第二章 その1(中)
「──お呼びですか、巡査部長」
二人のそばにやってきたのは、刑事課の庶務を担当する市原香代巡査だった。短大を出て三年目の二十三歳で、均整の取れた制服姿の両腕に、今はなぜか
いくつもの紙袋や紙包みを抱えている。その表情は、普段挨拶を交わすときには
笑顔を絶やさない彼女には
めずらしく、少し不機嫌そうだった。
「おはよう香代ちゃん──えっと──何それ」
それが何なのか分かってはいたが、ひょっとして素通りできるかもと、芹沢はまるで
無意味な挑戦を試みた。
「クリスマスプレゼントですけど」
香代は最初の言葉に力を込めて、芹沢を見上げた。無意味な挑戦は、無意味な結果に
終わったのだ。
「だってまだ今日は──」
「お預かりしてました。巡査部長、昨日お休みだったから」
そう言うと香代は手にしていた荷物をどさりと芹沢のデスクに置いた。「他にも一つ、
かなり大きいのを預かってるんです。それは本人から直接あたしに託されて、あたしの
ロッカーに保管してあります。後で持ってきます」
「……悪いね」
芹沢は頭を掻いた。
三年前から、クリスマスとバレンタインデー、そして八月五日が近くなると、
刑事課には芹沢に宛てたプレゼントが大量に届くようになった。贈り主が直接持参する
場合がほとんどだが、郵送で送られてきたり、刑事課の誰かに託されたり、あるいは
知らない間に一階の受付カウンターにそっと置かれていたり(実はこれが一番迷惑で、
公共の施設という警察の性格上、不審物扱いをせざるを得ない)するのだ。その数、
毎回ゆうに三十個は越えていた。贈り主は女性署員がほとんどだったが、行きつけの
レストランやカフェ、ヘアサロンの従業員、裁判所や検察庁職員、ときには彼の扱った
事件の関係者などもいた。
刑事課の同僚たちはその状況を妬みに妬んで、芹沢にそれらの管理を厳しく要求する
ようになった。しかしまさかずっと受付に座っているわけにもいかないので、あるとき
彼はどこかから要らなくなったダンボール箱を調達してきて、刑事課のカウンターに
設置しておくようになったのだ。ちなみに八月五日は芹沢の誕生日である。
「──それにしても、まだ早いよな」
デスクを占領しているプレゼントを眺めて、芹沢は言った。
「だから、毎年言ってるでしょう」
香代は不服そうに溜め息をついた。「クリスマスと八月五日は、年末休暇や夏期休暇で
当日持って来れない人がいるんで、バレンタインと違って早めに届き始めますよって。
だから早めに箱を用意しておいて欲しいんです」
「そうだっけ」
「……当の本人がこんな具合だってこと、みんな知らへんからこんなアホなこと出来るん
やわ」
「……なかなか厳しいね」
「じゃあ訊きますけど、例えばこれの贈り主、巡査部長はご存じですか?」
香代はプレゼントの一つを手にとり、幅の広い緑のリボンに挟んであったメッセージ
カードを覗き込むと、芹沢に向き直って言った。
「会計課 高橋いずみ」
「うーん……たぶん、知ってるかな」
「嘘ばっかり」
香代は無造作に包みを戻した。「今のは私が作った架空の名前です。本当は高梨愛美さん
です」
「あっ、引っかけたな」
「引っかかる方が悪いんです」
香代は腕を組んだ。「それで? 肝心の用件は何なんですか」
「それそれ。昨日から留置してる女性被疑者の事情聴取をしたいんだけど」
「立ち会いですね、分かりました。準備が整ったら、いつでも声を掛けてください」
そう言うと香代は一礼し、さっさと刑事部屋を出て行った。
「……何であんなに怒ってるんだ?」
香代の後ろ姿を見送りながら、芹沢は困ったように呟いた。
「分かってるくせに」
それまでのやりとりを黙って見守っていた鍋島が口を開いた。
「ずっとおまえに想いを寄せてるんや。せやからこんな、いわばライバルからの荷物の
管理なんてしたくないんやろ。自分は逆におまえと近すぎて、贈りたくても贈れへんのやし」
「今に始まったことじゃねえだろ」
芹沢は平然と言うと、デスクに積まれた贈り物を見て溜め息をついた。「……にしても、
いつもながら面倒臭せぇな」
「……腹立つ」
鍋島は憮然と吐き捨てた。
取調室中央の椅子で肩を落として小さくなっている女性は、名前を深見春子、
45歳。大阪府吹田市にあるケーブルテレビ局でプロデューサーとして働く傍ら、
今回の被害者である夫・深見哲がオーナーシェフを務めるイタリアンレストラン
『リストランテ・サトル』の名目上の共同経営者でもあった。
春子は黒いセーターにキャメルカラーの革のパンツをはき、ひどくやつれた表情で
机を見つめていた。目尻が少しだけつり上がった二重の目が気の強さを想像させるだけで、
今はそういった雰囲気は微塵も感じられない。栗色に染めたポニーテールを小刻みに
揺らしながら、彷徨うように視線を机のあちこちに動かして、さっきから聞き取れない
ほどの小声で何かを呟いている。アルコール中毒者の禁断症状が出ているわけでは
なさそうだったが、いずれにせよ、それも時間の問題かと思われた。
「──憶えてない?」
春子と向かい合って座った鍋島が言った。「自分のやったこと、何一つ憶えてへんって
言うわけ?」
「……すいません」
春子は早口で言った。「どれくらいの時間か、気を失ってたみたいで、気が付いたら、
血の付いた包丁を握ってました。すぐそばのソファの脇に、血だらけの主人が横たわって
いて……虫の息に近いような状態でした」
「あなたの着衣にも返り血が付着してたと」
「……ええ」
春子は頭を抱えた。「わたし、いったい、なんてことを……」
「そうは言ってもね、深見さん。何か少しくらい、微かにでも記憶に残ってることが
あるんじゃないですか? 例えば気を失う直前のこととか」
「それが……」
春子は頭を上げて鍋島の顔を見たが、すぐに項垂れ、自らに呆れているかのような
口調で言った。「わたし……お酒が入ると、いつもすっかり記憶が飛んでしまうんです」
「きれいさっぱり?」
「はい」
「……もうちょっと控えた方がいいですよ」
鍋島は溜め息をついた。壁際の芹沢をちらりと見て、それから春子に訊いた。
「ご主人とはあまりうまく行ってなかったとか」
「ええ……はい」
「主な原因は?」
「私の仕事が多忙なのと……主人の浮気です」
「ご主人に愛人がいたというのは本当ですか」
「はい」
「それはいつからです?」
「もう、二年以上になると思います」
「そのことについて、ご夫婦の間で話し合いはなさったんですか」
「最初は──私が愛人の存在を知った当初ですが──何度か話し合いはありました。
でも主人はその女と別れる気は無いと言い続けました。そのうち、主人は話し合うことすら
しなくなって……」
「あなたはそんなご主人を恨んでいた?」
「はい」と春子は即答した。「恨まないはずがありません」
「喧嘩はしょっちゅう?」
「喧嘩というか……お酒の勢いを借りて、私が一方的に主人を攻撃するという感じです」
「ご主人は無抵抗」
「ええ」と春子は唇を噛んだ。「そのうち、仕事のある日は家に帰ってこなくなりました。
休日は家を空けると私が怒るので、渋々居るという感じでした」
「離婚は考えなかったんですか」
春子は小さく首を傾げた。「……子供がいるので」
「中学二年になる娘さんですね──茜さん」
鍋島は手元の捜査資料を見ながら言った。
「はい」
「居場所は?」
ここで芹沢が口を開いた。
「えっ……?」
春子はきょとんとした顔で芹沢に振り返った。「茜は家に居ませんでしたか?」
「いねえよ。今回のことでてっきりどこかに身を寄せてるのかと思ってたんだけど」
「……そうですか」と春子は溜め息をついた。「昨日の朝までは、確かに自宅に
おりました。でも私が……その……」
「酒を飲み始めたから、そこからの記憶が無いってんだな」
「……はい」
「ひとつ屋根の下にいて、子供の家出に気付かねえってか」
芹沢は呆れたように首を振ると、椅子から立ち上がってジーンズの後ろポケットから
携帯電話を取りだし、春子を見下ろした。「娘の電話番号は?」
「携帯の、ですか」
「ああ。持ってんだろ」
「090−55……」
春子は言い澱んだ。「えっと……55……3?……2?……」
やがて春子は頭を抱え、髪をかき回し始めた。禁断症状の始まりかも知れなかった。
「……覚えてねえのか」
芹沢は小さく舌打ちすると、入口付近の机の前でこちらに向かって座っている香代に
言った。
「部屋に戻って娘さんの電話番号を調べてくれるよう、誰かに頼んでもらえるかな。
市原さんはまたすぐに戻ってきてくれればいいから」
「分かりました」
香代は立ち上がって、取調室を出て行った。
「──娘さんとご主人の親子関係はどうでしたか」
鍋島が春子に訊いた。
「主人と娘、ですか?」
「ええ。良好でしたか」
「さぁ……私にはあんまりよく分かりませんけど」
「悪くはなかった?」
「思春期ですから。それなりに、親を避けるようなところはありましたけど」
「父親が浮気をしていると、知ってましたか?」
「えっ、そ、それは……」
「あるいは、両親の不仲の原因は父親にあるらしいというくらいは気付いてるよう
だったか」
「さぁ……」
春子は自信なさそうに首を捻った。
「それも分からない?」
鍋島は眉根を寄せた。「普段から娘さんとあまりお話しにならないんですか」
「ええ……実は娘はその、あの、自分の部屋で過ごすことが多くて……私どもの前に
顔を出すことが……あまり無いと言いますか……」
「要するに引きこもりですか」
「え、まぁ、そうです」
「学校は?」
「ここ一年ほどは行ってません」
「学校からは何か働きかけとかないんですか」
春子は首を振った。「私立の進学校なもので……うちの娘のような生徒への対応は、
慣れておられないようです」
「親御さんに任せっきりということですか」
「ええ」
「じゃあ、ご両親はどういう対応を?」
「……私どもは、その……なにぶん……それぞれに仕事がありましたもので……なかなか
時間が……」
「早い話が、ほったらかしということですね」
鍋島が厳しい口調で言った。
「いいえ、放ったらかしなんてしてませんでしたわ。ちゃんと小遣いは与えてましたし、
欲しいという物も買ってやって──」
「どうかしてるぜ、あんたたち」
春子は芹沢に振り返った。またしてもきょとんとした顔をしていた。
芹沢はそんな春子を見据えながら、苛立ちのこもった溜め息をついた。
「離婚を選べなかった自分の臆病さを娘に肩代わりさせるのは、金輪際やめるんだな」
その時、芹沢の携帯が小刻みに振動を始めた。芹沢がゆっくりとディスプレイを開くと、
画面を確かめてすぐに鍋島に言った。
「武闘派警部からだ」
鍋島は黙って頷いた。
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