私は、人の背に翼を見る。
そんなことを言っても誰も信じてくれないけれど、それはほんとうのことだった。
私の前に座る田中さんには、小さくて灰色の翼がある。まるで薄汚れた鳩の羽根みたい。
隣の伊東さんには、大きな黒い翼。鴉の羽根にも似た色つやをしている。
けれど――
チョークのあとが残る黒板の前に立って、実験の手順を説明している三上先生には、翼がなかった。
前から見てもうしろから見ても、右から見ても左から見ても。
さすがに上から見たことや下から見たことはない。でも、三上先生には羽根の一枚さえ見えなかった。
ちなみに、三上先生は、なぜか印象に残らない人だ。それ以外、特に変わったところはない。それなのに、どんな人にでも翼が見えるわたしが、三上先生に限ってはなんにも見えないのだった。
三上先生は白っぽい。耳にかかる程度に切った髪は金色に近い茶色をしているし、肌の色は見事な象牙色。白いシャツとベージュのスラックス、そしてその上には糊がよくきいた白衣を羽織っていた。
瞳は薄い茶色。顔の造作はなかなかのもので、ビスクドールみたいだ。近寄りがたい雰囲気さえある美貌を、ノンフレームのメガネが人好きのするものに変えていた。
これだけそろっていれば、女の子に騒がれないはずはないのに。
でも、誰に聞いても、三上先生の顔立ちさえ説明できないのだ。やっぱり、三上先生は特別だと思う。
「僕の顔になにかついてますか? 宇都宮さん」
三上先生と目が合った。にこりと笑って問いかけてくれたのに、私はぶんぶんと首を振ってしまった。首を振るなんて、ねじ巻き式の首振り人形にだってできるのに。
クラスのみんなが、失笑をもらした。ざわめきが広がる。
「――そうですか。僕はまた、この間みたいに頬にリトマス紙がくっついてたのかと思いました」
そんなの、気づかない人のほうが珍しい。でも、それが三上先生の持ち味だ。
クラス中から、今度は忍び笑いが聞こえてきた。三上先生がこういうことを言うのはいつものことだけど、おかしいものはおかしい。
それなのに、三上先生は何事もなかったかのように説明を再開する。
まるで、なにもかもどうでもいいと思っているかのような眼差しで。
どこまでもどこまでも穏やかな声音で。
その中に、小さな小さな棘のような、異質な感情が混じっているように思えたのは、私の気のせいなんだろうか。
放課後、私は誰よりも早く来て、生物室の鍵を開ける。そして、ちょっと酢酸っぽいにおいのする生物室に暖房を入れ、使ったままになっているイスそろえる。
今年、生物部に入った一年生は私だけだった。だから、自然と、雑用は私の仕事になる。誰もそんなことをしろとは言わないし、ひとりでここにいる私を見ると、申しわけなさそうな顔をするくらいなのだけれど。
私は、窓際に所狭しと並べられている水槽に近づいた。生物部で飼育している生きものたちだ。
ミドリガメ二匹、メダカ十五匹、カエル一匹にドジョウが三匹。すみの方に置いてあるケージにはウズラとハムスターがいるけれど、そっちはみんなが喜んで世話するから私は放っておく。
魚や亀には、ペットショップで売っている「○○のエサ」シリーズの、その種類用のものを与える。
水の交換は三日に一度だから、今日はしなくてもいい。
問題はカエルだった。
生餌をやるのが本当は一番なのだ。でも、私には、ハエや蚊を捕まえてきてやるなんてこと、できそうもない。
だから、生物室備えつけの冷蔵庫からレバーを持ってきて、ちょっとずつちぎって与える。生きているのか死んでいるのかわからないカエルが、このときばかりは活発になる。
ほかの部員は、この光景を見ると顔をしかめる。カエルもレバーも気持ち悪いらしい。
私だって、気持ちよくはない。でも、これはせめてもの罪滅ぼしだから。邪な動機で入部してきたんだもの、これくらいしないと気がすまない。
レバーを片づけ、私は、今度は隣の部屋に行った。教官室だ。
足を踏み入れたとたん、熱気にめまいをおぼえる。
実際はそれほど暑いわけではないのだけれど、暖房を入れたばかりの広い生物室と常に暖房を入れている狭い生物科教官室とでは、室温に差がありすぎた。
私は流しに向かった。ポットにまだ温かいお湯が入っているのを確認して、きれいに洗ってあるビーカーにコーヒーをいれる。ふたつのビーカーには、側面にそれぞれ黒マジックで「三上早希」「宇都宮紫」と書いてある。
毎日毎日、コーヒーをいれてあげるものだから、私の分のビーカーもあるのだ。
薄めのコーヒーを三上先生のところまで持っていく。
でも、すぐに手渡したりはしない。
今日もそうだけど、三上先生は研究に没頭している。研究のこととなると人が変わってしまうのだ。話しかけても、なかなか気づいてくれない。
まるで彫像みたいになってしまう。
その端整な横顔を、カップラーメンができあがるだけの時間眺めるのが、私は好きだった。
なんとなく、嬉しいから。
三上先生のこんな顔を見ているのは私だけだろうっていう、優越感。
「――三上先生」
たっぷり鑑賞してから声をかけると、書類や本や原稿用紙で埋まっている机から顔を上げ、三上先生は微笑んだ。
「毎日ありがとうございます。ちょうど、休憩しようと思っていたところでした」
そんなことを言ってはいるけれど、三上先生は休憩するつもりなんかなかったんだろう。だって、前に、コーヒーが室温になるまで三上先生の横顔を眺めていたことがある。そのときだって、今と同じように微笑んで「ありがとう」って言ったもの。
結局、どうだっていいことなんだろう。
適当に机の上にあるものをよけて、コーヒーを置く。ビーカー・コーヒーのいいところは、こういう雑然とした雰囲気によく似合うところだと思う。コーヒーカップはすましているようで、研究者の机には似合わない。
私は手近に合ったイスを引き寄せて座った。上に乗っていた紙(多分、必要なものだろう)はその辺によけておく。
体が沈む感覚と、錆びた金属のきしむ耳障りな音。年代もののイスは、私の重みでさえ支えるのがやっとといった様子だった。
「宇都宮さんのいれるコーヒー、おいしいですね。目も覚めますし」
「インスタントですよ?」
「いえ、愛情のあるなしはコーヒーの味に多大なる影響を及ぼすんですよ」
と、大真面目な顔で言われて、私は吹き出してしまった。あまりにも、ロマンティックなセリフ。
科学者らしくない、と思う。でも三上先生にはよく似合う。
「やだ、自意識過剰ですよ。よれよれ白衣の三十男に惚れる女子高生なんて希少価値あります。天然記念物並!」
笑い過ぎて目のはしににじんできた涙を、薬指で拭いながら答える。天然記念物は、ここにいるけど教えてあげない。
「ひどいですね、まだ二十八です」
三上先生はあからさまに渋面を作ってみせた。
私は苦いコーヒーを飲みながら、三上先生を見つめた。なんだか可愛いと思う。
造作は可愛い方ではない。でも、こういうふとしたときに見せる表情は切なくなるくらいに可愛い。
「二十八も三十も同じですよ」
「大違いです。三十からはオジサンって感じがするじゃないですか」
「でも、十二違うのも十四違うのも同じですから。どっちにしろオジサンでしょう?」
「そうだったんですか……」
三上先生は肩を落とした。こういう、感情の起伏がはっきりしているところも好きだと思う。
「――冗談です。前髪をもっとうっとうしくなくして、服に気を遣ったら若く見えますよ」
よれよれで、薬品のしみとか草花の汁とかで汚れている白衣を脱いで、手櫛でちょっと整えただけ、みたいな髪形をなんとかするだけで、五歳は若く見えると思う。
もちろん、そんな三上先生は、どこかに閉じこめてしまいたくなるに決まっているけれど。誰にも見せたくない。
「今度、一緒に買い物にでも行きません? 似合いそうなもの、見繕いましょうか」
「そうですね……でも、いいんですか? 僕なんかにつきあって、せっかくの休みをつぶしてしまって」
申しわけなさそうな顔をしている三上先生を見て、私は声をたてて笑った。信じているのだ、この人は。単純に、気のいい生徒が買い物につきあってくれるのだと。
妙な所で、純粋な三上先生。
疑うことも知らないで、優しく優しく笑う。
どうしてか、それが憎たらしい。踏みつけにしてやりたくなる。
「暇ですから」
だから、笑う。
いかにも善人ぶった顔をして、私は三上先生を偽る。私がその下にどんな想いを隠しているのか、きっと誰も知らない。
――私でさえも。
「ただいま」
返事がないのは知っている。それなのに声をかけて、私は部屋の中に身体をすべりこませた。
電気もつけないで、ベッドの上にかばんを放り出す。
そして、ぺたんと床に座った。
私の部屋は八畳で、ひとりで暮らすには少々広い。白くて無表情の壁と、いつも冷たいフローリングの床が今っぽい感じだ。
ベッドはパイプで、病院にあるみたいなやつ。クローゼットは作りつけ。あとはテレビとテーブル。余分なものはほとんどない、おおよそ女の子らしくない部屋だった。
生活感のない1DK。私はベッドにもたれながら、テレビの黒いディスプレイに移る自分の顔を見た。凡庸な顔立ち。虚ろな目をしている。髪は肩にかかる程度で、少し乱れていた。
「……きらい」
この部屋も自分も。誰にともなくつぶやく。
私はひとりだった。両親は離婚して、どちらも私を引き取りたがらなかった。だから形だけ父親が親権を持つことにして、母親が生活費を出して私をひとり暮らしさせることにした。
誰もがいらない私だから、私はどこにもいないのだ。
小さい頃は私にもあった翼が、そのときからなくなった。いや、はじめは大きかった翼が、だんだん色が汚くなって、そしてみすぼらしくなっていって、最後には消えてしまったのだ。羽毛が散り、空気に融けるようにして消えていった。
ずっとこうしているわけにはいかない。どんなことも。でも、今はこうしていたかった。
いつのまにか降りはじめた雨の音が、耳障りに響いていた。
夜のうちに雨は上がって、空は嫌みったらしいくらいの青色をしていた。
私は昼食をとらないから、昼休みはちょっと暇だ。だから、こうして散歩する。
クラスに友達がいないわけではない。くだらない話をする程度の人ならいるし、私は誰とでもそこそこのつきあいをしている方だから、孤立していはしなかった。
でも、あまり好きではなくて。
他人の背に大きな翼を見るたびに、私は飛びついてむしってやりたくなってしまう。
日当たりのいい校舎の裏側を散歩しながらこんなことを考えるなんて、病んでいるのかもしれない。私はため息をもらした。
校舎の裏手には、園芸部の温室と生物部の畑がある。両方とも、普段から三上先生が手入れしている。温室の方には花や野菜の苗が青々としげっていた。
なんで生物部に畑があるかというと、実は、そこで実験用の植物を栽培しているからだったりする。露草やおおばこ、蒲公英なんかを植えるものだから、温室の使用を断られてしまったらしい。特に蒲公英なんて、いっぺん生えたら駆除するなんてことは難しい。
一方、今、畑はなにもなくて寂しかった。さすがに、十二月の半ばを過ぎてしまうと、残っている雑草はほとんどなくなってしまう。
「こんにちは」
不意に声をかけられた。私は一瞬、びくりとする。
「お昼はすませたんですか?」
けれど、続ける声ですぐに三上先生だとわかった。
私は身体ごと三上先生の方を向いた。
三上先生は今日もよれよれの白衣を着ていた。手にはじょうろを持っている。
「私、お昼は食べないんです。先生こそどうしてここに?」
「教員特権で四時間目のうちに食べてしまいましたので。温室にいたんですが、あなたが来るのが見えましたので」
「なんか、その言い方、私に気があるみたい」
ちょっとからかうと、三上先生はうろたえた。あー、とか、うー、とか、よくわからないことを言いながら、身振り手振りを繰り返す。
「冗談です」
「心臓に悪い冗談を言わないでください……」
三上先生は肩を落とし、疲れきった声音でつぶやいた。
私は聞かなかったふりをして、やわらかく微笑んだ。
「ねえ、温室、見せてもらっていいですか?」
とたん、三上先生は嬉しそうな顔をする。遊ぼうって誘ってもらえた子供のような顔だった。
私には、こんな顔、できない。
「どうしたんです?」
一瞬、表情が沈んでしまったらしい。けれど、私はすぐに笑顔を作った。
「なんでもないです」
「そうなんですか」
我ながら不自然だと思った。それなのに、三上先生はなんとも思っていないように見えた。
私のことなんかどうだっていいってことだろうか。それとも、ただ鈍感なだけだろうか。
温室の中には、ハーブらしき草が多かった。とは言っても、私にはハーブと雑草の区別はつかない。三上先生は理解してるらしいけれど。
もちろん、花も咲いている。白い花が多かった。小さな釣鐘、という感じの花や、小指の爪よりも小さい花がいくつも一緒になってるのや、普通に五枚の花びらがあるのや。どれもこれも、控えめで、清楚とか可憐って言葉がぴったりだ。
「花が好きですか?」
心底いとおしむような視線を花々に向けながら、三上先生が問いかけてきた。なんとなく花がうらやましかった。
「部屋に鉢植えを置きたいとは思いませんけど。三上先生は?」
足元の小石を蹴り上げる。石は飛んで、花の間に落ちて見えなくなった。
「花も好きですけれど、どちらかといえば研究対象ですね。だって、不思議だと思いませんか?」
花のどこが不思議なのかわからなかった。形も色も様々だけれど、花は花。疑問点なんかない。
「どうして、花は咲くのか。いったいどんなメカニズムなのか。こういったことを考えはじめると、なにもかもが不思議に思えてくるんです」
三上先生の瞳が、陽光を浴びてきらきらと輝いていた。
「小さな子供の頃から、なにもかもが不思議でなりませんでした。そういった疑問を、ひとつ残らず解き明かしてみたいですね」
「――なら、大学に残ればよかったじゃないですか」
「それも考えはしましたけれど、大学って、あれで結構派閥がありますから。そういうの、似合いませんでしょう?」
冗談めかしていっているけれど、本当にそう思っているということは目で知れた。どこか困っているような、そして惑っているような、揺れる眼差し。
私は見なかったふりをして、足元に目をやった。
花びらの一枚一枚が羽根そっくりな白い花があった。葉はハート型で、地面付近に密集している。長細いひょろりとした茎が密集した葉の中心から出ていて、先のほうにぽつんと花が咲いていた。
「先生は、もし、私が人の背中に翼が見える、なんて言ったらどうします?」
ふと、言葉がこぼれてしまった。
回収してしまいたくなったけれど、一度出した言葉は戻せない。私はくちびるを噛んだ。
「宇都宮さんが見えるというなら、きっと、あなたの目には見えているんでしょうね。そうお答えすると思いますよ」
なにを馬鹿なことを、と否定されると思っていたのに。私は顔を上げ、無遠慮な視線を向けてしまった。
三上先生は悟ったような笑みを返してきた。
「だって、そうでしょう。誰の目にも同じ世界が映っているとは限りません。虫の見ている世界とも、鳥の見ている世界とも、人間の見ている世界は違います。同じように、人間の仲にもほかと違う世界が見えている方がいるかもしれませんよ」
やっぱり、科学者はロマンティストだと思う。全部が全部、こういう考え方をするとは限らないけれど。
世界の秘密を解き明かそうなんて考える人たちがロマンティストじゃないなら、この世の中にロマンティストはほとんどいないことになるだろう。
「――ありがとう」
今、心の中にある気持ちを、うまく言葉にできなくて。だから、それだけ言った。
表現するために、あえて陳腐な言葉を選ぶなら、それは嬉しい、というひとことになるだろう。
そして、日曜日。
待ち合わせは公園、噴水前ベンチ。なんて陳腐な場所だろう。デートといえば定番の場所だ。指定したのは私だけれど。
今日、空気はとても澄んでいた。お気に入りのオフホワイトのコートを着ていてもまだ寒いくらいだけれど、それほど気にならなかった。
待ち合わせの時間を十分ほど過ぎた時刻を表示している腕時計をにらむのをやめて、薄墨を含ませた脱脂綿に似た雲で覆われた空を仰ぐ。
せっかくのデートなんだから、雪が降ったりしないといいんだけど。
雪はべたつくし、はらおうとしても簡単には落ちない。その上、室内に入るとすぐに溶けてしみてしまう。
「――いつまで待たせるつもりだろ」
私は反動をつけてベンチから降りた。
そして公園を出る。町中にある公園だから、一歩外に出れば、そこは人も車もいやってくらい行き交っている大通りだ。
人間、ってラベルを貼られた量産型自動人形が、同じ表情をして同じものを着て、定められた通りに歩いているような、そんな風景に見える。
なんて皮肉なんだろう。個性を標榜してよそおえばよそおうほど、全員が粗悪なコピー人間になってくるなんて。
私は長く息を吐いた。のどにつかえていた白い塊の一部が口から飛び出たように見えた。もちろん、すぐに新しい塊ができてしまったのだけれど。
顔を上げ、周囲を見る。三上先生の姿はない。
私の立っているところの右側に、横断歩道があって信号がある。それ以外にこちら側に来られる横断歩道はないから、私は左右と横断歩道にだけ気を配っていればよかった。うしろから来る可能性もあるけど、それはそれでしょうがない。
それにしても、寒い。公園の中は、木々にさえぎられているから風が直に吹きつけては来ないけれど、歩道ではそうは行かない。私は身を震わせた。
と、横断歩道の向こうで、誰かが手を振っていた。
遠くて目鼻立ちはよくわからない。でも、ベージュのコートとバーバリーチェックのマフラーがよく似合っているのがわかった。腰の位置が高いのに少し猫背気味で、冴えない印象になってしまっているのが残念だ。三上先生だ。
「やっぱり、姿勢をただすところからはじめないと」
ひとりごちながら、軽く手を振り返した。
歩行者用の信号が青になって、三上先生は横断歩道を渡ってこようとした。
――そこに、自動車が突っ込んできた。赤いスポーツカー。
跳ね飛ばされる三上先生。
それから響くタイヤのこすれる音。
糸が切れたマリオネットのように、不自然に曲がった三上先生の手足。
広がる、濃い赤の液体。
「誰か救急車を!」
通行人のひとりが叫ぶ声で、私は我に返った。そして走った。
車の運転席で呆然としている気障ったらしそうな男と、助手席のけばけばしい女に冷たい一瞥をくれてやった。
三上先生のもとへ行く。私が行くと、集まっていた人たちは道を空けてくれた。
「この人の知り合い?」
誰かが言った。けれどそれどころではなくて、私はうなずくことしかできなかった。
「三上先生……」
ぴくりとも動かない三上先生の傍らにひざまずいて、声をかけた。震えが止まらなくて、声まで震えてしまった。
たしかめずにはいられなかった。私は、三上先生の首に触れた。脈を探す。どこにもない。
ふと、もうこの人の砂時計は止まってしまったんだ、と思った。涙は出なかった。
三上先生の顔は本当に眠っているように見えた。
そこに、白いものが舞い降りる。まるで花びらのような、ひとひらの雪。
雪はすぐに溶けてしまう。けれど、溶ける速さは、ねじのきれかけたオルゴールのように次第に遅くなっていった。
それは、体温が急速に失われていく証拠。
雪の白と血の紅と、コントラストが美しい。
半分凍りかけた頭には、まともな考えを期待できそうになかった。どうでもいいことが浮かんでは消えていく。
――結局、涙は出なかった。一適たりとも。
それから、救急車が来て、警察が来て。
事情聴取というやつをされて。
そのあといろいろあって、三上先生の葬儀があって。
その辺のことはよく覚えていない。記憶が混乱しているらしかった。
時の人、というものになって、学校で根掘り葉掘りそのときのことを話させられたのは、はじめのうちだけ。
すぐに人の興味はほかへ移っていった。
私の日常が戻ってきた。そしてそのまま冬休みになって、ひとりきりの新年を迎えて、春になって、春休みになった。
三上先生が急逝してから、私の時間は止まったも同然だった。どれだけ時間が過ぎ去っても、私は空虚なままだったのだから。
春休みだっていうのに、学校に来て、温室の世話をする。
なんとなく、それが日課になっていた。
じょうろを持って、何度も水場と温室を往復する。それさえ、惰性で行っている作業に過ぎなかった。
と、なにかを踏んでしまった感触があった。
下を見る。足をよけると、ほころびかけたつぼみをいくつもつけた花が、無残に折れ曲がりつぶれてしまっていた。
じょうろを傍らに置いてしゃがむ。丸っこい葉っぱの可愛らしい、小さな花だった。
茎をテープで補修したら、花は咲いてくれるだろうか。
もし、咲くとしたら、どういうメカニズムで咲くんだろう。動物なら、背骨が折れたら終わり――とまではいかなくても、ほとんどの場合、ほとんど使いものにならなくなってしまう。
「あ……」
そうか、と思う。
三上先生もこういうことを思ったから、だから解き明かしたいと望んだのかもしれない。
もう、それが真実なのかどうかは、訊ねることはできないけれど。
三上先生の代わりに、秘密を解き明かしたらわかるだろうか。
それは悪くない考えに思えた。
翼なんかなくてもかまわない。翼の代わりに、私はビーカーやフラスコを持とう。
そうすれば、私は本当の意味で生きていけるだろうから。
小さなつぼみをさっとなでて、心の中で小さく「ありがとう」とつぶやいた。
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