最終決戦・1
港を一望しながら食事ができると評判のレストランがある老舗ホテル、一度だけ乗ったことがあるライトアップされた観覧車、そして無個性なオフィスビル…。
広がる景色にはよくみれば見慣れたものも多いが、角度と高さが違うだけで街全体は全く知らないもののようにも思われた。
見慣れた景色といえども、たかだがここ三年の間だ。
萩理藍が生まれ育った施設を離れて自活するようになったのは二十歳の時であった。
電車に乗れるようになり、煙草を吸うようになり、仕事後のビールがうまいと感じるようになった。友人ができ、コンパに連れまわされ、毎夜のように飲み歩いた。毎日が単調といっても過言ではないくらいに平穏に過ぎていき、時折起こる小さなハプニングがちょうど良いくらいのアクセントとして満足できる生活を送れていた。
雪国育ちにとっては生易しく感じる寒さを九○日ほどやり過ごせば、いつもと変わらぬ四年目の春を迎えるのだと信じて疑わず、それが唯一の望みでもあった。
しかし、誰が今この現状を予測できたというのだろう。
冬の大半を生まれ育った山間のハイテクノロジー施設で過ごし、春が日増しに近付いて来る晩冬のこの季節、藍はさまざまな意味で分不相応な状態に身を置くことになっていた。
「何か飲むー?」
バスルームから姿を現した絶世の美姫が冷蔵庫をあけながら声を上げる。聞いておきながら藍の返答を待つ前に缶ビールを二つ取り出して一つを藍に放り、二十畳以上はある広いリビングのほぼ真ん中に置かれた、やたらと座り心地のいいソファに身をおさめた。
「違った?」
窓辺で見事にビールの缶をキャッチした藍は苦笑して首を横に振り、すでに定位置になりつつある、彼女の斜め向かいに腰を下ろした。
濡れたままの艶やかな黒髪を束ねて、ラフなルームウェアに着替えた凛はプルタグに指をかけて開け、中味を半分ほど流し込んだ。その何気ない動作さえもひどくさまになるのは、彼女自身の美貌とこのシチュエーションが成せる技である。
都心の近くにありながら、裏手には緑が広がる閑静な住宅地に建てられた高級マンションの最上階の一室。生活感のない広い空間は北欧風のインテリアですっきりとまとめられており、隙がない。彼女の所有物であるこの部屋の値段を藍のウェイター時代の月給に換算するならば、ざっと八十年分くらいには相当するだろうか。多忙な身ゆえ年に数度しか利用しないというこの部屋を購入したいきさつを藍が尋ねたところ「他にお金の使い道がないから」との実に明快な解答が得られた。
「そうそう、ファントムハウスの修復作業がまた一歩進んだみたいよ」
缶を持ったまま苦笑を漏らした藍の胸中を見透かしたように凛は言う。
「壊すのは一瞬、再生するのには途方もない時間がかかるものよ。それが道理というものでしょう?」
凛がモズを仕留めるためにファントムハウスの床に大穴をあけ、戦略観点からアラタを逃亡させたのは、一ヶ月ほど前のことになる。
組織が受けた物的被害は額が大きすぎて正確な数字ははじきだされていないが、某国の国家予算に匹敵したともいわれる。一方人的被害は素早い避難命令と的確な凛の指示により、死者は五名、けが人は重傷十一名、軽傷一○九名となり、死者の五名は全て萩理需の警護にあたったSASたちだった。
一方テロリストたちのファントムハウス襲撃の代償は大きかった。首謀者でありブレーンであったシマと、その片腕であるモズを失った。シマが死んだことにより、彼女のマインドコントロールから逃れた信者たちは、自然消滅しつつあるという。組織は壊滅したといってもよかった。ただ一つ、テロリストたちの中枢の一人であり、旗印でもあったアラタだけは姿を消したままで、その行方はようとして知れない。
「シマは自分の未来も予知していたのかしら」
「それはどうかな。自分のことなんて一番分からないものだから」
「まあ……ね」
誰もが優秀だと評してくれる明晰な頭脳の持ち主たちは、それぞれに思うところがあったようで、無言でビールを喉に流しこんだ。
「新しい情報は?」
藍は話題を転換させる。
「まだ調査が十分ではないから、今回の件に関連があるという確証はないけれど」
凛がテーブルの上を滑らせた用紙には、性別も、年齢も居住地もばらばらの姓名が並んでいた。一見したかぎりでは規則性はないようにも思われるが、藍はすぐさまそこにある共通項を見出した。
「過去にファントムハウスに関わりがあった人物」
「そう。そして、ここ数ヶ月の間に行方不明、もしくは死亡した人間よ」
「ここ一ヶ月の間にずいぶん集中しているな」
「アラタが関わっていることはほぼ間違いないと思う。でも、目的が分からない」
二人は一枚の紙に羅列された姓名に視線を落とし、沈黙する。
凛が意図的に逃がしたアラタの行方はようとして知れない。シマは世界を掌握するという明確な目的のために動いていたため行動には理由と方向性がはっきりしており、その分だけこちら側としても対策を講じやすかったともいえる。
「意味はないんじゃないかな」
遠くを見るような視線で藍がぽつりと漏らした。
「ARMの存在意義は、その力を使うことにある。逆を返せば、力を使わなければ生きている意味がない。舵取りをしていたシマを失ったことによって、たとえ詭弁であったとしても力を使う正当性はなくなってしまった。かといって、一度反旗を翻した以上、組織に戻ることはできない」
「御者を失った馬車が暴走するように?」
凛にも思い当たるふしは十分にあった。シマを殺したときアラタにあったのは、確かに嫉妬だったのだと思う。皆に重宝がられている藍を見て自尊心を傷つけられたのだろう。それを利用して凛は同士討ちにまで展開させたのだ。
「闇雲に力を使うことでしか自分を保っていられないのかもしれない」
「無差別大量殺人に発展する可能性も十分にあるわね」
それは二人にとっても日本国にとっても、世界にとっても全く歓迎できぬ事態である。
藍はさりげなさを装って建策してみる。
「ピアスを外してアラタの心理を探ってみようか?」
「明日からもう少し本格的に詰めてみるわ」
視線を落としたまま凛は、部下の極めて建設的な申し出をやんわりと退けた。藍はこの一ヶ月ほとんどピアスを外していない。ファントムハウスにいた時は、最低一つは外していたが、この大都会ではそういうわけにはいかない。制御を取り払えば、何千、何万という人々の思考が流れ込んでくる可能性もある。それらに晒されて平静を保っていられる人間は存在しえない。
凛が飲み終えたビールの缶を置いて、藍に顔を向けた。
「ね、今日は部屋にいってもいい?」
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