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「ロールや、起きなさい。そんなところで眠るとカゼをひきますよ」

 体を起こし、ロールは目をこすりました。木陰と草の葉の匂いが鼻をくすぐることに気がつきます。見回すとここは庭のすみで、ニレの木の根元にいるのでした。そばにはお城や小さなボート、ヨロイを来た騎士やトナカイのおもちゃが散らばっています。ついさっきまでそれらで遊んでいたのですが、いつの間にか眠り込んでいたようです。それを見かねてお母さんが声をかけたのでした。

「おやまあ鼻水がすごいこと」お母さんは思わず声を上げました。ハンカチを取り出してかがみ、彼の鼻の下をぬぐってくれたのはもちろんです。

「ごらんなさい」まだ笑いながら、お母さんは指さしました。「眠っている間に、あきれるほどたくさん出たものだわ。池になっているもの」

 お母さんの言うことは本当でした。ロールも目を丸くしてしまうほどだったのです。うつ伏せになっていた彼の顔の真下だったのでしょうが、直径15センチほどの水たまりがあるではありませんか。

「ああ奥様、ここにいらっしゃいましたか」メイドの声が聞こえたので、ロールとお母さんは顔を上げることになりました。長いスカートの前をつまんで庭を横切りながら、メイドはこちらへやって来ようとしています。

「どうしたの?」

「奥様大変です。すぐ屋根裏部屋へいらしてください」

 もちろんお母さんとロールは着いていきました。階段を上がりながら、メイドは説明を続けています。「古着をしまいに、私は一人で屋根裏部屋へと上がっていったんです」

「そうだったわね」

「すると奥様、なんとあの鏡が…」

「グレースがどうかしたの?」お母さんの顔色が変わるのは、ロールには少し意外な眺めでした。だから思わず口をはさまないではいられなかったのです。後ろからちょんちょんとお母さんのスカートを引っ張りました。

「お母さん、グレースって、いなくなったあの女の子のことじゃないの?」

 きょとんとした顔をして、お母さんだけでなくメイドまでが階段の途中で立ち止まってしまいました。

「なんですって?」

「だってお母さん、お母さんの本当の子供はグレースで、あるとき妖精に盗まれてしまったんでしょう? その代わりに置かれていたのが僕だったんでしょう?」

 思わずメイドと顔を見合わせていましたが、お母さんはとうとう笑い始めたではありませんか。「おまえはいったい何のことを言っているのです? グレースなんて子はお母さんは知りませんよ。お母さんが生んだのはおまえだけ。ええ、このおなかを痛めて生んだのです」

「その通りですよ」メイドも首を振りました。「奥様にはお子様はほかに一人もいらっしゃいません」

 このメイドは、ロールが生まれる何年も前からこの家で働いている人です。ウソをつくはずはないし、その表情も本当に真剣でした。

「ふうん」とロールは納得するしかありませんでした。三人は再び階段を歩き始めます。

「なぜかは知らないけれどね、ロール」お母さんが言いました。「百年以上も前からわが家には古い古い鏡が伝わっていて、今も屋根裏部屋に保管してあるのですよ。お母さんの母や祖母も、そのまた母や祖母もその鏡のことをなぜかグレースと呼んできたわ」

「私も、先々代の奥様がそうお呼びになるのを聞きました」メイドも言いました。

「へえ」ロールは鼻の頭をこすりました。

「それであなた、グレースがどうかしたの?」お母さんはメイドに尋ねます。

「それが大変なのですよ。たった今気がついたのです。ご自分の目でごらんになってくださいまし」

 屋根裏とはそんなに広い部屋ではありません。家の屋根にあわせて、天井は三角にとがった形をしています。明りとりの窓があって、太陽の光が差し込んでいます。物置代わりなので昔の釣具や狩りの道具、古い衣装の詰まった大きな木箱、床に積み上げられた本などのような、今は使っていない道具類がしまってあるのですが、その中にロールは、自分の古いゆりかごの姿も見つけることができました。

 鏡もそれらの間にあり、倒れないように壁に立てかけて置かれていました。卵のようなだ円形で、目の前に立てばロールの全身を映すことができるほどの大きさがあります。

「ほら奥様」とメイドは指さしますが、ロールには意味がわかりませんでした。古いけれどただの鏡に過ぎないからです。何がおかしいのか、どう変化しているのかさっぱりわかりません。でもお母さんは違いました。「まあ」と言ったきり、口に手を当てて、目を丸くしているのです。

「どうしたの?」メイドとお母さんを、ロールは交互に見上げるしかありませんでした。

「まったく影もないわね」お母さんが口を開きます。

「はい奥様」メイドは手を伸ばし、まるで縦に二分するような形で、鏡の中央あたりに指先を走らせました。「つい昨日まで、ここより右側はびっしりと緑色のカビが、左側は白いカビがおおっておりました。まるで二色に塗り分けた国旗のような眺めでしたわ。ええ、確かに昨日まではそうでした」

「昨日ではないけれど私も確かに見たわ。あんなにひどかったカビが、どうして突然消えてしまったのかしら」お母さんも鏡の表面に顔を近づけて眺めています。「本当にきれい。まったく何の跡も残っていないわ。まさかあなた、私たちを驚かすために、こっそり磨いたというのではないわよね?」

「とんでもありません、奥様。あのカビは鏡の内側に生えておりました。ガラスの上からいくらこすっても、取り除くことはできませんでした」

「そうだったわね。家具職人に見せて、『ガラスとメッキの間に生えているから、これはもうだめだ』と言われたことを思い出したわ。だからここに片付けてしまったのよ」

 お母さんとメイドはさかんに首をかしげています。一歩後ろに下がって聞いていましたが、思わず頬に浮かんでくる微笑を、ロールはどうしてもおさえることができませんでした。もちろん彼には、この出来事の意味がわかっていたのです。

 緑色のカビが消えたのは、ロールがボートを沈めて、春の女王をおぼれさせてしまったからに違いありません。ハチやアリと同じようにカビにも女王がいて、それを失うとどんなに強いカビでも一瞬で滅びてしまうものなのかもしれません。

 そして白いカビのことです。冬の女王と鏡の女王との戦いを、ロールは最後まで見届けることができませんでした。だけどどちらが勝利したのかは、もう明らかではありませんか。鏡の女王は冬の女王を倒すことができたのでしょう。だからこの鏡の表面からは、白いカビも姿を消してしまったのでしょう。

 以前の美しさを取り戻したこの鏡を階下へと降ろし、居間か玄関の広間のどちらへ飾ろうかと、お母さんとメイドは相談を始めています。それは耳に入っていましたが、ロールにはあまり関心のないことでした。鏡の中で出会った三人の女王のことを彼は考えはじめていたのです。あの三人の名前のことです。

「私の名はグリーンというのだ」と春の女王は言っていたではありませんか。冬の女王の名をきくのを忘れていたことにロールは気がつきましたが、きっとホワイトといったことでしょう。

 そしてロールは、鏡の女王の名も知りませんでした。これもきくのを忘れていたのです。だけど彼は残念には思いませんでした。鏡の女王の名は、きっとグレースといったに違いありません。
(終)
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