坂東蛍子、ロボットと心を賭ける
「あなたの心を下さい」
坂東蛍子は手持無沙汰だった。今日は近所の小学生と公園で遊ぶ約束をしていたが、肝心の相手が急遽来られなくなってしまい(母親と買い物に行くのだ、と電話口で少年は喜々として語った)、予定に穴があいてしまったからだ。蛍子は暑さを増してきた春の日差しを避けるように麦わら帽子のつばを両手で抑えながらしゃがみ込み、二つずつ用意した虫取り網と虫籠を睨んだ。
タクミがやって来たのはちょうどその時である。彼は自身の作成者に乞われて缶ビールとさきいかをコンビニに買いに行く道中、偶然公園に佇む坂東蛍子を発見した(彼が人間ではなく人型のアンドロイドであることを蛍子は知らない)。タクミが寄り道という非合理行動の実践のために公園に足を踏み入れ、彼女に声をかけると、蛍子は光るビー玉を見つけた少年のような目で駆け寄ってきて、タクミに虫取りで賭け勝負をしないかと提案してきたのだった。
「心?」
「そうです。私が勝ったらあなたの心を奪います」
タクミは賭けの報酬を考え、ロボットとして至極真っ当な答えに行き着いた。タクミは何故自分達ロボットに権利が無いのか日々思案しており、その度に精神的成熟の有無で人間が生物の価値を判断していることへ思索が集約された。彼らは何故か精神性によって命を格付けし、哺乳類か魚類かによって非難の声量を変えたりする。ロボットの権利が軽んじられているのもそこに根源的な原因がある、とタクミは考えた。自分には心が無い。だから毎日怠け者のマスターに理不尽な御使いをさせられていても、法的に対抗手段を持てないのだ。
(それってつまり、タクミは私のことを好きだってこと?)
蛍子はドキリとしながら、改めてタクミの顔を見た。彼はいつも通りの生真面目そうな変化の無い表情で蛍子を見返していた。どうやら冗談では無いようである。坂東蛍子は類稀なる美しい容姿に恵まれていたため、幼い頃から毎日のように男に言い寄られうんざりする日々を過ごしていた。そのため異性から告白されることには慣れっこの彼女だったが、しかしながら“異性の友人”から告白されたことは一度も経験が無く、蛍子は今新しい境地への登壇を余儀なくされていた。何より、タクミは性格が固すぎるところ以外は、顔も良く、頭も良く、背も高いという絵に描いたような理想の好青年だった。普通の女子なら高揚しないはずがない。
さすがの蛍子も今回だけはその例外で無く、胸の内で渦巻いた動揺を抑えるために後ろ手にギュっと拳を握り込んだが、しかし心の混乱はそれ以上広がることは無く、数瞬の間の後穏やかに収まっていった。蛍子にはクラスメイトに好きな男子がいた。松任谷理一と言い、一度フラれても忘れられないぐらい夢中の相手であった。坂東蛍子はタクミの告白の言葉を受け止めた時、少しドキリとした感情に動揺し、この感情は何だろう、と考えた。するとすぐさま頭の中が理一のことで埋め尽くされたのだった。
あぁそうか、と蛍子は笑った。今のは異性に好意的な感情を抱いた時の感覚に似ていたのね。だから私は混乱したんだ。まるで理一君を前にして一言も喋れなくなってしまう時のように。
「良いわ」と蛍子は不敵に笑って腕まくりした。
「言っとくけど、私の心は安くないわよ」
公園内で行われた蝶捕獲三本勝負はタクミの圧勝に終わった。虫取りには並々ならぬ自信があった蛍子だったが、そもそも人間の身体能力でロボットに勝てるわけが無かったのである。春の陽気に後押しされながら蛍子が一匹目のルリシジミを捕まえ、誇らしげにタクミの方を振り返ると、青年は一足で5mを軽々と越える跳躍と一般乗用車を追い抜くことが可能な脚力を適度に活用し、三匹の蝶をあっという間に虫籠に収め、ポカーンと目を丸くする蛍子に歩み寄った。
「終わりました」
蛍子は何とか状況を飲み込もうとしながらタクミの顔を見た。タクミは普段通りの表情を崩すことなく、無言で蛍子のことを見返していた。まるで何かを催促するかのような冷ややかな沈黙だった。
蛍子はハッとして自分の胸の辺りに手を当てた。勝負に負けた以上、私の心をタクミにあげなければならない。勝負に負けたことで、初めて蛍子はその事実を真剣に考えた。そして考えれば考えるほど蛍子は顔を青くしていくのだった。私の心をタクミに上げる、それはつまり、私の心が理一くんから離れるということだ。理一君を諦めて、忘れて、無かったものにするということになる。この高鳴りも、苦しさも、いつかの喜びや悲しみも全部全部捨て去らなければならないのだ。人を好きになるということは軽口のやりとりでどうにかなるものではないのに、私は今笑いながら好きな人を好きでなくなり、好きでもない人を好きになると言ったのだ。何も考えずに大切なものを投げ捨ててしまった。
なんて約束をしてしまったんだろう、と蛍子は思った。
「さぁ、心を渡してください」
頭上から投げかけられるタクミの声に坂東蛍子はビクリと怯えるように肩を震わせた。両の掌は胸にあてがわれ、理一への思いを中から外に逃がさないようにするかのようにギュっと服を握りしめていた。
タクミは上を向いた蛍子の顔を見て逡巡した。蛍子はボロボロと涙をこぼしながら、懇願するような顔でタクミを見上げていた。
「やだよう」
蛍子は閊え物に苦しむように胸を抑えながら震え声を絞り出した。タクミは彼女のその顔を暫くジっと見ていた後、淡々と口を開いた。
「やめます」
「え?」
「私は心が欲しいですが、涙を流すほど心を希求しているわけではない」
タクミには蛍子の方が自分より心を持つに相応しい存在であるように思えた。ロボットではなく人間に心があるのは、とても適切な成り立ちなのではないかと感じ、今後の論考の参考にすることにした。
事態を飲み込めずにパチパチと瞬きを繰り返し、その度に目尻から心の雫を零している少女にタクミが言った。
「私も涙が溢れるぐらい心を求めるようになったら、その時に頂きます。それまではあなたに貸しておきますよ」
【タクミ前回登場回】
桃園の誓いに立ち会う―http://ncode.syosetu.com/n4182bz/