最終決戦・6
時刻はすでに正午をすぎていたが、ベッドを出たのはつい数分まえのことである。凛は器用に顔と肩で藍の携帯を挟むと、テレビのリモコンを取り出してスイッチを入れた。
画面が映るよりも半秒ほど早く耳に飛び込んできたのは、興奮したような女性リポーターの声だ。いわゆる「お昼のワイドショー」の名物キャスターで、ニュース番組以外はほとんど見ない凛ですら見覚えがある顔だった。
しかし、凛の耳には彼女の言っている内容が一瞬耳に入らなかった。彼女ともあろう者が、一瞬の半分ほどの間、思考回路がうまく機能しなかったのだ。
「やってくれたよな」
「ずいぶん、派手にね」
需が言葉を発したころには、すでに事態はほぼ完全に飲み込めていたし、返答したころには口元に苦笑を浮かべるくらいの余裕すらあった。
神妙な顔つきの司会者の声に合わせて次々と変わる画面には、若者が集まる人気のファッションビルの窓、定番の待ち合わせ場所の象徴となっている銅像、知らない者などない有名私立大学の講堂の外壁が映しだされる。一見何ら変哲のない、それぞれの分野における有名スポットには、確実に昨日までは存在しなかったものがある。
明らかに人目を引くようなところにばかり大きく刻まれた「3.17」の数字。
それはある所では強化ガラスをくり抜き、ある所ではアスファルトを陥没させ、またある所では分厚いコンクリートを貫通して刻まれているのだ。
常識とか良識などというものを、全て蹴倒してしまったような事態に決して小さくない衝撃と混乱が起こり、今や大都市は騒然としていた。
しかし、凛は一晩で、こんなことを成しうる人間が自分以外にも唯一存在することを知っている。
「まさか、こういう手段に出るとは思っていなかったから、情報操作が間に合わなかった。お偉方どもは右往左往している」
ファントムハウスから脱出したままのくせに、形式上は未だ最高指揮官の最上正の顔を思い浮かべて凛は皮肉げにちょっと笑った。
「待ち合わせの日は大々的に知らせてくれたが、時間と場所は ――――」
現在、実質の最高指揮官であるファントムハウスの所長は語尾を聡明な頭脳の持ち主に委ねる。
「藍に突き止めさせろってことでしょうね」
「下らないゲームだ」
自身の推察がおよそ正しかったことを確信し、需は吐き捨てるように言った。
「ゲームなんかじゃない。ただ、居ても立ってもいられなくなったのよ」
冷淡を装った声にわずかに哀れみの色を滲ませた言葉に、需はちょっと驚いた。
「なぜそう思う?」
「自分の存在意義を見失いそうで。だから、力を誇示せずにはいられない。そんな、気がする」
需が数秒の沈黙の後に言ったのは、全く違うことだった。
「藍はどうしている?倒れでもしたか」
凛は一瞬返す言葉を失った。
「何もなかったわけじゃないだろう? 行方不明者のなかに村上哲史がいたから、気にはなっていたんだ」
「今は眠っているわ。倒れたわけじゃないけれど」
「眠っている?」
需は訝しげに繰り返したが、すぐに「ま、何にせよお前が側にいるのなら安心だ」と明るく笑った。しかし、返答代わりの沈黙は需を少なからず困惑させる。仕方なくため息をついて、需は笑ってみせた。
「とにかく、藍が目覚めなけりゃ話は進まん。藍が起きたらまた連絡してくれ」
「需」
「何だ?」
「何でもない」
自分から呼び止めたくせに、喉から出かかった言葉を飲み込んだ凛に、需はまたため息混じりに笑った。
「心配するな。お前は、村上とは違うよ」
言うなり需は唐突に電話を切った。
凛は携帯を握り締めたまま、立ち尽くしていた。
やはり需は藍の父親なのだ、と理屈なく思う。全てを見透かしたような需の言葉がぐるぐると頭の中を回っていた。
何かを振り落とすかのように頭を振って、凛は部屋に戻った。
ベッドでは安穏とした表情の藍が、軽い寝息を立てて眠っている。ベッドの縁に腰をかけて柔らかい黒髪に手を置く。身じろぎした藍の顔に、次の瞬間、子供のような笑みが広がる。あまりにも無垢な笑みは、心を覆いはじめていた影を瞬く間にどこかへ追いやる。
凛は藍の傍らに体を滑り込ませてまた目を閉じた。
すれ違う人間が振り返る。
それは、さして珍しいことでも何でもない。
日に透けて金色に輝く薄茶の髪、抜けるような白い肌。そして、春を思わせる若葉色の左眼と、陽のひかりを浴びてきらめく南国の海のような右眼。この金眼銀眼を美しいといい、女はよく宝石にたとえて言ってみたりする。
煩わしいと思った。
眼の色の話になると、次の言葉は決まっている。
「ハーフ?」「ご両親は?」
使われた遺伝子がどこの何者のものなのかなど知らないし、徹底された教育のたまもので言葉は五カ国語を自在に操れる。自分が何者か証明する基準が皮膚や眼の色や話す言葉なのだとしたら、まるで自分は何者なのか分からない。生み出されたのは確かにこの国だが、別に日本人である自覚もない。面倒なことを聞く女とは二度と会わなかった。
容貌などには関心がなかった。肌の色も、瞳の色も造形の美しさも、どろどろに溶けて
しまえば何も残らない。溶けたあと広がる液体の色は、筆舌しがたい色彩で、それだけは美しいと思った。
SASの頃から、ハギリ リンは目障りだった。
同系統の力を持ち、精度も強さも同レベルに近い。そして、総合的にはARMである自分よりも高い評価を受けている。任務が与えられるのは、いつもハギリ リンの次だ。
自由というものに焦がれた。制約のない世界。命令されない世界。
しかし、自由とは、手にしてみれば甘美な響きとは程遠い空虚でつまらないものでなないか。
殺し甲斐のない人間をいくら溶かしたところで、心は満たされない。道端の石を蹴るのと何ら変わらない。
けたたましく鳴り響く防犯ベル。駆けてくるガードマン。無価値で、つまらない存在。 左右から掴みかかろうとした二人の男の喉元を無造作に掴む。悲鳴を上げる暇さえも与えずに、音もなく人の形は崩れた。
足元に広がる、稀代の芸術家であっても到底造り上げられぬ色彩の水溜りを見下ろして思った。ハギリ リンの液体はさぞ美しかろう。
きっかけはちょっとした思い付きだ。
鼻歌混じりに手を伸ばし、子供が障子に悪戯するような仕草で人差し指を強化ガラスに突き刺す。
大きく数字を描くその指を止めて、しばしガラスに映る自分と向き合う。
色素の薄い髪、オッドアイ。その向こうに見えるのは、対照的な黒い髪と夜闇のような瞳を持つ男の姿。
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