ワンピースを着た幼い少女が、修一の手を握っている。
その日焼けした手は軟らかく、温もりが全身を侵食していく。
少女の名は里美。今年、七つになるという。団地の一角にできた、お好み焼き屋の女主人、夏子の娘である。
修一はその日、久しぶりの休日だった。特に予定もなく、ついさっきまで夏子の店で瓶ビールを飲みながら、テーブル席で本を読んでいた。
店内で騒ぐ里美に業を煮やした夏子が、 娘を連れて一時間ほど散歩に出てきて欲しいと頼んだのは昼過ぎのことだ。言い換えれば、子守役を引き受けたみたいなものだった。暇を持て余している修一にとって、格別断る理由もなかった。 少女と手を繋ぎ、散歩に出かけていた。
夏の日差しは厳しく、蒸し暑さに息苦しくなる。
若葉が生命力溢れる緑色を誇示し、街角には向日葵の花が咲いていた。
近くのスーパーの前、ホースでまかれる水は虹を作り、少女の夏休みの僅かな一時を輝かせている。日傘を差しながら歩く老婆は、きれいに毛並みがセットされた白い犬を連れていた。夏になったのだなと思う。最近、修一は太陽の光を浴びていない気がした。ここ数か月、仕事漬けの毎日が続き、出退勤を除くとほとんど会社から出ることはなかった。
少女はしばらく黙ったまま歩いていた。何か考え込んでいるようにも見えた。ピンクのワンピースからは、日に焼けた黒い手足が出ている。
「ねえ、ポケモン、何が好き?」
笑顔一杯に、里美は聞いた。ポケモンとはアニメとして、子供達に絶大な人気を誇っていることぐらいは、修一にも分かる。
以前付き合っていたら彼女と結婚していたら、この子と同じくらいの子供がいてもおかしくないと思う。泣きながら部屋を出て行った当時の彼女の顔が浮かぶ。今となっては過去の話だ。最近気になりだした下腹と、細くなる髪の毛……。 来年には三十五歳、四捨五入すればもう四十になる。
「……ピカチュウかな」
知っているのはこれしかなかった。しばらく悩んだふりをした後、大げさに答えた。少女は笑顔で修一の顔を見つめる。彼女は小学一年生のわりには背が高い。見ようによっては小学三、四年生に見えてもおかしくない。それにしてもよく焼けていると思う。目元は似てなくもないが、母親とは随分違う。
「わたしはねー。いっぱいあるの」
少女は修一の知らない言葉を次々と出していく。知っている名前はない。
「すごいね」というと、繋いでいる手を嬉しそうに前後にふった。子供と手を繋ぐのは何年ぶりのことだろう。
アスファルトからの照り返しは、肌を刺激する。老婆とあった後、人影を見かけることはまるで無かった。日射病にでもなりそうな暑さだ。これでは誰も部屋から出たがろうとしないはずだと思う。帽子をもって来るべきだったと少し後悔した。
「ねえ、ラブアンドベリーは何が好き……?」
修一は首を横に振った。
少女は
「だめねー」というと、頬を膨らませた。
しばらくすると、小さな噴水のある公園に辿り着いた。すぐに里美は裸足となり、水遊びを始めた。太陽は輝き、しぶきは宝石のようにきらめき続ける。少女の顔に滴がつくたび、小さな手が動いた。噴水が動き出す毎に、歓声は上がった。
修一の会社に苦情の電話が殺到したのは一か月ほど前だった。
発端は、上層部が経費削減のためということで、賞味期限を誤魔化したことが、雑誌に取り上げられたことによる。緊急対策として、修一の部署がクレーム処理にあたっていた。最大手の食品メーカーの他社が集団食中毒を犯し、責任追及されていた余波のようなものだった。
クレーム処理に対する騒ぎは、三週間もすると収束を迎えた。謝罪広告の効果と、問題を起こした他社と比べると、対応が素早かったことが、評価に転じたこともある。
連日の電話対応にストレスが溜まっていたのかもしれない。修一はその日、夏子の店でいつになく飲み過ぎた。気がつくと、客はすでに一人もおらず、看板の灯りも消えていた。どうやら、カウンターで眠っていたようだった。
「酔っ払いさん、閉店ですよ」
修一は差し出された水を飲んで、頭をふった。
夏子の吸い込むような瞳に心が奪われていくのが分かった。黒く澄んだその中には自分の姿が映っている。修一の中にためらいの気持ちが浮かんでは消えた。
口づけすると、柔らかい舌の感触に意識が遠のいていった。凍てついた心が解けていく気がした。修一は自然と彼女の肩へ手を回していた。
「ねぇ、こっち」
夏子は彼の手を掴んだ。つめたく、少し硬い手の感触がした。彼女は彼の手を引いたまま、扉を開け、奥にある階段を上っていった。振りかえると彼の口に人差し指を当てた。ドアを開けると、赤いランドセルが見えた。
唇を重ねたまま、互いの服を脱がし合った。彼女の鼻息がかかる。ブラジャーを外すと夏子の綺麗な白い乳房が現れた。腕には長方形型のタトゥが入っている。
彼女は修一のベルトを外していく。
夏子は人差し指を軽くくわえたままで声を抑えようとするが、時折洩れた。この扉の向こうに娘が寝ている気がした。隣の部屋を気にする素振りから伝わってくる。体温を感じた。包み込まれている包容力とその束縛に抵抗する感情が揺れ動いた。激しく体のぶつかりあう音がただ部屋に響いた。
ことが終わると、夏子はしばらく目を閉じていた。
「夫がいるのよ……別居中だけど」
夏子は耳もとで囁いた。右手は修一の胸の上に置かれている。腕に描かれたタトゥの文字が浮きあがって見えた。脱力感が体中に廻っているのが分かる。
彼はただ天井を見つめていた。
一度も店主の顔を見ていない。夏子が一人で切り盛りしているのだとばかり思っていた。
「気に入らないことがあると暴れるの。見て、これ」
彼女は右腕を見つめた。たわわな乳房が修一の前に近付く。腕には一円玉大の白い痕があった。
「いつもは普通の人。大人しくて、真面目で、お酒もあまり飲まないわ。でも、突然暴れ出すの。これ、グラスを投げつけられた時の痕よ」
彼女は嘲るような仕草をした。
「感情が収まると、泣きだすの。『ごめん。許してくれ。どうかしていたんだ。オレを許してくれ』って言いながら……。いい大人がよくそんなことが出来ると思うわ」
修一は彼女が何故こんな話をするのか分からなかった。ただ煩わしかった。アルコールの心地良さと女性を抱いた後の倦怠感にただ浸っていたかった。
「最初は子供を生んだら戻るつもりだったの……。でも、何かがぷつって切れた音が聞こえたの。それ以来、夫の元には戻っていないわ……」
噴水で遊ぶのに飽きた少女は、公園内の遊具から遊具へ、住みかを探すヤドカリのように動き回っていた。一つ一つ感触を確かめながら、次々と遊具を移動している。小さな滑り台に張られた鉄板が白く輝いていた。噴水は決まった水量を流し続けている。激しく吹き出すことは無い。
修一はベンチの上で少女を見守っていたが、いつの間にか考え込んでいたようだった。近くで声が聞こえた時は、少しだけ驚いた。
「どうしたの」
里美の声が突然、耳に入った。近くのブランコで遊んでいた里美がこっちを見ている。日差しは眩しく、体を突き刺す。
「そろそろ、お店に戻ろうか」
修一の言葉に少女は首を横に振る。
「もうちょっと……散歩」
二人は再び歩き出した。少女のサンダルがねずみの鳴き声のような音を立てる。互いに手を握ったまま、大通りを抜けていった。
「道がわかんなくなったらどうしようか? おじさん、道に迷って、泣くかもしれないよ。『えーん。えーん』って」
狭い町内で道に迷うはずはなかった。心の隅で少女が帰りたくなることを期待したのかもしれない。修一は両手を目の近くに寄せ、子どもが泣く仕草のまねをした。
「大丈夫だもん」
里美はじっと修一の仕草を見た後、頬を膨らまし、大声を上げた。
「それって、ただのエロじじいでしょう!」
少女は勝ち誇ったように、鼻の穴を広げている。多く言葉を知らない少女が知っている変な大人の総称だと分かるまで、しばらく間があった。
――エロじじい。
そうなのかもしれない。夏子の悲しみも考えようとしない、いい加減な性格の自分にとって相応しい言葉のような気がした。子供と二人きりの店で
「エロじじい」と投げ捨てるようにつぶやいている彼女の姿が浮かんだ。娘はその言葉を、訳もわからぬまま心に刻んでいる。
彼女はまだ店でお客の注文に追われているのだろうか。腕に刻まれた傷痕と、白い裸体の残像が浮かんで消えた。彼女との関係は今後どうなるのだろうと自分自身に問いかける。……赤いランドセル。
修一は殴られ続ける彼女の姿を考えた。ひたすら夫の暴力に耐えている光景だ。その一方で、全ては彼女の作り話なのではないかと思う自分もいた。
「こっち、ねぇ、こっち」
少女はしきりに修一の手を引っ張る。日差しに目の奥が痛んだ。横断歩道が近付く。信号が青色に変ると、機械音が流れ出した。……『とおりゃんせ』。
「ねぇ、もっと早く」
小麦色の小さな腕が、獲物のかかった釣竿のようにしきりに動いた。
横断歩道の中程を過ぎると、信号の青いランプが点滅を始めた。
……修一はただ、少女に導かれていった。
( 了 )
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