第一章 その3(前)
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午前八時を回り、周囲では一日の活動が始まっていた。
冷たく澄んだ新しい空気の中、両側に大きな屋敷の並ぶ広い坂道を、学生や
勤め人たちがそれぞれの目的地に向かって歩いていく。窓から見える2ブロック先の
通りのバス停には、行き先を駅前と表示したバスが並んだ客を乗せるのに停車していた。
その頃になると、真澄はようやく緊張の糸がほぐれたのか、引き替えに疲れと睡魔が
襲ってきたようで、麗子の部屋で少しの間眠ることにした。麗子が付き添い、他の三人は
そのままもとの部屋に残った。
しばらくすると、麗子が戻ってきた。
「眠ったわ。あっという間だった」
麗子は自分も少し疲れた声で言うと、鍋島が後かたづけをしているキッチンの
カウンターの椅子に腰を下ろした。
「無理もないよ。丸一日寝てないんや」鍋島が言った。
「しかもこの状況だもの。あまりにも過酷だわ」
麗子は溜め息をついた。そしてリビングの芹沢と一条に振り返ると、ぺこりと頭を
下げながら言った。
「お二人にも、ホントに無理させちゃって」
芹沢は首を振った。「慣れてるよ」
「そうよ。ほとんど毎日こんな感じだもの」と一条。
麗子は二人の気遣いに再度頭を下げ、ようやく微笑んだ。
そしてカウンターに置いてあった自分の携帯電話を取ると、ボタンを押して画面を眺めた。
画面には、中大路から真澄に送られてきた例のメールが表示されていた。五人で相談の
結果、このメールは今後何かのヒントとなるかも知れないから全員で共有しようと
いうことになり、鍋島を覗く三人の携帯にも転送されたのだ。(鍋島は相変わらず携帯を
持っていない。それについてはこのときもまた、芹沢と麗子からひとしきり文句が出た。)
「ねえ、ひょっとして中大路さん、五日のうちに帰って来れる確信があるんじゃ
ないかしら──って、無駄な期待?」
麗子は言った。
「せやな。真澄を安心させるために言うてるだけやろ」
「そうよね。自分でどうにかなる話なら、こんなに間際になってやるはずがないわね。
しかもこんな方法で」
麗子は自分の楽観的な考えに眉をひそめ、そしてすぐに何かを思い出したように
顔を上げた。
「そうだ、叔母様に電話しておかなくちゃ」
「真澄の家か」
「ええ。ゆうべここに来る前に一度電話は入れておいたらしいわ。うちへ来るって
言ってあるそうだから、あたしからも連絡しておかないと」
麗子は携帯のボタンを押しながら廊下へ出て行った。
「そうか、だからご両親からは連絡が入らなかったのね」
ソファ越しに麗子の様子を伺っていた一条が、きちんと座り直して言った。
「と言うと?」
向かいの芹沢が訊いた。
「普通、実家住まいの娘を持つ親なら、日付が変わっても娘が帰ってこなかったら
電話の一つも入れてくるわ。たとえ男と一緒にいるって分かってても、とにかく釘を
刺しておきたいものなのよ」
そう言うと一条は廊下に振り返った。「特に野々村さんは、そういうところは
しっかり教育されてるみたいだし。結婚を間近に控えてたって、相手の男性との
付き合い方にもちゃんとけじめをつけるように言われてたんじゃないかしら」
「そんな感じだな」
芹沢は言って、一条をじっと見た。すると一条は肩をすくめた。
「あたし? こんな仕事に就いちゃったから、両親はとうの昔に諦めてるわ。そうでないと
ここでこうしてることも不可能でしょ」
「……まぁな」
そこへ麗子が戻ってきた。
「どうやった」
食卓のテーブルで煙草を吸っていた鍋島が訊いた。
「あたしの声を聞いて、ほっとしてらしたわ。ゆうべ真澄が自宅に電話したのは十二時
過ぎだったらしいから、その直後にうちに連絡を入れようかどうか迷ったそうなんだけど、
時間が時間だったから遠慮してたんですって。一時には来てらっしゃいましたよって
ごまかしておいたけど、近頃はみんな携帯で連絡をとるから、結局はどこにいたって
分からないのよって、ちょっと嫌味言われた」
麗子はもとの席に着いて、大きく溜め息をついた。
「……めんどくせぇ」
自分の膝で頬杖を突いていた芹沢が鼻の真ん中に皺を作って吐き捨てた。
「そういうもんなの。年頃の女の子の親は気が気じゃないのよ。世間にはあなたみたい
なのがウヨウヨしてるから」
一条が釘を刺した。「……そうだ、それで思い出した」
「思い出さなくていいよ」と芹沢は口元を曲げた。
「マンションの部屋を出てエレベーターに乗るとき、ちょうどお隣の娘さんと
一緒になったわ。『奥さんの妹さん?』って訊かれたんだけど、どういうこと」
一条は芹沢を睨み付けた。
「……全くの誤解。はは、なに言ってんのあの娘?」
芹沢はぎこちない笑顔で言うとすぐに真顔に戻った。
「だといいけど。しかもその彼女、初対面のあたしに何のつもりだか露骨に敵意むき出し
だったわよ」
「あの女子高生が?」
「あの女子高生が、よ。意味わかんない」一条は憤慨した。
そこで鍋島が口を挟んだ。
「一条、それっておまえハメられてるぞ」
「どういうこと?」
「おまえのことを芹沢の彼女って分かってて、そんな嘘言うたんや。芹沢の浮気疑惑を
でっちあげて、おまえらをもめさせようとしてるんやろ」
「そうだよ、おまえ、あの娘に騙されてるんだって」
芹沢はいきなり活き活きとして言うと、鍋島に向かって(サンキュ)と目配せをした。
「騙そうとしてるのは、あなたじゃないの?」
「違うって。おまえともあろうモンが、そんな幼稚な企みに簡単にひっかかっちまう
なんてな。どうかしてるぜ」
「………………」
一条は口を噤むとバツが悪そうに俯いた。十代の小娘に、まんまと騙されかかっていた
自分が恥ずかしかったからだ。
「そういうこと言うなって」
短くなった煙草を灰皿に押しつけながら、鍋島が諫めた。
ずっと黙ってこの様子を見ていた麗子は、芹沢の言葉にある種の同調を感じていた。
さっきまであれだけの聡明ぶりを発揮していた彼女が、たった一度顔を合わせたばかりの
アカの他人の女子高生に、こうも簡単に担がれてしまうとは。
それもこれも、すべては恋の成せる技なのだなと、このとき麗子は自分にも身に覚えの
ある、恋する人間の脆さというものを一条の中に見たのだった。
「さてと、そしたら今日これからのことやけど」
鍋島は言いながら三人を見回した。
「その前に、まずはこの件での方針確認をしておきたいんだけど」
鍋島と麗子のいるダイニングに身体を向けて、一条が言った。
「……そうやな」
「野々村さんは、婚約者が違法行為に手を染めるような人じゃないって言ってたし、
あたしも彼女がそう信じて主張するのは理解できるわ。だけど、あいにくあたしたちは
そうは考えない」
「もちろん。どんな可能性かて頭に入れとくべきや」
「で、残念なことに違法行為の事実あるいは証拠が判明した場合のことだけど」
一条は鍋島をじっと見つめた。「その先はどうするの」
「どうって……?」鍋島は微かに首を捻った。「どっちにしても連れ戻さなあかんやろ」
「そう、野々村さんのもとに連れ戻しさえすればいいのね。それでミッション完了?
それ以上は一切無しでいい?」
「それは……」
「それでは済まされない、ってことなのね」麗子が言った。
「いや、そうとまでは言ってないよ。つまり、そこで手を引くのかどうかってことさ」
芹沢が言った。「万が一婚約者が何らかの罪を犯していたとしても、とりあえずは
本人を見つけて、もしも誰かに行動の自由を奪われているような状況だったら、そこから
奪還はする。その後のことは野々村さんに任せて、犯した罪に関してはそれ以上の追求は
しないってことなのか、それとも警察官である以上、野々村さんが何と言おうと摘発
するのか、どっちなんだって、みちるは訊いてるんだ」
「………………」
鍋島は黙り込んだ。
「俺たちは警察だけど、今回はあくまでそのスキルを使って消えた男を捜し出した
『頼りになる友達』ってだけで、そこで終わりでいいんだな?」
「勝也、どうなの?」
「どっちにするにしても、今回は鍋島くんに従うわよ。あたしの性格上、不問に処すって
いうのはホントは難しいんだけど」
「もちろんよ。当然だわ」
麗子は強く頷いた。「それに、もしも中大路さんが何かの犯罪に手を染めてるなら、
そのまま結婚したって真澄は幸せになれないわ」
「それは野々村さんが判断することだと思うぜ」
芹沢が即座に言った。「従姉の意見として分かるけど」
いいじゃない、と一条は芹沢を制し、そしてもう一度鍋島をしっかりと見据えた。
「どうするの、鍋島くん。あたし、できれば最初にそこのところをはっきりして
もらいたいんだけど」
「………………」
「勝也?」
「……もしもあの男が何か罪を犯してるんやったら」
鍋島はようやく口を開いた。そして顔を上げた。
「見つけ出して、そこで終わりにはせえへんよ」
芹沢は頷いた。「彼女に恨まれるかも知れないぜ」
「たとえ真澄に恨まれても」
鍋島は語気を強めると、一人一人の顔をゆっくりと見回し、そして迷いのない眼差しで
ダイニングのドアの一点を見つめ、はっきりと断言した。
「最後まで追いつめる」
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