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第1章 行ってきます
 英雄とは自分のできることをした人である――ロマン・ロラン――

 頭が悪くて勉強できない、のろまで運動苦手な中学二年生のいじめられっ子、三城さんじょうミズホにとって最悪な朝がやってきた。
 今日から学校の行事で、泊まりがけの授業へ七日間行かなければならない。行かない方法はいくらでもあるが、彼女は行かなければと思い込んでいる。たった一人の家族、おばあちゃんを心配させないために。
 ミズホは幼稚園のころからいじめられていたが、ずっとかくしつづけている。身体中からだじゅうあざを作って帰ってきたり、持ち物をぼろぼろにされて帰ってきたりしても、「ライオンにおそわれたの」とか、「ワニとケンカしちゃった」など、頭の悪さを証明するようなうそを平気で言って、いじめられていることを秘密にしてきた。
 彼女が中学生になってからは、「体育の授業で……」とか、「友達と遊んでて……」などに変わり、ずいぶんと成長したが、おばあちゃんはいじめを知っていて気づかないふりをしていた。――というのも、いじめられていることを心配すると、ミズホは徹底的に否定するからであった。
 自分に心配かけないようにと振る舞うミズホのことが、おばあちゃんは大好きだった。学校の成績はいつも学年でびり、得意な科目なんて一つもない、そんなことはどうでもよかった。

 ミズホが三城家に養子に来たのは、三歳のときであった。ミズホの実の両親、荒川あらかわシゲルと妻のアサミは、手作りのぬいぐるみ屋を小さな店でやっていた。アサミは命と引きかえにミズホを産んで、二十四歳の若さでこの世を去った。妻が亡くなったあと、シゲルは一人でミズホを育てながら、店を細々とやっていた。シゲルの作ったぬいぐるみはぶさいくで、アサミが作ったぬいぐるみのようにかわいくなかったが、一部のファンには絶大な支持を得ていた。
 そんなある日、大手玩具おおてがんぐチェーン店の社長が、いまの時代に完全な手作りのぬいぐるみとはめずらしい、と言ってやってきた。そして、うちの玩具店に、ぜひ商品を置かせてくれと頼んできた。シゲルは断ろうとしたが、たくさん作れなくてもいいならという条件で、玩具店にぬいぐるみを納品することにした。その大手玩具チェーン店の社長が、三城テツハルであった。
 シゲルの作るぬいぐるみは一つとして同じものがなく、納品される数が少なかったから、レアな商品となり、人気になった。自宅兼店のほうも大忙しになり、慢性的まんせいてきな品不足にうれしい悲鳴をあげていた。
 しかし、そんな日々は長くつづかなかった。シゲルは病にたおれ、二十七歳で娘の成長を見とどけずに妻のあとを追った。孤児こじになった三歳のミズホは、親戚などの引き取り手もなく、施設に入る予定だったが、三城夫妻が彼女を養子にすることにした。
 子供ができなかった三城夫妻は、いままで子育てをしたことがなかったので、ミズホを引き取るのはたいへんな勇気が必要だった。しかし、幼い彼女の無邪気な笑顔を見て、どうしても引き取りたくなったのである。
 ミズホを養子にした当時、三城テツハルは六十一歳、妻のメグミは五十六歳になっていた。だから、ミズホには養父母の関係でありながら、「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼ばせることにした。
 三城夫妻にとって、ミズホは生きがいそのものになった。テツハルはミズホを養女にむかえた翌年、会社を売ってリタイアし、ミズホと過ごす時間を大切にした。
 ミズホも三城夫妻が大好きになった。白髪しらがの似合うおじいちゃんは、とても姿勢がよくて楽しい人柄。薄茶色に染めた髪を短くまとめたおばあちゃんは、植物を愛する温かい人柄。そんな二人の背中を見て育ったミズホは、とても優しい子になった。けれど、学校の成績だけはどうにもならなかった。
 幼稚園のころ、ミズホの最大の敵は、寒くなると流れ出す鼻水だった。かんでもかんでも出てくる鼻水、いつかきっとなくなると信じて、何度も強く鼻をかむのであった。強く鼻をかみすぎ、しまいには鼻血が出て、ミズホの顔は血まみれになってしまった。心配したおじいちゃんが、「そんなに強く鼻をかむと、脳みそが全部出ていっちゃうよ」とおどしたので、脳みそがいっぱい出てしまったかも、とミズホは本気で思った。それ以来、彼女は鼻をかむのをやめ、たれ流すようになってしまった。しかも、それは中学一年生までつづき、今年になってやっとなおった。
 バカで運動音痴の鼻たれ娘――いじめられないほうが奇跡である。
 そんなミズホに、おばあちゃんは、「みんなと同じことができなくてもいいから、自分のできることをやりなさい」と励ました。得意なことなど何一つなかったミズホには、あまり意味のない言葉だったが、その言葉でだいぶ気分が楽になった。
 ミズホが小学校一年生のとき、三城夫妻は彼女がいじめられていることを知った。しかし、必死で隠そうとする彼女のために、気づかないふりをすることに決めたのであった。それでもおじいちゃんは、最悪な事態、自殺をさけるため、生きることや人生についてなど、ミズホに話して聞かせた。そんなおじいちゃんが亡くなったのは、六十九歳のときである。ミズホは十一歳になっていた。
 自宅の病床で、おじいちゃんが臨終りんじゅうに言った言葉は、「ミズホちゃん、どんなにつらいことがあっても、最後の最後まで、人生をあきらめてはいけないよ」であった。それは、ミズホが何度も聞かされた言葉の一つだった。
 だけど、決していじめにれるということはない。死にたい、漠然ばくぜんとそう考えるようになったのは、ミズホが中学一年生のころからである。自分で命を終わらせる決断をすれば、これ以上みじめな人生をつづけなくてすむ。でも、おばあちゃんへの思いやりと、おじいちゃんが話してくれた言葉の数々が、彼女の生きるモチベーションを持続していた。
 もし、ミズホが知的障害者だったなら、勉強や運動ができなくても救われる道はあったかもしれない。しかし、健常者のミズホに対して世間はあまりにも冷たかった。

 東京にある三城家は三階建で、中ぐらいの大きさの一軒家である。大手玩具チェーン店の元社長宅としては、それほど立派ではない。生前のおじいちゃんが極端な贅沢を好まず、豪邸を建てなかったのだ。
 一階には、台所や食堂、接客用の部屋などがあり、四分の一が道路に面した駐車場になっている。二階には、居間や浴室、おばあちゃんの部屋と寝室、書斎を改装したおじいちゃんの仏壇がある部屋などがある。三階には、物置状態の部屋が数室、おじいちゃんが好きだった玩具が飾ってある部屋、そして、ミズホの部屋と寝室があった。
 一階から三階までいたるところに、おばあちゃんの趣味である観葉植物の鉢植えが置いてあり、家中に草や花の香りを漂わせている。
 六十七歳のおばあちゃんは働いていないが、サンセット・セキュリティーという民間の年金で、金銭面では問題なく生活が送れている。おじいちゃんが残した莫大な財産は、彼女がボランティア団体にすべて寄付してしまった。
 おばあちゃんの朝は早く、日の出少し前に起きて、ジーンズとトレーナー、それにエプロンをかけたお気に入りの服装で、家中の鉢植えに水を与え、ちょうど太陽が昇るころ、玄関先にあるおもての小さな花壇かだんへ水を与える――それから台所へ行き、朝食の準備に取りかかるのが毎日の日課だった。
 朝よりも夜のほうがミズホは好きだった。特に寝るとき――このまま明日が来なければいいのに、眠ったまま目覚めなければいいのに、と毎晩思っていた。それでも朝は容赦ようしゃなくやってきた。普段でさえつらい朝――いつもなら、学校から帰ってくればいじめから解放かいほうされる。だけど、今日からはじまる七日間は、どこにも逃げ場はない。小学校六年生のときに行った泊まりがけの林間学校は二日間だけだったが、つらくてみじめな二日間であった。
「一週間の我慢がまん……」目覚めたミズホはベッドの中でつぶやき、布団から出て、洗面所へ向かった。
 ミズホは顔を洗ってから、大きめな鏡の中に映る自分の姿をながめた。黒い髪は肩ぐらいまでの長さ、十四歳とは思えない幼い顔立ち、きゃしゃで小柄な体型――みじめな自分を見るたびに自信を失ってしまう。
 しかし、そのひとみは純粋な輝きをはなち、あどけないくちびるにはつやがあり、体型に合った乳房やくびれた腰はバランスがよく、あしのラインも美しい――自分ではまったく気づいていないが、ミズホは驚くほどかわいかった。でも、学校での成績の悪さが、彼女の魅力みりょくを完全におおい隠していた。
 鏡の中の自分が、「どうして行くの? 行きたくない!」そう言っているような気がする。だけど、今回の学校行事へ早く行きたいと、おばあちゃんに嘘をついてきたので、いまさら行きたくないなんて言えなかった。でも、いまならまだ間に合う――ミズホの気持ちはれ動いたが、休みたいと言ったら、きっとおばあちゃんは心配すると思い、彼女は一週間の辛抱しんぼうを選択した。
 いつものように、ミズホはパジャマ姿で一階におりてきた。
「ミズホちゃん、おはよう」おばあちゃんが挨拶あいさつすると、
「おはよう! おばあちゃん」とミズホは返した。
「体調は大丈夫? 遠くへ行くんだから、もし具合が悪かったら先生に言って――」
「大丈夫、ぐっすり寝たし」
 不眠症気味のミズホが、熟睡などできるはずはなかった。
「そう、それならいいけど……」 
 おばあちゃんにはわからなかった。学校でいじめられていても、今回の行事には本当に行きたいのかもしれない。ミズホを引き止めない理由はそこにあった。もし、「行かないでほしい」と言ったら、彼女は行きたくても、行くのをやめるだろう。だけど、行きたくなくても、いじめられていることを隠すために彼女は行くだろう。そんなミズホの性格を知っていたおばあちゃんは、彼女の判断にゆだねるほかなかった。
 朝食のおかずはベーコンエッグとお豆腐の味噌汁、キュウリの浅漬け、ちょっとしたサラダであった。ミズホはどんなに食欲がなくても、おばあちゃんが作った料理を必ず食べていた。
 朝食をすませると、ミズホは自分の部屋にもどり、チェック柄の短いスカートとブレザー風の上着の冬用学生服に着替え、身支度をし、旅行用バッグを持った。そして二階に立ち寄り、おじいちゃんの仏壇に線香をあげて合掌し、それから一階へおりていった。
 すると、小さなお弁当箱を持って、おばあちゃんがいてきた。
「ミズホちゃん、おむすびのお弁当を作ったけど、持って行く? ちょっとおなかが空いたときにと思って……」
 おばあちゃんの小さな手で作った、小さなおむすび二つであった。
「うん、持って行く。ありがとう」
 ミズホは、おばあちゃんからお弁当箱を受け取り、バッグの中に入れた。
 食事は学校で用意されているので、お弁当など持って行く必要はなかったが、せっかくおばあちゃんが作ってくれたおむすびを、ミズホが断るはずはなかった。
 玄関先まで、おばあちゃんはミズホを見送りに出てきた。おもてには十月の少し肌寒い風が、キンモクセイの甘い匂いとともにおだやかに吹いていた。
「おばあちゃん、行ってきます!」精一杯せいいっぱいの笑顔でミズホは言った。
「行ってらっしゃい、ミズホちゃん」おばあちゃんも笑顔で答えたが、なぜかもう二度とミズホにえないような不安におそわれた。
 しばらく歩いてミズホが家のほうを振り返ると、おばあちゃんはまだ玄関先に立って見送っていた。
「行ってきまーす!」ミズホが手を振って、大声で言うと、
「行ってらっしゃーい!」とおばあちゃんも手を振って、大きな声で言ってくれた。
 ミズホは自分にも聞こえないくらいの小さな声で、もう一度つぶやくように言った。
「行ってきます」


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