あざといトマト
腹が減ったのでレストランに立ち寄る。
すると、セットでサラダが付いてきた。
レタスと刻んだキャベツと茹でたほうれん草にトマトが入ったやつで、サラダと言うよりは野菜の盛り合わせとでも言った方がそれっぽい。適当なドレッシングを要求したが、あらかじめ塩が振ってあるとかで、そのまま食えとウェイトレスに言われてしまい、羊の気持ちになってもしゃもしゃ食べた。
味は可もなく不可もなく。普通の生野菜の盛り合わせだ。これが産地直送の新鮮な野菜だったら、濃密な描写で味を表現するところだが、所詮は近所のスーパーで買った二束三文の野菜に違いない。特に語るべきことはなく、レタスはレタス味であるし、キャベツはキャベツ味であるし、ほうれん草はほうれん草味だった。ただ、トマトだけは食べなかった。私はトマトが嫌いだからだ。
すると、トマトは空になった皿の中で一人取り残された事になる。彼女は誰も居なくなった皿の上でさめざめと泣き始めた。その泣き方は声を押し殺すような泣き方で、聞いていて、胸にくる。ついもらい泣きをしそうになる。本当に悲しそうな泣き方なのだ。それでも私はトマトが根本的に嫌いであるから、SMAPにおける森君のように、その存在を無視していたのだが、私の前に座っている彼女の方は、悲しげなトマトの泣き声が酷く心に堪えたようで、囁くような声のトーンで、私に次のような提言してきた。
「ねぇ」
「なんだい」
「その、食べてあげたら?」
「なにを」
「トマトを」
「なんで」
「なんでって、その、ちょっと可哀想じゃない」
彼女は眼鏡(それは赤色のラウンドフレームだ)をしきりに弄りながら、私に対してそんなことを言ってくる。それは彼女にしてみたら、とても決心が必要な事だったろう。なぜなら、私の彼女は他人に何かを要求する事も、要求される事も大っ嫌いな性格だからだ。
彼女は自分の食べている物に文句を言わせないし、他人の食生活に口出しをしない。本来なら、私がトマトを残したところで、何も言わない事だろう。けど、今日はトマトがあまりに可哀想な声で鳴いているので、心根の優しい彼女はついつい私に対して口を出してしまった。
しかし、彼女には悪いが私のトマト嫌いは筋金入りだ。
「なら、君が食べてもいいんだ」
冷たい声でそう言った。
すると、トマトは耳ざとく私達の会話を盗み聞きしていたのだろう。泣き方が少し変わったのだ。今までは押し殺すような泣き方だったが、今は声を殺していない。自分は悲劇のヒロインだと言いたげな調子でトマトは堂々と泣き始めた。頬を濡らして嗚咽を上げて、哀れげにヒックヒックと繰り返している。なんとなくわざとらしい。このトマトは私達の反応を見て、演技をしているのではないか。この私に食べられるために手練手管を使っている、老獪なトマトではないだろうか。
老獪なトマト!
そんなのを食べるなんて冗談じゃない。ただでさえ私はトマトが嫌いなのに、新鮮でなく老獪なんて最悪だ。やはり野菜という奴は畑で採れたて。あるいは朝採り。そういう奴に限るわけで、老練な駆け引きが出来るほど古くなったトマトなんて一体誰が食べるというのだ。
けれど、私の彼女はトマトを疑うような人間ではなかったから、泣くトマトの演技を真に受けている。
「ねえ、貴方。このトマトは貴方に食べられたくて、こんなにも憐れに泣いているのよ。可哀想だと思わないの」
憐れでなく、憐れっぽくである事を彼女は理解してくれない。
性善説か性悪説か。どちらが真実であるのかなんて、ただの人間に過ぎない私に分かるわけがないが、彼女は性善説というものを信じている。野菜が嘘を吐くはずがないと心の底から思っている。けれど、少しでも野菜の事を知っていたら、そんな事は露程にも思わなかったろう。彼女は都会の人間だった。野菜なんて八百屋かスーパーでしか見たことがない。
それとは対照的に私は山村の出で、野菜とは幼い頃から親しんでいた。畑で逞しく生きる野菜達を目の当たりにしていたわけで、野菜が嘘を吐く場面など、それこそ何百と目撃していたわけである。野菜が嘘を吐かないと信じるのは、それこそ都会の人達だけだ。しかし、野菜は戦略として嘘を吐く。
野菜なりの目的を果たすために。
そこで私ははたと気が付いた。どうしてトマトは私に食べられたがっているのだろうか。野菜として収穫されたのだから、人間に食べられたい。そう考える事は野菜として当然の考え方である。
現在、地球の盟主は人間だ。
少なくとも植物界に対しての影響力は凄まじく、人間に気に入られた植物は繁栄を約束されているし、人間に嫌われた植物は根絶させられている。畑で栽培されている野菜達などは人に気に入られた植物の筆頭であるし、除草剤の餌食となる雑草などは嫌われる植物の筆頭だ。だから、トマトが人間に媚びを売るのは当たり前だが、それがどうして私なのか。
私は視線を落として皿を見た。
皿は砥部焼の大皿だった。控えめな白磁に藍色の紋様が付いたシンプルな皿で、そこの上にトマトが独り取り残されて泣いている。泣いて泣いて顔を泣きはらしている。元々赤い顔だけれど、泣きはらした所為で真っ赤っかだ。これでは目も真っ赤だろう。一体、どうしてそこまで泣くのか。
なぜ、泣くのだトマトよ。
そんなに私に食べて貰いたいのか。
「なぜ、私なのだ」
するとトマトは泣くのをピタリと止めて、顔を上げた。赤い顔、赤い唇、赤い瞳。それを私の方に向けてくる。
そして、トマトはおずおずとか細い声で、
「貴方が好きです」
トマトが、突然の告白をした瞬間だった。
その時だ。
私の前に座っていた彼女は、がたんと音を立てて椅子から立つとテーブルの上に飛び乗って、アッと声を上げる間もなく、告白したトマトをかっさらい、そいつを口の中に放り込んだ。トマトは悲鳴を上げる間もなく、瞬く間に彼女に食べられてしまう。
「……ええと」と私が戸惑った声を上げる。
「なに?」と彼女がこわい顔で私を見る。
私は何でもないと首を振った。すると彼女は「そう」と頷いて、優雅な動作でテーブルから降りる。その途中で周りの客に愛想笑いを振りまきながら「どうも、お騒がせしました」と謝罪する事も忘れない。
私はその間、ずっと恐縮しっぱなしだった。
店に対しても、彼女に対しても。
やがて、店から出て私は彼女に恐る恐る尋ねる。
「ど、どうだった?」
「何が?」
「いや、その、あのトマトの味」
すると彼女は「ああ」と今さっき思い出したという顔をして、チェシャ猫みたいに笑っていった。
「とっても甘くて美味しかったわよ」
後で聞いた話だが、恋したトマトは糖度が高くなるらしい。