二十歳を過ぎた僕が、学校にも行かなくなり、日々あてもなく都市の底辺をふらふらしていたころ。
気が向くと会いに行って寝ていた女の子は、駆け出しのグラビアモデルをしていた。
もちろん脱いではいなかったが露出の多い衣装とその体で、都会の吐き出すメディアのすき間を時折埋めていた。
彼女の暮らすマンションは、日当りの悪い高速道路の高架横に建っていて、夜になっての窓からの眺めは、上空を走る道路からこぼれるナトリウムランプの眩しさと、それに対して線を引かれたように追いやられた、眼下にはびこる都会の闇が印象的だった。
それらは、僕の心のどこかを激しくおびえさせる。
照明を消すと、カーテンの切れ目から薄くオレンジ色の光が部屋に差し込んだ。
フローリングの室内には、彼女の性格なのか、あまりにも物が置かれていない。
無造作に置かれたベッド代わりのマットレス。
僕等が横たわる白いシーツの上には、寝乱れた彼女の細長いつややかな髪が広がる。
呼吸と同期して微かに上下動する彼女の痩せた肩。
弱々しく重なるふたりが吐き出したのは、ため息のように途切れた雨乞いだった。
鉄筋コンクリートのどこかを伝って、高架の上を通過する自動車の走行音や遠いクラクションが、繁殖し続ける細菌の咆哮のように空間に侵み込んでくる。
「私って売れると思う?」
薄暗がりで、彼女は潤んだ瞳を張り裂けるほどに見開き、そんなセリフを僕にぶつけた。
何と答えていいのかわからないまま時がたち、彼女は待ちきれずに目を閉じて顔をそらせた。
「どうして? 売れることがすべてかな?」
やっと擦れた声で、彼女のうなじにささやいた。
「だって私には何もないもの」
彼女はぶるりと首を振った。
「何もない? 雑誌にだって載り始めたし、街を歩いても、ちらほら気付かれ始めているのに」
僕は呆れた。
「本当に自分の中に何もないの。変かな? 人の視線や、言葉でしか自分が誰なのか掴めないのよ」
「それって、どういうこと?」
「つまり人に褒められたり、羨ましがられたり、ねたまれることってあるでしょ」
彼女は振り向いた。瞳に力がこもっている。
僕は「ああ」とだけ、うなずいてみせた。
「そういうことでしか、自分の位置がいい場所なんだって、自分のいる場所が高いところなんだって気づけないの」
そう言い切ると彼女は再び僕から視線を外した。
「だから、積極的にそういうコトを求めるのか」
それは独り言のようなつぶやきだった。
「……かもね」
それを聞き流さずに彼女は買い言葉を返す。
「面倒な性格なんだな」
ため息が出ていた。
「あなたにはわからないわよ」
小声でそう叫ぶと、彼女は赤子のように体をくの字に縮め、ベッドの上で小刻みに震え続ける。
僕は仕方なく、小さくなった彼女を包み込むようにそっと覆いかぶさった。
養成所に通う費用を捻出するため、もしくはそれに伴う生活を支えるため彼女は裏で簡単に金を産む仕事も選んでいた。
そのせいか、時折彼女はいじわるく僕のからだのツボをつき、それでいて僕の反応に対しては哀しげな笑顔を見せた。
ただ、僕らはあまり行為自体を推し進めることはできないでいた。
ただ触れ合いを確保することだけで、温もりを側に置いていることを確認するだけで二人は安らいだ。
そしてそれ以上が苦痛だった。
「美しさって、わからないの。だから売れないんだと思う」
さっきまでの会話を思い出したように彼女がこぼす。
「そう?」
曖昧に返事をしていた。
「美しさってことを考えるといつも自信がなくなるの。もっと胸を張って自信に満ちた笑顔をしなさいって先生には言われるんだけど……」
言葉の後半に、すすり泣くような声が混じっている。
それは、良くない兆候だった。
面倒な事態に陥ったことは明らかだった。
結局僕は、まるで以前から温めていたかのようなフリをして物語を紡ぎだし、つぶやくように彼女に聞かせることにした。
「そうそう、こんな話…… 聞いたことある?」
……昔。
それは中世ヨーロッパ、森と湖で囲まれた王国のとある立派なお城に立つ塔の一番天辺にある部屋に、お姫様が住んでいたんだ。
そのお姫様はとてもきれいだった。
とってもとっても美しくて、いつもみんなにちやほやされていた。
でも、そんな周りの人たちの世話焼きに、お姫様は正直辟易していたんだ。
そんなお姫様にとって、何が一番楽しかったかと言うと、それは鏡を見るときだった。
夜眠る前、そして朝起きたとき。鏡の前に座ると、そこには完ぺきな美しさが必ず映っていた。
みずみずしい生命力にあふれた、圧倒的で完全な美しさ。
それが自分だということで湧き上がるえもいわれぬ喜び。
鏡を見るたびにそんな幸福感が、おなかの底から響いてきて全身を感動で揺るがした。
でも、ある日を境にお姫様は、塔の一番天辺にある月明かりが差し込む部屋の中で、毎晩、鏡を見ながら泣きじゃくるようになってしまった。
誰にも気付かれないまま。
お姫様は、悲しみと恐怖に震え続けた。
幾晩かが過ぎたある夜。
レンガ造りの塔の一番天辺にあるお姫様の部屋の頑丈な窓を押し開けて、巨大なコウモリのような黒い影が飛び込んできた。
「どうなされたのですかお姫様。最近お元気がないご様子ですが?」それは青年の吸血鬼だった。「わたくしめが力になれるかもしれません。どうぞ理由をおっしゃってください」
まじめな顔をして若い吸血鬼はうやうやしく述べた。
最初はいぶかしがっていたお姫様も、吸血鬼の紳士的な態度に、意を決して事情を告げた。
「実は……」
お姫様は、自分が感じている悲しみと恐怖の正体について吸血鬼に語った。
このごろ自分の美しさに陰りが見え始めていたことをお姫様は嘆いていたのだった。
人目にはわからない。でも、もう以前のようには美しくはならない。
それどころか、日に日にその美しさはかげりを見せてゆく。
「そうですか」厳かに、そして親身になって吸血鬼は返答し、そして提案する「ところで、わたくし。永遠にその姿のままでいられる、よい方法を知っておるのです」
「それって何ですの?」
目を輝かせてお姫様は尋ねた。
「それは、わたくしめと同じ吸血鬼におなりになることです」
お姫様は最初ためらった。
でも結局、吸血鬼のその提案には抗えなかった。
永遠の美しさを手に入れることはとても魅力的な提案だったし、なによりこのまま日々が過ぎゆくごとに美しさが衰えていく事実を受け入れることには耐えがたかった。
「さあ、これであなたさまも吸血鬼。永遠の若さを手に入れたのです」
お姫様の首筋から2本の牙を離して、吸血鬼は高らかに宣言した。
そして、もと来た窓枠に足をかけると、
「どうか、お元気で。わたくしめはいつでもあなたさまを見守っております」
そう言い捨てて夜の暗い木立の影へ羽ばたき行ってしまった。
一人に戻ると、美しさを損なう不安がなくなったからか、お姫様は全身からあらゆる力が抜け落ちていくのを感じていた。
そして、久しく遠ざかっていた安らかな眠気が降りかかった。
それは、暖かな泥に浸されたような心地いい眠りだった。
お姫様は熟睡した。
次の日の朝、爽やかに目覚めると、お姫様はウキウキしながら早速鏡の前に座る。
でも、鏡に映ったものを見て、お姫様は愕然としてしまった。
「どうして? お姫様の美しさは戻らなかったの?」
それまで耳を潜めて話を聞いていた彼女は、こっちに向き直るとシーツに包まったままそう尋ねた。
「いいや、その後も兵士や領民たちは彼女の美しさに賞賛の声を惜しまなかった」
僕はやさしく答えた。
「じゃあ、なんで?」
いぶかしげに目を細める彼女。
「吸血鬼はね……」なだめるように言葉を続けた。「吸血鬼になったお姫様は、鏡に映らなくなってしまっていたんだ」
「ふうん」
一瞬、間が空いたあと、彼女はそんな言葉を残した。
それは僕が語った話に、何の感銘も受けなかったという風な社交辞令的セリフだった。
そして、彼女は僕の胸におでこを当てると、そのまま静かな眠りに落ちていった。
美しさを求める、なんて行為は結局そんなものだ。
実態なんてありはしない。
何でそんな当たり前のことがわからないんだろう。
女の子って、不思議だ。
照明を消した部屋には、相変わらずオレンジの高速道路の光が、薄くカーテンの切れ目から差し込んでいた。
*
数か月後。彼女は突然業界からスポットライトを浴び、華やかなステージへと手を引かれていった。
新しい駒の登場に、チェス板の上では、めまぐるしい攻防が始まっていた。
住む場所も移った。
日当りの悪い高速道路の陰から越した彼女の新居は、逆に高速道路を見下ろす白金の丘の上に建つ高層マンションに変わった。
彼女の周囲には、いかがわしい連中が取り巻きはじめた。
彼らはマネージメントという名の印象操作を世間に配信していった。
そんな訳で、いつしか彼女の思考から僕という記号の存在は消えた。
新しい部屋には、観葉植物やプラズマテレビや最新の健康器具や、まるで深夜の通販番組のために組まれたセットのように、ありとあらゆる商品が使われもしないまま並べられていった。
彼女が出て行った、あの高速道路の影に隠れたマンションのフローリングの床には、いつだったか露店で買って贈った銀のピアスが片方だけ、音もなく転がっていた。
もう、あれから何年もの月日が流れている。
時折、哀しくなると月を見上げている自分に気付いてしまう。
そんなとき、たいてい僕はあてもなく歩いていた。
我に返ると、人を惹き付ける音楽のような白い光を見上げている。
行き場を求める迷子のように。
街に棲息する人達はいつも、実体の無い媚薬のようなきらびやかさを共同で演出しあい。裏側では狡猾に利権を争った。
表面を取り繕い、水面下では火花を散らせ、ことあるごとに嵐を吹き荒らそうとした。
もちろん例外なく彼女もその渦に巻き込まれていったんだ。
洗濯機の中で洗われている黄色いハンカチのように一瞬その渦から姿をのぞかせはした。
でも、二度と浮かび上がってくることはなかった。
まるで洪水に飲み込まれた安物のピアスのように、彼女の行方はその後の僕には知らされていない。
あの日、あの部屋に取り残された、銀色のピアスが転がりながら奏でた音色だけが、わずかに僕の耳には残っている。
思い出せば、いつも。
その音色が耳に。
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