斎は、死んだ。
最期まで斎はきれいだった。
延命処置のすべてを拒んで、きれいなままで死んでいった。
やさしかった異母兄。わたしの大好きだったひと。そして今も大好きなひと。
あれから――2年。
わたしはまだ、とろとろとしたまどろみの中にいるような気がする。
夏の陽射しは殺人的だ。本当にじりじり肌を灼く。
おかげで、わたしの肌はすっかり黒い。喪服代わりの黒服とのコントラストが、だんだんなくなっていくような気がする。
わたしは犬みたいに全身で息をしながら、アスファルトの上を歩いていた。
斎が死んだあと、なにもする気のおきなかった私は、フリーター、という、なんとも気楽な身分でいる。今はガソリンスタンドの店員をやっていたりする。
懐柔しようとしてきた母を捨て、ちいさなボロアパートでわたしは暮らしている。昔よりも自由になるお金は少ないし、つつましい生活をしているけれど、今はそれなりにしあわせだ。
ぼうっと考えごとをしながら歩いていたら、誰かにぶつかってしまった。
謝ろうと顔を上げると、そこにいたのは斎だった。
――いや、違う。よく似ているとは思うけれど。一瞬間違うほど、似てはいるけれど。
おどろいたように目を見開いてわたしを見ているその人は、2年前の斎そっくりだった。
今にも消えてしまいそうなくらい色素が薄いところも、とろとろとまどろみの中にいるかのような、そんな瞳をしているところも。
「誰?」
わたしは思わず訊ねてしまった。
けれど、そんな不躾な態度にも、彼は怒りはしなかった。
わたしにデジャ・ヴュを起こさせる、とろけるような笑みを浮かべて、
「僕? 伊織」
と応えた。
イオリ。
わたしは心の中で繰り返す。
「ねえ、きみ。月がきれいだと思わないかい?」
だしぬけに、伊織が言った。
わたしが首を傾げていると、彼ははじめからわたしの答えなど欲していなかったかのように続ける。
「今日の月はとても蒼いね。昨日の月は赤かった。明日はどんな色なんだろうね?」
なんのことを言っているのだろう。
今は真昼間。月なんか出ているはずもない。
けれど、彼の瞳を見つめていて、気づいた。
伊織は多分、ここではないどこかを見ている。彼にはわたしの姿さえ、わたしの思っているわたしとは違って見えているに違いない。
なんとなく、胸の奥がキュッとした。
それ以来、いつも、同じ場所、同じ時間、わたしは伊織に会うようになった。
喪服代わりの黒服は、次第にクローゼットの奥へ奥へと移動していった。
「近頃――とても怖いんだ」
めずらしく、深刻そうな表情で伊織が言った。
「どうしたの?」
「みんなでよってたかって、僕を消そうとしているんだ。白い服を着た人たちが……!」
伊織は叫び、自分ののどをかきむしった。
わたしはそっと手をおさえ、それをやめさせる。
わたしは、断片的な会話の中身から、伊織のことを少しだけ知っていた。
彼はどうやら、白い大きな建物――病院ではないようだけれど、その類の施設で暮らしているのだということ。
たまにそこを抜け出して、こうして散歩に出るのだということ。
彼に見えている世界は夜ばかりの世界なのだということ。星と月がきれいで、紫紺の空に色とりどりの月が浮かぶんだそうだ。
多分、世の中の大半の人たちが大切だと思っているようなことを、彼について、わたしはなにひとつ知らない。でも、それでよかった。わたしにとっては、そんなもの、ちっとも大事ではなかった。
「たまに、記憶がなくなるんだ。なくなるっていうのとはちょっと違うかな……。僕がやったことのないはずのことを、やった、っていう記憶があったり、見たこともないもののことを鮮明に思い出したりするんだよ」
「でも、やった実感がない、みたいな?」
「そう、そうだよ。全部ビデオかなにかで見せられたみたいで――」
わたしの日常も、多分、そんなものだった。彼は今、そんな、モノクロームのような記憶を持っている、と。そう言うのだろうか。
伊織といるときだけ、わたしはわたしでいられればいい。今ではそう思うけれど。きっと、彼は違うのだ。
――そんなことを思い、わたしは首を振った。失礼かもしれない。
そうして、そんなことを思った自分自身に自嘲した。わかったつもりになっている自分は、とてもたちの悪い種類の人間だ。
偽善者。
いつものように歩いていると、伊織が必死の形相で駆けてくるのが見えた。
彼はわたしを見つけると、ぱっと顔を輝かせる。
「助けて! 殺される――!」
不穏なせりふ。
そうして彼はわたしのうしろに隠れた。
わたしはとっさに向き直って、伊織の肩をつかんだ。
「どういうこと?」
伊織はうつむき、耳をふさぎ、激しく首を横に振る。
彼の歯の根があっていないのは、見てすぐわかった。
まるで、飢えた猫の前に引きずり出された仔ねずみのよう。斎とは、まるで違う。
斎はいつも毅然としていた。いつだって、怯えも恐れも見せなかった。
わたしは伊織のやわらかな髪をなでてやりながら、だから伊織がいいのだろう、と思う。
伊織は斎とよく似ている。でも同じくらい正反対だ。
「――健人!」
うしろから声がかかった。
振り向くと、伊織によく似た、でも数倍はキツそうな女の人が立っていた。
かなり走ったのだろう。体をわずかに前に倒し、苦しそうに顔をしかめている。
「違う。僕は知らない。知らないんだ。健人なんて知らないっ」
だだっこのように伊織が叫ぶ。
「こう言ってるけど?」
「その子は健人なの。返して頂戴」
「伊織はものじゃないわ」
言うと、女のひとはにらみつけてきた。キツネ目の美人だから、わたしでさえも背筋がぞっとしてしまう。
「私は健人の姉よ」
「ああ、そう」
けれど、わたしは適当に返す。
だって伊織は、健人なんか知らない、と言っている。だったら正しいのは伊織だ。健人、という人の姉だと名乗るこのひとを、わたしは知らない。
「みんなで僕を殺そうとしてる。僕はいらないんだって!」
「違うわ。殺そうとしてるんじゃない。はじめの状態に戻るだけよ」
「でも、死ぬのとおんなじだ」
わたしには、なにがなにやらわからない。日本語で話しているのはわかるのに、あとはなにがなにやらさっぱりだ。
女のひとの来た方向から、白衣を着たおじさんと、若い女人が三人、駆け足で来た。
彼らは無造作に近づいてきて、伊織を押さえつけた。
「なにするの!?」
医者はわたしを一瞥した。でも、それだけだった。そのまま、暴れる伊織を連れて行こうとする。
「朔夜!」
伊織がわたしの名を呼んだ。溺れるひとが藁をつかもうとするように、わたしの方へ手を伸ばす。
わたしは伊織の手をとろうとした。でも、その手は空を切る。
健人の姉、と名乗る彼女が、私を押さえつけていた。
「どういうことよ!」
わたしは彼女にくってかかった。彼女はひるまずにわたしを見つめ返してきた。
しばらくして、彼女はため息をついた。
「病気なのよ、あの子は」
「でもいやがってるじゃない」
「治さなくちゃいけないの」
よく、わからない。やはり。
どうして病気は、イコール治さないといけないもの、なのだろう。斎はなにもかも拒んだというのに。どうして、そうしてはいけないのだろう。
「いやだ。僕は死にたくなんかない」
泣きながら、伊織がつぶやくのが聞こえた。
わたしは健人の姉に押さえられて、それ以上伊織を追えなかった。
声はいつまでもいつまでも、耳の中にこびりついて離れなかった。
そのあと、毎日毎日、わたしは伊織と会っていた場所に通った。
1週間がたち、2週間がたち、気づけば2ヶ月が過ぎていた。
けれども、わたしはただの一度も、伊織の姿を見られずにいた。
彼に関わるすべてのものは、きれいさっぱり消えうせていた。
だから、もう二度とは会えないのだと、わたしはなかばあきらめていた。もう、彼の口から、紫紺の空に浮かぶ色とりどりの月の話を聞くことはないのだ、と。
――でも。
ふと、目があった。
もうすっかり、季節は秋へと移っていた。秋の夕暮れどき、ふと入ったコンビニで、伊織はバイトをしていた。
「伊織?」
コンビニのエプロンをかけ、レジの前に立つ彼に、わたしは思わず声をかける。
「人違いじゃないですか? 俺、健人っていうんですけど」
そう言って彼は、胸の名札を指し示した。
山村健人。そう書いてあった。仏頂面をした彼の写真が、名前の横に貼られている。
「ええ、そうみたい」
わたしは謝って、買おうと思っていた缶コーヒーを出した。
彼がバーコードリーダーを当て、レジを打っているあいだ、わたしはずっと彼を見ていた。
彼は伊織だ。間違いなく。
仕種も、口調も、雰囲気も違う。でも彼は、間違いなく、以前わたしの前で伊織と名乗ったひとだった。
彼が顔を上げた。わたしはあわてて目をそらし、買い物袋を受け取って、外へ出た。
多分、伊織は死んでしまった。
存在が消えてしまうこと、それを死だと定義するのなら、間違いなくそうだろう。
病気が治ってしまったから、彼はどこかへ行ってしまった。わたしの手の届かない遠くへ。
最後に会ったあのときから今まで、なにがあったのかはわからない。
でも、伊織がもういない、という、その事実だけはわかった。
あれは健人であって伊織ではない。
でも大丈夫だ。
わたしは昔、斎を失くした。そのときだって、いつか平気になった。だから、今度も大丈夫だ。
それに、わたしは忘れていない。
伊織の語った世界のことを。
たとえ、彼がいなくなっても、わたしの記憶の中にある、異世界の月は、誰にも消せはしないのだ。
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