変温動物の妹
我が家には、妹が一人棲んでいる。
一般的に妹とは、ヒト科に属する比較的小型の脊椎動物の一種で、兄の棲む家に棲息し、世界各地に分布している、雌しか存在しない、ごくありきたりな生き物だ。
本来なら、妹は決して珍しい生き物ではない。
だが、我が家の妹は少し例外的に変わっていた。我が家の妹は、体温が外気温によって著しく変動する性質を持つ――妹の癖に変温動物だったのだ。
一般的に妹は、恒温動物と相場が決まっている。常に体温を一定に保ち、寒かろうが暑かろうが、意識が有る限り身体を自由に動かせる。
だが、うちの妹――十和子は、体温調節機能が存在しない。
自力で体温を上げる能力に乏しく、それを一定で維持する機能も持ち得ない。
だから、十和子は夜が明けると起き出して、屋根に寝そべり、ひなたぼっこをして体温を上げる。
明け方、早くに目を覚まし、ふと窓の外を見ると、ぼさぼさ頭でパジャマ姿の、十和子が屋根に登って、ひなたぼっこをしている場面に遭遇する事が、稀にある。
その時、絶対に十和子を視界の中心に捕らえてはいけない。
真っ正面からジロジロ見たら、十和子は無言で、目に向かって毒液を吐いてくる。
羞恥なのか、照れ隠しなのか、あるいは本能的な行動なのかは分からないが、妹の毒は強力な出血毒であり、神経毒だ。目に入ると普通に失明するし、最悪、呼吸困難で死亡する事もある。
だから、妹がひなたぼっこをしている場面に出くわしたら、ジロジロ見ずに、見てないそぶりで脇を通り抜けるのが、デキる兄の振る舞いと言えるだろう。
そうやって。
ひなたぼっこをして十分に身体を温めると、十和子は屋根から降りてくる。
「おにーちゃん、おっはよー!」
下に降りてくるとき、十和子は綺麗に寝押しのされた中学校の制服を纏って、俺に躍り掛かってくる。ぼさぼさだった髪もしっかりとセットされ、指先は紅に染まっているが、それはマニキュアではなく、爪から分泌された神経毒で、俺を麻痺させようという魂胆だ。十和子の狙いは、露出した俺の頸動脈。
そこに向かって、妹の毒爪が弧を描く。
だが、十和子の毒爪は届かなかった。
なぜなら――。
十和子の目論見など、長年兄をしている俺にはお見通し。だから、俺が十和子の手首をねじり上げて毒爪を無力化してやると、妹は激痛で泡を吹く。そうして無力化した十和子に、俺はおはようのハグをしてやる。
「おはよう、十和子。今日もお日様の匂いがするな」
「え、えへへー」
脂汗を滲ませながら、十和子は可愛らしい妹の顔で笑う。
すると、そんな命のやり取りを見ていた母が、声をかける。
「あらあら、二人とも今日も仲良しね。でも、早くご飯を食べないと学校に遅刻するわよ」
「マジだ。急ぐぞ十和子!」
「ま、まってよ、おにーちゃん!」
きつね色に焼かれたトーストを一枚加えて、俺は急いで家を出た。すると、手首を再生させながら、十和子も俺に付いてくる。
出る時に、ちらりと時計を見る。時刻は危険水域に突入していた。俺達はバス通学をしているから、いつものバスに間に合わせるためには、全力疾走をしなければ間に合わない。
けれど、十和子は変温動物だ。
バス停に向かって全力疾走をすると、体温を一定に保てない。体温が上がりすぎてオーバーヒートを起こしてしまう。
変温する生き物ということは、体温が際限なく下がるだけでなく、上がる方も際限が無い。そして、生き物は体温が低くなりすぎれば、仮死状態や冬眠状態になるだけだが、体温が上がりすぎると死亡する。
変温動物にとって、最も恐ろしいのは生き物としてのオーバーヒート、つまりは熱中症。気を付けないと、変温動物の妹は、少し走っただけで熱暴走の果てに死んでしまう。
「きゅ、きゅうううっ」
変な声を出して、十和子は走りながらぶっ倒れた。
「十和子!」
俺は、叫び声を上げなら、十和子に向かって駆け寄った。
すると十和子は「だ、大丈夫だよ。私なら……」と、健気な事を言いながら、蛇がとぐろを巻くように、うずくまる。
力を溜めているんだ。
近づいたら、解放されるスプリングのように飛び上がって、俺に襲いかかろうとしている。妹が倒れたのだから、兄は、きっと油断をしているに違いない。十和子はとても賢い子だから、その辺りをよく理解している。
こうして、ピンチをチャンスに変えてくる。
「やるな、十和子」
俺は、小さく呟いた。
今、妹に近づけば、間違いなく襲われる。
「十和子」
「お、おにーちゃん」
「その手は食わない」
警戒されていると認識した瞬間、十和子は俺に飛び掛かってきた。
だが、その行動は予測済みで、俺は水の入ったペットボトルを妹に対して投げつけていた。爪によって、空中で両断されるペットボトル。飛び散る水。それは、十和子の身体をよく濡らし、火照った身体をよく冷やす。
「これで少しは冷えたな」
「うん。ありがとう、おにーちゃん!」
十和子は礼を言いながら、俺の目に向かって毒液を吐く。俺はそれをヘッドスリップで回避すると、俺の後ろを歩いていたサラリーマンが悲鳴を上げた。
「じゃ、行くぞ。早くしないとバスが行っちまう」
「うん!」
俺達はバス停に急ぐ。
道の脇では、毒液を浴びたサラリーマンが、顔面を押さえながらもがき苦しんでいた。
「みんな、よくあんなにご飯が食べられるね」
「十和子が食べなさ過ぎるだけだ」
「そうかな」
「そうだよ」
「……そうなんだ」
昼休み、学校の屋上で、俺は十和子とそんな話をした。
あの後。
無事にバスに間に合って、俺達は遅刻せずに学校に辿り着いた。学年が別なので、俺は十和子と別れ、つつがなく午前中の授業を終える。
真面目に先生の話を聞き、真面目に学生生活を送る。
あまり、声高に話すような事でもないが、俺は真面目君で通っているので、その日常は常に平穏そのものである。
何か問題が起こる方が稀なのだ。
「十和子、今日は何かあったか?」
「何にもないよー」
一方、十和子も風紀委員をするぐらいに真面目な娘なので、変温動物という特異な部分を除けば、何か問題を起こすような子でもない。
だから、いつも平穏無事な日常の中、俺達は和やかに屋上で昼食を食べる。
「けど、本当に、おにーちゃんもみんなも、よくそんなにご飯を食べるよねぇ」
最も、十和子は殆ど食事をしない。
変温動物という生き物は、とても燃費が良い生き物だからだ。
「おにーちゃん。毎日、ご飯を食べるのって疲れない?」
だから、十和子は恒温動物である俺に対して、同じ質問を繰り返す。彼女から見れば、毎日三食食べるというのは、実にしんどい光景なのだろう。
「別に、飯を食べて疲れるってのはないな」
「そうなんだ。私なんて、昨日の夜に食べた卵で、今でもお腹がいっぱいだよ」
「まだ、消化していないのか」
「うん。消化はゆっくりとだからねー」
十和子は、卵が大好きだ。
普段は、一週間に一度ぐらいしか食事をしないが、食べる時は卵ばかり三つも四つも、殻ごと丸呑みにする。
「お腹の中にねー。ごろんって入ってくるの。歩くとごろごろ中で転がるの。それがね、なんだか面白いんだ」
勿論、殻を割らずに丸ごと食べたら、消化する事も出来ないし、栄養にもならない。だから、たっぷりと腹の中で転がる感触を確かめたら、十和子は木の上に登って、そこから飛び降りる。その衝撃で、身体の中にある卵を割る。
こうすると、殻が割れて、栄養が取り込めるのだ。
少し乱暴だな、と思わないでもない。だが、他にどうしろと言われれば、卵を割るしか無いわけで、だったら、十和子のような方法もありのような気もしてくる。
勿論、最初から割った卵を食べろという意見はあるし、それは俺もずっと言い続けている事だが、ずっと聞いてくれないのであまり意味が無い。
基本的に、俺は十和子に甘い。
だから、いつも、最終的には十和子の好きにさせている。
「おにーちゃんは、なに食べてるの?」
「焼きそばパンだな」
「見せて見せてー」
何で見たいのかよく分からないが、見たいというのなら見せてやるのが兄の勤めだ。俺は十和子に焼きそばパンを見せてやろうとする。
すると、焼きそばパンによって生じた間隙に、十和子が身体を忍び込ませた。俺と十和子の間に存在する焼きそばパンという死角。そこに潜り込んだ十和子は、隙を突いて、俺の身体に絡みつく。
「焼きそばパンって、全部炭水化物だよねー」
気が付けば、十和子は俺の背後を取っていた。首の周りに腕を回し、チョークスリーパーの要領で、俺を絞め殺そうとしている。
「そうだな。ジャンクだな」
俺は、そう言いながら、肘鉄で十和子の腹を全力で突いた。
肘に何かが割れる感触が伝わる。
きっと、十和子の飲み込んだ卵だろう。図らずも、俺は十和子の食事の手伝いをしてしまったようだ。
黄緑色の液体をまき散らしながら、十和子が転げ回って、絶叫する。その液体は間違いなく毒であるから、俺はそれを裂けつつ、距離を取った。毒を浴びたコンクリートが、しゅうしゅうと白い煙を上げる。
そこで初めて――。
俺は十和子が、腐食性の毒も分泌できる事を知った。
実の妹なのに、俺はまだまだ十和子の事をよく知らないのだなぁ。本当に、女の兄妹というヤツは、近くて遠い存在だ。
それを改めて実感していると、昼休みの終了を告げるチャイムが鳴る。
「十和子。俺は先に行くが遅れるんじゃないぞ」
そう言いながら、俺は残りの焼きそばパンを食べようとし、それが十和子の毒塗れになっているのを確認して、袋に戻した。
「十和子」
「なぁに?」
「お前さ、友達と遊びに行ったりとかしかいのか?」
「んー」
家に帰って、二人で再放送のドラマをみながら、俺は十和子にそんな話を聞いた。
両親は共働きだから、家に帰ると、俺達は二人っきりだ。
勿論、どちらかが出かける事もあるし、友人が遊びに来ることもある。だから、いつも二人っきりという事はないが、最近は、なぜだか二人っきりになる機会が多い。
だから、聞いてみたのだが、いつもはハキハキ喋る十和子の口が、途端に重くなった。
「……何か、兄ちゃんに言いづらい事でもあるのか」
「んー」
あまりに難しそうな顔をしているから、俺は十和子の頭を撫でてやろうとした。だが、絶対に一度は噛み付いてくるだろうと、フェイントを交えつつ、手を頭に近づけたのだが、十和子はなにも反応せず、普通に頭を撫でる事が出来た。
これは、少し重傷だ。
「十和子!」
「うん……
少し強く言うと、十和子は友達との間に起った悲しい出来事を話してくれた。
「……私の親友にね。美子って子が居るんだけど」
「ああ、その子なら俺も知っている。利発そうな良い子だったな」
「うん。その子のお母さんがね」
「母親が?」
「……へ、変温動物で、ど、毒を吐くような子は、危険だから付き合っちゃいけませんって……そう、美子に言ったんだって……」
十和子の告白を聞いて、俺は言葉を失った。
うちの妹は、確かに世間一般の人間と同じ、恒温動物ではなく変温動物だ。自分で体温調節する事が出来ず、外気によって自身の体温が大きく変動する難儀な性質を持つ妹だ。その上、なぜか毒も使う。
けど、たったそれだけの理由で、友人同士を引き離すなど、絶対に許容できることではない。
俺は憤激に任せて、立ち上がった。
「お、おにーちゃん。ど、何処に行くの!?」
「直談判だ! 十和子は変温動物で、どれだけ迷惑かけた! 毒を吐いて、誰が傷ついた! 人の妹の身体的特徴をあげつらって、友情を切り裂きやがって…………そんな事、絶対に許せるわけないだろうが!」
「だ、駄目だよ。そんな事をしたら、美子に迷惑が掛かっちゃう!」
十和子は、そう言いながら俺に襲いかかった。
それを返り討ちにして、倒れた十和子をソファに縛り付けながら、俺は涙ながらに叫ぶ。
「だったら、十和子は!!」
「いーんだよ。だって、私は恒温動物じゃ無いんだから……」
俺に拘束されながら、どこか諦めた顔で十和子は呟いた。
そして、気温の低くなる夜が訪れる。
夜になると、十和子の動きは目に見えて鈍くなる。変温動物は、外気の影響を受けやすい。暖かければ活発になって、寒くなれば動かなくなる。
冬が来れば、冬眠し、春が来れば目を覚ます。
そんな、自然に忠実な生き物だ。
だから、十和子は夜になると、あまり動かなくなる。
それを見越して、十和子は日の出ている内にすべき事は済ませてある。学校の宿題は、とっくに終わらせているし、予習だって完璧だ。明日の用意も万全で、制服だってちゃんとベッドの下に敷いて、寝押しの準備もしてある。
「十和子。そろそろ寝るか」
「んー」
十和子の準備は、完璧だ。
たった一つ。
布団に入るという〆を除けば。
逆に言えば、十和子はどれだけ完璧に全てを準備しても、それだけは備えない。体温が下がりきる前に寝床に入っていれば、そのまま眠れるのに、絶対にそうしない。
だから、十和子を寝かせるのは、いつも俺の仕事になる。
「行くぞ、十和子」
「んー」
口を開けるのも面倒臭い。
そんな調子で十和子は返事をする。
こうなったら、もう十和子は動かない。俺が無警戒に抱き上げても、攻撃行動を一切取らない。動く気なんて欠片も無い。
だから、俺はベッドに寝かすまでの僅かな間、十和子を存分に可愛がりながら、寝室に向かう。抱っこをしながら頭を撫でて、普段ならできない愛情表現をたくさんしてやる。そうしていると、部屋に付く。
ベッドに寝かせて、おでこにおやすみのキスをして、電気を消したら、俺の至福の時間は終わりを告げる。口におやすみのキスをしないのは、勝手にファーストキスを奪わないというエチケットと、十和子の口は毒の宝石箱だから。
そうして、部屋を出ようとしたとき、暗闇の中から声がした。
「おにーちゃん、大好きだよ。食べちゃいたいぐらいに……」
俺は妹を、とても深く愛している。
けれど、変温動物な妹の愛は、俺よりもずっと、重いようだ――。