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天頂星の真下へ
作:浅葉りな


 そこに、硝子の瞳があった。
 ふたつの、何も映さぬ榛の瞳が。
 そして、髪。もともと栗色だったが、今は黒ずんでしまっている。
 濃い紅をした流れる命の源が、乾いて黒へと変じているのだ。
「……リーシェン」
 彼は呼びかける。けれども、彼女は答えない。既に失われた生命は再び戻っては来ない。それは法則。絶対普遍の真理であり、何人たりとも変えることはできない。そう、たとえ今の彼の力をもってしてさえも。
「これでよかったのかい? 本当に」
 今はもう、言っても詮ないことだけど。
 でも言わずにはいられなくて。
 想いは言葉にしなくては、伝わらないと知ったから。
「ごめんね」
 冷たい頬に手をふれる。まるで蝋人形のような皮膚。
「とめてあげられなくてごめんね」
 どうしてだろう、彼女はとても美しい。
 命なきもの特有の、青白い表皮に光のない瞳。つい先ほどまで温かかったカラダは、触れてもぶにゃり、とやわらかい。
 ただの物体として広がる髪は、彼女を包む優しい囲い。
 胸からはえた宝剣のせいかもしれない、彼女が喩えようもなく美しく思えるのは。
 みがきあげられた銀の剣には、世界に愛を捧げよ――そういう意味の魔術文字が彫りこまれている。
「皮肉だね……」
 涙が零れた。彼の紅玉色の瞳から。リーシェンの頬に当たって弾けたようにちらばる。水晶硝子が粉々に砕け散るように。
「好きだったんだよ、リーシェン」
 ひざまずいて額に口付けた。
 ふわりと鼻に感じる、金木犀の香。リーシェンの愛した花の香り。
 本当に馬鹿だね、リーシェン。なにもいらなかったのに。ずっとライバルとして、ふたりいられたらよかったのに。
 ――さようなら、リーシェン。
















 冬の空気が肌を刺す。
 つい居眠りをしてしまっていたので、身体は冷え切ってしまっていた。
 薄手のローブ一枚しか身につけていない身体を小刻みに震わせ、彼はひとつ小さなくしゃみをした。顔にかかった銀の髪を払いのけ、居ずまいを正す。
 ……ここはどこだろう。
 はっとして、あたりを見まわす。いつだって覚醒の前後は記憶があやふやになる。
 そう、ここは学院だ。百年以上の伝統を誇る、魔法学院。
 正面では教師が板書している。階段状に配置された机の数はそう多くなかったが、席は全て埋まっていた。贅沢に木材を使用した教室は、石造りのそれよりはまだ暖かい。年季が入っていて、隙間風も吹きこんではくるのだけれど、天井近くに浮かせた光球がやや寒さを和らげていた。暖房と照明をかねて、学生が講義の前に作り出したものだった。習作なので、暖かさはじゅうぶんとは言いがたかったけれど。
 ――あれは夢だったのかと安堵する。倒れていたのは幼なじみのリーシェンで、胸からはえていたのはディエラーニャ王国から清めを依頼された宝剣で。すでに彼女に命はなく、ただ横たわる屍でしかなかった。
 思い出すだけで、悪寒が走る。あんなことが本当にあるとしたら、アーシャも死んでしまうに違いない。悲しさで壊れてしまうだろう。
「アーシャ・レジーム、教本第六項、世界の天秤についてお読みなさい」
 きびきびととした様子の老婦人の声がふいにアーシャを現実へと引き戻した。
 彼女は一見したところ魔法使いには見えない。どこにでもいる老婦人のようだが、実は学院でも有数の使い手だとアーシャは知っている。名教師の誉れ高きアステリア・バラス・カルダモンの名を知らないものは、学院内では皆無に等しいだろうけれども。
 アーシャは席を立ち、ぼろぼろになった教本のページをめくった。
「世界は天秤と同じようなものであり、常に均衡を保っている。
 魔法使いの数が増えれば、ひとりの持つ魔力は弱まり、またその逆も真理と言える。魔力を消費しすぎたならば、その反動が起こることは避けられず、天地崩壊を招く恐れさえある。
 魔力は大地をひとつにまとめておく役目を担っているからだ。魔力が消えれば世界は崩れてしまう」
 よどみなく答えると、周囲から感嘆の声があがった。教本は古語で書いてあるため、今の言葉に訳しながら読まねばならず、やすやすとできることではないというのが一般の認識だ。
 アステリア教師はアーシャの答えを、目を細めて聞いていた。ゆったりと首を縦に振りながら窓の外を見て、太陽の位置を確認するような動作をする。
「それでは、今日の講義はここまで。あとは自由に、質問のある生徒はわたくしのところまでいらっしゃい」
 アーシャは黙って席についたまま、質問に行くほかの魔法使いたちを眺めていた。
 みな、同じローブを着てはいるが、瞳も髪も、肌の色さえも様々だ。そして年齢も一定ではない。
 学院への入学資格は「魔法使いを志していること、そして魔法使いとなり得るだけの力を持ち合わせていること」だったから、それはなんら不思議なことではない。だが学院の外から見れば特異なことであることに変わりはないのだろう。
 けれどもこの特異さが、肌にあうと感じていた。ほかではきっと、アーシャは生きられないだろう。
「今日もなかなか冴えてるじゃない、居眠りしてたわりには」
 聞きなれた声に顔を上げると、思ったとおりの笑顔がそこにあった。
「……リーシェン」
 栗色の髪と榛の瞳を持つ少女は、なにからなにまでアーシャとは正反対だ。東洋人の血が混じっていると聞くけれど、太陽に愛されているかのように健康的で、月光の下でさえ生きていくにはまぶしすぎるアーシャはいつもうらやましく思う。強い光は色素を持たぬ身を焼いて、魂までも焦がしてしまう。
「ぼくはいつもと変わらないつもりなんだけど……」
「優等生は言うこと違うわよね、もぉ! それでこそあたしのライバルだけどさ」
 背中を無遠慮に叩かれて、アーシャはせき込んだ。体は丈夫なほうではない。涙目になって見上げると彼女はにやにや笑いを返してくる。
「あいかわらず体弱いのねー。ちゃんと食べてる?」
 アーシャは自分の腕に目を落とした。ローブは支給品の中では一番小さいサイズのものだというのにぶかぶかで、腕はやたらと細く見える。食は人より細いけれど、充分食べているつもりではあるのに。そういえば背が伸びても体重は変動がない。
「食べてるさ。リーシェンはちょっと肉付きが……」
「なによそれ、女の子にそれはないじゃないの。ちょっとは気にしてるのよ」
「ぼくも少し気にしてはいるよ、男だけどね。でも、きみとは一緒に水浴びしたことだってあるくらいだから……女の子って急に言われても」
「意地悪いわね、まったく。あんまり大声で言わないでよ」
「本当のことなのに」
 いじわるく微笑んだリーシェンにアーシャは頬をつねられてしまった。両手でひっぱられたので、後で冷やすときにめんどうそうだ。さほど痛くもないのでやめさせるほどでもないけれど、うっとおしかったので手を払いのけた。
「それで今日は何の用が?」
 頃合を見計らってアーシャは言う。
 リーシェンはいつでもこうだった。何か用があるときでも、用件をすぐに切り出すことは少ない。それは、十をすぎた頃からの癖で、十八になった今でも変わらない。そこが可愛いところでもある……アーシャはそう思っていた。リーシェン本人には当然言わない。もしもばれたら、きっと殴られる。
「うん、あのさ、次の時間、魔法理論の発表じゃない。ちょっと途中でどうしてもあわなくって」
「え? まず見せてくれる?」
「これなんだけど」
 リーシェンがさしだした羊皮紙をざっと眺め、アーシャは苦笑した。右上がりの読みにくい字体。これじゃあ先生も、解読に苦労するだろう。
「多分、ここが違うんじゃないかな」
 理論式の中の一点を指さす。
「ここ、サルリエフの公式じゃなくって、サリフエリの公式を使えばあうよ。ほら、サルリエフの答えは悠久の流れだけど、サリフエリは時の歯車だから……。答えと式があってないから、最後に矛盾が出てきたんだよ」
「ほんとだ、あたしってばなに間違えてたんだろ。ありがと。さすが天才は違うよね」
 言いながら、リーシェンが一瞬悔しげな顔をしたのを、アーシャは見逃さなかった。天才、という響きは好きになれなかったけれど、いやな顔をするわけにもいかない。
 ムリに笑って見せて、いつもと変わらない調子で言葉を紡ぎながら続けた。
「とりあえず……昼ごはんいっしょに食べる? 発表の途中でおなかなったら恥ずかしいだろうし」
 リーシェンは視線をさまよわせ、迷っているようだった。見るからに落ちつかない様子で羊皮紙を懐にしまう。
 きゅる、と小さな音がした。アーシャは気付かないフリをして、わざと大きな音をたてて立ちあがる。
「それじゃあ、行こうか」
 リーシェンはこくり、とうなずき、アーシャの先に立って歩きだす。
 ふたりは質問をする学徒に囲まれたアステリア教師のすぐわきを通って、講堂の外に出た。しばらくの間は人だかりが消えることはなさそうだから、まだ食堂は混まないだろう。
 廊下は人がまばらで、突き当りまで見渡せるほどだった。講堂を出るとほかの施設までの渡り廊下が続いている。さすがに廊下は石造りで、講堂の中のような暖かさはない。
 食堂へ行くなら右だ。左は付属図書館につながっている。まっすぐ行くと研究施設。寮へは中庭を通って別の道を通らねばならない。そして、なぜか禁忌とされている塔へ行くなら、図書館へ行く通路の枝道、閉鎖されている通路を行かなければならなかった。
アーシャはリーシェンを追って右のほうへと進む。
 足を速めて追いつき、そっと下から顔をのぞく。
 思ったとおり、頬には赤みがさしていた。黙っているのも気まずいからだろうか。そんなことは気にするほどのことではないというのに。
「な、なに見てるの!」
 リーシェンが叫んで振り上げてくる拳を笑いながら受けとめて、アーシャは唇のはしをつりあげた。
「別に」
「嘘でしょ、絶対に。その意味ありげな含み笑いが怪しいわ」
「ほんとになんでもないよ」
 リーシェンの頬を優しくなでて、アーシャは駆け出した。
 何も言わずに走ってくるリーシェンを、肩越しに見る。つりあがった意思の強そうな眉に、かたくむすばれた口元。
 こうやって追いかけられるのも久しぶりだなと、アーシャは思った。
 物心ついた頃から一緒だったリーシェンは、いつも自分のあとをついてきて、それでケガをして叱られていた。この銀の髪に紅い瞳のおかげで一族のものからさえ疎まれていた自分をかまってくれたのも、白子は悪魔の子だという迷信を信じもせずにいつも笑っていてくれたのも、彼女ひとりだけだった。
 懐かしくて暖かい思い出は今も色褪せていないけれど、彼女はどう思っているのだろう? 
 ときがすぎ、いつのまにか大人になっていた。子供のように無邪気ではいられない。逃げるようにして入学した学院で、はじめて認められはしたけれど。
 それがリーシェンとの間に隙間を作ってしまったなんて皮肉だ。どれだけの人間に認められても、彼女に認められないなら意味はなくなる。
「いきなり走り出すなんて反則よ!」
 息をきらせたリーシェンにアーシャは腕を捕まえられた。子供の頃のように笑う彼女が急にいとおしく思えて、アーシャまでもが微笑んでしまう。
「それとね、人のほっぺた触んないでよ。女の子なんだからね、あたし」
「そんなこと気にするんだ?」
「気にするの、大問題なんだから」
 からかうようにアーシャが言うと、リーシェンはふくれた。そこも可愛らしいのだけれど、彼女はそういうことを言うといつも怒る。
「それくらい気にするほどのことでもないのに。もう食堂だし」
 アーシャは古びた扉をさして言った。
「……まあ、ここで怒ってても不毛よね。入ろっか」
 空腹と怒りとを天秤にかけて、リーシェンの中では空腹が勝ったらしかった。
 アーシャは扉に手をかける。木製なのでさほど重くはない。空けた瞬間、湿った空気と種々の食物の匂いと、喧騒がふたりを襲った。
 講義のない生徒やさぼっている生徒は、だいたいがここに集まっている。当然、ガラのよろしくない生徒もいないわけではない。それでも食堂が憩いの場であることはたしかだった。
 テーブルは半分ほど埋まっている。
 熱く討論するものたち、とにかく食べつづけているものたち、場所柄を考慮に入れていないのか見ているほうが恥ずかしくなるほどになかむつ仲睦まじいものたち。
 誰も他人に気兼ねせず、同様に誰もが周囲のことなど気にもとめない。
 手品まがいの簡単な魔法が飛び交っていたりするのも、学院ならではのご愛嬌だ。
 全員が学院の関係者だった。
 ここは外部の人間を拒む、魔法使いたちの砦。ほとんどが生徒のはずだ。さすがに教師ともなると、研究のための時間を減らしてしまうのがいやなようで、教師寮で自炊することが多い。
 ふたりは食堂の奥、比較的静かな場所に陣取った。
「まったく、ここをなんだと思ってるんだろ? ごはん食べるとこなのに」
「しょうがないさ。寮の部屋で騒いでると苦情がくるし」
「でもいちゃつかれると目のやり場に困るわよ」
「ハタから見てるとぼくらもそうじゃないのかな?」
 リーシェンが天使もかくやという笑みを浮かべながらアーシャの頬をひっぱたいた。これは絶対、手形がくっきりついてしまったに違いない。
 あとで人に聞かれたらなんて答えよう? そんなことをアーシャは考えた。
「バカなこと言わないで」
「ああもう冗談の通じない」
 本当にそうなったらいいのにとアーシャは思っているのだけれど。でもそれは、口に出せない想いだ。
 こうしてたまに冗談めかして口にして、いつか気付いてもらえないかと淡い期待を抱いている。いつも期待通りにことは運んでくれないとわかっているのに。
 いつまでも、自分は夢ばかり見ている。
「笑えないのよ、アーシャの冗談は」
 唇をとがらかせたリーシェンが、人さし指をつきつけてきた。
「それで、なに食べる? 持ってくるよ」
 学院の食堂はセルフサービス制になっている。ただでさえ少ない人手を食堂にまで割いていられないということらしい。料金を渡して、各自厨房から直接料理を受け取る。ウェイトレスを使わない分だけ人件費が安くつくから、必然的に料理の値段は安くなる。もともとは、当番制にという動きもあったらしいが、生徒会の猛反対にあったとアーシャは聞いている。
「紅茶だけでいいや」
「……もしかしてさっきのこと気にしてるのかい? だとしたら、気にしないほうがいいよ。今日はぼくの奢りでいいから」
 途端、リーシェンが目を輝かす。
「ほんと! アーシャってば太っ腹ね♪ そうだな、アーシャと同じモノでいいわ、うん、それで、デザートつけてほしいの」
「現金だなぁ……まあ、ここで待ってて。誰かに絡まれても手は出さないように。ぼくが来るまでおとなしくね。絶対だよ?」
 いくら多少のことなら平気とはいえ、騒ぎを起こせばつまみだされることとてあり得る。
 リーシェンは、どこにいても騒ぎをひきおこすのだ。アーシャはあらかじめ釘をさしておいた。
「わかってるわよ、楽しみに待ってるからね」
 ひらひらと手を振るリーシェンを見ながら、アーシャは席を立った。
 少し歩いてリーシェンから見えない位置で立ち止まり、財布の中身を確かめる。
 一応、ふたり分を食べてもあまるくらいは入っていそうだ。寮に戻ればいくらか残っているはずだし……。リーシェンの機嫌が直るなら安いかもしれない。
「ぼくも甘いよなぁ」
 誰にともなくつぶやく。リーシェンだけはついつい特別扱いをしてしまう自分がちょっと情けない。
 厨房と食堂とは明確な区切りがあるわけではなかった。ただなんとなく、ここあたりが区切りかなというところが、暗黙の了解として存在するだけで。
 古びた木――昔はまな板として使われていたらしい。古くなると、こうやって転用するのだ――にはメニューと値段が書かれている。その日によって仕入れも違い、メニューも変わってくるので、最近開発されたばかりの何度でも書いて消せる特殊インクを使っているのだが、そんな部分にまわす費用があるなら人件費にまわしてほしいものだとアーシャは思う。
「白パンをバスケットひとつと、キノコのシチューふたり分に、鶏肉の香草詰【香草詰・こうそうづ】めふたり分、それから葡萄酒をひと瓶。あったかいカスタードをひとつね」
 厨房の入り口から奥に向かって叫んだ。
 威勢のいい返事が奥から帰ってくる。食堂の調理師は昔ながらの職人気質だ。
 あとはしばらく待つだけだった。
 壁にもたれて待つこと少々。奥から声がかかり、大きめの木盆に乗った料理を手渡される。
 意外に重くてアーシャはよろめいたが、なんとか持ちなおした。
 歩幅を抑えて小刻みに、手にしたものを落とさずくず崩さないように運ぶ。リーシェンの待つテーブルの前に行くと、なにやら人が集まっていて不穏当な空気がただよっていた。
 人を押しのけてアーシャは前へ出る。
 予想通りにリーシェンが、ガラの悪そうな生徒にから絡まれていた。悪いのは絡んでいるほうだろうとは思ったが、リーシェンが挑発しているのも事実だろう。来たばかりのアーシャの目にさえそう映った。
 とりあえずはテーブルの上に料理を置き、身軽になってからリーシェンをかばって立つ。
 相手は三人、対してリーシェンはひとり。自分の連れでもあるわけだし、分が悪そうなほうに加勢しようと思うのが、人の心というものだ。
「なにがあったのかは知らないけれど、この辺にしてくれないかな?」
 三人に向かってアーシャは微笑んだ。顔とは裏腹に殺気を隠さず叩きつける。ふれれば暴発しそうなほどに膨れ上がったそれは空気をも震わせた。
 絡んでいた生徒たちは後ずさり、捨て台詞を残しさえしないで走り去る。化け物でも見たかのように恐怖に歪んだ表情をしていた。
 これでしばらくは他人に絡む気は起きないだろう。
 アーシャは緊張をほぐしてリーシェンに顔向けた。
「ありがと……」
 リーシェンはうつむき加減で言った。機嫌はよくなさそうだ。
 椅子を引いてリーシェンを先に座らせて、それから向かい側に座る。持ってきた食事を盆からおろしてまずリーシェンの前に置いた。
 栓の開いた葡萄酒の瓶を左手に持ち、テーブルの上にふたつ並べておいたグラスに半分ほど葡萄酒を注いだ。花のような芳香がただよう。
 アーシャは先にひとくち、葡萄酒に口をつける。
「どうぞ」
 わざと気取ってグラスをさしだすと、リーシェンは不機嫌だったのも忘れたのか、明るい声をあげた。
「なにしてるのよ、バカみたい」
 手にしたグラスを奪い取られ、中身の葡萄酒を一気に飲み干されてしまう。
「ちょっ……リーシェンそれぼくの」
「いいじゃない、男ならうじうじしないの」
 グラスに葡萄酒を注ぎなおしてからリーシェンに返されて、アーシャは困惑した。
 これは……試されているのだろうか?
 まさかリーシェンに限ってそんなことはないだろうとは思いながらも、リーシェンだからこそありうるとも思える。
 眉を寄せ、グラスを一生懸命に見つめながら考えた。
「……いくら葡萄酒マニアだからってそこまで見つめなくてもいいと思うわよ。さっさと食べないと料理、冷めちゃうじゃない」
 アーシャを無視して料理に手をつけていたリーシェンが冷ややかに言った。
「冷たい……」
 木のフォークを口にくわえてつぶやいてみる。上目遣いにリーシェンが視線を向けてきた。
「まさかとは思うけど、食べさせてほしいとか?」
 ちゃか茶化すような口調だったが、嫌悪感とかそういったものは感じられない。
「いやそんな」
「ならさっさと食べる。冷めたらおいしくないよ」
 一瞬、アーシャの脳裏に昔のままの無邪気なリーシェンが甦った。
 現在の彼女に重なって、懐かしい想いを呼び起こされる。
 優しくて明るくて、今よりも幼くて。だからこそ純粋にいとおしかった。あの頃はよく交わされていた言葉が今は遠くに聞こえる。
「あと、ひとりで食べるのもね」
 リーシェンの言葉のあとを継いでアーシャがささやく。
 前髪がふれあってくすぐったいくらいの距離にアーシャが顔を近づけても、リーシェンは拒みもしない。
 同意するかのように彼女が大きくうなずいた。
 アーシャはテーブルにそなえつけてある木のスプーンで、まだ湯気をたてているシチューをすくって口元へと運ぶ。
 普通、シチューといえばキノコ以外にも具が入っていそうなものだが、学院では種々のキノコを入れるのみだ。このあたりの冬は厳しく、キノコは貴重な栄養源なのだ。
「今日の、ちょっと甘くない?」
「おいしいと思うけど」
「昔から甘党だったね、そういえば」
 リーシェンに明るさが戻ったので、なにはともあれアーシャはそれなりに嬉しかった。



 ずいぶん葡萄酒を飲んだので、アーシャは少し酔っていた。身体が火照って、リーシェンがいやに輝いて見えた。
 テーブルの上には空瓶が三本。ふたりで空けるには多いかもしれない。ちなみに飲んだ量はリーシェンのほうが多かった。
 アーシャは陽気になっていたけれど、リーシェンは浮かない顔でテーブルに肘をついている。もともと彼女は酔うと暗くなってしまうことが多い。
 細い弓型の眉は心なしか下がり、長い睫毛が榛の瞳に影を落としている。花びらのような唇は閉じられたまま、噛みしめられているようだ。
 思索にふける哲学者のような貌をして、視線をさまよわせている。
「じゃあ、あたし帰るね」
 アーシャの視線に気付いたのか、リーシェンは優しい表情を見せて、席を立って去って行った。
 後姿は呼び止めることをあくまで拒否しているかのように、毅然としていて美しい。
 声もかけられずアーシャはそのまま座っていた。
「振られたか?」
 うしろからひやかされる。アーシャは問答無用で肘鉄を食らわせてやった。
 うめく声がして、声の主が前にまわってくる。
 暗い赤毛がほかの魔法使いと青年との隔たりを表わしているようだ。
 藁束さながらのぴんぴんはねた髪を短く刈り込んで、同色の瞳をいたずら好きの子供のように輝かせている。
 アーシャやリーシェンが着ているのと同じ学院のローブを身につけてはいるが、魔法使いというよりは傭兵かなにかと言ったほうがしっくりくる均整のとれた体つきをしていた。
「何の用だい、セフィン」
 アーシャは怒気を孕んだ声をぶつける。八つ当たりだとわかっていても、もやもやした気持ちはなくならない。
「人が心配してやってるってのに、怒ることないだろ」
「言い方が悪いのさ。しかもこのタイミングで……。さてはずっと見てたかい?」
 グラスに残った葡萄酒をあおり、上目遣いにセフィンを睨んだ。
 アーシャが勧めもしないのに、セフィンはリーシェンの座っていた席につく。
「いい雰囲気だったから邪魔しちゃ悪いなと思って。ああ、そんなこと考えてるなんて俺っていいやつ」
「自分で言ってる時点でいいやつとは離れてきてると思うなぼくは」
 さらりと述べて、またグラスを傾ける。
「あいかわらずリーシェン以外にはツッコミきついよな」
「……何を」
 動揺を悟られるのがいやで、アーシャはセフィンから視線をはずした。
「本当のことだろう? お前がこの学院で気を許してるのは、リーシェンくらいに見えるんだよ。まさか気付いてないのか?」
 アーシャはふと考え込んだ。別にそう言うつもりはないし、誰にでも同じように接しているつもりではあったのだ。それはまあ、リーシェンは幼なじみで誰よりも近くにいるものだから、気心が知れているというのもあるけれども。
「気付いてないっていうか、そういうの意識したことなかったし」
「ふぅん。で、リーシェンになにしたんだよ。かなり落ちこんでたみたいだぜ」
 セフィンは信じていないようだ。疑いを込めているとしか思えない視線を投げてくる。
 視線をさまよわせ、アーシャは小さな声で話しはじめた。今日、朝からリーシェンの様子がおかしかったこと。授業の後でも何か悔しがっているふうだったこと。絡まれていたリーシェンをかばったこと。食事中に交わした何気ない会話。
 セフィンは最後まで黙って聞いていてくれた。おかげで心が軽くなった気がした。
「……それはお前が悪いな。うん、間違いなくお前のミスだよ」
 話を終えたあと、真っ先にセフィンが言ったのがその言葉だった。
「ぼく、なにかやってたっけ?」
「とんでもないことやらかしてたよ。まだ気付かないのか?」
 セフィンがわざとらしくついたため息は、白い煙のようだった。煙草の煙を思いきり吸いこんでむせたときに吐くのと同じほどの大きさの。そこではじめて、アーシャは肌寒かったことを思い出した。
「リーシェンはさ……ほら、負けず嫌いっていうか、人に頼りたがらないとこがあるだろ? イヤなんだろうな、きっと。お前に守られなきゃならないのとか、お前に比べて何もできないのとかがさ」
「そんな。だって……ぼくだって何もできない! リーシェンがいなかったらぼくはここにはいないはずなんだから……リーシェンは……」
「天才なんて言われてても、ただの鈍いやつなんだな」
 言いよどんだアーシャに向かってたたみかけるようにセフィンが返す。
「負担になりたくないって気持ち、わかってやったら? リーシェン、けっこうプライド高いしさ」
 アーシャは頬が熱くなるのを感じた。赤くもなっているのだろう。
「天才だなんて、そんなこと」
「謙遜するなよ。誰がなんて言おうと天才なんだから。それは変わらない」
「本当だよ。リーシェンがいないとダメなんだから……。見えないとこで、ぼくはリーシェンに支えられてるんだよ」
「それ、一度くらい言ってやれよ、本人に」
「……言えるなら苦労しないよ」
 言葉があとからあとから零れてきた。セフィンのとぼけた笑顔を見ていると、肩の力が自然と抜けた。アーシャは小さく息をつく。
「でもさ、お前たちって見てるとほんと、じれったいよな」
 じれったい……。それは、きっと横で見ているからなのだろうとアーシャは思う。
 いろいろ悩むことがあって、いつだってこれでいいと思えることはない。リーシェンのことを考えると、行動もおかしくなってしまったり、変なことを口走ったり。気を使いすぎる余り、熱でもあるんじゃないかと心配されたことさえある。
「努力はしてるんだけど」
「さっさと言えばいいのに。でないと、手遅れになるかもしれないぞ?」
 また、セフィンが意地悪く笑う。彼はいつもこうやって、アーシャをからかってはおもしろがっているらしい。
「なにがだよ」
「リーシェン、なかなかカワイイだろ? 狙ってるやつも多いってこと」
「簡単にはいかないさ」
 もう、十八年もこうなのだから。すぐにどうにかなるはずがない。
 なにより怖いのだ。なにかをすることによって今の関係が壊れてしまうのが。そうしてできた小さな綻びが大きくなって、いつか修復できないほどの穴ができてしまったら、どうしたらいいというのだろう?
「とりあえず、午後から講義あるんだ」
 なるたけ不自然にならないように、アーシャはセフィンに告げて席を立った。
 心の底にセフィンの言葉がひっかかって、のどに小骨が刺さったような違和感が残っていた。



 教室で待っていても、来るはずの教師はこなかった。遅れることはそう珍しいことではないので、生徒たちはざわつきながらも待っていた。
 扉が開く。
 颯爽と入ってきたのはアステリアだった。彼女が来たということは、なにか不測の事態が起こったということでもある。
「今日の講義は、ルディーン教師急病により、実技へと差し替えになります」
 アーシャは教室の片隅で、深くため息をついた。
 教師が研究に没頭しすぎたあげく、体調をくずして寝込むことなど実は日常茶飯事だ。珍しくもないどころか、そういうことが起こらない方が珍しいという、いささか奇妙にも思える常識がここではまかり通っていた。
「移動か……寒くてヤだよな」
 セフィンが隣でささやいてくる。アーシャは無視して歩き出した。
 体技場は教室の裏、扉をくぐってすぐのところだ。ただ、中で多少の魔法を使っても平気なように、厳重に結界を張ってあった。
 リーシェンは先ほどから、近づいてこようとさえしない。アーシャの前の方で、目を伏せたまま歩いている。
「まだ怒ってるんだろうな。とりあえずああいう場合は謝るにかぎる。女ってそういうものだぞ」
「うるさいな……。たまには静かにすると世界的に平和になっていいんじゃないかな?」
「どうして俺がしゃべるかしゃべらないかに世界平和が関係あるんだよ」
「そう言えばきみが黙るかもしれないからかな」
 アーシャが答えてやると、セフィンはしっかり黙り込んでしまった。
 考えごとをしたいときには、セフィンの声は聞きたくなかった。
 明るくて人の心を浮きたたせる声がセフィンの長所であると同時に短所でもあるとアーシャは思っている。
 リーシェンは、きっと怒っているのだろう。いや、拗ねているのかもしれない。彼女は昔から、拗ねるとひとりでどこかへ行ってしまう人だった。
 アーシャが後姿を見つめていると、リーシェンが振り向いた。目があう。
 気まずくて視線をそらして、アーシャは唇をかむ。覚えがないというのに、どうしてここまでされなければならないのだろうか。
「アーシャぁ、元気出せよ〜」
 しょうこりもなく頬をすりよせてくるセフィン。
 アーシャは遠慮なく肘鉄をみまってやった。
 そうして、うずくまるセフィンをほうっておいて、体技場へと続く扉をくぐる。
 中は広い板ばりの部屋だ。思いきり運動できるように、なにも物を置いていない。
 アステリアが立つ場所の前に、生徒たちは整列した。背の高さはばらばらで、いかにも適当に並びました、と主張しているように見える。当然、年齢性別も関係ない。
 アーシャはセフィンを前に押しやってリーシェンの隣に並ばせ、自分はその隣に立った。
「今日は私の監督のもと、実技修練を行ってください。魔法の分類は問いませんが、あまり大掛かりで危険のともなう魔法は避けること」
 アステリアが手短に述べる。
 アーシャの前にいた年かさの女魔法使いや、斜め前にいる小さな双子の見習い魔法使いたちは思い思いの場所へ行ってしまう。
 ほぼ自習、のような状態なので、学生はたいてい開発中の魔法の実験を行う。
 そもそも学院に入学しようと思い、実行する魔法使いの卵たちは、まぎれもない魔法オタクに違いないのだ。実験をくりかえすことに生きがいを感じるという、変わり種も少なくない。
 それにここ以外の場所では危なっかしくてできない、というのもあった。
「付き合う?」
 アーシャが言った。
「だと助かるよ。おまえはやることないの?」
「あったら言うと思う?」
「……おまえなら、社交辞令だとしても口にしないな」
「正解」
 アーシャはセフィンの首をしめた。もちろん手加減をして、そこそこ苦しいけれど死にはしないというあたりに調整している。
「そういえばリーシェンは?」
「放っておくよ。ぼくが今話しかけても、かえってこじれそうだから」
「おまえって不器用だよな」
「繊細って言ってほしいんだけど」
 セフィンのものいいは遠慮というものが欠けている。お互い気遣いをしなくてすむのはアーシャにとっても楽ではあったけれど、なじみにくい人間もいないわけではないようだ。
「で、なにする気?」
 そう言いながらも、アーシャの目はリーシェンを追っている。体技場のすみの方で、なにか呪文を詠唱しているリーシェンは、精霊のように映る。
「こないだから、雪の精霊だけがそっぽ向いててさ、悔しいのなんのって。水の精霊はあぁーんなに、かわいいのに!」
「そういうことを臆面もなくいうのが一番悪いんじゃないかな」
「美しいものへの賞賛を惜しまないだけだって。だって雪の精霊ってお高くとまってるしんだぜ」
「高貴って言うんだよ」
 セフィンの声と同時進行でリーシェンの詠唱も響いている。ほかの魔法使いは自分のことに没頭しているから、アーシャの耳だけが捉えているのだろう。
「おまえはいいよなぁ、精霊に愛されてる。命じればすぐ言うことを聞く従順な精霊ばっかりだ」
「違うさ、ぼくは命じてるんじゃなくって頼んでるんだよ。高圧的な態度じゃ、誇り高き精霊たちは話を聞いてさえくれないよ」
「魔法は支配するかされるか、だろ? どっちが上の立場かはっきりさせとくべきだと思うんだけど」
「そんな考えは古いんじゃないかな。そもそも精霊は契約にしたがって人を助けてくれるだけだから。それを一方的に支配しようとするからダメなんだって」
「そういうもんか?」
「そうだよ。試してみればわかるだろうけど」
 アーシャの耳に届く呪文の中に違和感がまじった。リーシェンの唱える言葉に致命的なミスが存在している。
 このままでは、失敗するだけでは飽きたらず、暴走することはまぬがれない。
「ごめん、ちょっと」
 セフィンに断ってから、アーシャはリーシェンに駆けよった。声をかける前に呪文を子細に分析してみる。
 ――失われた魔法。
 精霊に呼びかけて、かりそめの体を与え具現させる術。あまりの成功率の低さにより、すでに失われた魔法だった。それは術者の命さえも危険にさらす。
 ここまで詠唱が終わっていては,中断させる方が危険だ。
 アーシャはリーシェンと自分のまわりに結界を張りめぐらせた。なにかあったとしても、ほかの人々に被害は及ばないように。
 リーシェンが宙に描いた図形から、強い魔力を持ったものが出てくる。
 長い髪の、女性形の精霊だ。体が半分透けている。わずかに橙がかった身体から、炎の精と知れた。
「リーシェン!」
 アーシャは叫んだ。
 精霊は召喚に応じたようだが、目がおかしい。濁った光がそこにはあった。あきらかに正気ではない、狂気の声が薔薇の唇からもれる。
 アーシャは咄嗟にリーシェンをかばって床に倒す。
 精霊の生み出した炎が先ほどまでリーシェンがいた場所を焼いた。狂える精霊は、見境などない。一番近くにいた人間を攻撃するのだ。
 アーシャは精霊をもといた世界へと強制送還させるべく、短く呪を紡いだ。リーシェンをうしろにかばいながら。
 空間が裂ける。裂け目は異界へとつながっている。黒々とした空間が裂け目の向こうに広がっていた。
 音もなく精霊は、空間の割れめに吸いこまれて消える。
「……大丈夫?」
 安堵のため息とともに、リーシェンに訊ねる。
「別に平気よ」
 不機嫌そうなリーシェンの顔を見てはじめて、上に乗る形になっていたことに気付く。アーシャは慌てふためきながらどいた。
「ごめん」
「なに謝ってるの、バカじゃないの?」
 リーシェンはなにが気に入らないのか、足音も荒く別な場所へ行ってしまう。
 取り残されたアーシャは、深くため息をついた。
「おまえって不幸だよな。割にあわないことばっかしてるし」
「これも仕方ないことだよ。リーシェンにけががないだけまだいいさ」
 ゆっくり歩いてきたセフィンに、アーシャはやり場のなくなってしまった笑みを向けた。極上の笑顔を捧げたかった相手は、怒って去ってしまっていたので。



   □■    □■



「……バカはあたしだわ」
 リーシェンは体技場のすみで、壁に手をつきながら後悔していた。
 言いたかったのは、あんなことではないというのに。けれども気付けば理不尽な言葉を発してしまっていた。
 素直に礼を言いたかった。怖かったのだと泣いてみたかった。
 けれど。
 アーシャは自分とは違う。天才だ。リーシェンなど足元にも及ばない。
 彼に追いつきたくて置いていかれたくなくて、眠る時間を削って復活させた"魔法"には、気付きもしなかったミスが存在した。
 見抜いたアーシャが助けてくれなかったら、自分だけではなくほかの人にまで被害が及んでいたはずだ。
 まわりが見えなくなるなんて、魔法使い失格だ。魔法は世界の法則をわずかに曲げて、願いを叶えることだから、術者は冷静であらねばならない。
「……最低」
 アーシャを想う気持ちはあるが、それと同時に自分はふさわしくないとも思う。自分は彼の負担になるだけ。
 今だって、迷惑をかけた。その上あんなことまで言ってしまって。
 アーシャだっていいかげん、怒っているかもしれない。愛想をつかしているかもしれない。もう付き合いきれないと、あきれはててしまっているかもしれない。
 リーシェンは壁を殴りつけた。
「バカみたい……」
 ただのいいわけだ。
 アーシャと気まずくなりたくないだけ。友達としてでも言いから、そばにいたいと願っているだけだ。
 それは逃げでしかないというのに。気持ちを偽りつづけているだけだというのに。
 プライドもなにもかも、捨ててしまえたなら。
 そう思う。
 でもそうしたら、自分は自分でなくなるだろう。リーシェンは知っていた。
 悔しい。
 そんなことを考えている自分がいやだった。
 遠くなっていくアーシャを、ながめていることしかできないなんて思っている自分が嫌いだった。
 リーシェンは唇を噛みしめる。
「もし、アーシャに追いつけるなら、あたしは……」



   □■    □■



 やわらかくもない寝台に倒れこみ、アーシャは長いため息をついた。
 自己嫌悪。
 そんな言葉が頭の中を駆けずりまわっている。
 結局、あのあとリーシェンとは、ひとことも口をきかなかった。目をあわせさえもしなかった。アーシャにしてみれば、それは寂しくて悲しい。
 することもなくて、そのまま寮の自室に戻ってきて立っていた。
 気付いたら足が痛くなっていた。座っていれば治るかなとも思ったのだけれども、痛みが心地よいのでしばらく立ち尽くしていたのだ。
 耐えられなくなって、寝台に寝そべることにしたのがつい先ほどのこと。
 もしかするとかなり前のことかもしれない。アーシャの感覚はどこかがずれてしまっていた。
 あたりが薄闇のヴェールで覆われている。
 寝台の上で転がって仰向けになった。真上に手をかざし、暖房も兼ねた白い光球を天井に向けて放つ。
 光量はは少なめにした。薄暗いほうが今の気分にあっている。熱量も抑えているので寒いほどだ。
 寒さはもともと、アーシャに属するものだった。だから平気だ。
 セフィンに言われたことを反芻してみる。
 ――天才。
 そんなことはないとアーシャは思うのだ。
 純粋な魔力の強さなら、アーシャよりも強いものは何人もいる。
 魔法理論だってセフィンの創り上げる精緻で繊細な構成には敵わない。
 リーシェンの独創的な発想は、自分にはない強みだと思う。
 自分には、過去の人間が努力した結果を、そのままなぞるだけしかできない。
「結局、足りない部分が多すぎる……」
 ささやくようなつぶやき声は夜の闇と同じ濃さ。アーシャのまわりに降りつもり、いつのまにやら身動きが取れなくなってしまうのだ。まとわりつくような濃密さでつつみこんでくる。
「みんな勘違いしてるだけ」
 口に出す言葉は重く、それなのに裏腹に心は軽くなっていく。
 重荷なのだ。天才などと呼ばれるのは。
 そうあろうとしなければならなくて、立ち居振舞いには気を遣う。研ぎ澄まされた感覚をいつも保っていなくてはならないのだ。手足の先まで気を配る、一流の踊り手のように。
「どうして放っておいてくれないんだ」
 今すぐにここを出て、狂ったように叫びながら破壊の限りを尽くしたい衝動に駆られる。壊してしまいたかった。定められた枠を。
「……できるわけない」
 世界を知りすぎてしまっているから。
 大切なものが、守りたいものが増えすぎて。
 ああ。
 それを知っているというのに、くだらないことばかり考えている。病んでいるのかもしれない。自嘲気味に思った。
 二回、ノックが聞こえた。
「どうぞ」
 誰ともあいたくなかったが、さすがに無視するわけにもいかない。相手の用事がどんなものかもわからないのだ。
 身体を起こして、ローブのしわを見栄えが悪くない程度に伸ばす。
「リーシェン、いるか?」
 扉をわずかに開けて、隙間から顔をのぞかせたのはセフィンだった。
 食堂であったときとは違った、白いローブを着ている。銀糸で繊細な刺繍が施され、絹の布地をことさら上品に感じさせる工夫がしてあった。
 学院の校章が背に入った、紗のケープを羽織るさまは、やはり学徒というべきか、誇りに満ち満ちていた。
「ここには来てないよ。なにか?」
「長老が探してるんだよ……。ほら、ディエラーニャ王国に宝剣を返しに誰を行かせるか、しばらく前から言ってただろ?」
「ああ、あれ?」
 ディエラーニャ王国が、邪気を吸いすぎた宝剣を清めてくれ、と学院に持ってきた。学院には優秀な魔法使いたちがいるからだ。
 清めが終わったので宝剣を返さなければならないのだが、学院は山あいで、この季節、雪に閉ざされる。外界とは遮断されてしまうので、魔法使いでもなければ行き来できなくなってしまう。だから学院側から出向いてほしいと王家から要請があったのだ。
「そ。リーシェンと俺が長老から指名されたんだけどさ……」
 困ったように視線をさまよわせるセフィンに、アーシャは寝台から降りて肩を叩いてやった。
「気にすることじゃないよ。仕方ないことだしね。ぼくも捜すの手伝う?」
「悪いな」
「今度、昼飯でも奢ってくれれば」
 さらりと言うと、セフィンは見事にかたまってくれた。素直で律義に反応する人はもう珍しい。
「――冗談だよ」
「笑えないって。俺の財布の中身知ってるだろ?」
 眉が下がって情けないセフィンの額を指で弾いて、アーシャは笑った。
「リーシェンがいるとしたら、図書館か教師のところかな。外で植物とか鉱物採集してるってこともあるし」
「こんな夜中に?」
「獣に襲われても、リーシェンなら平気だから」
 くだらないと言えなくもない、懸念。
 人間に襲われるわけはなかった。
 アーシャは苦笑した。ここの付近で人間は、学院関係者くらいしかいないのだ。



   □■    □■



 いったいいつからこの塔があるのか、誰も知らない。学院の理事長的存在であり、文字通り最年長でもある長老でさえ、だ。
 扉を開くのは、禁忌。そう言い伝えられているだけだ。
 古びて汚れているものの、石造りの建物は重厚な雰囲気を醸し出している。
 高さははかり知れない。濃藍の空に、先端は吸いこまれるように消えていた。
 空と、月や星の間に火蜥蜴の吐息を送り込んだら、あんなにゆるゆるり輪郭が滲むだろうか。
 今宵、下弦の月は消え入りそうに細いはずだと言うのに、倍以上にも見える。
「今日はちょっと変かな」
 リーシェンはくだらない思いつきに声をたてて笑った。普段はきっとこんなことは考えない。
 扉には力を求めるならば昇れ≠ニ記されている。
 青銅でできていて、手をかけると錆びついた蝶番がきしんで音をたてた。わずかに開いた隙間から、埃と黴の臭いがした。
「光」
 闇わだかまる塔の中に身体を滑りこませ、魔法で創り出した白い光球を天井に向けて放り投げる。
 一瞬にして光が弾けて広がった。
 光量が充分に思えたのはわずかな間だけだった。がらんとした内部の輪郭が浮かび上がり、目に焼き付いて薄闇に沈む。
 じゅうぶんな明るさとは言いがたい。けれども慣れれば見えないほどではなかった。
「昇れば……本当に手に入るの?」
 訊ねたのは、ここにはいない相手。
 月光を縒った銀髪の。
 瞳は柘榴さながらの。
 消え入りそうに薄い色、そう淡雪のような肌。
 外気にふれることなく、ひっそりと育てられた花のごときかぼそさと、野に咲く雑草の強さとを併せもつ青年。
 学院はじまって以来の天才だと呼ばれている、幼なじみ。
「あたしは追いつける? ずっと、追いかけていけるくらいに。置いていかれないように」
 誰も、答えない。
 閉ざされた扉の中で降りつもった年月が、言葉を吸いこんで、消してしまうから。



   □■    □■



 既に日が落ち、山に住む獣たちまでもとうにねぐらに帰っている頃合だというのに、図書館には晧々と明かりが灯っていた。
「毎日精が出るよなぁ」
 扉の前でセフィンが感慨深そうにつぶやく。
「好きなことならいくらでも続けられるものだよ。ここの人たちは、研究好きだから」
「そういうもんかね? 一種のビョーキに見えるけどな」
 肩をすくめて舌を出すさまがいかにもセフィンらしい。アーシャはなにも言わず、軽い木の扉を押し開けた。
 人のざわめきが、どこであろうと存在する学院において、静かな場所と言えばここしかない。
 中は暖かく、図書館特有の埃の臭いがした。
 外は石造りで寒々しいが、入ると床も天井も本棚も木でできている。
 脚立を使わなければ手が届かないような高い本棚が、際限なく並んでいた。全部の書物を閲覧するには、気が遠くなりそうな長い時間が必要だろう。
 書物の傷みを防ぐため、ここには窓がなかった。
 足元にある空気穴から、わずかに外が伺えた。明かりは、火が移る心配もない魔法の光球を、必要最低限打ち上げているだけだ。
 衣擦れの音とページをめくる音だけが響き、ささやき声さえなかった。話すときには、音を遮断する結界を張るのが暗黙の了解となっているのだ。
 詠うようにささやくように、アーシャは結界を巡らす呪を紡ぐ。
 薄い光の膜がアーシャとセフィンを包んで、周囲に溶けて消える。
「……それにしても、鮮やかだよな」
「そんなことないと思うけど」
「神経質なここの連中に、文句を言わせないだけの声量で、魔法を使えるのなんておまえくらいのものさ」
 魔法には正確な発音が必要だから、小声で行使するのは難しい。音がひとつでもかすれてしまえば、呪文は意味のないものに成り果てる。
「ちょっと器用なだけだよ」
 セフィンは疑うような顔をして、アーシャの髪をひっぱった。
 それほど強くもなく、かえって刺激が心地いい。
「リーシェン、ここにはいないな……」
「まだわからないよ。ほら、本棚の陰も捜さないと」
 セフィンは顔をしかめた。面倒だとでも思っているのだろうか。
「仕方ないじゃない、そっちを捜して。ぼくはあっち行くから」
 奥のほうに向かって走りながら、遠慮なしに大声を張り上げた。結界を張っているので、お互いに声は届くのだが、ほかのものには聞こえない。
 本棚ごとに分類がわかれていて、奥に進むにつれて専門的な書物が収められている。
 走りながら左右を確認し、人がいないか捜して歩く。
 リーシェンの栗色の髪は学院でも珍しいので、いたとすればすぐに見つかるはずだった
 基礎魔法理論の棚をすぎ、中級理論の棚をすぎ。
 流体金属生成理論の棚までも来たが、リーシェンはいなかった。
「あら、アーシャ」
 植物魔法の本棚の前にいた老婦人が声をかけてきた。
 アステリア教師だ。教師用の灰色のローブ姿だったが、それ以外の服を着ているさまが想像できなくて、アーシャは笑いをかみ殺した。
 あたりに人はいないので、声を出しても誰にも見咎められはしない。それでも念には念を入れて、結界を張る呪文を紡ぐ。
「植物に興味があるのかしら? 花は興味深いものね」
「花も確かに興味深いものがありますけれど、今はリーシェンを捜しているんです。見かけませんでしたか?」
 仮にも教師に向かって失礼だったが、アーシャにはここでどうでもいい話をするつもりはなかった。
 アステリアはいやな顔もせず、落ち着き払った微笑を浮かべた。歳をかさねたものだけが得ることができる、使い込んだ藤椅子のような表情だ。
「見ていませんよ、わたくしはね。そんなに慌てるなんて、何かあったのかしら?」
「ディエラーニャの宝剣を届ける役目を、リーシェンが頼まれたんです。それなのに、どこにもいなくて。だからセフィンとふたりで捜してたのですけど」
 アーシャはアステリアに視線をあわせることができなかった。彼女の眼差しはすべてを見通しているかのように澄んでまっすぐだ。
「それにしてはあせっているのではないのかしらね?」
 アステリアは小首を傾げてきた。
「……そうかもしれません」
「捜しているのは、もっと別なものなのではなくて? リーシェンもそうなのだろうだけれど」
 目じりに刻まれたしわは穏やかにゆるやかにかさねてきた年月の重みを表わしていた。
「リーシェンを心配しているの?」
「もちろんです」
 視線はまだあわせられなかった。が、答えはよどみなく出てくる。
「でも、心配というよりは、先を見届けたいのかもしれません」
 普通に年をかさねて、どこにでもいるような老人になりたかった。けれど、それは見果てぬ夢だと、知った。
 天才などと呼ばれて、特別視されるかぎりは。年を取ったとしたって、誰も普通に見てはくれないだろう。
「普通、に憧れるんです」
「そう」
 アステリアの答えはそっけなかった。
 だが重いひとことだとアーシャは思った。
 それはアーシャには思いもよらない、長い年月によるものだ。



   □■    □■



 壁に沿って、浮石が段差をつけながら上へとのびていた。
 乗ってもほとんど動かず、下さえ見なければ平気そうだ。上をめざして、リーシェンは一段一段のぼっていく。
 どこまであるかはわからない。のぼるしかなかった。
 明かりとりのためか、小さな窓がある。人の頭が通るか通らないかというほどの大きさで、正方形だった。
 空は四角に切り取られていて、いっぱいに星々が瞬いていた。夜空の星は赤や青や黄色など、色はひとつきりではない。
「綺麗な空だけど、痛い」
 そう、とてもとても綺麗だから。
 だからこそ、痛い。
「痛むのは……どこなんだろう」
 そうは言ってみたものの、愚問だと気付く。
 心も体も、痛まない場所などひとつとしてない。
 どこもかしこも痛いなら、答えられようはずがない。
「アーシャはここを見たときに、あたしと同じように思う?」
 だったらいいと、強くリーシェンは思った。
 けれどもそんなわけがないと、それよりさらに強く感じた。
 


   □■    □■



 しばらく本を物色するというアステリアをその場に残して、アーシャはセフィンのもとへ戻った。
「遅いっ!」
 しびれをきらしていたらしく、出会いがしらに蹴りがとんでくる。
 アーシャは急所をはずして当たりつつ、右ストレートを見舞ってやる。
「……いきなりなにするんだ」
「それはこっちのセリフさ。手と足じゃ、足のほうが痛いだろ?」
 正論のようなそうでないような、よくわからない意見を口にしつつ、アーシャはやわらかく微笑んだ。
「きみのブーツには、鉄板が仕込んであるだろうし」
「――友人は信じるべきだ」
「冗談」
 反動がこないような力加減でセフィンからはなれて、アーシャは図書館の扉を開けた。吹きこむ外気は肌寒く、真冬なのだとあらためて理解させられる。
「まだ冬だね」
「だから春が待ち遠しいんだろ、きっと。夜が明けるまえにリーシェンを捜そうぜ」
 セフィンが促すのも、もっともだった。アーシャはうなずいて、次にどこを捜したものかと思案する。
「どこに行く?」
 考えきれずに口にすると、セフィンは困ったように見つめてきた。
 と。
 ――大地が揺れた。
 手にした板を、思いきり左右に動かしたようなゆれに襲われて、アーシャはセフィンの肩をつかんだ。
 だが当然、セフィンも揺れているのだから意味などない。セフィンともども床にへたり込んだ。
 世界全体が振動しているような、そんな感じがした。
 本棚から本が落ち、静寂につつまれた空間が瞬時に騒がしくなる。魔法をかける暇もなく、混乱が広がっていく。
 貴重な資料を踏みつけにし、たとえ本棚が倒れてきても安全そうな位置まで逃げるものや、結界をつくって身を守るものもいる。もちろんパニックになって、意味もなく走りまわるものもいないわけではなかった。
 倒れてきた棚を魔法で押さえる豪気の魔法使いもいる。
 口をきくと舌を噛んでしまいそうだったので、ふたりとも、あたりをみまわしながらも言葉を発しはしない。
 ゆれはすぐにおさまった。
「なにがあったんだ……?」
 セフィンのつぶやきはアーシャの耳を通りぬけてしまう。そんなことはたいしたことではないのだ。
「とんでもないこと、じゃないかな……。強い力の流れを感じる」
 うぶ毛がちりちりする感覚と、背筋を魔物の指になでさすられているような感覚。アーシャは身を震わせた。
「そだな。ほら見ろよ鳥肌」
 セフィンが袖をまくって、日に焼けた腕をさしだす。似合わないことに、きゅうりのいぼのようなぶつぶつが腕いっぱいにでてしまっていた。
「触りたいなぁ」
「気色悪いからやめろ」
 はたから見れば、気楽な会話をしているようにしか見えないのだが、当人同士はいたって真剣だった。はりつめた顔ではりつめた会話をできるほどの余裕がなかったのだ。
「あっちからだな」
 セフィンが言った。
 さした先にあるのは、禁忌の塔。
 古びた石造りの、こけとツタに侵食された塔は、学院を見下ろすようにそびえ立っていた。
 ずいぶん近くにあるように見えたが、それは塔がけた桁はずれて大きいからだった。本当は図書館からでさえ、歩いて半刻かかるのだ。
 いったい、いつから禁忌と呼ばれるようになったのか。どうして禁忌と呼ばれているのか。それは今には伝えられていない。ただ古くから伝説のごとく、言い習わされているだけで。
「行く?」
「もしかするとリーシェンがいるかもしれないしな」
 できればあってほしくないと、アーシャはなかば祈るように思った。あそこは、禁忌。なにがあるかはわからないのだ。



 塔は近くで見るほどに、荘厳さを増していった。
 間近までくると、大きさが実感できた。空に吸いこまれるようにして先は消えてしまっている。
「ここからだな、びんびん来てる」
 セフィンの腕はおもしろいほどに鳥肌が立っている。いやがると知っていて、なでてやったら殴られた。
「少し気配が残ってる」
 アーシャがつぶやくと、セフィンがひやかし笑いを向けてきた。
「そんなのがわかるなら、はじめから……」
「ぼくだって、よほど近くにこないとわからないんだよ」
 セフィンは疑わしげな視線を投げてきたが、アーシャはかわして微笑んだ。
 たいしたことではない。
 長い間近くにいて、その力を近くに感じていれば、たやすいことだ。
 アーシャは錆びついている青銅の扉に軽く手をふれさせた。痺れるような感覚が指先から身体中を駆けめぐる。
 扉に残る想いだ。
 これは悲しみ。
 リーシェンの感じた悲しみだ。
「どうした?」
「なんでもない」
 答えながら、口を真一文字に引き結ぶ。
 ここを通ったとき、リーシェンは何を悲しんでいたのだろう?
 きっとわからない。アーシャは強く思った。
 リーシェンのあとをどこまでも追っていけば、わかるだろうか。
 扉の中にはかすかな明かりがある。リーシェンの魔力の残り香がした。
「やっぱり、来たんだな」
 セフィンが誰にともなくつぶやいた。



   □■    □■



 光り。
 ひかり。
 ヒカリ。
 視界すべてを埋めつくす、いっそ狂ってしまえばいいと思えるほどのまぶしさに、リーシェンは目を細めた。
 のぼっていくと、ついに階段がなくなって、ひとつだけ扉があらわれたから、入ったらこれだ。
 ここがいったいなんなのか、リーシェンにはわからなかった。塔の中であるのかさえ不確かで、存在さえあやうい、そんな感じ。
 目の前が一瞬、闇に落ちる。
 リーシェンは二度、まばたきした。
 広がっているのは光ではなく、一枚の絵のようなものだった。水鏡【水鏡・みずかがみ】を通して見た光景は、たしかこんなふうだ。
 高い塔を見下ろしていた。学院こそないものの、あれは自分ののぼってきた塔だ。リーシェンはなぜか確信していた。
 扉の前で、思案する人影がある。よって見ると、二十をすぎたかすぎないかという女性が扉によりかかっている。
 そのあと、場面が切り替わる。次に見えたのは追いかける若者だった。必死の形相で、塔を駆けあがっていく。
 閃光がはしった。
 あふれる光の中、おぼろげな輪郭がうかぶ。
 胸を刺しつらぬかれた、先ほどの女性。
 血があふれて、彼女をつらぬく剣を濡らす。
 けれど表情は幸せそうで、ある種の神々しささえ感じさせた。
 女性を追って塔を駆けた若者の、まるで悲鳴のようなつぶやき。
 すべてが遠い世界のできごとのようで、それでいて、もっとも近い場所にあるような感覚。
 光が消えて、足にかたい床を感じる。リーシェンは前を向いて目をそらさなかった。
 さきほどの女性が眠っていた。
 生きているようで穏やかだったが、確実に命は消えている。
「この扉を開けたときから、もう決まってた? あたしの運命は」
 そのつぶやきを誰かに聞かせようと、リーシェンは思ってはいなかった。どちらかといえば自分に向かってなのかもしれない。
 あの人と同じ運命を、自分もたどらなければならない。
 リーシェンでなければならないのだ。世界に魔力があふれだす、その瀬戸際にここにいたゆえ。
「でもこうやって幾星霜も、これは続いてきた。あたしがかえていいことじゃない……」
 拒否したひとは、いたのだろうか。
 リーシェンはふと考えた。
 いたのかもしれないし、いなかったのかもしれない。
 でもどちらにしろ、結果はかわらなかったのだろう。
 だから、今、世界は、在る。
 魔力があふれて、世界がくずれなかったから。それをせきとめるふたが、いつの時代にも存在したから。
「きたれ……」
 ここにあるべきものをもうひとつ、当たり前のように扱える力で呼びよせる。この力はきっと、はなむけだ。
 世界からリーシェンへのなぐさめなのだろう。力を求めてきたものに、最後の望みを叶えるだけの力を与えるという。
 部屋の中の、おそらく何年も停滞していたであろう空気が震える。
 空間を裂いて新たな風が吹きこんでくる。
 風は集いて、リーシェンの手の中になにかを形づくりはじめる。精霊が春風を織るときのような繊細さで。
 銀の剣がじょじょに姿を現していく。
 そしてそれとともに、眠る女性は消えていく。消えていくというより、なにかへと変化していく、とでもいうべきか。
 白い光になっていく。身体がくずれるそのそばから、光の粒子になって集まって。
 あらわれた剣は、ディエラーニャ王家に返すはずだった宝剣だ。
 刀身は銀でできていて、細かな魔法文字が彫りこまれていた。柄の部分はわりにシンプルで、それが実用性も考慮して作られたものだということを主張する。
「間にあうかしら、あのひとは。幾度も幾度もくりかえされた、ときの鎖の終止符を、打つだけのつよさを持てるのかしら?」
 リーシェンの口からもれたのは、彼女自身の言葉ではなくて、この部屋に長い間たまったおもい≠セった。
 


   □■    □■



 扉を開けると、油のにおいが鼻をついた。獣油だろうか。
 学院寮の個室のような、生活感にあふれた空間がそこにはある。ベッドと椅子と本棚しかない、ひどく殺風景な部屋ではあったけれど。
 窓はあるが閉じている。長年開かれていないのか、埃がたまってしまっていた。
 ひとつしかない椅子に座って、生彩を欠いた青年が本を読んでいる。
「あの」
 アーシャが声をかけると顔をあげ、儚い笑顔を向けてくる。
「後継――ついに解放されるときが」
 青年は顔を輝かせる。平凡な、どこかの村で畑を耕していそうな青年だというのに、老成した印象を受ける。
 くすんだ金髪も、土色の瞳も、ごくごくありふれた農民のものだ。
 貴族のようにみがきあげていないのだが、だから綺麗に思える色だった。
「後継って?」
 アーシャが訊ねる前に、うしろにいたセフィンが言った。
「後継は後継だよ。連綿と続いてきた、忌まわしいモノ」
 説明になっていない。けれど、アーシャにはわかる気がした。
 理屈ではなくて、わかるのだ。
 自分とは切りはなされた、自由にはならない知識のようなものが、頭の中にあるとしたらこんな気分になるかもしれない。
「う……あ?」
 セフィンがうめく。彼の体が輪郭を残し、まんなかあたりからうすれていく。
 異常な事態だ。
 アーシャも頭ではわかっていた。
 だがどこかで、それは不思議なことでもなんでもないのだと認識していた。
 うすれていくセフィンの顔には、苦痛はなさそうな、ただ驚いているだけ、といった感じの表情がうかんでいた。
 どうしたらいいかアーシャにはわからなかった。
 ふれようとしても、セフィンの身体は質量をなくしてしまったかのように、通りぬけてしまうのだ。何の感触もないのだった。
 セフィンの声さえもうすれて、最後には消えてしまう。
 けれど、それは安全な場所へと移動しただけ。
 アーシャの中のなにかがささやく。
 ここは危険だ。
 だからセフィンはいられない。普通の人間は、ただの魔法使いは、今から行われる儀に耐えきれぬ。
「ここに入ったときから、わかっているはずだね? 後継よ」
 青年に問われて、アーシャはうなずいた。
「これでぼくは解放される。あとのことは任せたよ」
 アーシャの手を両手で包むように握り、青年はあわれむような顔をした。
「さようなら」
 その言葉がひきがねだったかのように、さらさらと、さらさらと青年の体がくずれていった。
 泥でつくった人形が、乾いて砂になるように。
 あとに残った砂さえも、どこからともなく吹く風に散らされ、その場にとどまることはない。
 あの青年は、やっと解放されたのだ。
 ときの鎖につながれて、番人として生かされてきた長い時間を、今やっと返してもらえたのだ。彼はもう、なにものにも縛られることはない。
 魂までも自由になったのだろう。
 砂が散るとほぼ同時、青い光がうまれる。
 はるか彼方にあるという、永久凍土の蒼さだ。つもった雪がかたまって、はじめて見える雪の色をした光だった。
 閉じられたままだった窓が開く。見えざる手に開かれたかのごとく。
 そうして光は、空へと還っていく。
 夜空に吸いこまれるように、星のまにまに消えていった。
 ――アーシャは、受け継いだ。何を継いだのかと問われれば、困ってしまうだろうというほどに、それは漠然としていてつかみどころがなかった。
 強いて言うなら、番人たちの記憶だ。
 すべきことは知っている。いや、記憶に流れこんできた。
 それは甘美で、でもせつなくてつらくて悲しくて。
 どうにもならないだろうかと、叫びだしたいけれど同時に泣きだしたくもなるような、そんな使命だった。
 長い間共有されてきた、たったひとつのすべきことだった。
 どうしてこんなことをしなければならないのだろう。
 そうアーシャは思う。それは後継たちが、幾度となく問いかけた言葉だった。そして答えがけっして出なかった問いだった。
 ――行かなければならない。
 どこへ行くのかはわからないけれど、アーシャは思った。
 世界にふたをしなければならない。あふれだす魔力を抑えなければ、大地が枯れはててしまうから。
 鍵はリーシェンだ。
 アーシャにはわかる。
 それは今、前の番人から受け継いだ記憶の中にあった。
 そしてアーシャは番人だ。次のふたが現れるまで、守りつづける役目を負う。
 守るだけの力を得ても、つぶされないような芯の強さを持っていなければ、番人には選ばれなかった。その方がどんなに幸せだったかわからない。
 それでも。
 彼女のもとへと行きたいと願う。
 今のアーシャになら、願って叶わないことはないのだ。運命を、使命をねじまげない願いであるならば。
「せめて、ひとめ」
 会わなければ。
 愛しくて愛しくて、離れるなんて考えられないほど、いつでも近くにいたというのに。
 もう会えなくなってしまうなら、せめて、ひとめだけでも。
 会ったら未練が残るかもしれない。
 会っても後悔しか残らないかもしれない。
 だからこそ、会いたい――
 最後。
 最後、だからこそ。



   □■    □■



 ああ。
 現れる。
 リーシェンは懐かしい波動を感じていた。
「来るのね」
 せつなくて、どうしようもない。
 もう別れるときがきたのかと思うと。
「これが最後になるわ。最後に見るのがアーシャの顔だなんてね。でも、どうしてだろう。あたし、怖くない。不思議と何も怖くないのよ」
 リーシェンは自分を抱きしめる。宝剣とともに抱きしめる。
 冷たい刃。
 冷たい腕。
 冷たい身体。
 体温がないわけではなくて、でも冷たいのはきっと、彼女がもうすぐ封印として葬られるからだ。
 そして、宝剣の刃がこんなにも冷たいのは、もうすぐいっしょに凍てつくからだ。ときの流れの中で凍りついて、長い長い夢を見るから。
 はやく来てほしいとリーシェンは思った。決心がにぶらないうちに。
 でも、それと同じくらい、来てほしくないと思った。アーシャの顔を見てしまったら、泣いてしまうだろうから。
 さびしくて、せつなくて、悲しくて。
 きっと困らせる。
 だから、来てほしいけれど、来てほしくなかった。



   □■    □■



 アーシャは手をかざした。
 魔力が集う。尋常ではないほどに。
 世界のバランスがくずれかけている。あとわずか、親指一本分ほどの重みでさえ、耐えられないに違いあるまい。
 これだけの魔力が一ヶ所に集まるということは、通常ならありえないことなのだ。
「小径よ、開け」
 低く命じる。
 アーシャを取りまく空気が変わった。それは異世界の風。アーシャのいる世界とは同じようでいて違う、人も住まわず魔力のみがある世界の風だった。
 濃い魔力にアーシャは身を震わす。
 中毒になりそうなほどに強い、力。
 のみこまれぬように気を強くもち、アーシャは声高にとなえた。
「ひらくがいい! 運命の乙女のもとへ、我が身をはこべ!」
 アーシャのか細い身体を、異界の風がつつみこむ。
 息ができない。
 ひたすらに酸素をもとめる肺を鎮め、ゆっくりと瞼をおろした。
 気が遠くなる。
 目が醒めたときに、リーシェンのもとへついていなければいいと、ありえぬことをアーシャは願った。
 叶わぬ願いは、虚空に消えるばかりだというに。



 身体は眠っている。けれども心は目覚めたままだ。
 アーシャは異空間をただよいながら、さまざまなことを考えた。
 いったい、なにをしたいのか。
 必ず使命には従わねばならぬのか。
 世界など滅びてもかまわないと、叫びをあげるは、まちがいなのか。
 誰も教えてくれそうにない。
 否、教えられぬのだ。
 どちらの答えを選びとろうとも、正しき未来はひとつなのだから。
 アーシャは意識を手放して、風に身を任せることにした。
 なにも考えたくない。
 けれどなにかを考えていたい。
 狂ってしまいそうだ。
 いや、いっそ狂ってしまいたい。
 風は彼の心を乱した。理性を失わせるほどではなく、かといって正気というほどでもなく。
 絹のようにやわらかい、ある意味、高貴さを感じさせる混乱だった。



 急に意識が覚醒する。
 アーシャは目を見開いてあたりを確認した。
 部屋だ。
 中にはなにもない。
 奇妙な材質でつくられた壁や床。それからは冷たい印象をうける。
 リーシェンが奥に立っていた。
 なにをするでもなく、宝剣をもてあそんでいる。刃にふれても手が切れることはない。
「……来たんだ」
 楽しいのだろうか。人を超越してもっと高みに、アーシャなどたどりつくことさえ不可能な場所へと行ってしまったかのような笑みだ。
「それがぼくの使命だから」
 言いたいことは、そんなことではない。
 アーシャは眉をよせた。自ら紡いだ言葉とはいえ、なんと汚らわしいことか。告げるべき真実をねじまげたそれは、耳障りに響く。
「それでも嬉しいよ。だってアーシャがここに来たのは、ほかの誰のためでもない、あたしのためだから」
「どうして笑えるんだよ」
「じゃあ、泣いてもいいの?」
 言うと同時、涙のつぶがこぼれた。リーシェンの榛の双眸から。
 水晶硝子をこまかく砕いたかのような、きらめくつぶが美しい。
「きっと泣いちゃうって思ってたんだよ、あたし。しあわせで、しあわせで、しあわせで、しあわせで。同じくらいに悲しくて」
「もう泣いてる」
 アーシャは駆けよりたい気分だった。けれどそうはしなかった。リーシェンはきっと望んでいないだろう。
 たとえ望まれていなくても、抱きとめて、いくらでも泣かせてやれたらずっとずっと楽だろう。けれどもそれはだめなのだ。
「なぐさめてくれないんだね」
「そういうの、好きじゃなかったから。いつも余計なことするなって、怒ってたくせに」
「ばかね。強がりと本気の区別くらいつけたらどう?」
 リーシェンの口調はとがめるようではない。むしろおもしろがっているようだ。
「……そうだね」
 はたから見れば、どうでもいい会話だろう。だけれどもこれは必要な会話なのだった。
 急には用件をきりだせない。内容が内容であればこそ、とるにもたらない前ふりがなければならなかった。
「使命は、はたされなければならないんだって。あたしは大地のふたになる」
 リーシェンは嬉しそうに、けれどせつない叫びに満ちた声をあげる。
 剣をささげるように持つ。
「見ないで」
 アーシャは首を横にふった。
 目をそらしてはいけない。
 リーシェンの優しさなのだとわかってはいても、見ないわけにはいかない。
 今、目をそらしてしまったら、いつまでも逃げつづけることになる。
 いつまでも悪夢は終わらない。
 だから、見つめていなければならなかった。
 しっかりと、両の瞳で。
「あたしのことは忘れていいよ」
 アーシャはふたたび、首をふる。
 忘れるわけなんてないのに。
 こんなにも愛しくて、そばにずっと在りたくて。
 愛しているなんて言葉では陳腐すぎて恥ずかしくなるような気持ち。
 それを、どうやったら忘れられるというのだろう?
 ――それでも、いつか忘れてしまうのだろう。
 耐えきれないほどのせつなさと、こらえきれないほどの悲しみをこえていくためには、忘れてしまわなければならないから。
「なによ、アーシャだって泣きそうな顔してるじゃないの。そんな顔することないんだからね。あたしは、これも悪くないって思ってるんだから」
 リーシェンの微笑みは、散る間際の花の退廃的ともいえる美しさをたたえていた。
「世界に捧げられた人間は、長い夢を見るんだって。夢の中には一番強く想った人が出てくるの。きっとあたしの夢にはアーシャが出てくるわ」
 アーシャはうなずいた。何度も何度もうなずいた。
 それ以外になにができただろう。
 きっとなにもできなかった。アーシャの使命は見届けることで、そして封印を守りつづけることだから、とめだてしてはいけないし、また、それは許されるはずもないのだった。
「だからとてもしあわせで。だからとても不幸なの。そんな夢を見つづけられるなら、ずっと眠っていたって、いいかもしれないって――そう思う。夢の中のアーシャは本物じゃないけど、でも、偽物だってかまわないから、そばにいてくれるなら」
「それは逃げだよ」
「そうかもね。だけど、あたしはずっと眠ったままだから。もう目覚めることはないって決まっているから」
 宝剣がリーシェンの胸に吸いこまれていく。
 彼女の胸に、命そのもののごとき紅が惜しげもなくあふれ、薔薇の模様をつくった。
 身体が傾いで、糸を切られたマリオネットのようにくずおれた。
 宝剣から光がほとばしり、アーシャの目を灼く。
 目を開けていても閉じていても、さほどかわらぬ光の中で、アーシャはリーシェンを見た気がした。
 翼をはやした天からの御使いの姿はきっとああだ。神々しいとかそういう感じは、あとから付加されたなかば押しつけのイメージに違いないと思った。
 リーシェンは聖母や天使やそういうものにたとえても、見劣りしないほどに綺麗だ。
 光がさらに強くなる。
 今度はなにも見えなかった。痛いほどの光が洪水のように押しよせて、思考さえも奪いさってしまう。反射的に目を閉じた。
 白さも過ぎると、色彩を感じてくる。淡く明るい緑のような、蛍光の黄色が近いかもしれない。
 光がうすまって、ついには消えてしまっても、残像がちらついている。
 視界が回復するにつれ、現実から目をそむけたいという思いが湧きあがってくる。
 見たくない。
 アーシャは瞼をおろしたままで上を向いた。直視する決心をつけるまで、わずかの時間がほしかった。
 決意して前を見る。
 床に無造作に横たわり、リーシェンは眠っているようだった。かすかにさえも動かない、胸元がそれを否定していたけれど。
 足が震えて仕方ない。アーシャは言うことを聞かない足を無理に動かして、リーシェンのそばへと行った。
 ひざまずいて顔をのぞき込む。
 瞳はまるで硝子玉、生きていないとひとめでわかる。胸の傷からあふれる血だけが彩【彩・いろどり】だ。あとは血の気を失った、皮膚に、唇。
 リーシェンにキスをする。今まで直接見せたことがないほどの、優しい優しい想いにあふれた口付けだ。
 彼女が眠りにつくまえに、こんなふうに伝えられたらよかったのだけれど、いまさらどうしようもないことだった。
「もしも長い時間のあとで、使命から解放されるときに、きみと同じ夢の中へ行けるなら――たったひとりですごす時間も、耐えられそうな気がするよ」
 唇をはなしたそのあとで、間近で顔をながめながら、別れの言葉を口にする。
 そうっと瞼をおろさせて、その両方にもキスをする。
 ふたたび、出会えますように。願いを込めた口付けだった。
「塔は、閉ざされなければいけない」
 封印がうすれて、またあらたに犠牲を選ばねばならぬその日がくるまで、塔は禁忌としてのみ名を残し、忘れさられていなければならない。
 そうして、どこかから塔を守りつづけるのが、アーシャの使命なのだった。
 それはどこでもかまわない。彼女の近くであろうとも、彼女の遠くであろうとも。
「凍れ、来るべき日が訪れるまで。その身を損ねるもののないように」
 あたりにただよう精霊たちに命じた。
 アーシャが封印の守護者であるかぎり、すべては彼に味方する。
 手をかざしただけで、彼の身体はうきあがった。そして空間を渡り、空へ移動する。
 塔を見おろした。
 夜空の中にひとり浮かんで、星に囲まれながらいると、些末なできごとなどどうでもよくなってくる。細く長く息をはいた。
 地面からはえた氷のツタが、塔の壁を覆いつくす。これでもう、彼女はこのまま眠るだろう。
 永久とも思える時間を。
 目に涙がうかぶ。
 ローブのそでで乱暴にぬぐって、北の天頂星を見る。
 北へ、行こう。
 涙さえも凍ってしまうような、凍てつく風の吹く場所へ。
 ここよりも北だ。
 絢爛な春も訪れず、激しい夏ともまみえることは叶わぬほどの。
 この銀の髪も風景にとけてしまうほどの、常冬の地。雪に閉ざされた氷の国がいい。
 そこからリーシェンを見ていよう。
 なまじそばにいてしまったら、毎日泣いてしまうだろう。瞳の朱が濃くなるほどに。
 それにどうせ、学院には帰れない。
 リーシェンやアーシャのことは、学院は適当に処理してしまうだろう。どれも大した要素ではないだろうから。
 剣はまた新しくうまれる。
 今頃は、うまれた剣は何事もなかったかのように、倉庫にあらわれていることだろう。そして次代の封印のため、ディエラーニャ王国で宝剣として守りつづけられるはず。
 見上げた北の天頂星は青く輝いている。悪魔の輝石、サファイアの輝きだ。
「北へ――」














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