最終決戦・2
凛は藍の胸に額を押し付けて、まるで腕の中に隠れるようにして眠る。
藍は、はたから見る以上に実際は華奢な彼女を、壊れものを扱うように優しく抱え込んで目を閉じる。
こうして一つのベッドの上で一緒に眠るのは何も特別なことではない。凛が過呼吸の発作に悩まされたあいだはほとんど毎日こうしていたし、一か月前ファントムハウスを出てからも何度も朝まで一緒にいたことはある。
二人がファントムハウスを出たのはやむを得なかった。
アラタが最終的に接触してくるとしたら、凛か藍だ。ほとんど確信にも似た直感が凛にはあった。留まっていれば、凛は再び多くのものを守りながらアラタと対峙しなければならならず、大打撃を受けたファントムハウスには回復するだけの時も必要だった。
アラタは需にもかなりの執着があったようだったが、需に関してはファントムハウス内にいる方が安全だと思われた。いくらアラタといえども、ファントムハウスに単身で乗りこむのは容易ではないのだ。念のため需には優れた空間移動の能力者を万一のための護衛としてつけ、緊急時にはすぐに離脱できるような態勢をとった。
凛に接触してくるのはこちらとしても望むところだったが、藍はそういうわけにはいかない。同じARMといえども藍は感応系能力者で、アラタは攻撃系能力者なのである。藍が一人でアラタを相手にするのは荷が重い。当初、藍はここから駅一つ離れた自分のアパートに戻るはずだったが、藍の身辺を心配した需と凛がそれを止めた。そして、「ベッドルームなら、余っているわよ」という凛の一言が二人の奇妙な同居生活の始まりを決定づけることになったのである。
二人はともにアラタに関する情報を求めてしばしば出歩いた。
しかし、凛は藍を置いて、一人でも情報収集と称して出かけることがあった。今日もそうだ。
腕の中で凛が身じろぎする。穏やかだったはずの寝顔には、不穏なものが覆いはじめていた。
凛は情報収集以外の活動を行っている、と藍は思っていた。
ピアスを外すのは、凛が寝室に来るときだけで、その時流れ込んでくるのは彼女の心の奥底にあるものだから、具体的なものを感知したことはない。
今回とは別件だろうが、どうやら暗殺の任務をたびたび 受けているらしかった。
誰かを殺めてきた日は、必ずこうやって藍の使う寝室にやってくる。
そして藍は「氷の美女」が毎夜のように違う男の部屋で眠る理由を、ここにきてようやく知った。別に、情欲に溺れているわけではない。ただこうやって人の温もりを感じたいだけなのだ。しかし、この稀代の美女と同じベッドの上で一夜をともにしながら、手を出さぬ男などまっとうに考えれば、この世に存在しえないではないか。
眉間に細かい皺を寄せて眠る凛を抱える腕に少し力をこめる。
ぴたり、と寄り添う。自分の体温を伝える。そうすると、凛は左手を固く握り締めて、また穏やかな、幸福そうな表情に戻る。
藍はそれを見ると、ほっとすると同時に胸のあたりがしめつけられて、どうしようもなく苦しくなる。いたたまれなくて見ていられないのだ。
凛が手を汚した夜、一人でいられない理由を藍は知ったが、凛自身は恐らく気がついていない。抉られたような深い傷を負った彼女が生きつづけるためには、心を凍てつかせなければならなかった。自分でも分からなくなるくらいに。ただ、それだけだったのだろう。
こんな時は、凛が無我夢中で需の元に駆けつけた時に感じた苦い思いを、藍は忘れた。
自分とこの人の関係を位置づけようとすることも忘れた。凛にとって、藍の体温が安らぎになるならそれでいいと思った。藍にとっても凛の体温は心地よいものなのだから。
ある時から人気があるところでは全く眠れなくなった。それなのに、藍はピアスを外した状態でも凛を抱きかかえていれば、まどろむぐらいはできた。彼女の荒涼とした心の風景に頭はいっぱいになり、それ以外の人間の声は何も聞こえない。それは決して美しいものでもなく、喜ばしいものでもなかったが、藍はまるで自分のもののように、自然にそれを受け容れられたのだ。
時刻は七時五分 ――――。
深い睡眠から目覚めた凛に、藍は微笑む。
無個性な朝の挨拶に返されるのは、いつもと同じ花のほころぶような微笑と慣れた口付け。そのたびにはげしく震える藍の心を知ってか知らずか、凛はひらりとベッドから降りて何事もなかったかのように、朝の身支度にはいる。
藍は凛が部屋を出て行ったあとも、しばらくそのままぼんやりとしていた。
窓から差し込む日差しは弱く、春はまだ遠い。
需は窓の外をぼんやりと眺めていた。
火を点けたまま置いた煙草から立ち上る香りが、鼻腔を満たす。
元々吸っていた銘柄ではなかった。独特な少し甘い香りがあるものを好んで吸っていた。弟の要が一緒に酒を飲んでいる時に自分の煙草を切らすと、分けてくれとせがむくせに、いざ吸うとこの香りは苦手だと文句を言った。
要は、深く愛していた恋人の手によって死んだ。状況は、今もよく分からない。ただ、凛が自分が殺したのだとそう言った。
骨も残らなかった。だからそれは真実ではないにせよ、少なくとも事実ではあったのだろう。
需は気がついた時には、要がいつも吸っていた銘柄の煙草を吸っていた。理由は深く考えなかった。ただ、何も残さず突然死んだ弟を忘れたくなかったのかもしれない。
「少しは本数減らしたら?死ぬわよ」
聞きなれているはずなのに、はっとするほどの美声に需は視線を動かした。
「俺の信条は太く、短くだ」
挨拶代わりの憎まれ口の応酬はいつものことだった。凛が需の向かいに腰をかける。
「珍しいな。お前が時間ぎりぎりか」
「いつもより十五分寝過ごしたの」
「寝過ごした?お前が?」
需が驚いたように繰り返す。
「そう」
凛は気にしたようすもなく、使い込まれて独特の光沢が出たバッグから二冊のファイルを取り出して需の前に置いた。
「こっちが先週の、こっちはその前の報告書よ」
「もうまとめたのか?」
「たいした内容ではないもの。すぐに仕上がったわ」
「そうは言ってもな」
凛でなければそれぞれが数ヶ月かけてもおかしくはない任務内容だった。それどころか、成功させるのも容易ではなかったかもしれない。
「それと、この間の件なんだけど、ターゲットになり得る人間の近辺を張ることはできない?アラタが姿を現すかもしれない」
「やはり、奴の仕業だと思うか?」
「遺体が出てこないのが、何よりの証拠でしょう」
ファントムハウスでは、例の名簿と今回の件との関連性をまだ疑っていた。
「シマは中枢にかなり食い込んでいたと考えた方がいい。事実、アラタに関する情報も削除されているところがあった」
「それほど甘いセキュリティーではないがな。シマなら可能かもしれん」
「シマは心底強大なリーディング能力の持ち主を欲していた。藍も需も手中に収められなければ、違う手段を探していたのかもしれない」
「ARM研究に携わり、ファントムハウスから出た人間を探していた?」
「だとすれば、過去に組織に関わった経歴があるものの名簿が彼らの手中に渡っていた可能性はかなり高い」
需は顎にちょっと顎に手をやって思案する。
「そうだとしても、アラタが彼らを襲う目的は?」
「深い意味はないと思う、と藍は言ったわ。リーディングで感知したわけではないでしょうけれど」
運ばれてきたコーヒーカップを繊細な指で持ち上げて中身を一口含み、凛はカップを置いた。リーディング能力のせいか、それとも元来の性質か定かではないが、藍は人の心の機微に敏感すぎるくらいに鋭いところがある。たとえ、推察であろうとも藍の言うことならばそれほど的から外れていないのだろうと需は思った。
「藍にアラタの思考を追わせてみるか?」
「砂漠に落とした針を探すようなものよ。見つける前に熱射病で倒れるのが目に見えている。そんなことを需から言うなんて、珍しいわね。どういう風の吹き回し?」
「今のあいつなら、できるような気がしただけさ」
需は視線を外にやって、苦笑した。
藍とはじめて会ったのは弟の要が死ぬ少し前だった。
そよと風が吹いただけで崩れてしまうのではないかと思うほどに儚く、何ほどの刺激も与えぬよう無菌室に入れるようにして、何とか落世するところまでこぎつけた。落世させればさせたで、それまで以上に不安は尽きなかった。しかし、三年間の社会での生活はあれほど人に対して強い不信感と嫌悪感を植え付けられたはずなのに、「人が楽しい時間を過ごしに来るところで働くのは、嫌じゃない」とまで言わせた。そしてつい先日には、自分がリュウを殺せばよかったのだとはっきりそう言った。瞳の奥に強い意思と活力をたたえた藍の姿は、まるで知らぬ人間ではないかと思うほどで、需は、あの時の眼が今も忘れられない。
「お前も何でも一人で抱え込むな。もう少し藍を使ってやれ。頼りなさそうに見えるが、ここ最近のあいつは見違えたぞ」
「分かっているわ」
いつものように困ったように笑って、いつの間にかきれいにはぐらかすのだ、と需は思った。
「分かってないだろ。アラタの追跡は別にお前一人に与えられた仕事じゃない」
需は先ほど凛が差し出してきた二冊のファイルを見遣って、言った。
「実戦経験こそ浅いが、全体的な能力はお前と比べても遜色ない。あれ以上のパートナーは他にないぞ」
凛の顔から浮かんでいたはずの苦笑が、蝋燭の火が吹き消されたかのようにふっと消える。
「怖いのよ」
「怖い?」
需には凛が吐き出した言葉の意味がよく分からなかった。
「傷ついている姿を見るのも、失うのも」
「なぜだ?」
冷静さを装って問うてみたものの、内心の動揺は一人きりでアラタとシマに対峙したときのそれの比ではなかった。
「藍といると、楽に呼吸できるのよ。信じられないくらいに」
凛は俯いた。コーヒーカップに添えられた指が、小刻みに震えている。
「あの時から、心のどこかは毀れていたのだと思う。いや、自分で毀したのかもしれない。自分が何者かさえ分からなくなっていたところに、藍が入ってきた。そんな気がする」
内容は抽象的、言い方は訥々としていて、人によっては冷淡とさえ評するほどのいつもの理路整然とした彼女の話し方とはかけ離れたものだった。しかし、需は手に持った煙草に火を点けるのも忘れて、凛のばらばらな言葉の一句さえも聞き逃すまいと耳を傾けた。
「誰にも踏み込んで欲しくなかった。自分さえも目も背けていたところだったし、目を背け続けることで、自分が保たれているとも思っていた。でも、藍は静かに入ってきて、私の毀れてしまった部分をただ何も言わずに見詰めてくれる。でも、それは少しも嫌じゃなくて、それどころか心地よいくらいで―――― 驚いた」
「そうか」と頷いて、需はようやく煙草に火を点けた。
「それはまた、熱烈な愛の告白だな」
需は紫煙を吐き出してから、からかうように笑ってみせる。いつもならば手厳しい反撃があっただろうが、今の凛にはそんな余裕もないようだった。神妙な顔でうつむいたままだ。
「ただ、藍を利用しているだけかもしれない。藍のリーディング能力を。もしそうなら、私はシマ以下だわ」
「相変わらず生きにくいやつだな。じゃあ、お前はリーディング能力がある者になら誰にでも自分の心を預けるのか?違うだろ。藍にたまたまリーディング能力があって、言葉が必要なかっただけさ」
「でも」
「藍はお前に触れるんだろう?だったら、それでいい。もしも利用しているだけだとしても、藍はそれさえも受け容れているということだ。流れ込んでくるものを受止めきれないとき、勝手に自己防衛本能が働いて、藍は意識を失う。そうでないなら、考えることはない」
凛の手はまだ微かに震えていた。需はそれを握り締めて止めてやりたい、と思ったが実際に行動に移したのは、全く別のことだった。
「藍が変わったのは、きっとお前のおかげなんだな」
凛が顔を上げた。
「変わったということはひしひしと感じていたが、何故か今まで分からなかった。でも、話していたらよく分かった」
黒い瞳がじっと需を見つめている。
「お前たちは正反対のようで、根底にあるものはかなり近いと思う。同じ空気を吸えば楽だろうし、互いに足りないところを補うこともできる。あまり考えず、藍の側にいることだな。それが、藍のためでもある」
言いながら一瞬、需は自分にそう言い聞かせているのかと思ったが、すぐにそれは違うと分った。以前から感じていたことを、率直に言葉にしただけなのだ。藍が凛を何とかしてくれるような気がしていた。凛が、藍に何らかの影響を与えるだろうとも思った。だから、藍が店で襲われるという情報が入ったとき、真っ先に凛の出動を提案したのだ。それが正解だったというだけのことだ。
凛の手の震えは止まっており、それを確認したとき需は自分の心が奇妙なほどに晴れていることに気がついた。
|