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人間兵器
作:蒼乃雪花



エピローグ


 午後の柔らかな陽のひかりを浴びて、わずかな残雪がきらきらときらめいている。
 幹と枝だけの大樹にもよく見れば、ふくらみはじめた新芽がびっしりとつき、残雪の合間からはまだ小さなふきのとうが覗いている。
 凛はしばし窓の縁に両手をかけて、山間に訪れはじめた春の気配に見とれた。春という季節があることさえ、長く忘れていたような気がした。
「よう、お疲れさん」
 所定の場所以外では禁煙の館内を、堂々とくわえ煙草で歩くのは、一人しかいない。くたくたの白衣と、無精ひげがトレードマークのその男を目の前にして、凛は苦笑してみせた。
「最上総司令官殿に、報告は無事終わったのか?」
 凛と並んで歩きはじめた需は茶化すように言った。
「総司令官殿は大層ご満悦よ。まあ、事態さえ収束してしまえば経過なんて大して興味はないんでしょうけれど、形式上ね」
「ま、そりゃそうだな」
 差し出された報告書を受け取ろうとして、需は固まった。
「ああ、ごめんね。見苦しい?」
「いや。そんなことはないが―――――」
 需の視線は報告書を持った、凛の左手に釘付けだった。長い間陽に当たっていなかったそれは血管が透けて見えるほど白く、華奢だった。いびつな形をした指や手の甲はむごたらしいほどの古い傷跡に埋め尽くされ、その上に未だ治りきっていない真新しい傷がある。
「どういう風の吹き回しだ?」
 報告書を受け取りながらも、需の視線は露になっている凛の左手に注がれたままだった。
「別に、歪んだ指や傷痕が醜いからグローブをしていたわけじゃないのよ。ただ、自分の目に入らないようにしていただけ。見れば、要を思い出すから」
 需は胸のポケットから携帯灰皿を取り出して黙って煙草を消した。
「最近、要と一緒にいて幸せだったときのことはよく思い出せるようになったの。そうしたら、左手を見るのもそんなに辛くなくなったのよ」
 要が好きだった顔だろう、と需は思った。いつもは惚気ることなどない要が兄弟二人で飲んでいるときだけは、凛の笑った顔がいいのだと照れくさそうによく言っていた。あの一件が終わって、ファントムハウスに戻ってきた凛はよくこういう顔を見せる。
「藍はどうしている?」
「さあ」
「さあ? って、会ってないのか?」
「まだ屋上で空でも眺めているんじゃないかな」
 需が浮かべた笑みは哀しいとも、苦いとも表現できぬ複雑なものだった。
 凛から受け取った報告書にも記されているとおり、アラタに直接手を下したのは藍だった。一発目の弾丸は、わずかに急所を外したが致命傷を負わせ、二発目でとどめを刺した。
藍はまさに満身創痍で、ファントムハウスに帰還した。能力を完全開放した反動が治まらぬうちに激しい戦闘をし、左腕の皮膚を広範囲にわたって失っていた。それよりもなによりも、初めて人を殺めた。あの藍が、人の命を奪ったのだ。よほど堪えているように見えた。しかし、藍は半日ほど眠るとすぐに目を覚ました。
 凛が最後に藍に会ったのは、藍が目を覚ましたときだった。何も言わずに、左腕の怪我をヒーリングで治療した。触れた手のひらから伝わったであろう思いがなんなのかは、凛自身にもよくわからなかったが、藍は哀しげに笑って一言、「ありがとう」と言った。
「今日の夜あたり、覗いてみるわ」
「今月分の落世の申請書の締め切り、今週中までだからな。藍に、そう言っておいてくれ」
 凛はちょっと考えるような仕草をして、「分かったわ」と言うといつものように背筋を伸ばして歩いていった。
 春とはいえども、山間の夜の空気はまだ冷える。
 凛は薄手のニットの上にカシミアのストールを羽織り、手には色違いのストールをもって屋上に上がった。冷たい地面のうえに胡坐をかいて、満天の星空を仰ぐ青年に後ろから歩みよってそっとストールを肩にかける。
 振り向くまえからその存在に気づいていたかのように、自然な動作でそれを受け取った藍と並んで腰を下ろした。
「きれいね」
「よく、こうやって空を見ていた」
 藍が話しはじめたのは、未だSASとして認定を受ける前のことだった。星や月の光に照らされて藍色になった空が好きで、自分のコードネームに選んだ、という話だった。凛はそれを目を細めて聞いていた。とりとめもない話ばかりした。アラタの名はどちらの口からも出なかった。
 小一時間ほどそうしていた。会話はやがて途切れて、二人は黙ったまましばらく並んで空を見上げていた。
「あまりいると、冷えるわよ」
「そうだね」
 凛は藍の頬に右手を当てた。うっすらと傷跡の残った頬はすでに冷え切っていた。よほど長い時間いたのだろう。藍は目を閉じてそのままじっとしていた。凛はそっと手を離すと、立ち上がった。藍は立ち上がる素振りを見せなかった。
「需が落世の申請書今週中までだから伝えておいてくれって、言っていた」
「そうか、そうだな」
 どこか人ごとのような言い方だった。
 凛は数秒、虚空を見据えてから一つ息を吐いて踵を返した。その背中に、問いかけられた。
「凛さんがSASを続けるのは何のため?」
 凛は振り返った。黒い瞳がじっと向けられていた。
「大事なものは傷つけたくないし、もう二度と失いたくないから」
 藍の表情はわずかに動いた。
「じゃあ、あなたは?」
「え?」
「藍は、どうして落世するの?」
 まっすぐに返された問いに、藍は答えなかった。
 ファントムハウスは相変わらず建て直しに忙しかった。史上最悪の反逆は鎮圧されたものの、物質的、人的被害は甚大であり復興には長い時を必要としていた。
 需はもっぱら訓練生の育成と、滞っている任務の振り分けに忙殺されていた。
 難易度の高いものがいくつもあったが、それを担当し得る人材は圧倒的に不足していた。高クラスで実績のあるSASで任務に就いていないものは、今や凛と藍しか存在しないのだ。
「落世の申請書、凛さんは出ていないんですね」
 デスクの上に山積みになっている書類を整理していた白瀬が、ぽつりとそう言った。手には、締め切り間近に出された藍の申請書がある。需は渋い顔でパソコンの画面に視線を注いだままで、何も答えなかった。
「どうなっちゃうと思いますか? あの二人」
「そんなこと、俺は知らん」
 素早い手つきでキーボードを操りはじめた需を、白瀬は横目で睨んだ。
「所長は大事な人をご子息に取られて、妬いてるんですね」
「馬鹿言うな」
「だって」
 需はため息を一つついた。
「二人が一緒にいてくれれば、俺の肩の荷は一気になくなるようなもんだ。そうなってくれればいいと、俺は、思っている」
 需の視線はパソコンの画面から逸らされていない。
「でも、相手を大事に思えば思うほど、簡単には動けなくなるもんだ。あとは当人同士でどうにかするしかない」
 三月も残りわずかになったある日、需は藍を夕食に誘った。
 久しぶりに間近で目にした藍は、いくらか痩せていた。それでもやつれた、という印象はなかった。それどころか精悍さが増しているように見えた。
 話は、落世したあとのことばかりだった。半年ほど放置していたアパートも人をやって、すぐに住めるように手配し、働いていたレストランにも復帰できるように手続きは済んでいた。友人たちとの再会は間近だ。しかし、藍の顔は浮かばなかった。
「SASを続けてみたくなったのか?」
「そうじゃないよ」
「未曾有の人手不足だからな。大歓迎だぞ」
 藍は曖昧な笑みを浮かべ、箸で持ち上げていた菜の花のてんぷらを口に放り込むと、ゆっくりと噛んでそれから飲み込んだ。
「そうじゃないけど」
 横を向いた藍の顔は、ふっと迷子になった幼子のようになった。
「俺、どうして落世するのかな。訊かれたとき、答えられなかったんだ」
 需は「誰に」とは聞かなかった。ただ、黙って味噌汁をすすった。
 藍が出発する朝は、四年前とは大違いの雲ひとつない快晴だった。
 大して多くもない荷物を、需の愛車であるくたびれた白い国産車に積み終えた藍に需が声をかけた。
「忘れものはないのか?」
「ちょっと待って」
 そう言って藍は出てきたばかりのファントムハウスに戻っていった。
 朝日が差し込む道場では、柔道着姿の凛が背筋をぴんと伸ばして一人、黙想していた。
藍は入り口に立ち尽くしたままその凛とした美しい姿にただ、見惚れた。
 凛が目を開ける。
 黒曜石のようにきらめく瞳が藍の姿を捉えた。
「答えがようやく分かった」
「答え?」
「前に、俺に聞いたでしょう。落世するのは何のためかって、それが分かったんだ」
凛は黙って見つめ返した。
「俺が落世するのは、自分の存在意義を自分で作るため」
声が澄んだ朝の空気で満ちた道場に響いた。
「人間らしく生きるために、落世して自分が生きる道を自分で選んでいくんだ。だから、だから――――一緒に来て欲しい」
藍は澄み切った夜空のような瞳をまっすぐに向けていた。陽光を受けて、両耳の三つのピアスがきらめいている。
「私ほど人に恨まれている女はいない。落世すればどこまでも刺客に追われるわ、あなたをその巻き添えにはしたくない」
「刺客が諦めるまで戦えばいい。俺があなたを守るよ」
「人を傷つけるのは、嫌でしょう?」
「アラタを殺したことは、後悔していないよ。自分と、大事な人のためなら何かを傷つけるのも仕方がない。俺は聖人ではないし、なる必要もないから」
「私は、要を忘れることは一生できない。自分の手で、骨も残さずに消してしまったあの人を忘れることは、できない」
「忘れる必要なんてない」
 俯いていた凛が、弾かれたように顔を上げた。
「雨の日に哀しい記憶に苦しむなら、俺も一緒に苦しむよ。幸せだったときを思い返して幸せになれるなら、俺もそう思える。ただ、あるがままで側にいてくれれば、それだけでいいんだ。それだけで、俺は強く、人間らしくなれる」
「本当に私でいいの?」
「凛さんじゃないと、駄目なんだ」
「一つだけ約束して」
「絶対に、あなたより先には死なないよ」
藍が見せた笑みは極上で、この顔を一生忘れないだろう、と凛は思った。
 ボンネットに腰をかけて、紫煙をくゆらせていた萩理需はファントムハウスの入り口から駆けてきた二つの人影に、目を細めた。
「ずいぶんと、でかい忘れものだなあ」
 上手くもなんともない冗談だった。しかし、二人は弾けるような笑みを見せた。
 晴れ渡った空はどこまでも青く、太陽は優しい光を惜しみなく大地に注ぐ。
 春はまだ、訪れたばかりだった。

                                         了


最後までお読み頂いた方々、本当にありがとうございました。
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近く、番外編を2話UPしますので、そちらも覗いていただけると嬉しいです。













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