二章四節「鉄錆の調味料と香辛料」
雨に打たれて滲んだ、鮮血の汚れがやけに生々しく感じた。
脇腹に抱えたそれに目を落とし、ただ呆然と傘の中で犯人を正視していた。
傘と地面を打つ、乱打の雨。
それから身を守る、一つの傘は防空壕のようなものだ。
だけど、肩は雨で濡れている。
一つの傘で二人を守ろうとしているから。
高鳴る心音を抑え、周囲に人がいないことを確認し、俺は犯人の両手首を掴んだ。
傘が地面に落ち、受け皿のように雨を溜めていった。
雨に濡れた犯人は重かった。そして、冷たかった。
白のワンピースに泥が付着する。なるべく背中を浮かせて運んでいった。
雨に打たれながらも、取り敢えず雨の当たらない場所まで移動させた。傘を拾いに向かう。
建物と隣接するように設置された駐輪場。屋根で覆われたそこは雨に濡れていない。
俺は犯人をそこに運んだ。さすがに家の中に上げることはできないので。
犯人を背もたれするように寝かせた。後方を確認する。
壁に囲まれてはいるが、隣にはお婆ちゃんがいる。
疑われはしないだろうけど、人に見つかったら面倒だ。
俺は犯人を背で隠した。
真正面には犯人がいる。雨に濡れているせいで白い下着が透けて見える。
体が熱くなる。雑念を振り切るように頬を叩いた。
その音に反応したのか。犯人の手足が動いた。
長い髪のせいで表情が確認できないが、目覚めたのだろう。
取り敢えず、優しく声を掛けてみることにした。
「大丈」
「――あああああああ!!」
俺の言葉を無に還すような、断末魔の叫び声が轟く。
聴覚に鋭い痛みが走る。思わず、俺は耳を塞いだ。
犯人の頭を抱え、体を震わせ、血が出る程に強く下唇を噛み締めていた。
「何もやってない! 何もやってない! 私は何もやってない!」
瞬間、周囲に犯人の声が漏れるのではないかと感じた俺は、犯人を落ち着かせようと試みた。
「声出したらマズイって!」
しかし、犯人は喉がはち切れるくらい叫び続けているため、俺の声なんか聞こえはしなかった。
仕方ないと思った俺は強行手段に出た。
強引にでも口を塞ごうとした。降り頻る雨が思考を混乱させ、単純な、しかし卑劣な手段しか思い浮かばなくなっていた。
犯人の口に封をしようとした瞬間だ。
「触るな!」
犯人が女性とは思えない力強い声で叫んだ。俺は寸前で手を止めた。
「お願いします……私に触らないでください。私に触らないでください……」
先程の態度が嘘のような、弱々しい態度と口調で犯人が呟いた。今にも泣きそうなその声を聞いた時、俺は喉に締め付けられそうな痛みを感じた。
犯人はその言葉を最後に黙り込んだ。
やっぱり、この場に長居していたら見つかるかもしれない。
俺は沈黙を断ち切った。
「……とりあえず、中に入ろう。風邪引いちゃうから」
しかし、犯人は立ち上がらなかった。返答もない。
返答とは別に、俺を突き放す言葉が返ってきた。
「私に関わらないほうがいいですよ。知ってますか? 私は、駅前通りの殺傷事件の犯人なんですよ」
犯人は背中を壁に押し付けながら、ゆっくりと立ち上がった。
不安定な足並みで歩み出す。壁に手を付きながら、一歩一歩前進していく。
「さっきは怒鳴ったりしてすいません。でも、私に触れたらあなたが怪我をするから……」
俺は犯人の背を目で追うことしかできなかった。
地面に足を縫われたように、微塵も動けない。
傘を握る手に力が入る。非力な俺自身に嫌気がさし、苛立ちとなって力が加わる。
たった一言。たった一言だけでいいから声が出てほしい。
心底そう願っていた時、俺の口が微かに動いた。
出せる。今なら声に出せる。
「一つだけ教えてくれ。あれは故意に行ったわけじゃないんだろ?」
犯人の足が止まった。
俺は更に言葉を繰り出した。
後もう少しで、犯人を『こちら側』に戻せる気がしたからだ。
「……力、なんじゃないか?」
犯人が勢いよく振り返り、素早い足並みで肉迫してきた。地面を水溜まりをお構いなしに踏む。泥水が白のワンピースの裾に付着する。
犯人は俺の両肩を掴んだ。
直後、鉄バットで殴打されたような熱い痛みが体を襲った。
「……っ!」
肩から手を放し、犯人は俺から距離を置いた。
熱い痛みが走る。肩が悲鳴を上げている。否。肉が悲鳴を上げている。炎症を起こした肉は熱く、延々と痛みが残るのだ。まるで肉の扉を内側からノックしているように。
嫌な汗が流れている。雨が少しも冷たく感じない。肉の痛みが勝っているのだろう。
これが、犯人の『力』なのか?
「ご、ごめんなさい」
「い、いや、大丈夫だから」
本当は大丈夫じゃない。だれど、今は堪えるべきだ。
「もしかして……あなたが、早乙女一護さんですか?」
俺の名前を知っている?
名乗った憶えはない。どこかで調べたのだろうか。そういうのが分かる仕事を勤めているとか。
「そうだけど……、何で俺の名前を知って」
「よかった。まだ間に合った」
その安堵の一言が、俺の言葉を掻き消した。
犯人を息を乱している。息づく間もなく言葉を続けた。
「率直に言います。早乙女さん、あなたは狙われています」
「狙われてるって……誰に?」
徒競走の開始を告げるピストルの発砲音は、俺の知らない間に鳴っていた。
俺は一人取り残されて、他の者達は既に走り出していた。
何周差もつけられた時、俺は既に競技が開始していた事に気付かされる。
しかし、その時にはもう誰も抜くことも出来ない。
手遅れだった。
『佐山莞爾。あなたの友達です』
何もかもが、手遅れだったんだ。
不定期更新になってしまい、本当に申し訳ないです。
本作とは別に連載中の作品がありまして、そちらは毎日更新を心がけているため、本作はその合間合間の執筆となっています。
ペースが取りづらいかと思うのですが、よかったら最後までお付き合いください。
最近、本家と提携した『小説更新チェックβ』をご存知かと思いますが、そちらに登録すると便利になると思います。
よかったら登録してみてください。
余談ですが、二章は残り二節で終わりです。
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