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人間兵器
作:蒼乃雪花



最終決戦・8


 この日、少なくとも日本国民の半数以上が朝から落ち着かない日を過ごしていた。
数日前に巷を騒がせた通称「3.17予言」は、ネタ捜しに奔走していたマスコミ各社の格好の餌食となり、短期間で爆発的な広がりと盛り上がりをみせていた。
 彼らにき付けられた政治学者たちは過激派のテロ予告だといい、また複数の宗教団体では終末予告だといい、無責任な討論がエンドレスで放送されている。全国各地の小、中学校では「どうせ今日世界が滅びるなら学校にいかない」生徒が続出し、収拾のつかない事態になり、ついには臨時休校に追い込まれた学校もあるという。また、ある商店街では「3.17」の数字にちなんで安売りセールを開催し、たいそう賑わいを見せているようだ。
 滑稽こっけいなほどの盛り上がりと、深刻な社会現象とを引き起こして開幕した三月十七日も残り三分の一となったころ、「3.17予言」の真実を知る、国籍を持たない黒髪黒目の不世出の美女が一人、初春には相応しくないモノトーンカラーの服に身を包み、郊外にある人気のない廃工場へと続く道を早足で進んでいた。
 凛は何気なく、鉛色の空の下に広がる曲がりくねったパイプたちを見上げた。
 以前見上げたときよりも物々しく、不気味なもののように見えるのは気のせいだろうか。前にここに来たのはつい最近、一ヶ月と少し前だった。その時はリュウがいて、藍がいた。今は、一人だ。
 藍を置いてきたことに後悔はなかった。けれど、あれほどまでに念を押された約束を反故にしたことは心の小さな染みを作っていた。
 あの時の言葉に偽りはなかった。藍もそれはよく分かっていたはずだ。ただ、今朝、死んだように眠り続ける藍の顔をじっと見ていたら、息が苦しくなって側にいられなくなった。乱れた呼吸を整えるあいだ、ほとんど忘れかけていたようななにかが訪ねてくるような気がして、慌ててそれを押しやった。それと正対できるほどには、きっと自分はまだ強くなってはいないのだ。そうしていたら、もはや一人で行くことしか選択肢はないように思われた。
 本工場の脇を抜けて、目的の第三工場を目指す。一ヶ月前に図面は一度見たきりだったが、完璧の頭には入っている上に、一度は来たことがあるから距離感もほとんど正確に覚えている。 
 開け放たれた入り口で凛は足を止めた。倉庫の奥、積み上げられた廃材の上に、子供のように足をぶらぶらさせて座っている人影があった。
「待ちくたびれた」
 大きくないのに、よく通る声だった。
「落ちこぼれのARMはどうした、怖気づいたのか?」
 アラタはにやりと笑って、軽々と廃材の山から飛び降りた。
「藍は来ない」
「来ない?そうか、力を完全解放して死んだか」
 凛は答えなかった。
「ちょっと残念だな。アイツは、俺のこの手で溶かしてやりたかった」
「藍を消して――――」
 アラタが訝しがるように眉を上げた。
「私を殺して、萩理所長を始末して、そのあとは…?」
「氷の美女は一切の無駄口をきかないと聞いたが?」
 よく考えてから口に出したことではなかった。気がついたらそう問いかけていた。だから、自分が何を聞こうとしているのか、自分自身でよく分からなかった。ただ、首を傾げる金目銀目の青年を見て、自分がいつもと違うことをしているのだということはなんとなく自覚した。
「そうね。確かに、そうだった」
「俺は、後のことなど考えたことはない。目の前にある邪魔だと思うものを消すだけだ」
「意味がなくても?」
「そんなものは考えるだけ無駄だ。殺せと言われた人間を、殺したい人間を殺す。ただ、それだけだ」
 アラタの声に、表情に変化があったわけではない。なのに、胸を衝かれたような気がしたのは何故なのだろうか。
「もしも…」
 凛は虚空をじっと見据えて、それから、いったん開きかけた口をまた閉ざした。これ以上、何を言おうというのだろう。
凛は左手にはめていた、黒い手袋を払った。もう何も訊くまい、と思った。自分が何をしようとしたのかは、やはり分からない。 と、いうよりは考えない方がいい。
歪んだ指、白い手を埋めつくす深く刻まれた傷痕。見るに堪えないほどに醜い左手。凛は一時、それに視線を落としてからアラタに向き直った。アラタは笑っていた。やっぱりこれしかないのだ、と凛は思った。屈託のない子供のような笑みは、黒い髪と夜空のような瞳を持つあの人と重なった。瞳や肌の色はもちろん、顔立ちは似ても似つかない。それなのに、時折、無防備に感情を晒してみせたり、圧倒されるほどに無垢すぎるようなところはよく似ている。
 今、ここに彼がいたら一体なんと言うだろう。ほんの一瞬だけそんな考えが頭を過ぎった。
 需が前に言ったことを思い出していた。
 何も聞かない。何も考えない。そうすれば、何も感じないでいられる。目の前の仕事を片付けていれば、たとえ意味がなくても時間だけはすぎていってくれる。そうやって八年間をやりすごしてきた。あとほんのわずかでいい、そうすればいいだけのことだ。
 アラタが懐に手を入れてから、グロックのトリガーと引くまでの手際は見事としかいいようがなかった。
 常人なら何が起きたのか把握する暇さえ与えられずに、眉間を貫かれていたに違いない。しかし、あいにくと彼が銃口を向けた相手は反射神経も動体視力も身体能力も何もかもが常人とはかけ離れていた。凛はほんの数歩右に動いただけで、アラタの放った銃弾に空を切らせた。 アラタが嬉しそうに笑う。
 今度は凛がベレッタを抜く。同時にアラタが間合いを詰めてくる。発射された急所を狙った弾丸の一発目は、右に一つ跳び、二発目は左に一つ跳んでかわす。アラタは凛の眼前まで迫っていた。右手にベレッタを持ったまま、左手で強化プラスチックの特殊警棒を抜き、繰り出されたアラタの右の手首を狙って下から打ち上げる。
 アラタは一つ口笛を吹くと、手首を目いっぱい逸らせて際どいところで特殊警棒をかわした。戻る反動を利用して、そのまま警棒を掴む。アラタの左手。早い。凛は左手を翻してそれを受け止めた。
 静電気が起ったような、軽い衝撃。二人は同時に飛び退る。
 アラタは自分の左手を見て満足げに笑った。
「調子は悪くないようだな」
 ところどころ皮膚が消失して、剥き出しになった肉を舐めて笑う。同じようにまだらに皮膚を失った凛は痛みに眉を顰めることもなく、ただ静かにアラタを見つめていた。
「雨が降らないといい。せっかくの機会が台無しになる」
 凛は答えなかった。雨はそれほど問題ではない、と思った。雨よりもやっかいなのは、多分別のなにかなのだ。












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