「好きなんです……」
目の前の少女――たしか、霞未楓とか言ったか――は今にも消えいってしまいそうな声で、それだけ、言った。
とくにどうということもない、普通に可愛い女の子だった。もちろん朔夜には及ばない。
「それで、おれに、どうしてほしいの?」
なにを言うつもりなのかはわかっているのに、おれはわざと意地悪く訊ねた。
こういう場合、つきあってください、とか、そういう言葉がつづく。今まで、そうでなかったためしはない。
だからおれは、正直、うんざりしていた。
「どうしてって……。ひどい。斎さん、なにも、そんな言いかたしなくたって……」
「なにがひどいの? おれのことをよく知りもしないでつきあってくださいなんて言うのだって、充分にひどいよね? それなのに、きみはおれを責めるの?」
泣きそうになっている彼女に向かって、おれは告げた。
どうして気づかないんだろう、といつも思う。
彼女たちはいったい、おれのなにを知っているというのだろう。
知りもしないで好きだなんて言うのがどれだけばからしいのか、わからないほどに彼女たちは愚かだ。
彼女はきびすを返して走り去った。
おれは黙って見送った。そしてすぐ、頭を切り替える。
――行こう。
朔夜が、待っている。
「……遅い」
朔夜は昇降口で待っていた。くちびるをとがらせて、怒っている。
「ごめん」
おれは朔夜の頬を両手でつつんだ。つめたい。
ずいぶん待たせたのだろう。
もう一度ごめんとつぶやいて、額に口づける。
「いいよ、許してあげる。でもどうして、こんなに遅かったの?」
「――ちょっと、ね」
頬よりもずっとつめたい、朔夜の黒髪をなでる。髪をひとふさつかんで、そこにもキスを落とす。
「隠しごとするんだ」
朔夜は頬をふくらます。
でも、本当のことを言ったら、朔夜はもっと怒るだろうから。
だからおれは黙っている。
こうして秘密にしていることが、実は、おれにはたくさんある。
「たいしたことじゃないよ。帰ろう?」
朔夜はしぶしぶといったふうに、うなずく。
おれは朔夜の鼻先にキスしようとして、せき込んだ。
いやなせきだ。まるで、結核患者のような乾いたせき。
「――大丈夫?」
とたんに、朔夜の機嫌はなおる。心配そうな顔になる。
「大丈夫だよ」
おれは微笑んでみせた。
本当に、朔夜は心配性だと思う。
たぶん、ちょっとした風邪だろう。だからそれほど気にすることもないのに。
冷えた朔夜の手を握って、おれは歩き出した。
その夜、おれは血を吐いた。
口許を押さえて軽くせき込んだら、てのひらには血がついていた。
赤い、血だ。
いやに鮮やかな。
これは動脈血なのか、それとも静脈血なのか。そんなくだらないことを考えてみる。
そもそも、喀血したときの血は、いったいどこからの出血なのだろう。
肺か、のどか、それとももっと別の器官か。
どこかの粘膜だとしたら、血は止まりにくいかもしれない。
あふれる血は体内に蓄積されて、身を内側から黒く染めていく。
おれはくつくつと笑った。
なんだか愉快な気分になって、そのままふとんに潜り込んだ。
おれは色素が薄いけれど――死に向かうにつれて、だんだん黒くなっていく。
死体はきっと真っ黒なのだ。
白花に囲まれた黒いおれ。
とても、愉快だ。
心残りはあるけれど。
昨夜を残して逝くのだけは、どうしても心残りだけれど――
そう思ったところで、目が覚めた。全部夢だった。
おれはまだ、生きている。
SHRが終わってすぐ、おれは教室を抜け出した。
誰も声をかけてこない。
おれが正妻の子ではないと、誰もが知っているからだ。おれはつまりは異分子なのだろう。
朔夜と色違いのコートをはおって、屋上へ行く。今日はなんだか熱っぽい。
重い鉄の扉を開けると、強い風が吹きつけていた。ここはいつも風が強い。
うしろ手に扉をしめて、フェンスの方へと歩いていく。
先客が、いた。
ポニーテールが風に弄ばれて踊っている。短いスカートはめくれあがって、今にも中身が見えそうだ。彼女はフェンスに寄りかかって、上を見ていた。
昨日の女の子だ。名前は――なんといったか、忘れてしまった。
「……偶然、ですね」
彼女ははにかみながら言った。
昨日のことなどなにも覚えていないかのような態度に、おれは少しだけ当惑する。
女の子たちはみんな、おれがああやって断ると、悪いうわさを流したり、おれをあからさまに避けたりする。
こんな変わった反応をされたのははじめてだった。
「斎さんもサボリですか?」
「そうだけど」
「あたしもなんです。奇遇ですよね、ほんと。昨日の今日なのに」
「……覚えてるんだ?」
「ええ、もちろん。忘れるわけありません。でも、気にしてたって仕方ないでしょう? あたし、ふられちゃったんですから」
彼女ははきはきと述べる。少し好感を持った。陰湿なほかの女子よりは、断然悪くない。
もちろん、あくまで悪くないのであって、いいわけではない。おれが「いい」と言うのは朔夜だけだ。
「斎さんは好きな人とか、いるんですか?」
「いる、けど。それが?」
「どうもしませんけど、意外です。斎さんって、そういう感情とは無縁そうだから」
「ならなんで、告白なんか」
「どうしてでしょうねえ……。あたしにも、よくわからないんです。きっとなにかがあったんだと思いますけど、それがなんなのか、あたしは知らないんですよね」
「へんだとは思わないの、それ?」
言いながら、おれはせき込んだ。
「思いません。あたしにも、ほかの誰にも、理解できないようなことって、世界中にたくさんあるじゃないですか。ミステリィサークルだって、霊だって、正体はわかってないでしょう?」
彼女が背中をさすってくれる。普段なら不愉快でたまらないところだけれど、今は我慢できないほどではなかった。
おれはこんなことを考えていると知ったら、朔夜は怒るだろうか?
あの、痛いくらいのまっすぐさで、おれを不実だとののしるだろうか?
「世の中にあることは、なんでも不思議なんです。でも、不思議だらけってことは、少しも不思議じゃないんですよ」
「でも、きみはへんだね」
「あ、ひどいです。へんだなんて。個性的とか言ってくださいよ」
「……そう? 個性的なんて言葉のほうが、ずっとひどいと思うけど」
なんとなくよさそうに思わせておいて、実は言っていることは変わらない。
それならいっそ、正直に言った方がいい――と思うのはおれだけだろうか。
ひときわ強くせき込むと、点々と赤いものが、フェンスに散った。
「……斎さん!?」
彼女があわててティッシュをさしだす。ありがたく受け取って、口許と、フェンスをふいた。
「大丈夫。気にしなくていい」
「どこがですか!! 熱だって、こんなに……」
おれの額に手をあてて、彼女はわめき散らす。彼女の手は雪女のようにつめたい。
「いいんだ」
おれは手を外させて、きっぱりと言った。その場にしゃがむ。フェンスに寄りかかって空を仰ぐ。
灰色がかった青い空。
絵筆を洗ったあとのバケツの水をしみ込ませたような雲が、たくさん浮いている。
「――ああ、このことは誰にも言わないで。いいね?」
「そんなの勝手です」
「そうだよ。おれは勝手な男なんだ」
「……斎さんに好かれてる人がかわいそうです」
「いいんだよ、心配させたくないんだから」
冗談めかして、口にしてみる。
たしかに朔夜はかわいそうだと、おれも思う。
朔夜はおればかりを見ていてはいけない。
それなのにおれは、朔夜がおれを見ないように仕向けたりはしない。できない。
おれは朔夜の影なのに、わがままを言って、朔夜を縛りつけている。
「本当に、好きなんですね。その人のこと」
彼女がぽつりとつぶやいた。
「もちろん」
「もしもその人より先に、あたしと出逢っていたら――少しでも、好きになってくれましたか?」
「むりだね」
おれと朔夜は、同じ日にうまれたから。
母親は違うけれども、だからこそおれは朔夜の影で、ずっと朔夜を想いつづけてきたんだから。
「そうですか……」
彼女は笑った。
細くなった両目から、涙があふれた。
ハンカチを出して目許に当てている彼女から目をそらして、おれはまた空を見た。
彼女はもう、おれの世界にはいない。
そのとき空をひかりが裂いた。
一瞬遅れて、腹にひびくような音がとどろいた。
神鳴り、だ。
雷が鳴っている。
ということは、近くに神がいるのだろうか。ふと、そんなことを思う。
もしもいるのだとしたら、祈ってみたい気がした。
おれはもうすぐ、死ぬだろう。そんな予感があるから。おれの予感はよく当たるのだ。悪いことはとくに。
せめて、朔夜には幸せを。
でなければおれに、もう少しだけ時間を。
そんなことを祈る。十字をきりはしないけれど。
――ぽつ、と。
鼻先につめたいものがふれた。
雨、だ。
熱をおびた体には心地いい。
髪に、
服に、
肌に、
しみて熱を奪っていく。
雨に打たれながらおれは、小さく口の中で祈りの文句をつぶやいた。
祈りは届くことはないと、知っているというのに。 |