったと思った反乱が再燃してきて、また、涙がこぼれた。



 榛名さんはなにも聞いてはこなかった。
 あのあと、しばらく普通に話をして、図書館で借りるはずだった本が書斎にあるというから貸してもらって、おまけに宿題まで教えてもらった。
 そんなこんなで夜になってしまったけれど、なかなか充実した一日だったように思える。
 祖父母の家まで送ってももらってしまった。
 おれは、静かに勝手口から中に入った。
 典型的な日本家屋だから、帰ってきたのがわからないはずはない。電気はついているのに、誰も出てくる気配はなかった。
 おれはそれくらい、ここではどうでもいい存在だった。
 テーブルの上には、ご飯に焼き魚、みそ汁があって、ラップがかけてある。でも、それはおれのために用意されたって感じじゃなくって、残り物をそのままにしてあるって雰囲気だった。
 結局、おれは厄介者なんだろう。声も出ないし、おまけに可愛げのある年代はとうに過ぎている。春休みの間だけって約束で来た祖父母の家だけど、自宅と同じで針のむしろ同然だった。
 冷たい夕食を口にしながら、おれはくだらないことを考えていた。
 もし、榛名さんが家族だったら、って。
 そんなこと、無理だってわかってるのに。




   3

「水族館に行きましょう」
 なんの脈絡もなく、唐突に榛名さんが言った。
 おれの顔には、「は?」って書いてあったに違いない。油性マジックの太い方でがりがりと。
 だって、ついさっきまで宿題を見てもらってたのに。
 榛名さんがとんでもないことを言い出したのは、春休み終了の前日までかかるだろうって予想だった古典の課題が、たった二日で終わったっていう奇蹟の直後のことだった。
 しかも、おれは十五歳。生意気盛りの小学生じゃあるまいし、水族館に行って喜ぶような年じゃない。
「夕食は近くのレストランで食べて……少しくらいなら遅くなってもかまいませんよね?」
 榛名さんの中では、水族館行きは決定事項らしい。
『どうしてですか?』
 言いたいことはたくさんある。でも、書いて伝えないといけないわけだから、訊ねられることは限られてくる。声がないって、かなり不便だ。あらためて実感。
「早めに宿題を仕上げたご褒美、ということでどうでしょう。もしくは、一日中宿題につきあったぼくへのご褒美」
 ……男二人で連れ立って、水族館に行ってなにが楽しいんだろう。ああいうのは、女の子と行くもんじゃないだろうか。
 思ったけれど、言わないでおいた。声が出なかったので。
『別にいいですけど。九時くらいまでなら』
 ボードの字を見たとたん、榛名さんは顔を輝かせ、
「よかった。誰かと水族館に行くのは、はじめてなんです」
 小さな子供みたいに、嬉しそうな声を上げた。
 言葉の裏に、寂しい、ってつぶやく小さい榛名さんを見た気が、した。



 隕石でも降ってきたかって声で祖母が叫ぶまま、窓の外を見て、おれは愕然とした。
 愕然って言い過ぎかもしれないけど。
 なんなんだ、あれは。
 それが第一印象。
 まあ、おれみたいな庶民の反応としては、普通なんじゃないかな。
 だって、家の前に外車が止まってるんだよ?
 しかも、運転席に座ってるのはどこかにデートにでも出かける大学生、ってかっこをした榛名さんで……。
 おれは、ちょうど屋根裏にいたものだから(というか、おれは屋根裏に寝泊りしてるんだ。なんか、和室って落ち着かないから、好き勝手に改装できる屋根裏を借りてるってわけで)、榛名さんが軽く手を振っているのさえよく見えた。
「迎えに来たんですが、早かったですか?」
 言われてはじめて、腕時計に目をやる。安物のデジタル時計は、約束の時間――十一時を示していた。
『すぐ行きます』
 と書いたボードを掲げる。榛名さんがうなずいたのを見届けた。
 それから、昨日のうちに用意しておいたバッグをつかんで、玄関へと走った。
「久司、くれぐれも粗相のないようにね」
 榛名さんの乗ってきた車に気後れしたみたいで、祖母が耳打ちしてきた。
 背中はしゃんとしているのに、祖母はやたらと小さく見えた。髪は真っ白で、目はこぼれ落ちそうなほどだ。しわだらけの顔に愛想笑いを貼りつけて、玄関先を掃いていたほうきを持ったまま、祖母は深々と頭を下げた。
「お孫さんをお借りします。帰りもちゃんと送ってまいりますので」
 榛名さんはにこやかに応えた。
 そして、車から降りてきて、助手席のドアを開けてくれる。
 慣れた手つきだったものだから、今までに何人もの人に(しかも、女の人に)こういうことをやってきたんだろうなぁ、なんて思ってしまう。ちょっと悔しい。
「どうかなさいましたか?」
 運転席に戻ってシートベルトをしめながら、榛名さんが訊ねてくる。
 おれはふるふると首を振った。
 別に、榛名さんが誰となにをしようと、おれの知ったことじゃないはずだ。
 あんな、まるでやきもちでも妬くみたいなことを考えるなんて――
 普通じゃない。
 絶対。



 水族館に直行――かと思いきや、まず連れてこられたのは《歌うクジラ》っていう名前のレストランだった。水族館併設の店で、青系統でまとめられた可愛らしい店だ。
 こういうとこ、女の子を連れてきたら喜びそうな気がする。
「あそこにしましょう」
 榛名さんは、店の一番奥のテーブルを指した。
 別に、人目を忍ぶ恋人同士でもあるまいし、もっと明るい所を選んでもいいのに。でも、榛名さんはおれに気を遣ってくれてるんだろうから、異議は唱えずにおいた。
 平日だからだろうけど、店内はまばらにしか人がいない。
 テーブルの間をぬって、胸元にファンシーな魚のプリントがあるエプロンを着たウェイトレスが冷水を運んできた。
 かわいたくちびるを湿らす意味もこめて口に含んだ水は、頭にキンとくる冷たさだった。この冷え具合からして、よほど暇を持て余していたらしい。
「ご注文がお決まりになりましたら、声をおかけになってくださいませぇ♪」
 ウェイトレスは、あの脳天に突き刺さりそうな声で決り文句を述べ、メニューを置いた。
 笑顔は営業なんかじゃないんだろう。榛名さんにちらちらと視線を投げていた。
『モテますね』
 冷やかしてそう書くと、
「別に、よくあることです」
 大したことではなさそうに答えてきた。
 冷やかしがいがないな――と、メニューに目を移す。
 魚料理が多いものの、普通のファミレスみたいな料理もあって、ほっとした。おれは好き嫌いが多いから、あんまり新しい味に挑戦しようとは思わないたちだ。
「でも……残酷だとは思いませんか?」
 なんのことやらわからずに、おれは黙って榛名さん見つめた。
 榛名さんは、わずかに首をかしげ、続ける。
「だって、水族館で生魚を見たあとに魚料理ですよ。刺身定食なんか、怨念のかたまりって感じがするじゃないですか」
 おれは吹き出した。
 まさか、水族館の魚を料理してるわけないじゃないか。水族館の魚は、観賞用であって食用じゃない(と、思う)し。生け簀じゃあるまいし。
「で、注文はなににします?」
『まぐろご飯とチョコパフェ』
「――すごい食べあわせですね」
 けれど、あからさまに笑いをかみ殺している榛名さんが注文したものといえば、きのこのパスタとサラダ、ポタージュスープ、アイスクリーム。
 なんだか可愛らしい、なんて思うのはおれだけなんだろうか。




   4

 水中をくらげがふよふよと漂っている。
 水に同化しそうなくらい、くらげは頼りなく見えた。
 くらげの水槽の中をぶちぬくようにしてつくられたトンネル状の通路を歩きながら、おれはただただ感心していた。
「くらげが好きなんですか?」
 訊ねられ、うなずく。
 くらげはあまり人気がないらしく、昼食どきを少し過ぎた今頃の時間帯には、おれたちくらいしか人はいない。
 だけど、おれはくらげが好きだった。
 どうして、って問われても、明確には答えられない。
 なんとなく、漠然と「ああ、いいなぁ」って思うってだけなんだから。
 あえて理屈をつけるとするなら、あの根なし草的なところとか、ほかのものと争おうともしないところとかかもしれない。
 もし、おれがくらげだったら――
 そう思える。
 犬や猫じゃダメだ。哺乳類は、親を知っているから。
「……どうかしました?」
 顔をのぞき込まれて、はじめて気づく。
 おれの頬を涙が濡らしていることに。
『なんでもないです』
 小さくボードに書いて見せると、榛名さんはおれの頭に手を添えて、自分の胸に押しつけた。
 泣かせてくれるつもりらしい。
 ほかに人がいないことを幸いに、おれは声を上げずに涙を流した。
 そうしてあらためて気がついた。
 くらげを懐かしいって思うのは、ひとりでいたくないからだってこと。
 くらげはたとえひとつきりであったとしても、水に包まれている。水は暖かく、優しい。決してくらげを拒まないし、見捨てもしない。
 海水から離れては生きていけないくらげは、水に浮かぶということで常になにかとつながっている。水を通してほかのものと触れあっている。
 水の中へ――暖かい水の中へ帰りたいと、希う。
 そういうのを、胎内回帰願望、とか言うらしい。
 おれは、きっといつまでも微睡んでいたかった。ブリザードの吹き荒れるこの地上に、置き去りにされたくはなかったはずだ。
 せめて、そばにいてほしかった。手を握っていてほしかった。
 どうして母さんは、おれを捨てて行ってしまうんだろう。どうして父さんは、化け物でも見るような眼でおれを見るんだろう。
 ――はじめに憎んだのは、どっちだったろう。
「そういえば、歌が好きだって言ってらっしゃいましたよね」
 頭上から聞こえた榛名さんの声で、おれは現実に引き戻された。
 たった一度話題にのぼっただけなのに、覚えていてくれたんだ。
 慈しむように頭をなでてくれる手を失いたくなくて、榛名さんの胸に顔を押しつけたままで首をたてに振った。
「ちょっと行きたいところがあるんですが、よろしいですか?」
 おれにはNOと言えるはずがなかったし、もし言えたとしても言うつもりはなかった。
 そっと顔をあげて、承諾の意を伝える。優しく身を離しながら。
 離れたことによって去った温もりを惜しいと思ったのもつかの間だった。
 榛名さんはおれの肩を抱いて歩きだす。
 男に肩を抱かれているとか、許可も取らずにされたこととか、そんなのは全然気にならなかった。
 人がいないっていうのもあるけれど――肩を抱くなんて恋人同士みたいな仕種にこめられているのが恋愛感情とはまた別のものだと思ったからかもしれない。母鳥が雛を護るときのような優しさに、おれが求めていた温かさに満ちていたからなんだろう。
 榛名さんは、おれの歩幅にあわせて歩いてくれた。そうして、南に住まう極彩色の魚の泳ぐ水槽を過ぎ、仰々しい青い扉の前に連れていった。
 鮮やかな青い扉には、小さなプレートがついていた。プレートは白くて、丸文字で「Sea songs」と印刷されていた。
 近くの壁には開演時間が記されているプレートが貼ってある。ちょうど今からはじまるところだった。
「目を閉じてください」
 言われたとおりに下ろしたまぶたの上に、静かに指が添えられる。
 手を引かれて扉をくぐった。
 ――ぼくを出迎えたのは歌だった。まさしく海の歌だった。
 榛名さんの指がはずされておれは期待をこめてまぶたを上げた。
 そこは海の中だった。
 うすぼんやりと霞む緑がかった蒼い水。ときたま、あぶくが生まれては消える。
 もちろん、それは四方の壁――もといスクリーンに映しだされた幻に過ぎないのだけれど。
 海鳥の声。
 イルカの鳴き声。
 魚が跳ねる音。
 潮騒。
 すべてが奇妙に複雑にからまりあって、ひとつの音楽を織り上げている。
 ガラスのように繊細なソプラノも、人の声にも似たヴァイオリンの音色も、変幻自在に歌うピアノも、体の芯に響いてくるような重低音を奏でるテューバも、どれもたしかに綺麗だと思う。オーケストラはどれが欠けても成り立たない、そういうものだから。
 けれど、あっさりとそれらを凌駕するような歌。海が奏でる至上の音楽には、おれが今までに聞いたいかなる音色もかなわない。
 歌いたい――あぁ、歌いたい!
 音楽家、なんてたいそうなシロモノじゃない。おれはただの高校生だ。でも、これを聞かせられて、ただじっとしていられるわけがなかった。
 魂が叫んでいる。純粋に、歌を望む人間の魂が、歌いたいと叫びを上げている。
 それなのに、おれは歌えない。
 声を、失くしてしまったから。
 歌を忘れたカナリアの悲しさを、身をもって実感したような気分だった。
『もうしばらく、ここにいてもいいですか?』
「時間はたっぷりあります」
 誰もいないのをいいことに、おれは部屋のすみっこに腰を下ろした。
 榛名さんもそれにならう。
「こんなふうに座ったのははじめてです」
 そして、はにかんだような笑みを浮かべた。
 もしかして、榛名さんって、本当に良家の子息とかだったりするんじゃないだろうか。
 別荘なんか持ってるくらいだし……。
 だって、普通、誰だって一度くらいは床に座ったこと、あるんじゃないかと思う。
 おれは小さく息を吐いて、ゆっくりとボードに文字をつづった。
『少し、話を聞いてくださいませんか?』
 榛名さんは黙ってうなずいた。
 歌えなかったおれは、別の方法で思っていることを吐き出すしかなかった。いくつもの選択肢はあるけれど、おれはあえて"話す"ことを選んだんだ。
 どうして、声が出ないのか。
 どうして、今頃祖父母の家に来ているのか。
 出会ったばかりの榛名さんに話すことじゃないのはわかっていた。
 でも、榛名さんなら受け止めてくれるだろうとも予想していた。
 春休みが終わったら、もう会うこともないだろうから……そう、思っていたのかもしれなかった。















   5

『おれの両親って、すごく不仲で。生まれてこの方、あのふたりが仲良くしてる記憶なんてありませんでした。両方ともに愛人がいて。うちは崩壊寸前だったんです』
 榛名さんをちらりと見る。彼は口を真一文字に引き結んで、どこか遠くを見ていた。
『どっちかっていうと、崩壊してるのに目をつぶって、家族ゴッコを続けてたって感じでしたね。おれは疎まれてました。罵られた記憶はあっても、抱きしめられた記憶はないです』
 肩に、暖かくて大きな手が添えられた。
 見上げると、榛名さんは穏やかな微笑みを浮かべていた。
 その微笑みに勇気づけられて、おれは丁寧に、そしてなるたけ急いでペンを走らせる。
『でも、なんとかやってました。高校の合格発表の日までは。あの日、合格を告げた直後に、両親が、離婚することになったって言ったんです。それで、お互い、愛人と結婚するって』
 思い出すだけで腹が立ってくる。
 なにも、よりにもよって、あの日に言うことはなかったのに。
 せめて、別の日にしてくれていれば……。
『愛人を紹介されて、どっちと行くかと聞かれました。引きとりたくなんかないって、顔に書いてありましたけど。せっかくの気分に水をさされて、ムカついてました』
 結局、どっちについていったとしても、おれの居場所なんかないんだ。それがわかっていたから。
 別に、離婚でもなんでも、好きにしてくれてよかった。ただ、おれのことは放っておいてほしかった。
 愛していないのなら、触れてほしくなかった……。
『それで、「親権は父さんに。でも、おれはどっちにもついていかない。生活費と、大学出るまでの学費さえくれれば、ここでひとりで暮らすから」って言いました。四人とも、あからさまにほっとしてました』
 じんわりと視界がにじんでくる。
 最近、おれの涙腺はとんでもなくゆるくなっているらしい。
『言っちゃったんです。「ふざけるな、みんな死んでしまえ! なんでも勝手にやってくれ、でも、おれだって好きで生まれてきたわけじゃない!」って。そしたら、母さんの愛人が、帰り道に』
 もう、涙でボードが見えない。
 ――両親の愛人は、あの日事故に遭った。
 一時は命さえ危ぶまれるほどの大怪我で。
 母さんの愛人は左腕切断、父さんの愛人は失明。
 もちろん、おれの言ったことがほんとになったわけじゃないだろうけど。
 ――怖かった。
 もしも、あのとき、あんなことを言わなかったら。
 おれに責任があるわけじゃないって、知っていたはずなのに、両親はおれを責めた。
 そしておれは不眠になり、摂食障害を起こし、声を失った。
 医者には、心因性のものだって言われた。おれの心が弱かったんだ、と。
 自責の念から、自分を緩やかに殺そうとして摂食障害に陥った。また、誰かを呪う言葉を吐いてしまったら、それが本当になってしまうかもしれないという不安から、声を封じてしまった。
 そう診断を下されたおれは、しばらく静養をするという名目で、母方の祖父母の家に預けられた。
 けれど、祖父母さえもおれを疎ましがっていた。
 信心深い年寄りは、おれを気味悪がった。
 その上、母さんはおれの親権を手放した。しかも、それはおれが望んだこと。祖父母とおれは戸籍上は赤の他人だった。祖父母にしてみれば、そんなことさえも気に食わなかったらしい。
 なまじ、両親に比べれば、可愛がられた記憶があるだけに――つらかった。
「泣かなくたっていいんですよ」
 榛名さんの穏やかな声が、砂漠に雨水がしみていくようにすっと入りこんできた。
 だから、榛名さんがおれと向かい合うような位置に移動してきたことにも、両肩を軽く押さえてきたことにも、なんの不審も抱かなかった。
 わずかに開いたままのくちびるが、おれのそれに押しつけられる。
 熱くてやわらかい感触は決して不快ではなかったけれど、普通だったらパニックに陥っても仕方のない事態なわけで――
 一瞬、くちびるが離されたときに、理由を問いただそうと口を開きかける。
 そこにまたくちびるが降りてきて、今度は深く口づけられてしまう。
 ああ、声は出ないんだっけ、なんてことを考えたのもつかの間、榛名さんの舌が、おれのそれを思考と一緒にからめとっていってしまった。
 いまいち焦点の定まらない両の瞳で、榛名さんの色気のある長いまつげを観察するなんていう、どうでもいいことをしてみたりする。
 そんな間にキスは終わっていて、たっぷり余韻を残したまま榛名さんは離れていく。
「……すいません……」
 まるでそれが過ちであったことを宣告するような謝り方だった。
 おれは抱きしめようとしてくる榛名さんの腕を振り払い、ホワイトボードを投げつけた。
 そのまま、振り向かずに走った。
 謝るくらいなら、どうしてキスなんかしたんだろう。
 おれの頭の中で、その問いがぐるぐるまわっていた。
 ――もう、歌は聞こえない。


















   6

 翌日。
 雨が降っていた。春に似合わない、どしゃぶり雨。
 そして、おれの心にも雨が降っている。後悔っていう名前の、苦い雨。
 あのとき、すぐに戻って謝ればよかった……。
 昨日、あのまま帰ってきて、ふとんにもぐりこんでから今まで、おれはそんなことばかり考えている。
 食事もとらずに寝ているっていうのに、祖父母から声はかからなかった。
 薄情だとは思うけど、今はそれがありがたい。誰にも会いたくなかったから。
 もう、なにをするのも億劫で、空腹だっていうのに食欲はない。
 頭を空っぽにしたくて天井のしみを数えはじめた頃、ノックもなしにドアが開いた。
「電話だよ。榛名さんて人から」
 祖母だった。くたびれた洋服を着て、くだびれた顔をしている。
「ちゃんとお礼はいったんだろうね」
 なんの話だ――問おうとして、それが昨日の水族館行きのことだと気がついた。
 おれはうなずく。ホワイトボードは榛名さんに投げつけたままで、おれの手許にはなかったから。
 祖母はそのまま出ていった。
 おれはのろのろとふとんから這い出て、昨日から着っぱなしでしわだらけになった服をのばしながら階下に降りた。
 ここで電話といえば旧式の黒電話で、階段のすぐわきにしつらえられた台の上に乗っかっている。
 電話機の横に放置されている重い受話器を耳にあて、口許に来ている部分を指で叩いた。
『久司さんですよね? 榛名です。少し、時間をください』
 まったく変わりない、榛名さんの声。
 思わず、ため息がもれた。イエス、という意味で指を鳴らした。
『――お話があります。明日四時に、公園で待っていますので』
 少なくとも、怒ってはいなさそうだった。
 ただ、告げてくる声音は淡々としていた。まるで、無理に感情を押さえつけようとしているかのような。
 そして電話は切れた。
 ツー、ツー、という無情な音を聞きながら、おれはしばらくぼーっとしていた。
 榛名さんは怒っていない。
 どんな話があるのかはわからないし、不安ではあったけれど。
 それがただただ嬉しくて、それ以外のことは考えられなくなっていた。
 そのとき、ほんの少しでも考えていたなら――
 あんな結果にならずにすんだかもしれないのに。



















   7

 時計は三時を指している。
 ここから公園までは十五分ってところだから、出るにはまだ早い。
 早く行きたいのはやまやまだけど外はあいにくのどしゃぶりだった。濡れるのは好きじゃない。
 余裕をもって、三時半に出よう。
 待ち遠しかった。
 おれは、朝からずっと、時計ばかり見ていた。ヘッドホンを使って聞いているMDも、ほとんど耳に入ってこない。
 ついこの間まで、ワーグナーだったら何時間聞いていても飽きなかったのに。
 そうやって、時間はゆっくりと過ぎていった。
 金箔みたいにうすくうすく引き延ばされた時間が、十分過ぎ二十分過ぎ……どうにか三十分が過ぎた。
 はやる心を抑えても、公園に急ぐ足は速い。
 雨は思った以上に激しくて、傘なんかほとんど役に立たない。
 服が肌に張りついて冷たかった。
 公園にたどり着いた頃には、吸水性抜群の服は、水を吸ってとんでもない重さになっていた。
 もっと自然を、という声にしたがって造成された公園には、遊具はわずかしかない。しかも、そのわずかな遊具も、釘もボルトも使っていない木製の品。昔ながらの、とでも言うべき工法で作られていた。
 桜の木が何本もあって、固いつぼみをつけていた。あの中には、桜が懸命に作り出したピンクがたくさんつまっている。
 途中、水たまりを踏みつけて、靴の中まで濡らしてしまった。
 PARKという看板のついた入り口から、公園に入る。
 入ってすぐ、遊具を意図的に置かないでいる広場の真ん中に、人が立っているのが見えた。
 傘をさしていない。白いシャツはずぶ濡れで、肌色が透けてしまっている。スラックスにも、かなり水がしみているようだ。
 叩きつけるような雨を身体全体で受け止めながら、見えるはずのない太陽を求めているかのような立ち姿だった。
 ――榛名さん。
 声をかけようかと思って、やめる。
 声が出ないというのもあったけれど。
 榛名さんは、すべてを拒絶してしまっているように見えたから。
 立ちつくしたまま、おれは榛名さんを眺めていた。
 たっぷりと水を含んで、絹糸のような光沢を帯びた薄茶色の髪が、蒼白な頬や額に張りついている。眉間にはしわがより、瞳はどこか虚ろだった。くちびるは血の気を失って紫色になっている上、固く引き結ばれているため、どこか痛々しかった。
 ゆっくりと榛名さんがこっちを向く。
 榛名さんの表情がやわらぎ、花のような微笑みが浮かんだ。
「――久司さん」
 五メートルほども離れているっていうのに、声ははっきりと耳に届いた。
 おれは平静を装った。ゆっくりと、時間をかけて歩いていく。一歩ごと、自分に、落ち着けと言い聞かせながら。
 榛名さんは、影を縫いとめられでもしているかのごとく、動かない。
「来てくださったんですね」
 心底安堵した表情で榛名さんが言った。
 おれは表情を変えず、榛名さんの手の届かないぎりぎりのところで立ちどまる。
「少しでかまいません。話を聞いていただけますか?」
 穏やかに――けれど裡に炎のような激情を秘めた調子で榛名さんは問いかけてきた。
 おれは小さくうなずく。
「……あなたが、好きです」
 告げながら、榛名さんはおれの瞳を見据えてくる。放さないとでも言いたげに。
「Likeではなく、Loveです。あなたが男性だということを承知した上でも、そう思っています」
 驚いてはいた。
 でも、同じくらい、嬉しくもあった。
 暖かいものが心にしみてくる。
 きっとどこかで、おれは望んでいた。自分には、この人が必要なんだと思っていた。
 そうに違いないのだと。
 それは、不思議なほどに強い確信で。
 はっきりとした形で思ったことなんか、今日がはじめてのはずなのに、まるで千年も前から恋をしていたかのような確かさで、あの人を好きだと思う。
 榛名さんは、おれにカミングアウトしているわけで。まっとうな男なら、気持ち悪いとか思うべき場面なのかもしれない。
 だけど、おれの中にあったのはいとしさだった。
 この人は、おれと同じ魂を持っている。
 同じように傷つき、寒さに震えている。
 腕を差し伸べてくれる相手もなく、ひとりで。
 お互いの魂に欠けている部分を、補いながらおれたちは生きていけるだろう。ふたり、ともに在るならば。
 ――けれど。
 おれたちは、どういうわけか男同士で。
 この想いは、世間からは決して許されないものだった。
 こんなにも惹かれあっているというのに。
 魂が、互いに互いを求めているというのに。
 だからこそ、おれはかぶりを振るしかなかった。
「どうしてです? 男同士だから、ですか?」
 身体が熱い。
 今から、おれはこの人を傷つけなくてはならなくて、精神がそれを拒んでいるから。
「そんなことはどうだっていいんです。あなたが声を失っていることさえ、ぼくにとっては大した問題ではありません。その瞳がぼくを映さなくてもいい。耳が、この叫びをとらえることができなくともかまわない」
 鋭く息を吸い、榛名さんは続けた。
「抱きしめたときに、応える腕がなくてもいい。ぼくのもとへと走ってくるための、足がなくてもいい。たとえ、どんなあなたであっても、あなたがあなたであってさえくだされば、それで!」
 榛名さんは走ってきて、おれを抱きしめた。
 その拍子に、おれは傘を落としてしまう。
 榛名さんの身体は、ひどく冷たく――そしてひどく暖かかった。
 いったい、どれだけの時間、この人は雨に打たれていたんだろう。この人の心は、どれだけ長い間、氷水にさらされていたんだろう……。
 おれは、榛名さんの胸を軽く押した。身を離して、見上げる。
 榛名さんは今にも泣きそうな顔をしていた。二十歳を過ぎた大人の表情というよりか、小学生の男の子がするようなそれだった。
 おれも泣き出したい気分だった。
 この人の気持ちに応えることができたら、どんなにかいいだろう。
 けれど、それはできない相談だ。
 世間は許してくれない。たとえどちらかが女だったとしても、高校生と社会人という組み合わせは、誤解と偏見を呼ぶだろう。男同士であるなら、風当たりはさらに強くなるはずだ。
 にも関わらず、榛名さんは社会の評価も気にせずに、なにもかもを捨て去ってでもおれを護ろうとしてくれるだろう。なぜか、そんな気がした。
 だけど――甘えたらいけない。
 一度甘えてしまったら、ずるずると楽な方へ流されてしまいそうな気がする。
 重荷にしかならない。
 おれは結局、榛名さんの負担になることしかできない。
 この人のためにできることがあるとしたら、たったひとつだけ。
 それがどれだけこの人を傷つけるか、わかっている。おれも同じだけ傷つく覚悟はあった。
 ほかに、どうしたらいいか思い浮かばない。
 おれは榛名さんの手をとった。
 大きな手のひらに、指で大きくサヨナラと書く。
 そして、榛名さんを見上げながら微笑した。十五年とちょっとの人生の中で、最高の笑顔だったろうと思う。
 表情に反して、心は紅涙をこぼしていたけれど。
 おれは踵を返した。
 走り去ってしまいたかったけれど、ゆっくりと歩いてその場を去った。
 榛名さんに見られないような場所に行くまで、こんなことはなんでもないんだ、というポーズを取り続けなければならなかった。
 それでも、あふれてくる涙をとめることはできなかった。
 拭うことさえ許されない涙は、雨とまじって頬を伝い、あごの稜線をたどって落ちていく。










   8

 電車に乗るとき、どうしていつもそわそわしてしまうんだろう。
 もう、五つ六つの子供でもあるまいし。電車に乗るたび、おれはいつも疑問に思っていた。
 でも、窓際の座席に陣取って、頬杖をつきながら外を眺めている今、今回の理由だけは明白だと気づいていた。
 榛名さんと別れて、帰らなければならないからだ。
 あんなことを言ったあとじゃ、顔もあわせづらいけれど。
 それでも、姿を見ていたかった。
 おれが榛名さんを突っぱねたあの日から、たった一度の連絡すらもない。
 もしかしたら、この地にとどまったところで、もう会う機会はないのかもしれない。そう思って、ぎりぎり自分を納得させた。
 どちらにしろ、今日で春休みは終わりだから……。
 昨日、濡れながら帰ったすぐあとに、雨はぴたりとやんでしまった。
 外は皮肉なくらい晴れやかだった。
 車内にぶっきらぼうなアナウンスが流れた。扉が閉まる。ゆっくりと、電車は動き出した。
 窓の外に見える民家が、横滑りに移動していく。もちろん、動いているのは電車の方なのだけれど。
 風景が流れていく速度は徐々に増していった。
 鈍行だから、仙台まではしばらくかかる。眠ろうかと外から内に目を移しかけたそのとき。
 見慣れたホワイトボードが目に入った。
 ホワイトボードを掲げているのは榛名さんだ。
 家が途切れて土手が続くようになったあたりに、田舎の風景には似つかわしくない、あかぬけたスーツ姿で立っていた。
 視線は、うぬぼれでも気のせいでもなく、間違いなくおれを追っている。
 一瞬で電車は榛名さんの前を通過してしまったのだけれど、ホワイトボードに書かれた文字はかろうじて読み取ることができた。
"それでも、あなたを愛しています。"
 丁寧な楷書体だった。
 おれは窓を開けようとした。手が震えて、なかなか開けられない。
 それでもなんとか開けて、身を乗り出した。
 遠ざかっていく榛名さんが、ふっと口許をほころばせたような気がしていた。
「榛名さん……」
 自然に、くちびるから言葉がこぼれる。涙の代わりだった。
 榛名さんが豆粒のようになって、最後には見えなくなるまでそうしていてから、車内に戻った。
 さいわい、車内はがらがらで、止めようとする人はいなかった。
 人差し指でくちびるをなぞる。
 震える身体を抱きしめる。
 開きっぱなしの窓から拭きこむ風が髪を千千に乱した。
「それでも、あなたを愛しています……」
 これから、いつも胸にとどめておくべき言葉。
 あの人のことを――モラトリアムな春休みに過ごした一週間を忘れることは、太陽が西から昇っても、ないだろう。
 ふたたびまみえることがないとしても。
 おれはあの人だけを、心に思いつづけることだろう。














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