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向日葵
作:蒼乃雪花


部屋に差し込む強い夏の日差しと、中庭をはしゃいで駆け回る子供達の甲高い声はあまりにも生命力に満ち溢れていて、ともすれば彼女の儚い灯をけしてしまうのではないかという危惧すら覚えさせ、僕は無言で白いブラインドを下ろした。
 ベットに半身だけ起こしてその様を見ていた彼女が、さもおかしそうに喉に声を詰まらせて笑う。黒目がちな大きな瞳は、僕の心の深淵までも見透かしているようだった。
「今日はシゴト?あ、でもこの時間ってことは、バイトの前か」
「そう、これからバイトだよ」
「じゃあ、夜は来られないね」
 彼女の顔は沈んではいなくて、それどころか、いくばかりか安心しているかのようで、僕の心がしくりと痛む。
「明日は早く来るよ」
「朝じゃなくてもいいよ。だってバイトの日は帰るのが遅いでしょ」
「でも―――早くに来るよ」
 夜半過ぎに戻る自宅は闇に沈んでいて、ひどく冷たい。一分でも、一秒でも早く彼女の顔を、ゆきの顔を見たくて、堪らなくなるのだ。
 蛍光灯の人工的な白い光を浴びて煌く彼女の薬指の指輪は、目立った傷も曇りも無く、新品同様だった。それもそのはずで、僕と雪はほんの二ヶ月前に郊外の小さな教会で、二人きりでその指輪を交換したばかりなのだから。
 生活が定着する前に、余儀なく入院生活を強いられることとなったせいで、家には雪の気配が感じられるものがまだ少ない。雪と僕の関係を証明するものは、ありふれたデザインの無名ブランドのちっぽけな指輪、ただ一つだ。
「もう行くよ。また明日くる」
「うん、また明日ね」
 いつか――――そう遠くないいつか、「また明日」なんて気軽に約束できない日が、やってくる。


 茜色に染まる空と、柔らかなオレンジ色の光に包まれた風景はどこか幻想的で、綺麗なのだけれど、同時に寂寥感を連れてくる。
 帰りを待ってくれる人がいれば、募らせた寂寥感の分、安らぎも愛おしさもひとしおで、雪がいるならば、夕焼けの空も悪くないと思ったこともある。
 
 でも今の僕には、この空は苦しすぎる。
 病院の無個性な窓から見上げる赤い空は、幻想的どころか不気味にさえ思え、不安に胸が押しつぶされそうだ。

 一週間前から、雪の様子がよくない。


 痩せて一回り小さくなったような雪は、ベットに横になり、僕の姿を視界に捉えると優しく微笑む。
 傍らでやり取りするのはとりとめない会話で、僕たちは現実逃避をする。
 胸の中に膨れ上がるのは、自己嫌悪と、焦燥感と、彼女を失う恐怖と辛さ。
 何度も押し戻しても、腹の底から突き上げてくる行き場のない思いは、何も知らない雪の前で涙を流すまいという決意や、僕の意思なんてものをいとも簡単に流してしまう。
 喉を詰まらせて涙を零した僕に向かって、雪は驚きもせずに観音様のように穏やかに微笑んだ。

「創太より長く生きられなくて、ごめんね」

 僕は雪よりも七つも年上で、僕達は結婚したばかりで、やりきれない気持ちは雪の方がよっぽど大きいはずで――――。
 それでも雪は、僕には恨み言一つ言わず、涙も見せず、いつも優しく微笑んだ。
 自己嫌悪の極地だ。


 雪の部屋に入れなくなったのは、それからすぐのこと。
 身よりのなかった僕達は、お互いの存在が全てだったはずなのに、雪は僕を病室に入ることを拒否するようになった。
 限られた時間を、彼女の病室の前に屈みこんで、壁一つ隔てて雪と過ごす。
 それでも同じ空の下で、同じ世界で雪が存在しているという事実だけで心はまだ救われる。




 暗雲が立ちこめる昼下がり、雪の部屋の前まで来て、僕は立ち竦んだ。
「奥さんの容態が悪化しました。こちらでお待ち下さい」
 
 手にしていた向日葵が、ぽとり、と落ちた。
 
 慌ただしく行き来を繰り返す医師と看護士と、次々と運び込まれる機材と、器具。
 目の前の光景は本当に現実感がなくて、ドラマのワンシーンに自分が紛れこんでしまったようだった。
 何人もの人が僕の前を行ったり来たりして、一体どれほどの時間がすぎたのかわからない。
 背の高い痩せた看護婦が目の前にぬっと現れて、僕は病室に招き入れられた。

 慌ただしく動いていた人も、ものも、怖いくらいに静止していた。
 何の器具も管もつけられていない雪が、静かにベットに横たわっている。
 髪にも肌にも艶はなく、唇は色を失っていた。
 ただ一つ、黒い瞳だけは変わらずに真っ直ぐに僕を見詰めていた。

「会いた、かった」
 僕を拒絶していたのは、雪の方なのに―――?

「創太の、なみ、だ、見るの…が、辛くて、会え、なかった…」
 雪の眦から涙が伝わって、枕に染みを作る。

 思考回路が、完全に麻痺していた。
 地面を叩く雨音だけが、やけに大きく耳に響く。
 
 雪が大きく息を吸いこんだ。


 「私と出会ってくれて、ありがとう」


 言葉の片鱗が宙を舞って、意味がわからない。
 
 ただ一つ。


 僕は涙を零さなかった。

 
 彼女がその時浮かべた笑みは、本当に幸せそうで極上だった。










◇◇◇

 夏の日差しはあまりにも強すぎて、狂ったように泣き続ける蝉の声と、太陽に向かって咲き誇る向日葵たちはこれみよがしで、癪に障る。
 風のない、紺碧の空に真っ直ぐに立ち昇るのは一筋の白い煙。

 三十歳、画家志望、定職無し。
 僕の社会的身分にはかわりなく、相も変わらずうだつの上がらない男だ。
 陽光を浴びて煌くのは、ありきたりなデザインのプラチナの指輪。

 ―――――私と出会ってくれてありがとう



 今、僕は、何でもできる気がしている。
















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