最終決戦・10
アラタが伸ばした右手は、これ以上ないほどに鮮やかに凛に左手で受け流された。凛の足払いの反撃は呆れるほど素早かったが、アラタはそのまま逆らわずに足を払われ、宙で一転して体勢を立て直した。
彼女の動きそのものは以前にも増して俊敏だった。ただ、以前にはあったものが、今は感じられない、とアラタは思っていた。
背筋がゾクゾクするような感覚がない。命のやり取りをしているような緊迫感が全くないのだ。
「おい」
十分な間合いをとったアラタが、しびれを切らしたように言った。
「アンタは俺を殺しにきたんだろう」
「そうよ」
「その程度で俺を仕留められると思っているのか?」
凛はただじっと、アラタのオッドアイを見つめているだけだ。
「俺は、命のやり取りがしたいんだ。生きるか死ぬかの勝負がしたい」
凛がわらった。氷の美女らしからぬ、見る人によっては大層哀しげに映るだろうその笑みが、アラタには余裕の笑みのように見えて妙に癪に障った。
口を開きかけたとき、アラタは今までなかった気配を感じた。神経を研ぎ澄ますまでもなく、その正体はすぐに確信した。
「殺気のないアンタよりは、よほどあいつの方が手ごたえありそうだ」
アラタは凛の肩越しに、誰のものとも似ない、独特の空気を纏ったその人物を見ていた。少なくともアラタにはそう感じた。
「藍……」
振り返った凛が呟いた瞬間、彼女のポーカーフェイスは、崩れていた。いろいろな感情を混ぜて、こねくり回したようななんとも複雑な表情で立ち尽くす。アラタはそれを意外そうに見遣ったが、次には歪んだ笑みを口元に刻んだ。
「やつから先に始末してやろう」
凛の背筋が凍った。
アラタが風のように凛の脇を駆け抜けて、あっというまに藍との距離を縮める。凛は咄嗟に動くことさえもできない。
繰り出されたアラタの右の拳を、藍が体を捻って避ける。
まさに間一髪のところで回避したその動きに、凛は愕然とした。相手がアラタといえでも平素の比べて藍の反応は遅く、動きが鈍い。能力を開放した後遺症としか思えなかった。
彼らの一挙一動が、凛の目にはスローモーションのように映っていた。助けなければ、と思うのに足を動かすことはおろか、声を出すことすらできない。ただ、自分の心臓の鼓動だけがいやに耳につく。
藍が体勢を立て直すまえに繰り出された二撃目は、わずかに藍のコートの袖に触れた。
凛の心臓が跳ね上がる。
完全に体勢を崩した状態に襲った三撃目は、もろに藍を捉えようとしていた。
「藍――――― !」
凛の絶叫とほとんど同時に、藍は自分の体を庇うようにして左腕を滑り込ませた。
アラタの右手が藍の左腕をつかむ。掴んだ瞬間に、アラタは気がついた。いつの間に抜いたのか、藍が右手で構えたシグザウアーP226の銃口はアラタの眉間にぴたりと定められていたのだ。
「!」
アラタが咄嗟に飛び退く。
藍は完全にアラタを捉えていた。トリガーにかけられた人差し指に一瞬ぐっと力がこめられて、震える。凛は息を呑んだ。
しかし、藍の指はそれ以上動かなかった。
「肉を斬らせて骨を断つってやつか。惜しかったなあ」
弾かれたようにして大きく跳び退ったアラタは、片足で軽やかに着地すると両手をひらひらさせておかしそうに笑った。
ようやく金縛りが解けた凛はアラタには目もくれず、藍のもとへ走った。
「見せて」
駆け寄ってきた凛がひったくるようにして、藍の腕を、右手で掴んだ。
アラタが藍の腕に触れたのは、数秒だっただろう。しかし、その一瞬でコートやニットは無論のこと、表面の皮膚までもが火傷を負ったように溶け、剥き出しになった肉がぬらぬらと光っている。
「こんなことは止めて。お願い」
空気に触れるだけでかなり傷むだろう、ひどい傷だった。しかし、藍は一向に気にしたふうではない。それどころか、放心しているかのようだった。
「藍?」
「ああ、ごめんなさい。左手と引き換えにやろうと思ったんだけど、失敗した」
藍はようやく凛の異変に気がついた。
凛の色を失った唇はわななき、息が上がりはじめていた。彼女の心の乱れをそのまま表したように、左腕に添えられた彼女の右手からはなかなかヒーリングの力が発動されない。
小刻みに震える凛の右手に藍は自分の右手を重ね、やんわりと凛の華奢な手を退けた。蒼ざめた顔のまま凛が見上げる。
「使わなくてもいいよ」
「どうして、ひどい傷だわ」
「これ以上、要さんを思い出さなくていい」
「そんなこと――――」
凛が声を荒げた瞬間、藍は眼を閉じた。負の感情全てをないまぜにしたようなものが、軽い衝撃と同時に触れた手のひらから流れ込んできたのだ。
青い顔で短い呼吸を繰り返す凛を見つめて、藍は言った。
「死なないよ」
「えっ?」
「俺は、絶対にあなたよりも先に死なない。約束する」
藍は子供のような屈託のない笑みを浮かべた。
「もう二度と独りにしない」
藍がそう言ったのとほとんど同時に、凛の大きな瞳から涙が零れ落ちた。
「嫌だな、泣いてばかりだわ」
「八年分、たまっているんだから当然だよ」
藍がまた笑う。今度はつられたように凛も少し笑った。
涙を拭って凛はアラタに向き直った。アラタは冷淡、というよりはどこか憮然とした顔で、腕組みをしてじっとこちらを見ていた。
「俺が悪かった。次は失敗しない」
前に出ようとした藍を凛は遮った。
「いいえ、私が悪かったのよ。需に言われたとおりだった」
藍には、凛の言った意味がよく理解できなかった。凛の端麗な顔を見たが、彼女の眼はもう、アラタしか見ていない。
「そこで、見ていて」
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