母の呼ぶ声が聞こえたから、私は飼いはじめてから2年目になるメスのカブトムシを水槽へ戻した。
ヘアバンドで上げていた前髪を下ろしながら、重い足取りでリビングへ入る。母はすっかり身支度を整えて待っている。責めるような視線を感じながら、私は用意されていたよそゆきの服に着替えた。
なにもたかが買い物で、着替えることなどないと思う。けれども母はそういったことにこだわるたちで、私は逆らいようがない。もう反論する気も起きなくなって、私は母の言うなりになっている。
「なにか欲しい服とか、ある?」
微笑を浮かべながら母が言う。
特に欲しいものなどなかったけれど、ここでいらないなどと言っては大変なことになる。
「まだよくわからないから、見てから決める」
そう無難に返事しておいた。
母は嬉しそうに目を細めると、先に立って家を出る。
車に乗り込んで待つ母を見、私は内心ため息をついた。今日はどうやら、わざわざ遠くまで行きたいらしい。服なんて近くで買えばいいのに。毎度のこととはいえ、うんざりしてしまう。
でもそれを口にしたら、殺される寸前のニワトリよりもけたたましく騒がれるんだろうな、と(そんなニワトリを見たこともないのに)思うから黙っておく。
「新しいスプリングコートなんかもいいんじゃない?」
運転席に乗り込んで、シートベルトを締めながら母が言う。
コートなんて去年のがまだあるし、冬用も含めれば5着もあるんだから、これ以上買う必要はない、と思う。でもそんなこと言えるわけもなくて、「どうしようかな」と私は答えておいた。
母はそうして、嬉しそうに、一方的に話を続けながら車を走らせる。私は適当に相槌を打ちながら、きっと相槌を打つは私じゃない誰かでも、娘っていうものであるのだったらかまわないのだろうな、などと思った。
やがて店に着いて、母は私を先に降ろした。中で先に見ていろ、ということらしい。
母はそのまま、駐車場へと行ってしまう。私は気が進まなかったけれど、店舗の中へ入る。
店内はむわっと暑くて、私は思わず顔をしかめた。
こういうところは人も多いし、なにより、あまり服に興味のない私にとってはさほど楽しい場所ではない。
でも、母はなぜか「女の子は服を買いに行くと喜ぶ」と思い込んでいるらしく、よく私をこういった場所に連れて来ようとする。私にしてみれば、放っておいて欲しいなあ、と思ったりするのだけれども、そんなことはわかってもらえない。
母が戻ってくるまでに、どこかでなにか見ていないとなにを言われるかわからないから、私はとりあえず、入り口から一番近い売り場をのぞくことにする。
そこは若い女の人向けのセレクトショップで、私の好みとは少しズレている。けれど、母はこういった服が好きで、私にも着せたがるから、ちょうどよかった。
店員の女の人もあまりやる気がなさそうだし、声をかけられるのが苦手な私にはちょうどよさそうだ。
どんな服をねだれば母は喜ぶだろう? そう思いながら適当に店内を見てまわる。
白はすぐに汚れるから、きっとあまり喜ばない。でも、かといって黒を選ぶと、華やかさがたりないと眉をしかめられるだろう。やはりここは、淡いピンクのものでも見ておくべきだろうか。
「なにかいいの、あった?」
気づけば母が後ろに立っていた。私は曖昧に首を振る。
いいのなんて一個もないんだけど、どれがいいのか迷っている、そんなふうに見せなければならない。
母は私の仕草をいい具合に解釈してくれたらしく、自分でも服を物色しはじめる。こうなると長いけれど、私はただ後をついていって、適当に返事をするだけだ。
「これなんかどう?」
そう言って母が見せたのは、ちょっと派手な花模様のスカートだ。私は派手すぎると思ったけれど、母はこういう、華やかなものが好きで、いつも私にこういったものを着せようとする。
「丈はちょうどいいんじゃない? ウェストがちょっと緩そうだけど」
「そうよねえ。もうちょっとサイズの小さいの、ないかしら……あ、こっちの色違いのだったらサイズがあるわね。どう?」
「そっちの色でも構わないけど」
「はっきりしないわねえ」
母は不服そうに言うと、スカートを私に押しつけて、別のところへ移っていく。
これは結局買うことに決まったんだと内心ため息をつきながら、私は母の後にしたがった。
結局、買い物は2時間半も続いた。普段歩きなれていない私は、すっかり足が痛くなってしまった。その上、買ったものでいっぱいの袋を両手に持たされて、ああ、早く帰りたいな、などと考える。
でも食料品も買って行かないとと母が言うから、私は荷物を持ったまま、仕方なく母について行く。
そのときふと、ペットのエサのコーナーが目に入って、私はふと足を止めた。
そういえば、最近カブトムシは冬眠していたからエサを買う必要もなかったけれど、そろそろ買ってやらないといけない。
「ねえ、お母さん、カブトムシのエサ……」
私が声をかけると、母はいやそうな顔をしながら振り向く。
「そんなもの、いいじゃない。どうせ、まだ冬眠してるでしょ?」
「もう、動いてるよ」
「まだ大丈夫よ」
カブトムシの様子なんかろくに見てもいないくせにそう断言して、母は歩き出してしまう。
私はこっそり、肩を落としてため息をついた。
母は虫が大嫌いなのだ。
逆に私は昔から虫が好きだった。カブトムシなんて、毎年、つがいで買ってきては母にいやな顔をされているくらいだ。
カブトムシは冬を越させるのがなかなか難しくて、まだ一度も成功したことがなかったのだけれど、今回は珍しく冬を越したようだったから、大事にしてやりたかったのに。きっとそんな私の気持ちなど、母には理解できないのだろうと思う。
母は昔から、そういう人だったから。
私が自分の思うとおりになっていないという状態が、耐えられないような人なのだ。
なにをするにしても、私のためだと口にしながら、自分のいいようにしてしまう。
私のためだと言うのなら、どうして、私の言っていることを聞くだけでもしてくれないのか、説明して欲しいとたまに思う。言えないし、言うつもりもないけれど。
母はきっと、気づかない。
私がどれだけ説明したとしても、理解などしてくれるわけがない。
母は理解したくないのだ。すべて私のためにやっているのだと信じていたいだけなのだ。
母は軽い足取りで、食品売り場を見てまわっている。私はただ、それについていく。いつまでも、どこまでも。
いったいいつまで、私はこうやって母の後をついて歩かなければならないのだろう?
家に帰りついた頃には、すっかり陽が落ちていた。
本日の戦果で着せ替えをしたがる母をなだめつつ、私はリビングを出る。
今日は一日中歩き通しで、もう、すっかり疲れているのだ。これ以上、母につきあう気力は私にはない。
とりあえず、2階にある部屋に戻ろうと階段を上がりかけ、私はふとカブトムシの水槽をのぞいて行こうと思い立った。
カブトムシの水槽は、玄関のすぐ脇、靴箱の横にひっそりと置いてある。
私は電気をつけ、ふたをはずして水槽をのぞきこんだ。
水槽には半分くらい腐葉土が入れてあって、独特のにおいがする。私はちょっと息を止めつつ、カブトムシの姿を探した。
けれども、なかなか見当たらない。ちゃんとふたはしてあるし、逃げられるはずはないのに。
また、土の中にもぐっているんだろうか? そう思って、どこか掘ったようなあとはないかと探す。
そうして、ふと、カブトムシのお尻の部分が少しだけ、土の上にのぞいているのに気がついた。
なんでこんな半端に埋まっているのだろう? 足も少しだけれども動いているから、また冬眠してしまったわけでもないだろうに……。
首を傾げつつ、私はカブトムシを指でつまんだ。
ひっぱってみると、なぜか、少し重い気がする。
不思議に思いつつもひっぱると、ちょっと抵抗があって、カブトムシが出てきた。
「きゃっ……!」
けれど、私は思わず小さく悲鳴を上げて、カブトムシを落としてしまった。幸い、落ちたのは腐葉土の上だったから、カブトムシは元気にもぞもぞと這っていく。
私はカブトムシに触れなかった方の手で、口許を押さえた。
腐葉土の中には、なにか白いものが埋まっている。
ずんぐりむっくりとした、掃除機のホースのような白いもの――どうやら、つがいのカブトムシが知らない間に産みつけていた卵から孵化したらしい、幼虫の姿が土の中に見えた。
ただ、普通の幼虫だったら、私もさすがに声を上げはしなかっただろう、と思う。
その幼虫は、身体の一部分が、茶色く変色して縮んでいた。
体液を、吸っていたんだ。エサがないから、土の中に埋まっていた幼虫を探し出して。
そのことに気づいた瞬間、なんだか、今まで可愛がっていたカブトムシが、急に忌々しいものに思えた。
顔をそむけて涙をこらえる。
どうして、こんなことをするのだろう。
今年は、飼っていたカブトムシはつがいの2匹きりだったから、他のカブトムシの幼虫ではありえないのに。
どうして、こんなことをするのだろう。
吐き気がした。
水槽にふたをして、よろよろと立ち上がる。
手を、洗おう。そう思うのに、なかなかうまく歩けない。
なぜだか母のことを思い出した。
いつか私も、あの幼虫と同じように、干からびていくに違いない。
《了》
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