最終決戦・3
ターゲットが絞りこめない以上、この深刻な人材不足のさなかに多くの人手を割くのは現実的に不可能であり、結局もう少しこのまま様子を見るという結論に落ち着いた。消極的かつ、受動的対処は凛はむろんのこと需にとっても好ましいものではなかったが、現状を考慮すれば止むを得ない。
それから二、三情報交換をして、行方不明者の最新情報を今日中にFAXすると言い残して、需はサイに伴われてファントムハウスへと戻っていった。
需と別れ、凛は店を出て通りを歩き始めていた。
新たな情報に関して、確認したいことがあった。それは今日中に済ませられるようなことで、確認が取れればマンションに戻って藍の意見を聞きたいと思った。
足は目的地へ向かって確かに動いている。いつもと同じように、仕事をしようとしている。
しかし、凛の頭の中はいつもと少し違った。
要の、穏やかな声と、観音様のような優しげな笑みが大好きだった。
何もかも受け容れてくれるような懐の深さは、兄というよりも、父親のような存在だった。もっとも、実父のことなど顔も見たことがない。
おぼろげな記憶の中にある母は、酒ばかり飲んでいた。鎖骨が浮き出した細い体に、赤いスリップドレスをまとい、時々ピアノを弾いていた。
愛された記憶は、あまりない。
自分からは口にしたことはなかったが、他の子供にはない奇妙な力を持っていることに薄々気がついていたようで、気味悪がっていて近くには寄らせなかった。それでも、時折、気紛れのように頭を撫でて笑ったこともあったような気がする。
組織の人間には常に大事にされて育ったが、それはSASとして利用価値が高かったからで決して愛情ではなかった。母に捨てられたのだという思いは、決して拭い去れなかった。
期待に添えるよう、優等生であり続けた。知識を吸収し、能力に磨きをかけて認定試験に通ったのは弱冠十五歳のときだった。ARMを除けば、それは最年少記録だった。
一年目はベテランSASについて、より実践的な知識や技術を学んだ。
任務は、暗殺が多かった。
人の命を奪うことには、抵抗があった。
ベテランのSASたちは「慣れ」の問題だといい、任務に感情を差し挟むのはいけない、とも言った。
十六歳のとき、ツーマンセルの片割れとして要と引き合わされた。
SASらしからぬ穏やかなものいいと、茫洋としてつかみどころがないくせに、妙に鋭いところがあって、ふとした拍子にこんなことを言った。
「リンはリンのままでいればいい。それ以上にもそれ以下にもなる必要はない」
それで、それだけで、背負っていたものが一気になくなったような気がした。
それからは要が全てだった。同僚はいたが、親しくはならなかった。妬みや羨望のまとになるだけで、心を開けるような友人はできなかった。
要を失った時と、その前後のことはあまり覚えていない。
雨の夜、霧に包まれたような記憶の断片が吐き気や息苦しさと同時に脳裏に閃くことがあるぐらいで、よく分からないのだ。
要を失ったあと、多分、死のうと思った。
需が、「要を殺したお前が勝手に死ぬのか」と静かに言ったことだけを覚えている。落世を申請しても需は許さなかった。それどころか、休養が与えられたのはほんのわずかで、何も考える間がないほどに難しい任務を矢継ぎ早に与えられた。
需が本当に憎いと思ったこともあった。しかし、今思えば需は需なりに必死だったのかもしれない。
任務に追われているあいだ、数え切れない人の命を奪った。
多くの人間の死に立ち会っているうちに、どこかがおかしくなっていった。人の命を奪うことにも、何も感じなくなっていった。最愛の恋人をこの手で殺めた自分が、今更見ず知らずの人間の死を厭うのは、偽善だと思った。
万事において、何も感じなくなっていった。それは、楽だった。喜びも幸せも感じないかわりに、苦しみも悲しみもない。
それでも、自分の右手に、今までなかった力が宿っていることを知って愕然とした。
要の持っていたヒーリング能力が、そっくりそのまま移っているかのようだった。
人を殺める力を忌み嫌っていた自分に救いになるように残したのか、恋人を殺したという罪を忘れぬように手枷としてつけられたのか、分らなかった。
最近は、時々、躯が浮いているような気がすることがよくあった。
自分の体なのに自分のものではないように感じる。目に映る世界はどれもよそよそしく、自分がなぜここにいるのか分からなくなる。不思議だとは思ったが、もう、それを深く考えることはしなかった。
凛は不意に息苦しさを覚えて、立ち止まった。
表通りから路地に入り、屈みこむ。
右手を胸に当て、目を閉じる。気がつかぬ間に、息がずいぶん上がっていたようだ。
呼吸が落ち着いてくるのを感じながら、凛は頭を振った。一つ息を吐いて、ゆっくりとまた歩き始める。
藍が心の真底に触れてから、もしかすると少し自分は変わったのかもしれないと、思う。
以前なら、発作が起きてしまうまで息が上がっていることなど気がつかなかった。
昔のことを思い出すのは、雨の日の夜、吐き気と頭痛と息苦しさとともに記憶の断片が脳裏をちらつくぐらいで、こうやって冷静に思い返すことなどなかった。
凍てついていたものが、溶けはじめているのかもしれない。
それは、くすぐったいような感覚であり、恐怖のようなものでもあった。
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