礼拝堂に日が射していた。柔らかい春の陽射しが、美しくも気高い運命の三人の女神の像に注がれている。
女神たちは微笑みをたたえ、祈りを捧げる青年を見下ろしていた。ただ優しく、見ているだけだった。
艶やかな黒曜石のような色をした髪の、白い肌をした細く優しげな雰囲気の青年は、一見しただけで上等の絹と分かる衣服を身に纏っている。長くて、華奢な少女のものとも見紛わん指を組み、頭を垂れていた。
むしろ、静寂こそが彼の望みであり――そのためだけにここにいるのだと、女神以外には知るはずもなかった。
☆★ ☆★
「――女神よ、あなたがたは残酷です。あなたがたは決して微笑んでは下さらなかった」
青年は礼拝堂に入ってから初めて言葉を口にした。誰に向かって言うでもない。
礼拝の時間はとうに過ぎていて、誰もいない。まったき静けさの中、青年は懐かしさをおぼえさせる声音でささやくように呟き続ける。
「どうして、返して下さらないのですか? 彼女には罪はありません。罪人はぼく、ただ一人です――」
彼はゆっくりと目を開けて、女神を見上げる。長い睫毛が瞳に影を落とすのが、彼にも分かった。
後ろの方で扉が開く気配があった。
彼は振り返りすらもせずに再びうつむくように下を見た。
礼拝堂の固い床に軽い靴音が響く。
音からして、複数ではなく、ひとりのようだ。
音はまっすぐ彼に近付いて来て、真横で止まった。
「ここにいたのか……みんな探してたんだけどね? 聞いてる、ラティール?」
ラティールは男を見る。皮肉交じりに言う男の声を聞きながらも、彼は同じ調子で言葉を紡いだ。
「公務サボるのなんて何年ぶりかな」
「公務? 自分の誕生日のパーティーに出席するのが?」
隣に座ってきた男は、ラティールの見知った顔だった。青緑色のアーモンド形の瞳は昔と変わらない輝きを保っているが、長かったライトブルーの髪はばっさり切られてしまっている。のりでぱりぱりしている神官衣の良く似合う神秘的な雰囲気を漂わせていた。
「ぼくにとっては、ね。二十八にもなって誕生日もないと思うし……」
本当に言いたいのはそういうことではない。思いながらも、ラティールは言葉を切った。
しん……と、あたりが一瞬静まり返る。静寂に包まれる。
「もう、疲れたから……何もかも」
しばしの時をおいて、沈黙を破ったのはラティールのほうだった。
「……ひとりで理想の王子という虚像を演じ続けるのは重荷でしかないから。ふたり一緒なら、きっと――」
「大丈夫、って? ……でも、兄としては帰ってきて欲しいけどさ、諦めた方がいい。妹はもう帰ってこない。消息を絶ってから二年も経ってる」
シャナンは彼の妹に――リラーナに良く似た笑みを見せる。
「……そう。もうあれから五年たった。ぼくも二十八になった。リラーナは二十三になってるはず」
リラーナのことを話すとき、自然と口元がほころぶ。ラティールは自覚していた。
「彼女は帰ってくるって約束したから。だからきっと帰ってくるって信じている」
微笑を浮かべるラティールを見て、シャナンは深くため息をついた。うんざりしているであろうことは、ラティールにも分かった。
「それに、ぼくが信じなかったら誰が彼女を信じるの?」
「――いいかげんにしろよ。お前はティルカの王子なんだ」
苛立ちをぶつけられても、ラティールは優しく歪めた表情を崩さない。
「――分かってる。だから、今日までに帰ってこなかったら諦めるつもり。逢ってからちょうど十年目の今日に」
すがるように胸元の聖印を握る。リラーナの残していった、形に残る唯一のもの。神官だった彼女は、思い出と聖印だけを残して去った。
魔族の――魔王の血を引く者として、魔王の力を継ぐ者としての自分と決別するため。人間として生きるために彼女は旅立った。
「でも、今日という日が終わるまで、時間があるから、その間に昔話でも聞いてくれない? リラーナとぼくが出会ったころの話」
「のろけ話か?」
シャナンは神官らしからぬ笑みを浮かべた。だが、彼の表情ならどんな表情だって許せるとラティールは思っていた。リラーナに似ているからなのだろうが。
「んー、まあ、そんなとこかな?」
さして楽しげでもなく、かといって悲しげでもなく――ラティールは微妙な声音で答えた。
「でもね、出会いって言っても、きっとキミが期待してるのとはかなり違うと思うけど」
☆★ ☆★
空は青い。いやみったらしいくらいに真っ青で、純粋なブルー。空気は湿り気を帯びて暖かだった。空気にまで浮かれ気分が伝染しているようだ。
だけどもぼくは憂鬱だった。誕生日ではあったけど、生まれてからの十八年、今日という日が楽しかったことなんてない。
今日だけはもう無礼講、大人も子供も立場を忘れて騒ぎまくっている。ぼくが今いる大通りでも、真昼間から酒を飲んでるおやじとか、ケーキのクリームでべたべたの顔をした子供とか、そんなの珍しくも何ともない。
めんどくさい行事でしかない誕生パーティーを抜け出して、トレーナーにズボンというおおよそ王族らしからぬ格好でうろつきまわるのは、毎年恒例の行事みたいなもの。だから、みんなもいまさら騒いだりしない。ぼくはしばしの自由を満喫させてもらうってわけだ。
石畳にはわだちの跡がついていて、歩きにくくてしょうがない。ぼくはぼこぼこした道を歩きながら、友人だったシャナン・ティフィティレアのことを思い出してみる。
つい、ひと月ほど前にシャナンは行方不明になった。ティルカの街からは遠く離れたところにある小さな街の出身で、ちょくちょく遊びに来てくれた、ちょっと口は悪くても優しい人だった。
それ以来、ぼくは退屈している。
子供っぽいとか、馬鹿だとか、散々に言われはしたけれど、それでもぼくの一番の友達はシャナンだった。
籠の中の鳥みたいに、限られた道しか歩けないぼくとは対照的に、彼はいつでも自由だった。妹の話ばっかりで、ちょっとシスコンのケがあるみたいだったけど。
「退屈って言葉をぼくに教えたのはシャナンじゃないか」
ぼくは口に出して呟いてみる。
何の目的もなく歩き続けるのはいい。退屈も忘れられる。
そんなことを考えているとき、唐突にぼくはぶつかられて、よろめいた。
「ごめん、にーちゃん!」
少年らしいシルエットが、ぼくの横をすり抜けていく。
「待って」
ぼくは少年のそでをつかんだ。
「サイフ返して」
ぼくの言葉に少年は、驚いたかのように口をぱっくり開けていた。
よく見れば、なかなかに可愛い。ぱさぱさの金髪は洗えば明るく輝きそうだし、ぱっちりとした青灰色の瞳には強く生きた光がある。顔立ちは万人ウケするとは言いがたいが、そこそこに愛らしい。明らかにサイズの合っていないシャツとズボンを着ているけれど、もっとちゃんとしたカッコをすれば貴族の子息と比べても遜色ない。それになにより、シャナンによく似ている。そう、ミニバージョンみたいな。シャナンは十七、ぼくよりいっこ下だったけど、少年はまだ十三、四くらい。
「……どうして分かったんだよ」
少年は開き直ったのか、堂々とした態度である。
「まだ手つきが甘いから〜♪」
ぼくは久々にうきうきしてて、歌ってるみたいにしゃべってしまう。
「もっとすばやくしないとね。それで、サイフは返してもらうからね」
少年の手の中を探ると、やっぱりぼくのサイフがあった。彼の手はぼくよりずっと小さくて、まるで少女の手みたいな感じだった。
ぼくは少年の瞳をじっと見つめる。すると、少年は明らかにむっとした様子でぼくを見返してきた。
「……何だよ。あんたも綺麗ごと言うきかよ? こうでもしなきゃ生きてけないんだ! 役人に突き出すなら突き出せよ!」
「何で? ぼくとしてはサイフも戻ってきたし、構わないけど?」
正直、そうだった。まあそのほかにも少年はシャナンにそっくりだった、ってこともあるけどさ。
「下心もなしにンなことする奴なんて、今の世の中にいるかよ」
しゃべり方までシャナンを彷彿とさせる。
「んー、じゃあ、交換条件ってことでどう? ぼく、今日ひとりで暇だから、ちょっと一緒に遊ばない? ぼく、ラティールっていうんだけど、キミは?」
一応にっこりと――一部の人たちの間では天使の笑顔なんて月並みな表現でよばれてる――笑って見せる。
「シャナン・ティフィティレア。あんた、いくつ?」
友人と同姓同名だ――珍しいこともあるもんだ。
「いくつに見える?」
聞き返してみる。たいていの人は実際の年齢よりも若く見てくれてしまう。童顔、というやつだ。
「十四くらい」
シャナンと名乗った少年は即答する。
「ハズレ。十八歳なんだけどね? そんなに若く見えるかな?」
「――さてはあんた、ロリコンだね?」
シャナンのひとことを聞いた瞬間、ぼくは確信した。この少年は、いつもシャナンが話していた、妹のリラーナだって。
☆★ ☆★
「これがぼくとリラーナの出会い、ってやつだったんだよね」
ラティールは嬉しそうに話している。思い出すたび、嬉しくなるのだ。彼女と過ごした五年間の思い出は、かけがえのない大切な時間だった。
「それが、どうしてあんなに礼儀正しい子になったんだか」
「ぼくが教育したからね。礼儀・教養・剣術・馬術・魔術……徹底的に叩きこんだ」
口調こそ穏やかであるが、言っていることは決して穏やかでない。
「叩きこんだって……人の妹に何したんだよ」
「別に。ちょっと厳しく指導しただけだから。例えば木に逆さに吊るしたりとか♪」
「そういうのを世間では体罰という……」
ぼそりとシャナンは呟く。
「両方が納得ずくでやってるからいいと思うよ。それに――彼女は強くなければ生きられない。いつか戦わなければならないけど、ぼくは助けてあげられない」
運命、という言葉はラティールは好きではない。だけれども、いつか彼女が立ち向かわなければならないものは、運命としかいいようがない。そのとき――誰も彼女を助けられない。知っていたから徹底的に、持てるものすべてを教えた。
「普段は優しい兄、みたいなものだったはずだし」
色々思い出してみるが、ほとんどの場合においてそうだったはずだ。リラーナを妹のように思ったことなど、数えるほどしかない。
「表面だけ、だろ?」
皮肉げにシャナンが問いを投げると、ラティールは同じような、だがかなり優しげな顔で応える。
「まぁね。彼女は妹であり、相棒であり――唯一愛した人だった」
リラーナのことを話すときだけ、表情がゆるむ。ラティール自身、それを自覚していた。
「それで、どうしたんだ?」
「ん、それで――」
☆★ ☆★
「ロリコンじゃないって。ただ、キミが行方不明になった友人にそっくりだから――」
いや、友人の妹その人だからほっとけない、っていうのが本音だけど。偽名を使ってまで女だってことをを隠してるんだから、わざわざ暴くこともない。
「ふぅん。そ……か。聞いて悪かったな。そういうことならつきあってやらないこともないな」
「それは良かった。じゃあ、まず服を買いに行かない? それ、もうぼろぼろだし」
結構前、ぼくはリラーナに会ったことがあった。シャナンが行方不明になった直後、彼とリラーナの住んでいた町で。
ぼくだと知ってて知らないフリをしているなら、大した役者だ。ぼくなんかより、ずっと。
「でも、金なんか……」
「ぼくに任せて。服も用意するし、もし構わないっていうなら住むところも働き口も用意してあげるけど?」
「アブナイ仕事じゃないだろうな?」
シャナンは――ほんとはリラーナだけど、本人の名乗るとおりにシャナン≠ニ呼ぶことにする――警戒心を剥き出しにしてぼくに挑むような視線を向ける。動物にたとえるなら、まるで野生の狼のような。
「だいじょぶ、だいじょぶ。王宮勤めだもん。今、見習い神官に空きがあるからね」
「城の関係者か?」
「まあ、そんなもの? で、どうする」
ほんとは王子だけど。そんなこと言ったらうそっぽいし。ぼくは庶民派――っていうか庶民っぽい雰囲気で有名だから。
「ああ。あんたは信用できそうだしな……」
シャナンは警戒を解いてくれたらしく、にいっと笑った。
「楽しみ、楽しみ。他人を着せ替えにするなんて」
ぼくが呟いたのを、シャナンは聞き逃さなかったようだった。
「いつもは着せ替えにされているみたいな言い方だな」
「それはご想像にお任せしよう」
ぼくは上機嫌で答える。退屈は解消だ。今日からはきっと退屈しない毎日に違いないんだ。この子はあのシャナンの妹だから。
「へんなやつ」
と、シャナンはぱさぱさの伸ばしっぱなしの金髪をかきあげる。
「よく言われるー」
くだらない世間話みたいな話をしながら、ぼくたちはふたりで商店街の方へ歩いていった。
商店街には、ぼくの馴染みの店、っていうのもいくつかある。いつもは仕立て屋が城に来て、ぼくのサイズをはかり、それをもとに服が作られるから、既製服を着る機会なんてそうそうない。だから、普段城を抜け出すときに着るような服はこういうところで買っている。
そんな店のひとつにぼくはシャナンを連れていった。
「どんなのが似合うかなー? パステルトーンでもいいし、ビビッドもいいかもね。キミはどんなのがいい?」
ぼくは手当たり次第に掛かっていた服をシャナンに当ててみる。後で全部試着してもらおう♪ なんて計画を練りながら。
「別に。こんな派手なのじゃなくていいよ」
シャナンは着飾るのは好きじゃないらしく、露骨にイヤそうな顔をしている。もとがいいんだから、飾ればもっと綺麗になると思うんだけど。
「普段着っぽいのがいいよね。活動的なのがいいかな」
おとなしめな服を戻し、ズボンとかスパッツとかそういうのを残す。それでもぼくのひと抱えくらいはある。
「試着してみてよ。どれでも似合うと思うよ」
シャナンはにこりともせずに受け取って、試着室に引っ込んだ。めんどくさい、なんて思ってるのかもしれない。兄の方も衣服に無頓着な人だったし。
まず、シャナンが着て出てきたのは紫のズボンにクリーム色のシャツ。なかなか似合っていると思う。
「可愛いよ。似合ってると思うな」
「――嬉しくない」
可愛い、と言ったのがシャナンにはお気に召さなかったらしく、細い眉をつりあげて頬を膨らます。
「そう言わずに。いいじゃない? 可愛いって言うのもときには武器になると思うし」
それはほんとの話だ。ぼくもこの童顔に助けられたことって多いんだから。
「ま、これが一番マシだな」
もうちょっと着せたいけど、本人がこれでいいって言うんなら仕方ない。
これを買おうと思って店員に声をかけようとしたとき。
ぼくは頭上に殺気を感じた。
シャナンを突き飛ばして、ぼくも左に跳ぶ。
「何するんだよっ!」
抗議されるが、ぼくは耳を傾けない。
刹那、天井が爆砕、人が降ってきた。
全身黒ずくめの、いかにもといった暗殺者スタイルが五人降りてくる。女も混じってるのかもしれないけれど、覆面をしているので見ただけでは分からない。
ぼくに前からふたり、左右と後ろからひとりが向かってくる。全員、得物はばらばらだ。メイス、ダガー、薄刃の剣、思い思いの物を手にしている。
一歩踏み込み、床を蹴って跳躍する。高く跳ぶ必要はない。反動がつけばそれでいい。
靴のかかとに仕込んである飛び出しナイフで右にいた暗殺者の足を踏みつける。苦悶の声を上げ、暗殺者は倒れこむ。
まだ甘い。うめく暇があったら攻撃に転じるべきだ。でないと、痛みで行動不能陥る。人間をひとり行動不能にしたいなら、足を狙えばいい。足を使わずに歩ける人間などいない。
ぼくは左のやつのダガーを蹴落とし、間接とは逆に腕をねじる。腹に肘鉄を食らわせる。しばらくは動けはしないだろう。これであと三人――
「光よ!」
そして、ぼくは手を前に突き出す。
ぼくの叫びに呼応して、前方の暗殺者ふたりに向かって魔術が発動する。手の中に生まれた光が爆発的に膨張し、瞳を灼く。ぼくはかたく目を閉じて後ろに向き直ると、本気でみぞおちを蹴った。
「フィニッシュ」
軽く床に着地する。
うめきをあげる五人の影に魔術のかかったナイフを刺して、これでおしまい。影を縫いとめたから、もう少しも動けない。
座ったままで眺めていたシャナンに笑顔を向ける。
「突き飛ばしてごめんね。言ってたら間に合わなさそうだったから」
手を差し伸べると、シャナンは素直に手を取って立ちあがった。
「誰なんだ、そいつら」
怒った様子はない。
「さあ。知らない。でも多分刺客じゃないかな」
店の奥からのぞいている店員に向かって、ぼくは軽く手を振ってやる。
「心配はご無用です。後ほど、王宮の警備隊を呼んで、この五人を引き渡してください。そのときに賠償請求すれば、家屋および店舗の修理費は全額王宮が支払います」
店員は首振り人形のようにこくこくと頷く。
「じゃあ、代金ここに置いとくんで。ナイフは抜かないでおけば、そいつら動けないから」
大きな騒ぎになる前に、ぼくはとっとと逃げないといけない。警備隊長は頭が堅いから、見つかったら連れ戻されてしまう。
ぼくとシャナンはちょっと壊れてしまった店を後にした。
「刺客ってなんだよ」
ぼそり、と、シャナンが呟くように言う。
「文字通りの意味なんだけどね。ぼく、色々なとこから狙われてるから」
ぼくは邪魔者だから。この国の第一王位継承権を持つのはぼくだから、ぼくがいなければ、母さんも――女王も再婚する可能性がでてくる。そのとき、自分の縁者を候補に挙げる、なんてことを考えている貴族だって多い。それにぼくはこの国を守る要みたいなものだから、他国にとってぼくは目の上のたんこぶみたいなものだ。
「へえ」
気のない返事を返してくる。
「――あんた、強いんだな」
見ると、かたくこぶしをにぎりしめている。余程イヤなことでもあったのか――小刻みに震えていた。
「そうだねー、多分この国で今一番じゃないかな」
「冗談言うなよ」
シャナンは鼻で笑った。
「本当だってば」
☆★ ☆★
「昔からそんなだったのかよ」
あきれたようにシャナンが言った。だが口元はあきれているというよりは楽しそうであった。
「まあ、昔はみんなそんなもんだと思うけど? シャナンにはなかったのかなー。ぼくにはあったんだよ」
昔を懐かしむのは、年を取った証拠であると誰かに言われたことがあるような気がしていた。あれは誰だったろう? ラティールは覚えていなかった。
「強さの意味もしらないで、ただ求めていた時期が、ね……」
何も信じられるものがなかった頃の話だ。信じることができたなら、そんなものを求めはしなかったのに。ふと、ラティールは自嘲気味に笑みを浮かべた。
「強さに意味なんてないさ」
淡々とシャナンは答えるが、悲痛な面持ちでいる。強さを持たなかったゆえに守れなかった辛さを知っている彼だから――
「……そうかな? ぼくは意味はあると思うよ」
今にも消えてしまいそうな儚い顔でラティールが返す。
つらいことは多かった。歩んできた二十八年の中では奪われるものや、与えられないものが多すぎた。楽しかったのはリラーナと過ごしたほんの五年くらいで、そのほかは――
「強くなるっていうことは、誰かを守れると同時に、殺せるってこと。国家で権力を持つものが強い戦闘力を持つ、ってことは、暗殺や戦争の道具として用いられることにつながるから」
ラティールは瞳に光を宿らせる。強い光だ。でも、痛々しい。いくつもの死を見てきて、いくつもの命を断ってきたラティールだからこそ持てる光。自分を守るために仕方なかったとはいえ、たくさんの屍を踏み越えてきた彼の痛みは他人には決して理解できない。
「大変なんだなぁ。お前も」
シャナンはちっとも大変そうに聞こえない声音だが、それは彼を気遣っての演技だと、一番知っているのはラティールだった。
神官という職業柄、懺悔などを聞くのは慣れているのだろう。
「ただ、我が神の言葉にこんなのがある。罪人は罪を自覚し、悔いたときこそ救われるであろう。そして愛をもって生きるなら、すべて赦される。慈悲を他者に与えるなら、祈りは聞き届けられる」
彼は愛の女神を信仰するれっきとした神官である。一日の半分は祈りや説法で終わってしまうような生活をしていると、神のことを語るときは朗々と話してしまうものだ。彼もその例にはもれていない。
「だから、罪は赦されている。悔やむ気持ちがあるなら大丈夫だろ」
途中からいつもと変わらない口調に戻る。落差がおかしくて、ラティールは吹き出してしまった。
「お前なあ、人がせっかく……」
「あはは、ごめんごめん。なんだか笑いたい気分で」
「ま、お前がいいならそれでいいけど」
「神官様は寛大なんだねー。さすが神の使者」
ラティールが茶化すと、シャナンはむっとしたように見えた。
「いくらお前でも我が神を冒涜するようなことは言って欲しくないね」
「あ、ごめん……」
もしも自分が同じことを――リラーナに対して言われたとしたら。きっと今以上に怒っただろう、とラティールは思った。
「考えもなしに言っちゃって」
目を伏せる。
「……いいさ。お前は今悔いたから」
「それが神の言葉だから?」
「そうだよ」
笑って答えるシャナンを見つめ返し、ラティールは言った。
「ぼくにとっては、リラーナの言葉は神の言葉に等しいほどに大切だった。彼女の言葉ならすべて思い出せるほど」
そうだ。すべて思い出せる。ラティールは彼女にはたくさんのことを教えたが、それ以上に彼女にたくさんのことを教わった。
「そこまで想われてるとは、妹も幸せ者だよな。でも一国の王子がそこまでひとりの女に入れこむのは変だと思う」
王族ともなると、側室を持つことも少なくない。王子が生まれなければ王家の存続が危うくなるからだ。
「そう? ぼくは間違ってないって信じてる。時代は変わるから。古い時代は――男優位の時代なんてもうすぐ終わる」
「まるで終わってほしいみたいない言い方だな?」
「終わって欲しいんだよ、ぼくは。変革を望まずに停滞しつづけることは無意味だから」
散る間際の桜のような笑みを浮かべ、ラティールは続けた。
「もし生まれ変わりなんてものがあるなら、遠い未来にぼくはふたたび彼女に会えるかもしれない。そのときまでは自由に生きられるように」
「までは?」
「――そう。までは。その後はぼくを見ていて欲しい」
ラティールは彼女≠フ名を呟く。
「でも、無理な話。ぼく――わがままばっか言ってる」
「ちょっとしたわがままくらいなら許されるさ」
「そうかもしれない。あ、昔話続けてもいい?」
今まですっかり失念していた。ラティールは自分の頭をこつん、とこづく。
「ああ、いいよ。興味はある」
ラティールはそれを聞いて頷いた。
☆★ ☆★
ぼくはにこりと笑った。
「どう? ダリュキアでも食べない?」
ダリュキア、というのはティルカ名物のお菓子なんだけど。とにかく甘い。お祭りのときとかは必ず露店で売っている。
女の子にはウケるみたいだ。まあ、例外みたいだけど、ぼくも好きだったりする。
「ダリュキア?」
知らないのか、シャナンがオウム返しに言う。
「甘いお菓子のこと。ぼくのおごりってことでいいけど」
「そういうのよりもうちょっと腹にたまるものがいいな」
正直な子だ。普通は付き合いで食べると思うんだけどなぁ。
「そうかあ。じゃ、あそこの露店で売ってるおべんと買ってこよう。ちょっとここで待ってて」
シャナンを端っこの方に待たせておいて、ぼくは露店に走っていった。おべんとの中でも量の多そうなのを選んで、ふたつ買う。
「公園にでも行って食べない? 今は花とかも綺麗なんだよー。それに、いろいろ見世物やってるだろうし」
ティルカ市街地の中にある公園はぼくの生誕記念に作られた、とのことらしい。でもただの公園だ。ぼくの誕生日には、ちょっと大道芸を披露する人が増える、ってだけで。
「公園? 別に構わないけど」
「じゃあ、早速行こう! おなか空いたし。もうぼく、今日は体力消耗しまくったし」
あの暗殺者スタイルの五人のせいで。
まったく、毎日毎日邪魔くさいったらない。来ないほうがかえって新鮮なくらいだ。
「ふーん。疲れるんだ?」
「当たり前だってば。今日は出血大サービスで魔術まで使っちゃったし」
普段は隠し武器だけで軽くあしらうけれど、今日はちょっと手を抜いた。常にどこかに武器を隠しておくのは王族のたしなみ、ってやつだ。魔術は奥の手なんだから、魔術に頼らず戦えなくてはいけない。
「訓練すれば強くなれるか? あんたみたいに」
「さあ……人には向き不向きってあるからね。でも、もしかすると強くなれるかも」
こんな子にはぼくみたいにはなってほしくないけど。身を守れるだけの強さがあればいい。火の粉を振り払えるくらいの。
ぼくはそれでも笑って答えた。
「どうして強くなりたいのかな?」
「……どうだっていいだろ」
シャナンはぷい、と顔を背けてしまう。そこは触れて欲しくないところだったのかもしれない。
「どう? ぼくのとこで教わってみる気ない?」
「住みこみで?」
「そ。食事・個室付だよ。ちょっと人手も足りないから、バイトもあるし。ほら、さっき言ってた神官の見習い。給料出るよ」
ティルカは慢性的な人手不足に悩まされている。兵士も募集人員ぎりぎりしか集まらないし、神官だって少なすぎる。メイドなんてなり手がいなくて困っている。
人は多いんだけど、メイドとか兵士とか神官みたいな大変な職種は人気がない。ティルカは意外に裕福な人が多いから。
「ま、返事はまだいいや。ほら公園が見えてきた」
ぼくの指す先には公園がある。平らにならされた土に常緑樹が植えてある。ベンチがいくつか備え付けてあって、芝生が植えてあるスペースもあった。子供も遊んでいるけれど、今日は大人も昼寝をしていたりする。
「公園ねぇ。珍しいもんがあるんだな」
「そうでしょ? この国ではここにしかないんだから」
ぼくは誇らしげに胸を張って答えた。
「芝生の上にでも座ろ」
シャナンの手をひっぱっていって座らせると、ぼくも隣に座った。
「はい、おべんと」
「……ありがと」
ぎこちなくシャナンは笑んだ。
おべんとのふたを開けると、サンドイッチととりのから揚げがはいっていた。
「こういう普通っぽいのが好きなんだよね」
「そーか? けっこう豪華じゃないかと思うけど」
「ぼくにしてみればこういう庶民っぽいのがいいと思うんだよー。普段こんなの食べらんないもん」
普段ぼくは、城では冷めてて味気ない料理ばっかり食べている。よく、羨ましいとか言う人がいるけど、だったら代わってくれって言いたいくらいだ。王子様なんて他人が想像してるほど楽な仕事じゃない。
他の国じゃどうだか知らないけど、ティルカではそうなのだ。
「すっごく肩凝るんだよ、ぼくのとこ。だから、たまには息抜きしないとね。抜け出してきちゃったのサ」
ぼくは肩をすくめた。
「いいのかよ?」
おべんとをがつがつ食べながらシャナンが言った。ちょっと行儀が悪いかもしれない。
「いーの、いーの。今日は特別な日だし」
ぼくはシャナンにならって食べながら――いや、ぼくだけ行儀良く食べてたら変でしょ――顔の前でぱたぱたと手を振る。
と、ばたばたと大勢の走ってくるような足音が響いてきた。
遠くから土ぼこりを巻き上げて、何か集団がぼくの方に近付いてくる。
――やばい。
ぼくは直感した。
きっと、あれは……
「ティルカ正規兵!」
ぼくより先にシャナンが声を上げた。
そうだ。あれはティルカ正規兵の集団だ――ぼくを連れ戻しにきた。
「あんた何やったんだよ! ひーふーみー……二十人以上いるっ!」
とっさに、この距離で人数を数えるとは。けっこうすごい。
「ぼくは何もしてないって。とりあえず逃げる?」
「何でだよ! あんただけつかまりゃいいだろ! こっちは官憲に会いたくないんだよ!」
ぼくに会う前にもスリとかやっていたらしい。確かにそういう人には官憲はご法度かもしれない。
「冷たいな。もうどうせむだなのにさ。ここのまわりも包囲されちゃってるし」
悠長に会話している間にすっかり公園は囲まれていた。
「はめやがって!」
「そんな人聞きの悪い……どうしてぼくが見ず知らずのキミをはめないといけないんだよ」
第一、あれはぼくを追いかけてるわけで、シャナンにはあんまり関係ない。
そう言おうと思ったけれど、それより早く兵士たちが到着してしまった。
国の支給品の、薔薇の紋章入りの蒼い鎧で身を包んで、標準装備のこれまた支給品の長剣を下げた二十人の兵士たち。まだ年若い、今年入ったばかりの新兵であろう。
ぼくは服についたほこりや汚れをぱんぱんと払いながら立ちあがる。
「みなさんおそろいで。ごくろうさま」
ぼくがにこりとすると、兵士たちは露骨におびえたような表情を見せる。
……きっと、去年これをやった先輩兵士にかなり脅かされたに違いない。毎年毎年そうなのだから。
ぼくはぜんぜん穏やかな人だっていうのに。
「王子、そろそろお戻り下さい」
ひとりが前に進み出る。
ぼくとシャナンのまわりには人だかりができていた。
ふと横のシャナンを見ると、驚いたらしく、ぱっちり大きい瞳をさらに大きくしていた。
「今年はもう終わり? まあ、見つかっちゃったし仕方ないけど」
「――あんた、王子なのか?」
ぼそりとぼくにしか聞こえないようにシャナンがささやく。
「そうだよ、一応」
ぼくもささやき返す。
兵士たちはどうしたらいいのか困っている様子だった。
まあ、ぼくはこれでもこの国の王子なわけで、手荒に扱うわけにもいかないだろうし。でもちょっとくらい手荒なことしないと逃げられちゃうかもしれないし? きっと困ってると思うな。
「ラティール」
兵士の後ろから正装した母さん――つまり女王ね――が出てきた。
ぼくと同じさらりと伸びた漆黒の髪を腰の辺りまで垂らしている。幾重にも蒼い薄絹を重ねたドレスを纏い、とても三十八とは思えない凛とした様子で立っていた。長い睫毛に縁取られたサファイアブルーの瞳は、強い意思を持った光を宿し、ぼくを射るように見つめている。
「女王フェリシア――」
ぼくの隣でシャナンが呟いた。
「また抜け出したりして。もうそろそろ戻りなさい。今日でもう十八、王子として自覚を持ちなさいな」
普段は優しい母さんだけど、やっぱり女王って立場もあって、公的な場ではこういう態度をとらざるを得ない。
「だって母さん、退屈だったもんだからつい……誕生日は子供がはめをはずしていい日だと思うの」
ぼくは胸の前で手を組んで、ふと真摯な視線を向けてみた。
「はずしすぎよ、あなたは。さっきも店で乱闘騒ぎを起こしたそうね?」
「それは純然たる誤解だってば。仕掛けてきたのはあっちだし、どっかからの刺客だったみたいだし……」
ぼくは言い訳を試みる。というか、自分の正当性を主張するのは当然の権利だし。
「あれはあの近所の、屋根裏と黒衣と実験と武器の愛好家の定例集会で、爆発物を扱う実験中に失敗したそうよ」
「……そんなもの取り締まってよ。危ないから」
ぼくがうめくと、母さんは律儀に答えてきた。
「法で認められているのよ、集会は。とにかく戻りなさい。遊びの時間は終わりだわ」
「――母さんが出て来たってことは、帰らないとまずいってことだよねー。じゃ、帰ろうかなぁ」
ぼくは諦めてため息をつく。
「でも、今日は拾い物しちゃったんだけど……いい?」
「猫かなにか? 別に構わないから戻ってきなさい」
「ありがと。だから母さんって好き!」
ぼくはシャナンの方に向き直った。
「今、答えをちょーだい。ぼくと一緒に城に来る気、ない?」
微笑みかけると、シャナンも笑顔を返してきた。まるでもうずっと前から答えは決まっていたかのように、ぼくに向かって手を差し伸べる。
「じゃ、行こうか」
ぼくの言葉に、シャナンは頷いた。
☆★ ☆★
太陽が高くなっている。もうそろそろ昼がくる。
「それが出会い?」
「うん。一応、出会いっていうのはそこらへんまでかな」
「お前らってへん」
シャナンが茶目っ気たっぷりに笑う。
「まあ確かにインパクトのある出会いだったことは認めるけど。面白かったのはあの後だよ」
「何をしたんだ、お前は」
「大体の予想はつくと思うよ。ぼくらしいことをしたまで」
ラティールが指をぱちんと鳴らすと、薔薇の造花が現れた。魔術ではなく、単純な手品だが。
「また手品か?」
「手品も楽しいものなんだってば。相手も楽しんで騙される――悪いことしてるわけじゃないし」
薔薇を放り投げる。
薔薇は白いハトに変わって、ラティールの頭上を旋回した。
「虚構の現実も悪くはないから。手品は夢を与えてくれる」
「夢じゃ人は生きていけないさ」
神官のくせに、シャナンは現実主義者だった――とラティールは思い出していた。よく現実主義者と理想主義者として対比される魔術士と神官が、まったく立場が逆だなんて変な話だ。
「でも夢なしでも生きてはいけないよ」
「そういうもんかね」
「そういうもんだよ」
シャナンは腑に落ちないと思っているようだった。考え込むかのような難しい顔をしている。
「お前もふざけてばっかりだな」
「それは誤解だってば」
「そう? 俺に会う前はカタブツだったけど、それより後はちゃらんぽらんなのになったと思うね」
シャナンはよく歯に衣着せぬ言い方をする。はじめのうちはラティールも気を悪くすることもあったが、今は慣れていた。
「別にそんなことないって。ぼくは基本は変わってないの!」
ラティールは頬を膨らませた。子供のようだとよく言われるが――実際、彼は意識してやっていたのだから、気にはしていなかった。
「まあ、いいさ。結局お前は何をしたんだよ」
シャナンはせかす。
「そうそう、それでさ……」
☆★ ☆★
ぼくはきっちり堅苦しい衣装に着替えて、パーティ会場に姿をあらわした。
少し高いところに立って、王子様っぽく口をひらく。
「長らくお待たせいたしまして申し訳ありませんでした」
形式ばった、型どおりのあいさつを口にした後、、ぼくはテーブルクロスくらいの大きな赤い布を振る。
手品をしようと、シャナンと打ち合わせをして用意した布だ。大掛かりな手品をやるときの仕掛けは単純でいい。多いとかえって失敗する。
「だからお詫びも含めて、余興にぼくの手品でも」
布をばさっと振って、ただの布であることを確認させた。
「これは、布です。一応仕掛けはあったりしますけど、それは秘密です。……あ、そこの人、あんまりじっくり見ないでください。本職じゃないからネタがばれます」
ジョークをまじえながらぼくは大げさな身振り手振りで話す。こうやって布に注意をひきつけておいて、隠してある手で細工するんだ。どんな細工かは、秘密だけど。
「それでは、みなさん、ぼくが三つ数えたら、手を叩いてみてください!」
ぼくは手を高々と掲げ、大声で叫ぶ。
三つ数えて、布を放った。
はらはらと床に落ちかけた布は、人くらいの大きさに膨らんだ。
人々の間からざわめきが起こる。成功だ。
「では、この布を取っちゃいます!」
布をのけると、そこには打ち合わせ通りシャナンがいる。きっちり正装させている。ぼくとおんなじ、おそろいの衣装。きゅーっと抱きしめたくなるくらいに可愛いっ! もうぎりぎり少年って年齢のぼくよりは、まだまだ幼いシャナンの方が可愛い、って感じに決まってるじゃない。
「今日からラティール殿下の生徒になる、シャナンです。見習い神官をやることになっております。以後、お見知りおきを」
シャナンは教えられたとおりの口上を述べる。ぎこちない、ということは一切ない。幼いころから礼儀作法などの教育を受けてきたぼくにも引けをとらないくらい。
「彼はぼくの生徒です。あなたがたのような貴族ではありません。ただの平民です。でも、彼はぼくの自慢の生徒ですから」
あえてぼくは言った。
貴族は、平民を蔑視するやからが多い。ぼくはそんな差があること自体間違いだと思ってるけど。今は、王家がないとこの国は存続できないから、仕方ないといえば仕方がない。だからぼくはせめて――平和に、穏やかに治めていきたいと思ってる。
あ、今大事なのはそんなのじゃなくて、ぼくはシャナンが平民だったとしても、貴族の中で蔑まれたりして欲しくない。だから、クギを刺させてもらったっていうわけだ。ぼくの生徒、っていうのも立派な肩書きになると――思う。こんなぼくでも王子だから。
「それでは、今日は夜まで騒ぎましょう! ぼくもとっときの手品を披露しまくっちゃいます!」
ぼくはぱちんと指を鳴らす。
まだらのハトが現れて、飛び回る。テーブルクロスの下からは、ぱんだうさぎが顔を出すし……
「あれ……?」
おかしい。ぜったいおかしい。
ぼくはせいぜい、ハトを出すくらいの仕掛けしかしてないのに。まだらにしたりとか、ぱんだうさぎはぼくじゃない!
「シャナン……キミが?」
ぼくが問うと、シャナンはふるふると首を横に振る。
「じゃあ、いったい誰が……?」
あと、こんなことをやるような人って言ったら……
ぼくは母さんを――澄ましている女王陛下を見遣る。
……思ったとおり、母さんはぼくと目が合うとにこりとした。
他の人が見たら、きっとただの笑みだとおもうだろう。母さんの優しげな笑みが、他に意味があるなんて――思う人がいるわけがない。
でも。
ぼくは知ってる。
母さんがああいう風に笑ったときは、絶対に何かやったときだって。
ぼくは母さんのそばにさりげなく歩いていって、こっそり耳打ちする。
「母さんでしょ? あれ」
と、走り回るぱんだうさぎの群れを指す。
「よく分かったわね。ほかにもいっぱい仕掛けてあるのよ」
臆面もなく母さんは言ってのけた。
……ねこっかぶり女王。
ぼくが心の中でつぶやくと同時に。
料理が小さな――そう、笑って許せちゃうくらい小さな爆発が起こった。花瓶から。
ひとつならまだしも、いくつも、いくつも。
「母さん〜!」
「余興よ、余興」
ほほほ、と笑う。どうしたもんだ、とぼくはため息をついた。誰かこの人をとめて……
☆★ ☆★
ラティールは立ちあがった。さして長くもないが――彼女がいたころよりは幾分長い髪をかきあげて。
「これでおわり」
外からさす日の光はオレンジ色に、夕焼けの色になっていた。もうそろそろ日が沈む。今日という日が終わる……
「お前の性格は遺伝か……」
シャナンがつぶやいた。呆れてはいない。楽しんでいるかのようだ。
「そうかもね。父さんは無口な人だった……っていうか口下手だったそうだから」
「人から聞いたみたいな話だな」
「そうだよ。ぼくは人づてにしか父さんを知らない。ぼくが物心ついたころには――もう父さんはいなかった」
のびをして、シャナンに微笑んで見せる。
「……そっか。悪いこと聞いたかな」
きまりが悪そうにシャナン。鼻の頭をぽりぽりかいている。
「別に。顔も知らない人だし……悲しくも何ともない」
沈みかけた太陽の光に手をかざす。白い肌がオレンジに染まった。
「終わっちゃうね、今日」
「ラティール……」
シャナンも立った。
「もう、諦めないとね……」
ラティールは身を翻し、礼拝堂の大扉へと近付いていく。
落胆しているのは自分でもわかった。彼はいつもより自分がひとまわり小さくなったような気がしていた。
小さくきしんで、扉が開いた。
「え……?」
一瞬ラティールは期待する。彼女ではないかと。
けれど、いたのは銀の髪の女だった。巫女のようなゆったりとした白い服を纏い、髪は束ねるでもなくただ垂らしている。まぶしいのか、何も映していない真紅の瞳を細めていた。雪の精のように肌は白く、妖精の姫君のようである。手には薔薇の花束を持っている。真っ赤な、血のように赤い薔薇の――
「ベアトリーチェ……」
ベアトリーチェと呼ばれた女が、しゃなりしゃなりと音がしそうなほど静かにゆっくりと、ラティールの方に歩いてくる。
ラティールの目の前で立ち止まり、花束を差し出した。
「これを……あなたに」
銀の鈴を振るような、かぼそくも美しい声を発する。
ラティールは困って――両手を胸に当てる。受け取れない。受け取れるはずがない。
「……ごめんなさい。他の花ならいざしらず――それだけは受け取れない」
ラティールは首を横に振る。
「どうして? 花くらい受けとってやればいいじゃないか」
シャナンが不思議そうな顔で問う。
彼は知らないから言える。無知だから。そうだから言える……
「レストアの民の風習でね、相手の誕生日に赤い薔薇を贈ることは、プロポーズの意……」
説明口調でラティールは言って、その後はいつものように続ける。
「そうだよね?」
「ええ、そうです……」
小さくか細くなっていく声。頼りなげに……
「――わたしでは、だめなのですか? あの方の……リラーナの代わりにはなりませんか?」
真摯な瞳である。一点の曇りもない。
「人は、誰にも身代わりはつとまらない。一見つとまっているように見えていても、それはただの虚構でしかない」
ラティールは強い調子で諭す。
「それでもわたしは……あなたを見ていられないのです」
さめざめと涙を流す。白い頬を伝って、涙が落ちる。
「……何か、神託が? リラーナに何か……」
「――いいえ。リラーナについて、いくども神に訊ねはしたけれど……決して答えては下さらない」
シャナンはベアトリーチェの肩に手を置いて慰めていた。ベアトリーチェは涙を流しながらも続けた。
「わたしだって……リラーナには帰ってきて欲しい。でも、もう二年も……」
「そう。二年たった。たったの二年。短くはないけど、長いわけでもない」
ラティールは瞬きした。
「最後の最後まで、きっと信じるさ。こいつなら、うちの妹を」
「――羨ましいわ」
ベアトリーチェは礼拝堂の椅子に座って、頬に手を当てた。
「リラーナは、そんなに思われているのですもの。わたしは故郷の国に帰ることさえできない人質なのに」
ベアトリーチェは柑子色に染まった頬を撫でる。
ベアトリーチェは人質だった――レストアという小国が差し出してきた第三王女。名目上はただの巫女だが。
国にも帰れず、他国で――身よりも何もない国で残りの人生を巫女として生きるのだ。
「帰ればいいさ。今はもう平和だし、レストアもティルカの庇護を必要としていない」
シャナンは政治も知らない。ひとすじなわではいかないのが政治というものだ。長年道具として、また王子として政治に関わってきたラティールは知っている。
国にとって脅威となるのは、何も魔族だけとは限らない。他国も立派な脅威なのだ。小国にとっては、いかにして大国の庇護を受けるかが生き残るためのかぎとなる。
「……わたしはここに残ります。故郷には帰りません。妹はこの国で眠っていますもの」
シャナンは手を離す。
奥歯を噛み締めて下を向く。
ベアトリーチェの妹は――リラーナの親友だったレオナは、五年前の戦で死んだ。リラーナがこの国を去ることになった原因となった戦で。
瀕死だったシャナンを助けるために使った治癒魔術で、だった。
レストアの民が扱える治癒魔術は、術者の命を代償にして対象者を癒す。傷が深ければ深いほど、命を削る。レストアの民が概して短命なのはそのためである。
ただ誰のためでもなく、自分のためにやるのだと言いながらレオナは死んでいった。シャナンは意識はなかったから、知らないだろうが……
ラティールは今でも覚えている。自分とリラーナの腕の中で次第に体温を失っていく、満足そうなレオナの笑顔を。彼女は今、ティルカの共同墓地で永遠の眠りについている。誰にも邪魔されることのない、安らかな眠りに。毎月、月命日には花を供えに行っていた。
だが彼女は、幸せだったのではないかともラティールは思うのだ。笑って逝けたのだから、きっとそうに違いないと。そうとでも思わない限りはやりきれなかった。
「……俺のせいで」
「気にしないでください。妹はきっと幸せでしたわ。死を悼んでくれる方がたくさんいましたもの」
ベアトリーチェはもう泣いてなどいない。毅然とした表情で、言葉を紡ぐ。
「人間の価値は、死に際してどれだけの者が涙を流すか、にあるといいます」
「優しい人だよね。ふたりとも――」
今度はラティールがシャナンを慰めるばんだった。
「そんなことはありません。わたしも妹も、ただの人です。だから、だと思いますの」
「許してくれると?」
「許す許さない、というのはわたしの決めることではありません。それは神が決めることです。人が人を裁く、それは間違いなのです」
ベアトリーチェは儚く優しく笑いかけた。
「……そうだった。俺も一応神官だし、知らない方がおかしいかも」
シャナンも吹き出す。
暗い雰囲気が一掃されて、ラティールも安心して同じく吹き出した。
「でも俺もいいのかなぁ。ふたりとも王族なのに、こんなぞんざいな口きいて」
「かまいませんわ。わたしは巫女、ただそれだけの女ですもの」
「ぼくたちは親友でしょーに。それに、時期に義兄弟になる仲だし?」
根がいい性格をしているふたりなため、ちょっときっかけがあれば底抜けに明るくなる。毒舌家のシャナンでさえも手玉に取られてしまうような人間がふたりも揃っているのだ。
「何て呼んで欲しい? お兄様? 兄貴? それとも兄さん、とか。兄様、あんちゃん、兄ちゃん……」
「好きに呼べばいいだろ? そういうこと言うなら、お前のことはいとしい弟よ、と呼んでやろう」
すかさずシャナンが切り返す。
「じゃあぼくは我が敬愛するお兄様、と呼んで差し上げよう」
「なんだかそうやってると、本当に兄弟みたいですわね」
やや翳りのある微笑をのぞかせる。妹のことでも思い出しているに違いない。
「そうそう。本当の兄弟みたいでしょ。前からよく言われてた」
「似てないのにな。俺の方が美形だろ?」
シャナンは調子に乗ってポーズを取る。
「どっちも綺麗だと思いますけれど」
「そのセリフ、何だかぼくが女顔って言われてるみたいー」
ベアトリーチェはそんな気はなかったのだろう、困ったような顔をしている。
「違いますわ、そんなことを思っていたらきっと可愛い、って言います」
「そうさ。いとしい弟はともかく、俺は違うに決まっているだろう」
「我が敬愛するお兄様、それはひどいと思わない? ぼくはたしかにこの歳になっても童顔で、愛らしい顔立ちだ、とは言われるけど。二十八にもなって愛らしい、はあんまり嬉しくないんだって」
自覚がある。ラティールは自分で自分の頬をぷにぷにした。
「もう、いやですわ! わたしを笑わせるつもりですの?」
「そーいうつもりはないんだけど」
再び明るく笑い出すベアトリーチェに、ラティールは心底ほっとして――
はたと動きを止めた。
「そういえば、何か今日はやけに静かだとおもってたんだけど。ミレーシャが来てないんじゃない? 病気か何かかな? 毎日のように適当な理由つけて城に来てたのに」
「ああ、それなら先に俺のところに来たから、もうちょっと後で来いって言って返したんだよ。お前は消えるし、城中大騒ぎだったから」
こともなげにシャナンがかえす。
「――なんか、シャナンって全然神官ぽくないね。リラーナの方が似合ってたかも」
「言うなよ。どーせ俺は似合わないさ」
冗談でシャナンがへそをまげる。
やはり、似合わない。ラティールは心の中でつぶやく。
「では、とりあえず――ミレーシャを探しに行きましょう」
元気良くベアトリーチェが立ちあがる。銀色の髪がさらりと揺れた。
「いーえ、その必要はないわ」
祭壇の方から声がした。
見ると、やはり何もない。
「空耳かな」
「そうですわね」
「帰ろう」
帰りかけた三人に、また声が掛かる。先程よりもいくぶん慌てているようである。
「ちょっと! どうしてみんなそう薄情なわけ? すこしふざけただけじゃないのっ!」
祭壇の陰から、ふくれっつらのミレーシャが顔を出した。
栗色の髪を三つ編みにして、魔術士風の軽装をしたぎりぎりの少女である。もう少しすると、少女とは呼べなくなる、微妙な境の位置にある。元気さがあふれんばかりの、魔術士と言うよりか盗賊だとか射手だとか、そういうことをしていそうに見える少女。
「ずっと立ち聞きしてたんだろ?」
いつのまにかミレーシャの間近まで移動していたシャナンが、さらにずずいっと近付いて指を突きつける。
「ずっとなんていいがかりよ! あたしはただ、ちょっと前からみんなの死角を移動して隠れてみてただけじゃない」
「ちょっと前ねぇ。ま、いいさ。でも何の用があるっていうんだ?」
「ねえラティールさま、ちょっと用事があるんです」
シャナンは無視して、ミレーシャはラティールに微笑む。
「あ、無視したな! 俺を差し置いてっ、このぉ」
と、子供じみたことを言い、シャナンはミレーシャの首をしめるまねをした。
「ああ、もう! 何妬いてるのよっ! あたしはいまはシャナン様ひとすじなの!」
ミレーシャの言葉にシャナンは急に真っ赤になり――
「ふーん。ぼくが知らない間にそーゆうふうになってたんだ。年下の姉ができるのか……」
ラティールはわざとおおげさに肩をすくめた。ベアトリーチェはやはり、ただにこにことしている。
「なっ、何を……」
シャナンはなおいっそう顔を赤くしてあとずさった。
「じゃあ、式はダブルで挙げましょう。前例もなくって、楽しそうだよねー」
「ばっ、ばかっ!」
あせってどもるシャナンは、ラティールにとってはからかいがいのある相手である。
「ラティール様、ありがとー。式には必ず招待しますね」
とのたまって、ミレーシャがシャナンにくっついた。シャナンはすっかりがちがちになっている。
「ねえ、そろそろやめてあげたらどうかしら? それはそれで面白いんだけど。ミレーシャも何か用があるって言っていたでしょうに」
ベアトリーチェがとりなす。
彼女の言葉の威力は絶大である。ラティールもミレーシャも、急に真顔に戻る。
「ああ、そうそう。すっかり忘れてたわ。実は、ちょっととある人からの伝言を頼まれちゃったんですよ」
「伝言?」
シャナンがオウム返しに聞き返す。
「そう。今日の夕刻、礼拝堂にて、って。でもラティール様ここにいるし……ま、いいか、って思ったんですけど」
ミレーシャは胸元に手を当てて続けた。
「頼まれた人が人だから、仕方なく来たんです」
「なんか、俺には誰だかだいたいの予想がついた」
シャナンが得意そうに胸を張った。何も胸を張るほどのことではないが。
「わたしもわかりましたわ」
「――なんとなぁーく、ぼくも。こんなことしそうな人って、ひとりしか思い浮かばない」
ラティールは肩をすくめて首を振る。
驚きと、喜びとを必死に押し隠しているかのような表情をしている。
彼と、三人は待った。
ただ待っていれば、きっと来ると、確信していたからだ。
どれだけ時間が過ぎたろうか。はたして、遠くの方から靴音が響いてきた。
「あれ?」
ラティールは首を傾げる。彼女は靴音なんかたてたりしなかったのに。もしかすると、予想が外れているのか。そんな不安に駆られる。
扉がゆっくりと――そう、じれったいくらいにゆっくりと開く。
姿を現したのは――彼女だった。
白い、これ以上ないくらいに白い純白の婚礼衣装を着て、同じく白いヴェールをかぶっている。ティルカにいた頃、いつも結われていたライト・ブロンドは、流れるような曲線を描いていた。青灰色の瞳には優しい光がともる。着ている服はたいして豪華なものではないが、それはかえって彼女には似合っているようであった。白いハイヒールを履いている。照れたような顔をしていた。
「リラーナ!」
叫んで、駆け出したのはラティールだった。
と、同時、リラーナも駆け出す。
礼拝堂の中央でふたりは抱擁し合う。
「ラティール様!」
「リラーナ……」
だが、それもつかの間のことで、ラティールはすぐに顔をあげ、完全に怒っている顔で言った。
「どうして二年も連絡よこさなかったの! すごく心配してたんだから!」
リラーナが答えようとするが、ラティールはそれをさえぎってまくし立てた。
「だいたい、リラーナが帰ってくるまで、毎日縁談がどーだのこのままだと嫁のきてがなくなるとか、散々にいわれてたんだよ! リラーナがしっかり帰ってきてくれないからこういうことになったんだからね」
息を次ぐ間さえも惜しいかのようだった。
「断るの大変だったんだから。どうして帰ってこなかったの? 待つって不安なんだから。知ってる? 五年たって、ぼくも二十八になったのに、キミは全然変わってないし!」
やっとラティールは言葉をとめた。肩で息をしている。
「ごめんなさい……思ったよりかケガがひどくって、治るまで時間がかかっちゃったんです。でも、急いで帰ってきたんです……これでも」
それを聞いて、ラティールはリラーナの腕をつかむ。
「ケガしてるの! どこどこ? もう治ったって本当なの? キミは昔っからケガとか隠す人だった」
「ラティール様ほどじゃありません」
リラーナの方からラティールを抱きしめた。ふたりには体格差はほとんどない。別にどちらがどうでもさして違和感などないのだ。
「でも、よかった……ずっと待っててくださったんですね……」
リラーナは心の底から安堵したようだった。
シャナンの胸に顔をうずめ――普段なら殴られることは間違いないが――ラティールは返す。
「当たり前でしょ? キミは帰ってくるって言ったじゃない」
夕日がふたりをオレンジに染めていた。影が長く伸びていた。
「お熱いですわー。さきほどハートブレイクしたばかりのわたしには目の毒ですわね」
「シャナン様、あそこのふたりにまけないくらいあたしたちもいちゃついてやりましょうっ!」
跳びついてくるミレーシャを、シャナンはよけることも受けとめることもできず、バランスを崩してひっくり返った。
つまり、見た感じシャナンはミレーシャに押し倒された格好になったわけで。手足をばたばたさせてもがいているのが、どうにも不恰好である。
リラーナとラティールは離れて――でも手をつないで――シャナンのほうに駆け寄った。
「まあ! 我が弟子ながら、真昼間っから大胆だねー」
リラーナは異様に楽しそうである。弟子を、というよりは兄をからかっている風である。
「うちの兄はシャイだから、もっとばしばし迫らないとね。でも礼拝堂でそういうことはよくないと思うの。神が見ていらっしゃいますよ」
昔よくやっていたように、リラーナは胸の前で聖印を切った。神官だったときのくせである。
「リラーナ、いいと思うよ、ぼくは。ここは愛の女神の礼拝堂だし」
「それもそうですね。女神はきっと許してくださるはずです」
あっさりとリラーナは意見を翻した。
「変わり身が早いぞ、妹!」
ミレーシャの下でシャナンがつっこむ。せめてもの、ささやかな反抗みたいなものだ。
「いいでしょ? 柔軟な思考と言って欲しいんだけどね」
シャナンそっくりの皮肉な口調でリラーナが言った。
「んーと、とにかく。こうして今日中にリラーナも帰って来たことだし。まずは母さんのところに報告に行かないと」
ラティールは手をぽん、と打ち合わせた。
だがリラーナはラティールの耳を引っ張って、ささやくような様子で叫ぶ。
「それより先になにか言うこととかありませんか?」
耳の奥がきーん、と音を立てているような気がして、ラティールは耳を軽く叩いた。
なにか、あっただろうか。
ラティールはふと考え込む。
とくに言うべきことがあったとは思わない。ここ二年で、ティルカであったことなど、大したことではない。平和そのものだ。
浮気したおぼえもないし……
と、ラティールは必死に脳内をフル稼働で検索するが、どうもおもいつかなかった。
「あったっけ」
「乙女心の分からない男の方は嫌われますわよ」
ベアトリーチェが茶々を入れた。
いよいよ、ラティールは考え込む。
自分が何をしたというのか。なにも身に覚えがないと言うのに……
そして、はたと思いあたった。
確か、一度だけ、前後不覚になったことがあったかもしれない。酒を飲みすぎて……
もしかして、あのときになにかあったのだろうか。気がついたときには部屋で寝ていたが――
「……ぼく、何かやったの?」
「逆です」
リラーナは短く答える。それだけで、かなり怒っているだろうことが分かった。
「あなたはなにもしていない。だからです」
「なにもしなかった?」
ラティールは怪訝そうに聞き返す。
なぞかけのようなリラーナの言葉は、とっさにも、熟考したとしても、意味はわからないだろう。
「なんのためにリラーナがそんなかっこうしたのか、考えてみればわかると思うわ」
ミレーシャはいつのまにか立っていて、ラティールのとなりに移動していた。
シャナンも大きくうなづく。
「……もしかして」
ラティールは上から下までじっくりとリラーナを見つめた。白いウエディングはよく似合っている。いつも以上に可愛い――いや、綺麗で美しいと思う。
「それって……」
急にどぎまぎし出すラティールを、期待に満ち満ちた眼差しでリラーナは見る。
ラティールは胸に手を当てて、何回も深呼吸を繰り返す。
「あうー、こんなとこじゃ恥ずかしすぎて言えないっ!」
頭を抱えてラティールがわめいた。
珍しい光景だ。ごくごく一部の、ラティールと親しいものを除けば、普段の彼がこうだと知っているものはいない。彼はまっとうな美形だと思われているのだから。
「じゃあ、後でじっくり聞かせてもらいましょう」
リラーナには、ラティールのわめいたその言葉だけで充分であろう。もう言ったも同然だから。
「プロポーズは公式な場でさせてもらうから、さ。機嫌直してね」
「……公式な場で? いいんですか? 私はてっきり、正妃は他に立てて、妾妃扱いになると思ってましたけど」
「他に? 誰を立てるって言うのぉ! ぼくはリラちゃんひとすじなんだからねぇっ!」
ばっとラティールはリラーナに抱きつく。
「恥ずかしいとか言いつつ、しっかりしてるじゃん。さすがは我が愛しの弟」
シャナンはミレーシャと寄り添いつつ言う。
「ふう、こうなると独り者はわたしだけですわね。どこかにいい人落ちてないかしら」
ベアトリーチェは冷静な口調の割に、とんでもないことを言っている。
「誰か紹介してやるのが振った男の義務だな」
もっともらしい様子でシャナンが口を開く。神官、という肩書きを持つ彼が言うと、何でももっともらしく聞こえるから不思議である。
「まあ、よさげな友達を何人かピックアップしてみるよ」
片目を閉じてラティール。
「相手がベアトリーチェって知ったら、きっと自ら名乗りをあげるのの方が多いよ」
慰めるように続けた。
妖精のような美貌を持つベアトリーチェなら、引く手数多、といったところだ。
「それは楽しみですわ」
さきほどラティールに振られたとは思えないほどベアトリーチェは明るい。親友のリラーナの手前、泣くわけにもいかないのかもしれないが。
「ねえねえ、と、なると、あたしはラティール様の義姉で、リラーナの義姉になるってことよね?」
念を押すかのようにミレーシャが言った。
「そうね。でもなにか?」
「ほーっほっほっほ! お義姉様とお呼びっ!」
お姉様、という部分をそのまま女王様に置きかえられそうな勢いである。びしっ、とリラーナを指差す。
……
一瞬場が静まり返った。
時が凍りついてしまったかのような、きまずい沈黙だ。
「ちょ、ちょっとお! 笑ってよ! じゃないとあたしの立場ってものがないじゃないのよ!」
沈黙を破ったのは、言わずと知れたミレーシャであった。
「だって、お姉様って……なんか危なげな。それに私のほうが年上じゃないの」
ラティールとリラーナが顔を見合わせた。
「お姉様ってみやびな雰囲気だよね」
ラティールの方はちょっと感覚がずれているが。
「言ってみたかっただけよ。ちょっと女の子のあこがれでしょ?」
「そんな異常なのはあんただけよ」
冷静にリラーナが突っ込んだ。ミレーシャ相手だと、リラーナはぞんざいになる。他の人間とはまた違った、安心感のようなものがある。
「異常だなんてひどすぎるわ! あたしはいたいけな美少女なのに――」
「美少女、ねえ」
ふっ、と悟った目つきでリラーナが呟いた。
「いいじゃありませんか。美醜の感覚は人によって違いますもの」
ひそかにひどいことを言っているのはベアトリーチェである。
ざっ!
と、ベアトリーチェが言った瞬間に大勢の人間が礼拝堂内に踏みこんできた。
ティルカの正規兵である。
「土足でずかずか踏み込むとは! 神の怒りが……」
シャナンが呟く。
兵士の後ろから十年前と変わらない、美しいままの女王が出てきた。
「ラティール! あなたがパーティをさぼったものだから、母さんいいわけに苦労したのよ!」
びしぃ! っと指を突きつけ、女王は叫んだ。尋常じゃあない。絶対に普通じゃない。
それは誰の目にも明らかだった。
「母さんってば酔ってるね、あれは」
と、ラティールが頭を抱えた。
「なんか軍隊まで出動させてしまって……相当の酒乱ですわね」
ベアトリーチェはうきうきしているようであった。見かけによらずとんでもない。
「陛下、お久しぶりです」
リラーナは動じないどころかかえって安堵したかのように女王に近付いていった。
「まあ、リラーナ。帰ってきてたのね。しかもその服……すっごく似合ってるわぁ。こういう娘がいたらいいわね」
ろれつが回らない、ということはない。女王は前後不覚になるほど酔っても、口調だけはしっかりしている。
「どお? ラティールもそろそろねぇ。お義母さん、って呼んでいいわよ」
酔っているものだから、フェリシアはとんでもないことを口にした。
「よかったなあ。お前が嫁にいけないかも、なんて兄としてはあんまり切実じゃなくかんがえていた」
シャナンはもう適当である。
「どうせならこのままやっちゃいなさいよ。ちょうどここは礼拝堂だわ」
「聖職者もふたり、おりますし」
ひとごとだと思っているのか、ミレーシャどころかベアトリーチェまでも適当である。
「そうね。いいわ」
許可を出したのはフェリシアである。
「女王の名において、ふたりの結婚を許可しましょう」
勝手に話をすすめる。
ラティールはリラーナを見た。優しい、だがどこか困惑の色が見え隠れする眼差しで。
「ねえ、リラーナ」
駆け寄って、手をとる。
「こうなったら逃げよう」
にこやかに告げてくる。
「――そうですね」
リラーナもうなずく。
そして、ふたり手に手を取って走り出した。
「あ、逃げた!」
後ろでミレーシャが叫ぶ。
「追いかけましょう」
走って逃げるふたりの後ろを、ティルカ正規兵を含めた大勢が追いかけていた。
ティルカは今日も、おおむね平和である。
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