第一章 その2(中)
「てめえは、どうしたって俺らをモメさせてえんだな」
ドアが開いて姿を見せるなり、芹沢貴志は迎え出た鍋島にそう咬みついた。
「悪いな。緊急事態や」
鍋島は軽く頭を下げ、相棒を玄関ホールへと誘った。
「緊急事態なら、地元の警察に泣きつけ。京都にしても兵庫にしても、優秀なもんだぜ」
芹沢はまだ毒づいていた。黒いフード付きダウンジャケットのポケットに両手を
突っ込み、鍋島を見ると溜め息をついた。
「……おまえに見てもらいたかったぜ、あいつの怒った顔。そうすりゃこんな無茶
言わねえだろうに……」
「それについては意外やった」と鍋島は振り返った。「また何で来てるんや。
あと一週間もしたらクリスマスやのに」
「知るかよ。最近よく来るんだ。向こうで暇なんじゃねえのか」
芹沢は履いていたドクターマーチンの8ホールブーツを片手を使って無造作に
脱ぎ捨てた。
「……ま、要するに監視されてるんやな」と鍋島は鼻白んだ。
「おい、このまま帰ろうか」
「ああ、悪い」
「何時だと思ってんだ」
「もう六時過ぎや。立派な朝やで」
「まだ六時過ぎだろ。そもそも今日は非番で、俺にとっちゃこんな時間に外に出て
活動してることが想定外だ。しかもわざわざ新幹線に乗って会いに来た女をベッドに
残して」
芹沢は顔をしかめると横目で鍋島を見た。「悪りぃけど、このことについては
しつこく言うからな」
「分かった。この借りはきっと返すから、とにかく今は黙って協力してくれ」
鍋島は言うと廊下に向かった。すると芹沢がその肩を掴んだ。
「ちょい待ち」
「何や」
「そのことなんだけどよ」
「ああ」
鍋島は芹沢に向き直った。
「部屋ん中入って、お嬢さんたち目の前にしちまったらもう訊けねえからここで
確かめとくけどな。その協力ってのは、どっからどう考えても無関係の俺が、
こんな時間にわざわざここへ呼び出されるだけの意義のあることなんだろうな」
「どういう意味や」
「決まってるだろ。くだらねえ遊びに付き合う暇はねえってことさ。結婚前のおふざけ
でした、じゃ済まされねえぜ」
鍋島はしばらく芹沢を見つめていたが、やがて一つ小さく頷くと言った。
「……消えた男の本心は知らんし、知りたくもない」
「上等だ」と芹沢は鼻白んだ。
「けど、真澄が苦しんでる。それだけは確かや」
鍋島は自分に言い聞かせるように言って、それから芹沢にも言った。
「そこに嘘はない」
「……分かった」
芹沢は頷くと、今度は鍋島の肩を突っついた。「行けよ、早く」
鍋島が開けたドアから芹沢が入ってくるのを認めると、麗子は立ち上がって開口一番
こう言った。
「ありがとう、電話に出てくれて」
「後悔してるよ」と芹沢は皮肉っぽく笑った。そして麗子の隣に座っている真澄に
視線を移すと、目が合った彼女に言った。
「大丈夫?」
真澄は力なく笑って頷いた。
「コーヒーでいいか」
キッチンの鍋島が訊いた。
「要らねえ。それより何か食べさせてくれ」
芹沢はジャケットを脱ぎながら答えた。
「腹減ってるんか」
芹沢はむっとして鍋島を睨みつけた。「……そうともよ。何しろ蹴り飛ばされて
出てきたからな。メシ食う暇なんて無かった」
「……分かった。悪かった」
鍋島はシチューの鍋に点火した。
芹沢はそんな鍋島に声を出さずに口だけで何か悪態をつくと、食卓に座っている
麗子と真澄に向き直り、向かいの席に手を差し伸べて訊いた。「座っていい?」
「あっ、ごめんなさい。もちろんよ、どうぞ」
麗子は慌てて立ち上がり、芹沢の示した椅子を引こうとした。
芹沢はいいよ、と麗子を制し、自分で椅子を動かして腰を下ろした。そして小さく
肩で息を吐くと、柔らかい笑みで二人を見て言った。
「さて、お役に立ちましょうか」
家の電話と携帯電話の両方からの呼び出し攻撃に遭い、意味も分からず恋人との
貴重な逢瀬を引き裂かれ、寝起きの状態のままタクシーに乗り込んでやってきた
不運な男には見えなかった。涼しい瞳、自信たっぷりの眉、気品ある鼻筋、甘い唇に
透明な肌。思わず触れたくなるような艶やかな髪にセーターの上からでも分かる
引き締まった肉体。相変わらず、隙なしの見目麗しさだ。
麗子は頷き、真澄に振り返った。真澄はテーブルに置いた自分の携帯電話を
手に取ると、画面を開いてさっき届いた婚約者からのメールを呼び出し、芹沢に
差し出した。
「失礼」
芹沢は言って電話を受け取った。黙ってメッセージを目で追うと、そのうち
電話をそのままの状態で自分の前に置き、腕を組んでじっと考え込んだ。
やがて彼は顔を上げ、真澄を見て言った。
「──ごめん、一度だけ訊かせてくれる?」
「ええ」
「ここに記されてること、本当に何も心当たり無いの?」
「あたしが何か隠してる……とでも……」
真澄は言葉に詰まると、眉をひそめて芹沢を見据えた。
「ごめん、気に障ったよね。けどほら、俺は確かにあなたの知り合いではあるけど、
それより先に刑事だから」
芹沢は相変わらず柔らかく、清々しい微笑を浮かべながらも、毅然とした口調で言った。
「……ええ、分かります」
真澄はそう答えて、ちらりとキッチンの鍋島を見た。
芹沢も同じように視線を鍋島に移した。しかしすぐにそれを真澄に戻すと、彼女の
気持ちを見透かしたように言った。
「あいつも刑事だけど、今はどっちかってぇとあなたのことを大事に思ってる友達、
ってのが勝ってる状態じゃないかな」
「確かにそうかも」と麗子が言った。
「あたしにとっては、まさに青天の霹靂です」
真澄が言った。「それに、この際だから言っておきます。彼は何かから逃げようと
しているわけでも、私を騙そうとしているわけでもありません。彼はただ正直に、
このことを私に伝えたくてメールしてきたんです。だからこの内容になに一つ嘘は
ないんだと思います。ただ、たった一つ、間違いを犯したけれど」
キッチンの鍋島も真澄の言葉に聞き入っていた。
「それは何?」芹沢が訊いた。
真澄はまっすぐに芹沢を見た。そして言った。
「私に黙っていたこと」
鍋島は微かに笑うと、シチューの火を消した。
「よく分かったよ」
芹沢は頷いた。そしてもう一度電話を手に取り、メッセージを読んだ。やがて
ゆっくりと電話を閉じると、真澄に返しながら言った。
「これを読んで、俺の提案は二種類」
そこに鍋島が食事を運んできた。芹沢の前に並べると、黙って手を差し出した。
芹沢はスプーンを手に取り、真澄を見た。
「一つは、どんな事情があろうと、こんなとんでもないことをやらかした男には
さっさと見切りを付けて、結婚を白紙に戻すこと。頃合いの時間になったら、
ホテルをはじめ関係各方面に連絡をとって、全部キャンセルだ。その後のことは
あなたがやりたくないのなら、弁護士でも雇うといい」
唖然とした表情で自分を眺めている真澄と麗子を交互に見ながら、芹沢は続けた。
「つまり鍋島と俺の出番は無しだ」
そして、鍋島があえて何も言わずに自分の隣に座る様子をじっと目で追い、芹沢は
シチューを口にした。「美味い」
鍋島は腕を組んで芹沢に頷いた。
「もう一つは、今すぐに京都府警に電話して、家出人捜索願を出すこと。彼と自分の
家族にも連絡して、彼の無事を共に祈って待つ」
芹沢は三人を見回した。「やっぱり俺たちの出番は無し」
「ちょっと、あなたね──」
むっとした麗子が言いかけたのを視線で制して、芹沢は言った。
「ふざけてなんかいないぜ。大真面目だ」
「だけど……」
「気持ちは分かるけど、この二つのどっちかを選んだ方が、せめてこれ以上傷が深く
ならずに済むとは思わないか?」
「薄情なこと言うのね」と麗子はふて腐れた。
「正論や」
突然、鍋島が言った。
「勝也……」
「こいつの言うのは正論なんや。何一つ間違ってない」
「そう。全くの正論さ。俺みたいな立場だからこそ、この正論を見失わずにいられる」
シチューを食べながら芹沢は言うと、鍋島を見た。
「だけど、今回はおまえにしちゃめずらしく、その正論じゃ駄目なんだろ」
「そうや」
「……やれやれ」
芹沢は溜め息をつき、手にしていたスプーンを置いた。
「仕事は休めねえ」
「ああ」
「二人で何ができる? 無理だぜ」
「そうやな」
鍋島は頷くと、じっと芹沢を見た。「三人──」
「言うなそんな恐ろしいこと!!!」
芹沢は鍋島の言葉を手で制するとそのまますぐに頭を抱えた。
「いいか。頭に思い浮かべるのもよせ」
「頼む」
「嫌だね。俺に電話するまで、思いもつかなかったことだろ」
二人のやりとりが途中から理解できなくなり、真澄と麗子はただ呆気にとられて
この様子を眺めていた。
「このとおり。一生の頼みや」
「断る」芹沢は顔を伏せたままだった。
「せ──」
「嫌だっつってんだ」
やがて二人は何も話さなくなった。鍋島は両手を膝に置いて頭を下げ、芹沢は
テーブルに両肘を突いて組んだ手に額を預けてじっとしていた。
真澄と麗子は、固唾を呑んでその様子を見守った。二人の間で何がどう交渉されて
いるのか知りたかったが、とにかく口を挟まない方がいい気だけはしたので、黙っていた。
五分くらい経った頃だった。
「……ちっくしょう……」
突然、呻くようにそう呟いたかと思うと、芹沢が顔を上げて立ち上がった。
そしてリビングのソファに置いたジャケットのポケットから自分の携帯電話を取り出し、
開いてボタンを押した。
「悪い。恩に着る」
鍋島は顔の前で手を合わせた。
「ぶっ殺してえよ。おまえら全員」
芹沢は吐き捨てると、電話を耳に当てた。
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