見た瞬間に、心が震えた。
それは真夜中、ネットサーフィンしている最中に見つけた、あるウェブサイトの日記のせいだった。
夢を見なさい、と大人は言うけれど、
私たち子供は、夢ではおなかが膨れな
いことを、とうの昔に知っています。
生きていくために真っ先に捨てなけれ
ばならなかったのが夢です。夢を見て
いては、生きていかれない世界に、私
たちは生まれついてしまいました。
そんな言葉からはじまる日記を、私は空が明るくなるまで読みふけった。
部屋の外に出られなくなってからもうどれくらいたつのか、自分でもわからない。長い時間だということくらいはわかるけれど。
とにかく、長い時間、誰も言ってくれなかったことを、その人は言ってくれていた。
日記すべてに目を通したあと、自己紹介を見た。それによると、日記の書き手――ハルカさんは、私と同い年の、高校2年生だった。
私と同い年の、ハルカ、という名前の女の子なんだ。そう思った瞬間に、部屋から出られなくなる前、私が普通だった頃の、最後の友達のことを思い出した。
*
桜崎春佳。彼女は、なんだかあったかそうな名前の女の子だった。
私は彼女が大好きだった。彼女以外の友人なんかいらなかった。それくらい、本当に好きだった。
でも、気づいた。私の好きは、ただの友達に向ける好きじゃないんだ、ってことに。たしかそれが、高校に入ったばかりの頃。
春佳と私はもう、小学生の頃からのつきあいで、だからふたりでいるのが当たり前、みたいな気分だった。
だから気づくのが遅れた。気づいたときには手遅れだった。
だって私は、男の子じゃないんだ。
うっかり漏らした私の本音に、春佳は気味悪いものでも見るような顔で、「だって洋子も女の子じゃない。ヘンだよ」と言ったんだった。
そして私は、部屋から一歩も出られなくなった。
パステルカラーのカーテンと、南京錠をつけたドアに守られた、たった6畳の空間が、その日から私のお城になった。
*
ハルカさんの日記を見ていると、春佳のことを思い出す。胸が痛くて息が苦しい。
でも、手放すことなんかできなかった。私はマウスを操作して、「お気に入り」にそのサイトを入れた。
そうしてメーラーを立ち上げると、震える指でキーを叩いた。
ハルカさんのサイト――「エデン」のトップページにあった、メールアドレス宛てにメールを送るためだ。
なんて言ったらいいのかわからない。
とにかく、日記にとても感動したことや、これからも楽しみにしていると言うことを書いた。
メールの最後には、Sea、と署名を入れた。洋子の洋から、海をイメージしてつけた、ネット上だけの私の名前――ハンドルネームだ。
送ろうかどうしようか、一瞬、悩む。
結局私の手は、ぎこちなくマウスを操って、送信ボタンを押した。
*
夜、十一時。テレホーダイ、という、定額サービスのはじまる時間、私ははやる気持ちを抑えながらパソコンを立ち上げた。
パソコンが動き出すまでの時間も、インターネットに接続するまでの時間も、すべてがもどかしい。
私はネットに接続されたのを確認すると、すぐにメーラーを起動させた。
――一通の、新着メッセージがあります。
その表示に、私は胸を躍らせた。
これまで私は、ネットサーフィンはするけれど、掲示板に書き込むこともなければ、チャットに参加することもなかった。当然、自分のサイトも持っていない。だから、メールが届くこともなかったのだ。
つまりそれは、ハルカさんからのメールにほかならない。
メール取り込み、のボタンを押す。
「ありがとうございます。」
そう表題のついたメールが受信された。
メールを表示させる。
私は口許に手を当てて、深呼吸しながらメールを読んだ。
ハルカです。
こんばんは。感想をもらうのははじめ
てなので、正直、緊張しています。
うちみたいな小さいサイトに来てくれ
てありがとう! しかも、朝までかか
って全部読んでくれたなんて、すごく
嬉しかったです。
Seaさんも私と同じ高校生なんです
よね。どこにお住まいですか?
私はS市に住んでます。笹かまぼこが
すごくおいしいところです。
そろそろ、雪もとけてきました。東京
では桜前線が〜なんて言ってるのに、
こっちではまだ雪が残ってるんです。
でも、寒いから、すごく星がきれいで
す。
はじめてのメールでこういうことを書
くのって図々しいかもしれないけど、
もしよかったら、メル友になりません
か?
いろいろお話してみたいです。
長々とごめんなさい。では。
ハルカ
嘘みたい、と、私は心の中でつぶやく。
だって、ここもS市なのだ。
笹かまぼこがおいしくて、まだ雪が残っている北の国。
なんて偶然なんだろう。
私はパソコンをつけっぱなしにしたまんまで、窓のそばに歩いていった。
いつも閉じっぱなしのカーテンを少しだけ開けて、夜空を見上げた。
暗い空。一面紺色な中に、いくつもきらきら光るものがある。
星には色なんかないって思っていたけれど、こうして見ると、赤や青や、たくさんの色があるのがわかる。
ハルカさんも、同じ空を眺めているのかな。
そんなことを思った。
そしてまた、パソコンの前に戻って、ハルカさんへメル友になってください、と返信メールを書きはじめた。
*
Seaです。
お返事、ありがとうございます。
メル友の件、OKです。
こっちからお願いしたいくらいです。
感激です。
これからよろしくしてください。
ところで、偶然ってすごいですね。
私もS市に住んでます。近頃ちょっと
寂れてるけど、牛タンもおいしいS市
です。
メールを見てから、空を見てみました。
空って、あんなにキレイだったんですね。
知りませんでした。
短くてゴメンナサイ。でも、嬉しくて
なにを書いたらいいかワカリマセン。
では、また。
Sea
ハルカです。
本当にびっくりです。SeaさんもS
市に住んでるんですね。
S市って、思ったよりずっと大きかっ
たみたいです。
空がきれいなのを知らなかった、って
Seaさんは言いましたけど、そんな
ことはないと思います。
だって、私たちはずっと、空を見てき
ているんです。
私たちは空がきれいだってことを、た
だ忘れてしまっているだけなんじゃな
いかと思います。
そういうことって、すごく多いですよ
ね。
いつでも見られるもののことは、本当
に、ちっとも気づかないものです。そ
のせいで、昔、泣きました。
だから、私はそういうことに気づける
ようになりたいと思って、そうして今、
こうしています。
ヘンなことを書いてしまってすみませ
ん。では、また。
ハルカ
*
私はメールをやり取りしながら、春佳のことをひとつずつ忘れていった。
それくらい、ハルカさんはいい人だった。
毎日毎日、くだらないことばかり話した。
その日、どんなことをしたか。学校でなにがあったか。
そしてたまに、空の話みたいな、どういうわけか泣けてきてしまう話を、した。
春佳を好きだった私は、だんだんいなくなっていった。
私は、ハルカさんを好きになっていた。
*
自分でも変だ、と思う。
だって私は、ハルカさんの顔を見たこともなければ、実際に話したこともない。当然、電話したこともない。
第一、ハルカさんは女の子だ。私も、ハルカさんと同じ女の子だ。
間違っている。
春佳のときと同じ間違いを、私はまたおかそうとしている。
私は結局、私なんだ。そう思うと涙が出た。
ディスプレイがにじんだ。届いたメールも読めなかった。
*
ハルカです。
突然ですけど、もしよかったら、今度
の日曜日、会いませんか?
ちょうど、春もののコートを買いに行
きたかったところなんです。
私はしゃっくりみたいな声を出した。
たしかに、春もののコートが欲しい、という話はした。
登校拒否だなんて言ったら、変な目で見られるかもしれない。それが怖くて、私は学校に行っているみたいに話を作った。
その流れの中で出てきたのが、春もののコートだった。
それがこんなことになるなんて。
どうしていいかわからなかった。
目を閉じて首を振って、何度もすーはー息を吸って吐いてから、またディスプレイに視線を移した。
ダメならいいです。
もし、大丈夫なんだったら、正宗像の
前で待ち合わせましょう。
私はショートカットで、バーバリーチェ
ックの紺色のマフラーを巻いています。
ベージュの小さいリュックを背負って
ます。
お昼に、そこで待ってます。
では、また。
ハルカ
どうしよう。
行きたい、ような気もする。
でも怖い。
外が怖いし、ハルカさんも怖い。
だって私はハルカさんのことが好きだ。
春佳のときみたいに、うっかりしゃべってしまったら――終わりだ。
そう思うと、うかつに会うなんてできそうになかった。
メールを書くのすら怖くって、この間まで毎日交換していたのが、3日に一度になってきてるくらいだ。
今日は、金曜日。
もちろん明日は土曜日。
どうしよう。行かないんだったら、できるだけ早く連絡しないといけない。
きっと、ハルカさんは私と会うために、ひとりでそこに現れるだろう。ひとりでショッピングなんて寂しすぎる。
どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。
*
結局私は、OKの返事を出した。
恐怖感よりも好奇心が勝った。
こんなチャンスは、もう二度とないかもしれない。
第一、ハルカさんがイメージ通りの人とは限らない。
もしそれで幻滅したりしたら、恋心にケリがつく。そしたら、その方が幸せかもしれない。
ハルカさんに伝えた通りの、ベージュのコートに黒いワンピで、小さなハンドバッグを持って出かけた。久しぶりの外出だった。
久々の外の世界は、なんだかすごく寒かった。
周囲の視線が刺さってくるような、非難されているような気分になって痛かったけど、気にしないで待ち合わせ場所に急いだ。
待ち合わせ時間の、ちょうど五分前。正宗像の前に着いた。
待ち合わせのメッカの正宗像は、思ったよりもずっと小さい。地元の人は間違えたりしないけど、よそから来た人はよく驚いている。
青葉城といい正宗像といい、S市はどこか妙な感じのする町だ。
正宗像に背を向けて、あたりを見回しながら、待った。
何度も何度も時計を確認して、きっかり二時間。
――ハルカは結局、来なかった。
*
もしかして、会ったらいやになったんだろうか。そんなことを思いながら、最低な気分でとぼとぼ家に帰った。
しばらくフテ寝して、十一時になってすぐ、パソコンを立ち上げてメーラーを起動した。
一通、メールが届いていた。
ハルカです。
今日はごめんなさい。
急に熱が出て、行けませんでした。
もっと早く連絡すればよかったんだけ
ど……。
短くてごめんなさい。こないだのメー
ルへのお返事は、また今度。
もう寝ます。
では。
ハルカ
なんだか安心して、涙が出た。
私は嫌われたりしたわけじゃなかったんだ。
ほっとしたら、ハルカさんが心配になってきた。
熱が出たってどうしたんだろう。季節の変わり目だから、風邪でも引いたんだろうか。
迷惑になってもいけないけど、せめてお見舞いがしたかったから、グリーティングカードサービスでお見舞いのカードを出した。
グリーティングカードっていっても、インターネット上のもの。あらかじめ決められた画像を選んで、メッセージや音楽をくっつけて送信する。
そうすると、相手には、私が作ったカードへアクセスするためのアドレスが書かれたメールが届く――というわけだ。
できあいのものなんて冷たい、という人もいるけれど、私はグリーティングカードが好きだった。
なんとなく、電子世界独特のあったかさ、っていうのかな。そういうのを感じられるから。
春らしい画像を選択して、可愛らしい音楽を選んで。
お大事にネ、のメッセージを入力して、そして送信。
眠くなってきたから、その日はそのまま寝てしまった。
*
ハルカです。
おかげで、熱はすっかり下がりました。
ありがとう。
グリーティングカード、もらったのな
んかはじめてです。すごく可愛かった。
そういえば、ちょっと、悩み事を聞い てくれますか?
いやだったら、ここから先は読まない
でください。ごめんなさい。
しばらくして、ハルカさんからまたメールが届いた。治ったんだ、と、まるで自分のことみたいに嬉しくなった。
もちろん、悩み相談でもなんでもかまわない。頼ってもらえるとちょっと嬉しい。
私は迷わず、続きを読んだ。
実は、私には古くからのお友達がいま
す。
私にとっては、その人は大事なお友達
です。
その人は、私のせいで、学校に来られ
なくなりました。今も着ていません。
私は彼女が大好きなのに、とても傷つ
けてしまいました。
なんて謝ったら許してもらえるのか、
考えて考えて、長い時間がたってしま
いました。
どうしたらいいのかわかりません。
Seaさんだったら、こういうとき、
どうしますか? 自分だったら、どう
してほしいと思いますか?
変な質問をしてしまってごめんなさい。
でも、Seaさんにしか言えないんで
す。
意見とか、聞かせてくれると嬉しいで
す。
では、また。
ハルカ
なんだか、私のことみたいだ。
だから、私だったらどうするだろう――と思いながら、返事を書いた。
Seaです。
熱、下がったみたいでよかったです。
それで、相談のことなんですけど、私
だったら、ってことを書きます。勝手
な意見なので、読み飛ばしちゃっても
全然かまいません。
大したことも言えないでごめんなさい。
私だったら、きっと、許すと思います。
だって、大事な友達なんですよね。だ
ったら、許してくれるんじゃないかと
思います。
ハルカさんは友達のことを傷つけてし
まった、と言っていますけど、もしか
したら、その人が学校に来なくなった
のは他のことが原因かもしれないんだ
し……。
気にし過ぎないでもいいんじゃないで
しょうか。
傷つけあっても、最後に和解できるの
が友達なんじゃないか、と思います。
私もこの間、友達とケンカしちゃった
けど、お互い謝って、それで終わり。
友達ってそういうものじゃないかな。
偉そうなこと言って、ゴメンナサイ。
では、また。
Sea
*
しばらくメールは来なかった。
何日も何日も、「新着メッセージはありません」と、無情な表示が待っているだけだった。
ハルカさんの日記は、毎日更新されている。
だから、ハルカさんがネット落ちしているわけではなさそうだった。
私はもしかしたら、ハルカさんを怒らせるようなことをメールに書いてしまったんだろうか。
送信済みフォルダの中の、最後のメールを何度も読み返した。
でもなにが悪かったのか、全然わからない。
涙が出た。
近頃泣いてばかりいる。そんな自分がおかしかった。
*
そうして、待望のメールが届いた。
表題は、「大好きな洋子へ」。
なんの冗談だろう、と思った。
だって、メールアドレスはハルカさんのものだ。
私はハルカさんには、本名を教えていない。ハルカさんにとって私は、登校拒否の洋子じゃなくて、普通の女子高生Seaのはずだった。
混乱しながら、メールを開く。
最初の名乗りには、春佳です。とあった。
春佳です。
今まで黙っていてごめんなさい。
勇気のなかった私を許してくれる?
春もののコートを買いに行こう、って
言ったこと、あったよね。
あのとき実は、私、ちょっと遅れて正
宗像の前に行ったの。
そこに、洋子がいた。びっくりしたよ。
だって、洋子は私のせいで、学校に来
なくなったんだと思ってた。
それなのに、今、そこにいるんだもん。
びっくりして、そのまま帰っちゃった。
嘘ついてごめんね。
あのあとの相談への返事を見て、勇気
が出た。
そうだよね。洋子と私、ずっと友達だ
ったよね。
ヘンだなんて言ってごめんね。
ごめん。
私も洋子のことが大好きです。
許してもらえないかもしれないけど、
それだけ、言いたかった。本当にごめ
んね。
学校、来てね。
洋子は私と同じクラスだよ。
待ってる。
また、明日。
春佳
ハルカは春佳だったんだ。
もう、視界はぐちょぐちょだった。ディスプレイなんかマトモに見えない。
私、私だけがつらい気でいたんだね。
春佳に責任押しつけて。
ごめんね。私の方こそ、本当にごめん。
そでで乱暴に涙を拭いた。
しばらく使ってなかった、電源すらほとんど入れなくなってた携帯電話に手を伸ばす。
電源を入れて、懐かしいナンバーをプッシュする。そらでだって言える。春佳のナンバー。
呼び出し音が聞こえる。
一回、二回、三回……。
胸がどきどきする。春佳が電話に出たら、まずなにを言おう、と考える。
すぐに決まった。
――ごめんなさい。ありがとう。大好き。
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