最終決戦・5
細切れのフィルムのように短いくせに、直視するのもおぞましいほどの記憶の破片が飛散して、眼に映る情景を瞬く間に凌駕する。
理不尽に浴びせられた罵倒。
重く広がる圧倒的な絶望と閉塞感。
しかし、訪れるはずのそれらはいつまで経っても現れず、替わりにもたらされたのは、見たこともない優しげな凛の顔と、涙がこぼれるほどに切々とした温かい想い。
そして、それを形にしようとした言葉。
ほんの一時だけ現実が戻り、また失せる。
何がうつつで、何が夢なのか―――――。
紗をかけたような視界の中で、彼女の影に重なる男の顔。同時に起こる、喉元を付きあがってくるような嫌悪感。脳髄を劈く(つんざく)ような衝撃。
「藍」
違う。
「藍」
あの人は、「藍」とは呼ばない。
「大丈夫よ」
この人は違う。
頭では分かっているのに、自分自身では制御できない部分がそれを認めない。
深くて暗い部分に封じ込められたものがとめどなく溢れだして、うまく抑えられない。
ゆるゆると世界の狭間を彷徨って、天も地も何もかもが分からない。
自分がどうなってしまったのかが分らない。
ただ、繰り返される言葉と、彼女の体温から伝わってくるものだけが耳と脳と、そして、胸を打つ。
愛している、と。
目蓋の裏が明るい。
藍はゆっくりと目蓋を押し上げた。
生成りのカーテンから透る陽のひかりは、淡く、優しい。しかし、照らされた凛の顔はそれ以上だ。
「おはよう」
咄嗟に言葉は返せなかった。ただ、彼女のきれいな声だけが、ぼんやりとした頭に染み渡るように響く。
彼女はくすりと笑って白い手を伸ばした。まるで幼児の頭を撫でるかのように髪の上を優しく動くそれが、心地よかった。それなのに、どこかでそれを認めてはいけないような気がした。
「こんなの…子供みたいだよ。変だ」
なのに、一度は押し上げた目蓋が上げられない。
「いいのよ。無理に、急いで大人になってしまったんだから、このくらい、いいのよ」
「そうかな」
「そうよ」
彼女が言い切るとなぜか不思議にそうなのだろう、と素直に思った。そう思うと信じられないくらいに目蓋がまた重くなる。何もかもが重い。常人よりもずっと軽捷に動けるはずの体は鉛のようで、手足にはまるで枷でもつけられたようだ。
「もう少し眠った方がいいわ」
―――― 何?
声が出たかどうかもわからない。彼女の手の重みと、伝わってくる想いが心地よくてそれ以外は一切何も考えられない。
「そのまま眠りなさい。目が覚めるまで側にいるから」
凛は遠くで何かが鳴っているのに気がついて、目を開けた。どうやら藍を抱えるようにしたままの体勢で少しまどろんでいたらしい。
遠くの何かが自分の携帯だと気がつくのに、いつもの二倍の時間を要した。肌身離さず持っているそれは、今は自分の寝室に放り投げてきたままだ。
あれほど物音に敏感なはずの藍は、変わらずよく眠っている。いくらか憔悴したような顔をしてはいるが、眉が下がった端正な顔は警戒心が解けて幼さ(いとけな)さえ漂わせている。凛は、目を細めてしばし藍の寝顔に見とれた。人気があるところでは眠れないはずの人が、今、確かに自分の横で穏やかな寝息を立てて眠っている。ただそれだけで、何か温かいもので心は満たされる。
遠くで鳴っていた飾り気のない着信音が止むと、今度は間髪いれずにデスクの上に置いてあった藍の携帯が鳴る。
凛は相手を確信しながら、なるべく藍を動かさないようにするりとベッドを抜け出すと手近にあった毛布を纏って部屋を出た。
「はい」
「……凛か?」
電話の主の声は、少し意外そうだった。
「お前、今どこにいる? 藍は、どうした?」
「藍は一緒よ、心配しないで。ちょっと ――― 手が離せなくて出られなかったの」
わずかな沈黙は需が思考を巡らすのに十分な時間だったようだ。
「何かあったのか?」
「何もないわ。そっちこそ、何かあった?」
凛は軽く笑って、いつものようにきれいに話題を転回させた。
「何かあったかって? テレビ見てないのか?」
需の声は拍子抜けしたようだった。
「テレビ? 見てないわ」
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