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【旅路編…民劇】
『劇団民劇来演!』と書かれた看板を山口という若い団員と一緒に公民館の入口に立て付けると、流れる汗を拭おうともせず、一朗は、

「お茶にでもするか?」

 と声を掛けた。
 山口は若者らしい屈託の無い明るい声で返事をし、

「事務所に行ってお茶貰って来ます!」

 と言うや否や、軽やかに走って行った。その軽やかな身のこなし、明るい笑顔、何と無くその全部が一朗には羨ましい位に若々しく感じられた。
 流れる汗が心地良かった。こういう汗をかいたのは何時以来だろうか。公民館の前を二人連れの女が通った。一目で近所の農家の若女房と判る。何の警戒心も抱いていない笑顔で一朗に会釈して行く。

「どうも……。あっ、よかったら観に来ませんか?
 今月一杯はやってますから。」

 一朗の声に、二人の女は返事をするでもなく、再び頭を下げて通りの向こうに消えた。
 山口が盆に茶碗と器に山盛りにされた沢わんの古漬けを載せて持って来た。

「事務所のおじさんが茶請けに持って行けって、これをくれましたよ。」

 建物の段差の所に腰を降ろすと、山口がどうぞと言って茶碗を渡し、土瓶から茶を注いだ。
 少し温かったが気になる程ではない。
 山口の方を見ると、沢わんの古漬けを指でひょいと摘み、大きな口を開けて放り込んでいた。

「うん、旨い!これ、いけますよ。茶請けには勿体無い位だな。こんな出がらしじゃなくて、こう、キューっとやりたくなりますね。」

「君は飲ん兵衛だからなぁ。今は飲む訳にはいかないけど、芝居が跳ねたら何処かで一杯やるかね?」

「坂元さんから誘って貰えるなんて光栄ですね。でも、よくよく考えたら、こんな田舎街に一杯やれる店なんてありますかねぇ……」

「飲み屋とまではいかなくとも飯屋位はあるだろう。そういった店なら酒も置いてるんじゃないか。」

「だといいんですがねぇ。」

 山口の言い方に、心底飲み屋がある事を願うような思いが感じられ、そのおどけた言い回しに一朗はつい笑ってしまった。
 長閑な田園風景と、時折そよぐ風が心地良く、柔らかい陽射しに、満ち足りた思いを感じた。
 この劇団に加わって初めての地方公演。
 以前のドサ回りの時とは違い、都落ちしたとかいった気持ちは起きず、寧ろ心なしかワクワクさえしている。何だか初舞台を迎える時みたいな感覚だなと一朗は思った。
 初めの一ヶ月ばかりは、なかなか団員達の中に溶け込めずにいた一朗も、稽古の後で団員達と車座になって食事をし、茶碗酒を煽るうちに、何と無く忘れていたものを思い出すかのように馴染んで行った。ただ、どうしても馴染めなかったのが、団員達の議論好きな点であった。必ずと言っていい程、酒盛りの後は、これからの日本はどうのとか、労働者がどうしたとかいう話しになる。演劇論や芝居の話しなら、まだ一朗も多少は耳を傾けはしたが、難しい単語や知らない名前が飛び交う会話の中には積極的には入り込めなかった。
 一度、酒の勢いもあって話しの輪に入った事がある。

「何だか皆の話しを聞いてるとまるでアカみたいに感じるんだけど。」

「アカみたいって、その言い方、私達を否定的に捉えてるって事?」

 鉄仮面の野口美月が珍しく顔を赤らめ興奮し、一朗を咎めた。

「別に否定してるわけじゃないよ。ただ君達がさっきから労働者がどうのとか、資本主義がどうのとかって話してるのを聞いてるとそう感じたんだ。きっと、この場に居合わせたら誰もがそう思うんじゃないかな。」

「坂元さん、僕らが言ってるのは、アカという言葉の言い回しの事なんだ。」

 岸田が黒縁の眼鏡を中指で押さえながら言った。

「僕達は何も社会主義だとか共産主義だとかを話してるんじゃない。現実の事をただありのままに皆、感じたり思った事を自由に述べてるだけさ。これって、戦中は考えられなかった事なんだよ。自由に思っている事を語り合える仲間、それを世俗的なアカという蔑んだ言い方で括って欲しくないのさ。」

「そういう事よ。」

 鉄仮面がまるで土方の親方みたいに腕まくりをした二の腕を組み、言い放った。

「私達はそういった事を舞台で表現し、一般大衆に広めて行く使命があるの。」

「俺には難しい事はこれぽっちも判らないし、特にこれからも判ろうとはしないと思う。俺はただ舞台に関わっていられればそれでいい。」

「ノンポリね。」

 最後に呟かれた鉄仮面の一言が、ずっと耳の底にこびりついていた。
 以来、皆の話しの中には加わらないようになった一朗だが、かと言って団員達が一朗を軽んじたりするような事は無かった。
 鉄仮面の野口美月ですら、こと舞台の事となると一朗に一目置くような素振りさえ見せた。
 劇団トップの笠井久美子などは事ある毎に、

「やっぱりただの役者じゃないわ。大衆演劇の出だからといって馬鹿に出来ないわね。演技が一味違うもの。型に嵌まってなくて、私は坂元さんの芝居、好きだな。稽古してても、すごくいい緊張感が生まれる。こんな感覚になれたのは初めてよ。」

 と、他の団員達に言ったりするものだから、余計に少しずつ見る目が変わって来た。

 開演の二時間も前から客が入り始めた。受付を手伝いながら一朗は少々びっくりしていた。
 いかに娯楽の無い田舎とはいえ、こんなにも反響があるとは思いもしなかった。出し物にしても、田舎受けするような芝居じゃない。
 脚本は、ドフトエフスキーの『貧しき人々』を下敷きにして、野口美月が書き下ろしたものだ。悪くない脚本だと思うが、素人受けする内容ではない。
 開演前にも関わらず、立見まで出る程に大入り満員となった客席を見ながら、一朗は自分の横に立っていた若い団員に声を掛けた。

「何時もこんなに入るのかい?」

「いえいえ、僕が知ってる限りこんなに入ったのは初めてですよ。」

「へえ、そうなんだぁ。」

「多分、坂元さんの名前が大きいと思いますよ。」

「俺の?」

「はい。浅草のトップスター来演!てチラシにドーンと書いてありましたからね。」

「幾ら何でもトップスターは持ち上げ過ぎじゃないか?それに、民劇のトップは岸田さんなんだろ?」

 若い団員は一朗の言葉に微笑んだ。

「謙虚なんですね。」

「謙虚とかじゃなく事実を言ってるつもりなんだけど。」

「金を払って観に来る客達からすれば、やっぱり演劇の本場浅草のトップスターっていうのは、魅力的なんだと思いますよ。」

「そういうもんか……」

「ええ、そういうもんですよ。」

 道行く地元の人間達の視線が、何時も不躾な程に注がれていた理由が少しばかり判った気がした。
 平日はそれ程の入りではなかったが、休日は初日と同様、立見が出る程の盛況となった。尤も、平日にしても民劇のこれ迄の公演に比べたら大入りも同然の客足だった。田舎らしく、二度、三度と足を運ぶ客も少なくなく、自分の所の畑で採れた野菜や米を持ち寄ったりして来る。おひねり代わりに大根が舞台に山積みされた時は、驚くよりも呆れて笑ってしまった。
 巡業は、団員全員が参加している訳では無かった。他に仕事を持っている者も居る為、巡業途中で何人かが帰り、替わりに何人かが加わる。通しで巡業に参加しているのは、思いの外少ない。途中から加わる者の中には一朗が初めて見る顔も居た。
 仲西道夫がそうだった。本業は帝都大学の学生なのだが、その風貌からはとても学生だとは思えない。一朗と並んでも、その落ち着き振りは、同年代かと思える程で、後から本当の年齢を二十一と聞いても俄には信じられ無かった。
 仲西という若者が持つ雰囲気は、花に例えるのならば、正しく向日葵そのものだった。帝都大学では文学部では無く、政経学部に在籍していて、それが一朗には意外な気がした。演劇をやっているのだから、当然、そういった勉強をしているのだろうと勝手にイメージしていた。ある時、仲西にその話しをした事があった。一朗の問いに、

「親父の影響なんです。」

 と、言って、それ以上は多くは語らなかった。後で知ったのだが、彼の父親も帝都大学の政経学部出身で、地元の有力代議士だという。加えて長兄も同様で、祖父の代からの政治家一家らしい。当然のように、周囲からは道夫もそういった道へ進むものと望まれていたが、彼自身は一向にその気配を見せず、こうして演劇活動をしている。血筋から行けば、劇団の中で一番政治的活動や発言をしそうな感じだが、そういった部分は一切見せない。舞台上の仲西道夫も、その性格同様、魅力溢れる若者らしさを見せた。何の迷いも無い真っ直ぐな性格そのものの演技をする。打てば響くような明敏さを持ち、芝居の勘どころも天性として持っていた。粗削りではあるが、見ようによっては座長格の岸田より俳優としての資質や存在感を感じさせる。
 一朗は一目でこの青年を好きになった。苦労というものに余り縁の無さそうなお坊ちゃん的な所が欠点と言われればそう思えるが、一朗は寧ろそういったおおらかさが気に入った。
 仲西もどういう訳か、一朗とうまが合い、弟のような懐き方をして初対面の時から慕い、一朗と一緒に居る姿を見る機会が多くなった。
 その光景を余り心良く思っていないような眼差しで見つめる岸田の心の変化に、誰もが気付かずにいた。否、岸田自身が、自分のその気持ちの変化に気付いていなかった。
 岸田は、自分の存在意義を劇団の中心に置く事にばかり気を使うところがあった。
 岸田にとっては、一朗も仲西もある種、異分子的な存在で、しかも自分の存在を脅かすようなものと感じていたのだ。
 そう思われていた一朗や仲西には、そんな事など露程も意識した事など無かったのだが……。