ずれた歯車・7
凛と藍が同時にスタートの合図を聞いたオリンピック選手のごとく走り、床に転がったままの各々の銃器にとびつく。
「需!」
「需さん!」
急展開についていけずにいた需が我に返り、転げるようにして二人の元へ走る。
断末魔の叫びが木霊したのは需が二人の元に到達したのとほぼ同時。藍が眉を顰めたのは、現実に響いたそれだけが原因ではない。
二人は需を背に庇い、銃口を構えた。
元は女であった毒々しい液体を踏みにじり、アラタが振り向く。 あまりにも邪気のない顔だと藍は思った。まるで、気に入らないいじめっこに反撃した少年のような。
しかし、現実にこの青年がやってのけたことはいじめっこに報復などという可愛らしいレベルのことではない。数ヵ月間同志として行動を共にしてきた人間を、ためらいなく液体化させたのだ。もっとも、同志という表現は不適切であったかもしれない。彼らの繋がりは凛の一瞬のひらめきによって割かれてしまうほどに、脆いものだったのだから。
思惑どおり人質の奪取に成功した作戦司令官の脳内では、それに安堵する間もなく、唯一残った最強のテロリストをいかにして始末するかという方向に向きはじめていた。状況、戦力さまざまな材料から彼女がはじきだした算段は ――――。
「あいにくだけど、接近戦には応じないわよ」
アラタは彼女のことばの意味を正確に読み取ったようだった。
ぴたりと定められた二つの銃口に臆したようすもなく不敵な笑みをすぐにしまい、おもむろに踵を返した。軽々と落下防止の柵に飛び付き、ふわりと宙を跳ぶ。駆け寄った二人が目にしたのは、身体能力、ことに軽捷さにおいては自負がある彼らですら閉口するような光景であった。
「真似できないわね」
地上およそ十三メートルの高さからためらいなく跳んだアラタは、落下の途中で窓枠に片手をかけて、そのまま流れるような動きで二階の窓ガラスを蹴破って室内に侵入したのである。凛の言葉に、藍は黙ってうなずくだけだ。
「仕方ないわね。場所が悪すぎるもの」
全く逃亡者を追跡する気のない上司は白い息を吐きながら、ようやく温度を感じたのか自分の体を抱きしめて苦笑した。
「さっき一階に大穴を開けたばかりだし、人質候補は地下に山ほどいるし、これ以上ホームグラウンドを戦場にはできないわ」
「今回は防衛戦だったわけだから、戦果は十分すぎるくらいだよ」
「将帥を討ち取って、猛将をみすみす逃したというところね。さて、このあと主を失った敗軍の将はどうするのかしら」
自問してからすぐに凛は思考を中断し、「万事は派手な内輪もめの後始末をしてからか」といささかくたびれたようすで言った。
日本が誇る非公開特殊工作部隊、Special Ability Spy 通称SAS。
彼らの訓練施設であり、待機場所であるこの研究施設は設立されて以来、他国や他組織より襲撃を受けたことは一度たりとてない。莫大な資金をつぎ込まれた最新鋭のセキュリティーシステムは、内部に精通するものにとっては子供の玩具に等しかったようだ。
「それにしても、よくもあそこまでアラタの心理をよく突いたものだ」
森の中に消えた色素の薄い髪の青年の後姿を屋上から見送って、藍が独り言のように漏らす。
「藍にそう言われるってことは、私の読みはまんざらじゃなかったってことね」
藍だけが、恐らく当人よりも正確にアラタの思惟を把握していた。ただ把握していたからといって彼がシマとアラタを同士討ちにまで導けたかというと、それは別問題である。
「まあ、アラタの気持ちは分からないでもないでしょう」
凛は風に乱れた髪を押さえた。
「SASという仕事は、本当の名前も、家族も、友人も、過去も全て捨てなければいけないから感覚が狂ってしまうのよね。その分、自分は選ばれた存在なのだという自尊心とか、国を護っている使命感だったりとか、何かを心の拠所にしなければ生きていかれないのかもしれない。特にARMであるあなた達はね」
「あなたも?」
藍の返答に凛は虚をつかれたように、数秒沈黙する。
「きっと例外じゃないわね」
曖昧な言葉と、自嘲とも困惑ともいえぬ複雑な苦い笑みが彼女の心情を素直にあらわしているようであった。
「さて、後片付けといきますか」
凛が今度は茶目っ気たっぷりの笑みを浮かべて藍を促す。彼らの三十メートルほど後方では需が、先ほど転がるように走りこんできたそのままに、冷たい地面の上に放心したように座り込んでいたままだった。
「無事でよかったわ」
目の前を覆った影を見上げて、需は思わずため息をつく。
「迷惑かけたな。シマもろとも撃ってくれてもよかったのに」
「馬鹿ね。化けてでられたら夢見が悪いでしょう」
内容とは裏腹に凛の声音はひどく優しい。二人は顔を見合わせて笑った。
「腰が抜けたの?だらしないな」
「俺はお前たちと違って凡人だからな」
憎まれ口を叩いて平静を装ってみせたものの、この時の需は決して冷静ではなかった。無論、それだけではない。藍の仕草があまりにも自然だったのだ。
「あっ…」
小さく声をあげたのは凛だ。需は何気なく差し出された息子の右手を握り、さらに引き上げられてから凛の漏らした言葉の意味にようやく気がついた。慌てて振りほどこうとするが、藍の右手はしっかりと需の右手を握ったままで離さない。
不安そうな面持ちで父が俯いたままの息子の顔を見つめる。凛はすぐそばで息を殺しそれを見守っていた。
厚い雲の切れ間から、光の矢が差し込む。
藍が顔を上げる。
二種類の視線を受けて、彼は夏の青空のよりも晴れやかに笑った。
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