天使も夢を見るのだろうか。わたしはいつも思う。
そもそも眠るのかどうかさえわからないし、本当にいるわけではないから、実際のところがどうなのか、知るすべはないのだけれども。
「斎は夢を見る?」
だから、かわりに斎に訊いてみる。天使のように笑い天使のように眠り天使のように息をする異母兄なら、近い答えが得られるかもしれないと思うから。
「少し、ならね」
首をそらせて夕陽に刺しつらぬかせながら、斎は蒼い瞳を細めた。橙色の光に照り映える薄茶の髪が、そろそろ冷たくなってきた風になびいている。
「どんな夢?」
「さぁ……どんなだろうね。あまり憶いだせないんだ」
一段と強い風が吹く。わたしは制服のスカートを押さえた。屋上はほかのどこよりも、風が強い。さえぎるものが、なにもないからかもしれない。
「朔夜は?」
斎はわたしのほうを見て、優しく笑った。なぜか、この笑顔がなつかしい。
「――教えない。女の子の夢を聞かないでよ、ねえ?」
斎の瞳にわたしが映っていた。わたしは、髪も瞳も黒檀のような色をしていて、兄妹だって言っても、ほとんどの人が信じてくれない。
「でも、いっしょに眠ったら夢を共有できるかもしれないよ。今日、ここで眠ろうか?」
冬眠中の小熊のように身をよせあって、ふたりきりで。わたしは斎にもたれかかった。緑色のブレザーからは太陽のにおいがした。
「だめだよ、帰らなかったら、あの女がうるさいから」
斎はわたしの髪を指に巻きつけながら答える。
「そうだね」
お返しに頬にキスして、額にキスして、鼻先にキスした。
夕陽だけが顔を赤くして、わたしたちを見ていた。
大きなテーブルを三人で囲んで夕ごはんを食べる。四角いテーブルの片側にわたしと斎が座って、母が向かいに座る。父は夜遅くに帰ってくるから、食卓を四人で囲むことなんて滅多にない。
会話はない。
母にとって斎は他人だし、斎もそれは同じだから。わたしも黙っている。母は斎が嫌いだから、わたしも母が嫌いだ。
斎は父の愛人の子供だった。本当の苗字は宮川というらしい。けれど、何年か前に斎の母親は亡くなって、うちに引きとられてきた。
認知されていないから、養子、という扱いになっている。血のつながりはないことになっているらしい。斎のもともとの戸籍には、父親の名が記されていない。
斎とわたしの誕生日は同じ日で、だからわたしは、斎のことを生き別れの双子なんだって思い込んでいた。
「ごちそうさま」
焼き魚でごはんを平らげて、わたしは席を立った。食器を流しに持っていって、水につけておく。斎もぺこり、と頭をさげて、同じようにした。
「もういいの?」
「宿題、やるから」
いつも疲れた顔をして、家では化粧っけのない母が、もの憂げに声をかけてきた。
「それじゃ。斎、数学教えて」
「どこ?」
「――ベクトル」
すぐに世界が閉ざされる。斎とわたしだけになる。母は意識の外に弾いておく。あの人は《大人》だから。
「あとね、微分と積分もわかんない」
「朔夜は数学全部、苦手だったっけね」
ドアノブに手をかけながら、斎はくつくつと笑った。
キッチンとひと続きになっているリビングを出て、廊下のつきあたりにある階段を上る。階段は玄関のすぐ前にあった。二階にはわたしと斎の部屋しかない。その気になれば、親と顔をあわせることなく生活できるように、ということらしい。大人になってからは、親とやたらに顔をあわせたくないだろうから――というのが理由だった。両親は、いったい、いつまでわたしをここに閉じ込めておく気なのだろう。
斎が先に何段か上って、手を差しのべてくれた。うちの階段は急だから、転ばないようにだよ、と、いつだったか言ってたっけ、斎。
「宿題の答えだけでいいよ」
「――だめ。数学、赤点とってもいい?」
「そしたら補習につきあってくれるでしょ」
「スペシャルメニューで特訓してあげる」
天使は、優しいだけではなくて、厳しい面もあるという。わたしはクリスチャンじゃないから、詳しいことはよくわからない。でも、斎にも、そういうところはあると思う。
「けち」
ちょっと拗ねてみせる。くちびるをとがらせ、わずかに突き出した。
斎は立ち止まって、しょうがないね、これっきりだよ、とでも言いたげに、おでこにくちびるをよせてきた。
天使のかっこうをしていてくれたらよかったのに。昔、そういう絵を見たことがあったのだ。階段で、天使が下の段にいる女の子にキスしている絵だった。作者名も、どこで見たのかも憶えていない。ただ、明るい色彩にあふれていたことだけが、今も色褪せないで脳裏に焼きついていた。色づかいが優しくて、天上のたえなるしらべが耳に届いてきそうだった。神々しい光は紙からはみだしそうなほどだった。
「朔夜?」
「なんでもないよ」
なにも知らない斎は、長いまつげに縁取られた瞳を、数度しばたかせる。
斎の部屋は二階の奥。事務所の扉みたいなドアをあけて、うやうやしく招きいれてくれた。
いつ来ても、ここには生活感がない。モノトーンで統一された部屋だからかもしれない。わたしだったら、こんな部屋で過ごしたら、きっと、3日ともたずにおかしくなるだろう。
「白と黒、好きだね」
「別にそういうわけじゃないけど。カラフルなのって、似合わないから」
ショッキング・ピンクのボレロを着た斎が、わたしの頭の中でジャグラーを披露した。似合わないどころか、滑稽だった。
はにかんだ実際の斎は、今日は黒いトレーナーに白の綿パンってかっこうだ。昨日は白いシャツに黒いベスト、黒のスラックスだったし、おとといはもこもこした白のセーターに黒いズボンだった。制服を脱いで私服に着替えていても、どうしても制服を着ているような気がしてしまうのはどうしてだろう。白と黒のみという統一感が、制服を着ているかのような錯覚をもたらすのかもしれなかった。斎がモノトーン以外の色彩を身にまとうのを、わたしでさえも見たことがなかったのだから。
「なに着てても似合うのに」
「そんなことないよ。おれはね、朔夜の影なんだから」
わたしが真っ白いベッドに腰かけると、斎は机の上に無造作に置いてあるかばんから、教科書とペンケースを出してきた。
ほとんど開いていなさそうな教科書をわたしのひざに乗せて、今日、授業でやったページをあけた。
勉強しているとこなんか見たことがないのに、斎は数学の成績がよかった。たまに、電卓が内蔵されてるんじゃないかって思うことがあるくらいに。
「どうして、わかるの?」
「朔夜の影だからだよ」
「――よく、わかんない」
「うん」
斎は問六を指しながら、おうかがいをたてるような視線を向けてきた。解き方を説明しようか、という意味だ。
わたしは首をたてに振った。
どうしてだろう。
わたしは、斎を懐かしいと思う。どんなにささいな仕草でさえ、ずっと昔から知っていた、そんな気がしてならないのだ。
いとおしくて、はなれたくなくて、そんな錯覚に陥っているんだろうな、と、自分なりに考えては見るのだけれど、理屈では説明できない部分で、それが間違いだって知っていた。
それと同じような感覚で、いつか別れが訪れるだろうとも知っていた。
愛しているというのに。
そんな、陳腐な言葉でしか、気持ちをあらわせないほどに、わたしは焦がれているというのに。
どれだけの時がすぎても、どれだけ話をしても、笑いあっても、キスをしても。
関係なく、わたしたちは別れなければならなくなるだろう。
まるで魂がもともとはひとつだったかのように、わたしは斎に惹かれているというのに。理屈でも、なんでもなく。もっと深いレベルで。
他人から見たら奇異に映るだろうことぐらいわかっているけれど、それだけがわたしの真実で、大切にいだき続けるべきことだった。
それが、なつかしさとともに胸の奥に疼いている罪悪感にも似たものを、軽くはしてくれないまでも、心の奥底に追いやることのできる唯一の手段だった。
美術はあまり好きじゃなかった。美術室の静まりかえった雰囲気は圧迫感があるし、なによりわたしは芸術系のことが苦手だ。できないわけではないけれど、人並みのわくを越えることはない。
前のスクリーンに映っているものを、なんとはなしに眺める。今日の授業は《鑑賞》だそうで、ビデオをかけっぱなしにして先生は準備室にひっこんでしまった。別に感想を書かされるわけでもなく、机につっぷして寝息をたてている人や教科書を開いている人が多い。
わたしはといえば、眠気もないし、ガリガリ勉強するようなタイプでもないから、机に頬杖をついていた。六校時の数学の宿題は、昨日、斎とやってあるし、だったらぼーっとしているほうがいいと思う。勉強したからってどうなるってわけじゃないよね、と思うから。
人物画っぽいものとか抽象画らしいものとか、おおよそ理解できなさそうな芸術とやらが、目に映っては消えていく。ナレーションもあったけれど、まるで異国の言葉のようだった。
ふと、清冽な青がとびこんでくる。
意識をそちらに向ける。ビデオに映っていたのは、海の絵らしかった。
気が遠くなりそうな空色と、深い蒼色の海の対比がきれいだと思った。空を飛ぶかもめや、岩壁の上に立つ白い灯台はアクセントなんだろう。白っぽい黄色の砂浜に、海を見るひとがふたり、後姿で描かれている。
――なんて、寂しい絵。
そのうち、斎といっしょに海へ行きたい。この絵のようにふたりで並んでみたら、寂しい感じがするのかどうか、たしかめてみたいような気がした。
教室に戻ると、入り口のところで無精ひげをはやした先生が誰かを待っていた。名前は憶いだせない。うちのクラスの副担任だ。
どうせ、わたしには関係ないことだ。
気にしないで行こうとする。呼びとめられた。
「なんです?」
別になにもしていない。濡れぎぬでも着せられるのかと思うと、語調が不機嫌なものになる。
「――斎が病院に運ばれた」
副担任は、それだけ言った。
……嘘だ。
叫びだしたくて仕方がない。それなのに、わたしの声は冷静だった。
「どういうことですか」
「血がとまらないんだそうだ」
前の時間、斎のクラスは体育だったはず。ケガでもしたのかもしれない。
でも、血が止まらないっていうのはどういうことだろう。普通のケガで、そんな状態になるものなんだろうか。
それとも……。
「そのままでいいから、早く」
副担任が、わたしの目の前で鍵がたくさんついたキーホルダーを鳴らした。
病院につくと副担任は帰ってしまった。斎のクラスの担任がいるそうだから、そっちを探せばいい。副担任っていっても、なにかと忙しいとかなんだとか。生徒とどっちが大切なんだろうね、と、自分を大切にしてくれない恋人に言うセリフにも似たことを考えてみる。
近くにある小さな病院かと思ったら、車で一時間もかかるような遠くにある総合病院だった。ただならぬ雰囲気がある。普通のけがだったら、こんなに大きなところに来なくてもいいはずだ。
白い直方体を組みあわせて作ったような建物は、この間、改築工事をしたそうで、新品同様だった。
とりあえずは両親も呼ばれているらしい。あのふたりがそろって、斎となにを話す気なんだろう。どっちも、別に斎のことを想ってなどいないだろうに。
駐車場に立っていてもどうにもならない。わたしは、白い建物に足を向けた。
受付で訊ねると、六〇二号室だと教えられた。斎は個室にいるらしい。
――斎は、本当にどこかへ消えてしまうのかもしれない。淡雪のように。
エレベーターに乗り込みながらそう思った。
もともと、この地上の人間とはどこか違うような、そんなところがあったのだ。いつか地上を放たれて、遠くへ行ってしまうような気がいつだってしていた。
六階に着くと、六〇二号室は目の前にあった。
病室の前で大人が四人、深刻な顔をしていた。両親と、斎の担任の藤代先生と、医者らしき白衣の男の人。
「朔夜」
父が名を呼んでくる。髪に白いものが混じりはじめた父は、仕事を放り出して来たらしい。髪を整髪料でうしろへとなでつけ、ダークグレイのスーツ姿だ。皮がたるみ、しわが何本も刻まれた顔は、ビジネスマン――というよりも、どうしていいかわからずに困っている休日の父親、という感じだった。情けない。
「――落ち着いて聞くんだ」
一番取り乱しているのは、父なんじゃないだろうか。医者はもう慣れているようで平然としているし、母はせいせいしたとでも言いたげだった。藤代先生は困っているかもしれないけれど、それでもちゃんとしている。女の先生は、こういうときには真っ先に取り乱すものだと思っていたけれど。
「斎は白血病なんだそうだ」
ハッケツビョウ。
一瞬、頭の中で漢字に変換できなかった。宇宙人の言葉だって、もう少しわかりやすいに違いない。
「なに、それ」
「今はまだ個室ですが、そのうち、無菌室に移っていただくことになります」
父よりも若い、白衣の似合う医師が重々しく言った。
「少しでよければ面会も可能ですが……」
「朔夜、帰りましょう、ね?」
医師の言葉をさえぎって、猫なで声で腕をつかんでくる母の手をはらった。心配しているような顔をして、その実、喜んでいるだろうことは間違いなかった。医師や藤代先生がいるから、表立って言わないだけ。
「帰ってていいよ」
わたしはここに残るから。
病院に来るっていうのに、よそゆきのスーツを着て化粧までしているような人に、斎のそばにいてほしくない。髪もしっかり結って、高価なハンドバックまでも持っている。ゆっくり来たんだろう。
「あの、すいません、わたしはこれで」
藤代先生はきまり悪そうに、何度も頭をさげた。急ぎの用事があるのかもしれないけれど、ここに居づらくなったからかもしれなかった。エレベーターに乗りこんで行ってしまう藤代先生を見送ってから、わたしは母に向きなおる。
「血のつながりもないのよ、あの子とは。朔夜が残ることなんかないでしょう」
「――陽子」
父が母の肩に手を置く。
「あなたもあなたよ! あんな女の子供を引きとったりして!! おかげで……こんな……」
「夫婦げんかはよそでやって。斎はわたしが見てるから。お父さん、ふたりでどっか行って。ここ、どこだと思ってるの?」
早くどこかへ行ってほしい。できれば、もう来ないでほしい。こんな人たちは斎に会ってほしくない。
そう思いながらにらみつける。
「――ああ。行こう、陽子」
まだなにか言おうとする母を連れ、父は階段を使って降りていった。エレベーターの中で暴れたら危ないからだろうか。
「体力を消耗させないように注意してください。泊まっていかれる場合は、受付に申請用紙を提出して、許可証の発行を求めてください」
「はい」
適当に返事をして、病室に入る。
白いベッドにカーテン、それしかない部屋に斎はいた。緑色のジャージは、椅子の上にたたんであった。
斎自身は白い服を着せられて、白いベッドに横たわっていた。
「朔夜」
とろけそうな眠りから醒めた直後のあのとろけそうな声だった。ほかの誰とも違う、わたしだけの、わたしにしか聞かせてくれない声を聞くと、鼻の奥がつんとした。
斎は、自分の身体のことを知っているんだろうか。
「白血病だってさ。体育でタックルされてね、ちょっと切っただけなのに、血が止まらなかったよ」
そっけなく、他人事のように斎は続ける。
「急性らしいね。もう助からないだろうって。延命くらいしかできないって」
「……なんで知ってるの?」
わたしは斎にすがった。家でしていたように。
斎は、優しく細く長い指で頭をなでてくれた。どっちが病人なのかわかったものではない。
「ここで話してたよ。半分起きてたけど、眠ってるみたいに見えたんだろうね」
斎は、まるで死人のように眠るのだ。微動だにせず、呼吸も浅い。眠りと覚醒との間をさまよっている状態では、もしかしたら、普通の眠りと同じように見えるのかもしれなかった。
「どこかに連れていってあげようか?」
わたしは顔をあげた。
斎はわたしと対照的に、天使もかくやというほどの笑顔だった。白くて、今見ると不健康そうな斎の顔は、この世のものではないように思えた。もちろん、悪い意味ではなく。
「いいよ、斎、顔色悪いし」
「――だからだよ。もう、どこにも連れていけなくなるからね。最後のデート」
病人の顔には、不安感や悲愴感がただよっているものだと思っていたけれど、斎に限ってはそんなことはないようだった。俗世間に暮らす人間の感情など超越した天上の人間なのだ、斎は。わたしのためだけに、わたしのわがままのために、地上にとどまっているだけだ。いつか天へと還らねばならない身だ。
「……海……」
言葉がもれる。
「海に行こう、斎」
わたしの最後のわがままだ。もう、斎には、こんなわがままは言えなくなってしまうだろう。
ともすれば、泣きだしてしまいそうなのを懸命にこらえる。泣くなんて変だし、なによりずるい。斎は笑っているのだから。
「今から歩くと、夜になるよ」
海に行こうと思ったら、ここからだったら一時間ほど歩かなければならない。休みながら歩くんだったら、一時間半というところだ。
窓から差す光は、血の色をおびている。病室はオレンジ色に染まりつつあった。空には、血色の夕焼けがかかっていることだろう。
海辺までたどり着いた頃には、夕陽は空から姿を消してしまっていた。空は紺色になり、白や青、赤や黄色の星々が街のイルミネーションのように輝いていた。
斎はジャージ姿、わたしは制服のままだった。きっと、ここに来るまでにすれ違った人たちは、奇妙なふたり連れだと思ったことだろう。
肩で息をしながらも斎は、ここに来るまでの二時間、ひとことも弱音を吐かなかった。それは、どうせ残り少ない時間だから、多少のむりは平気なのだとでも言っているかのようだった。
道路から砂浜に降りていって、よりそって座る。
黒い海を眺めた。黒い波は汀で砕けて、手招きしているかのような白をつくる。
一定のリズムでもって、わたしたちを包み込んでくる。潮騒が、世界はふたりだけだよと、語りかけてきているようだ。
「海、黒いね」
海のまわりには民家もほとんどないし、電灯も少ない。水は、星も月もない夜空のような色をしていた。
「うん」
斎がわたしの肩を抱く。いちょうが色づくこの季節は、制服やジャージだけで過ごすには肌寒い。他意があってほしいような、ほしくないような、微妙な気分だ。
わたしは斎に視線を移した。
海に来たいって言ったのだって、深い意味はなかった。なにをしたい、とか、そういうことは一切考えていなかったのだ。
ただ、美術の時間に見た、あの蒼が忘れられなくて。
あんなふうに一枚の絵になって、このまま時間を停めてしまえればいいのに。そうすれば、斎は死ななくてすむ。白血病のことなんてわたしには全然わからないけど、きっと、そんなに時間は残されていないような気がする。
斎の色が白いのも、いつもとろとろと眠っているのも、とろけそうに笑うのも、病気のせいだったのかもしれない。なんとなく、そう思う。根拠なんかないのに。
「ね、斎……また連れてきてね」
本当に言いたかったのは違うことだったけれど。
口に出せなかった。口に出してしまったら、それが本当のことになってしまいそうで怖かった。
斎はかぶりをふる。
「もう、ここに来ることはできないよ。おれはもうすぐ死ぬだろうから」
月の光に照り映える薄茶の髪。
白磁のような肌と、きゃしゃで折れそうなほど細い手足。
瞳は南の海のようなブルーで、薄いくちびるは桜の花びらのようだった。
きれいな斎。やさしい斎。
ある日、突然あらわれて、今日から兄妹になるって紹介されたんだっけ。
いつもわたしのわがままを聞いてくれて、どうしてかって訊ねたら、自分は影だから、と言って笑っていた。
「いつきぃ……」
ずっと、ずっと、いっしょだったのに。
わたしを置いて天へ還っていかないで。
斎はわたしの頭をくしゃくしゃなでた。
「泣かないで、朔夜」
「……え」
頬に手をやると、たしかにぬれている。ひとすじ、涙の通り道ができていた。
そうっと、斎がくちびるをよせてくる。まずは両頬に、そして額に。
「いつか逢えるよ」
嘘や冗談を言うとき、斎の眉は情けなく下がる。いっそ、かわいそうになってくるほどに。
今は下がっていない。だから本当だ。
「どういうこと?」
「人は死んだら、土に還るんだよ」
潮風が斎の髪を揺らす。冷たくて、刃のようで、皮膚が切り裂かれてしまいそうな気がする。
「土の中にある養分は、地下水にとける」
まるで小学校や中学校の理科みたいだ。もちろん理科だったら、植物の養分になってからどうこうってなるんだろうけど。
言っている斎が、今にも消えてしまいそうに見えた。
「水は川を流れて、海へそそぎ、世界を流れ」
光の粒子が斎のまわりではじけている。光がその上で舞っていた。
「水は水蒸気として大気に混じり、その水蒸気は雲になったり風にまじったりして、大気は世界をめぐる」
その瞬間、わたしは悟った。
斎はもうすぐ、死ぬだろう。
そして世界をめぐるだろう。
天に還りはせずに。
「大気はいつか魂を構成する要素となって、また、人としてうまれる」
まぶたを下ろして、首をそらす。昨日、屋上でしていたのと同じかっこうで、月光につらぬかれながら斎が詠うように続けた。
「だから、必ず逢えるよ。現世で逢えなければ来世でめぐり逢える。朔夜とおれは、また、いつか必ずめぐり逢う」
人は土に。
土は水に。
水は大気に。
大気は魂に。
そうやって世界をめぐりながら、何百回でも何千回でも、わたしたちはめぐり逢うだろう。
「だから、おとなしく待っていて。おれの知らないおれが、朔夜と出逢えるまでね」
わたしはやわらかく笑って見せた。
こうやってきっと、あるときは不幸な結末を、あるときは幸福な結末を手にいれながら輪廻の輪をくぐってきたのだ。
「未来でまた出逢えるなんて――どうしてわかるの」
意地の悪いことを言ってみる。わたしを置いて逝くだなんて。たとえ天上の人だって、許せない大罪だ。
斎のいない残りの人生を、なにをして過ごせというのだろう。斎はわたしの片割れなのに。ずっといっしょに生きてきて、斎なしの人生なんて考えられないほどなのに。
「逢えるからだよ」
「わかんないよ」
「おれは朔夜の影だから。朔夜の知らないことを知っていて、見ていないものを見ているんだよ」
それはつまり、ふたりでひとつだと、そういうことだろうか。
でもわたしはわたしで、斎は斎で。どうしても、どんなに望んでも、ふたりはふたりのままなのに。
天使みたいな斎。
だから遠い斎。
だから先に逝ってしまうというのなら。
翼をもいでやりたい。それか、その長い指で、くびり殺してほしい。
――でなければ。
わたしが。
きゃしゃな首すじに手をのばす。
ふれた部分は暖かだった。
「どうしたの?」
斎が小首を傾げると、髪が光におどった。
「なんでもないよ」
手を頬の位置までずらして、わたしは答える。
「ちょっと天使の翼をもいでやろうかと思っただけ」
「翼?」
「――ひみつ」
わたしは空を見た。
水平線と頭上とのちょうど中間にあたるところで、青銀色の月がわたしたちを見ていた。
求めあうふたつの魂の行く末を、月は何度も見てきたのだろうか。
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