ずれた歯車・4
絶体絶命という四字熟語の意味を、生きている内にこれほどまでも身をもって体験する人間は一体何人いるのだろう。
萩理需は強風に髪を乱しながら、そんなことを考えていた。
自分の力ではどうにも突破できぬような状況に陥ったとき、このようなことを考えるとはよもや思っていなかったが、自覚している以上に冷静なのかもしれない。しかし、冷静であるからといって現状には何の変わりもないのであった。
「さあ、どうします?」
「どうするといわれても、どうしようもないな」
客観的にいっても、主観的にいってもそうとしか言いようがない。
凛と藍の二人が出て行ってすぐに、側にいると言い張って聞かない白瀬を半ば無理やり地下二階のシェルターに避難させた。闇雲にうろつくのも上策とは思えず、とりあいず来た道を戻っていたら、凛の命令を受けてきたというケイという若いSASが率いる一団と出会い、合流した。
そこから先ははっきり覚えていない。
ほどなくシマとアラタの二人と遭遇し、六人のSAS達に守られながらファントムハウス内を駆けずり回り、周りを取り囲んでいたSASがアラタの手にかかって一人減り、二人減り、屋上に到達した時点ではリーダーのケイと、つい数日前に認定試験をパスしたばかりのコードネームも覚えていない少女の二人しか残っていなかった。
その二人すら今は、筆舌しがたい色彩の液体となって混ざり合い、需の足元に空しく広がっている。
「俺ごときに大将が直々にお出ましとは、参ったね」
「ごときなどと、ご自分を卑下する必要はありません。独力でARMを作り出せるのは、あなただけなのですから」
シマのかつての恩師に対する態度は慇懃といってよい。需は皮肉げな笑いで応えた。
「萩理所長を優秀な研究者と見込んで、一つ提案があるのですが」
「優秀だなんて買い被りさ。SASの認定を受けるべきでない人間を、推薦してしまったんだからな」
「今の私があるのは、あなたのおかげです。感謝していますよ」
彼女の持ちかけた提案という名目の取引には、さしたる意外性はなかった。
早い話が、藍と同レベルのリーディング能力者と新たに開発しないか、という内容である。そのためにはこのファントムハウス以上の設備と施設を用意し、成功した暁には一生遊んで暮らせるほどの報酬を保障するという。
「どうですか?あなたさえその気になってくれれば、こちらには、今まで以上に研究に打ち込める環境を用意する準備があります」
実際、需がこのような取引を持ちかけられるのははじめてではない。今や特殊能力を持つ工作部隊を抱えるのは公にはされていないもののさほど珍しいことではない。しかし、人為的にそれら超能力を持った人間を造るのに成功しているのは日本だけであり、それを実現する需を欲するのは、国内の組織だけではない。それらの誘いに応じず、需が十数年もファントムハウスに腰を落ち着けているのは、決して使命感や愛国心のためではない。思った以上に権力と金に魅力を感じなかった、というだけである。だからこそ優秀な研究者であり、ARM研究の第一人者であった彼の父は、後継者として息子を抜擢したのだともいえる。
「俺は、ARMは二度と造らん。技術を誰かに伝える気もない」
即答した需に、シマは訝しげに目を細めた。
「条件が気に入らないのですか?」
答えない需に、シマはたたみかけるように続ける。
「ご自分の命がかかっていても?」
需は短く笑ってその場に座り込み、白衣のポケットから愛飲している銘柄の煙草を取り出した。
「ARMというのは、ごく一部の人間の身勝手な考えが生み出した、非常に不条理な存在だ」
「それが、何だというのです?」
「ARMはただの兵器じゃない。意志も感情もある、一個の立派な人間なんだ。人間に手を加えるのは、まさに神の領域。神の領域に人が踏み込むのは、許されることではない」
「何をいまさら」
シマは口の端を上げて嘲り笑う。
「ARMはその名のとおり兵器なのです。誇り高き兵器の恩恵にあやかれるのは、少数の価値ある人間だけ。あなたも、その少数の人間なのですよ」
「……過去にも同じようなことを言った奴がいたよ」
もう、十年近く前の記憶だというのに、それは少しも色あせることなく鮮明に需の脳にきざみこまれている。藍が原因不明の昏睡状態に陥ってから二ヶ月、藍に対する虐待の事実をつきとめた需は、確たる証拠を持って村上哲史に突き付けた。それを見た男は狼狽するどころか、さもおかしそうに笑って、次のように言った。
「人間に使われるために造られたモノを利用して何が悪いのか」と。つまり、彼は自分の欲望のはけ口を藍に向けたことに対し、少しも罪悪感を持っていなかったのだ。ただ、藍がARMであるがために。あまりの衝撃と怒りのために意識が遠のきそうになり、需は咄嗟に反論さえもできなかった。
村上が藍をつかって歪んだ欲望を解消するのは一瞬だが、破綻寸前まで追込まれた思春期の少年が自分を取り戻すのに要した時間はおよそ五年。唯一の心の拠り所であっただろう「SASとして活躍する」という存在意義をも果たすことを諦めざるをえず、心的外傷に至っては一生つきあっていかなければいけないかもしれない。
「とにかく、理不尽に押しつけられた存在意義をまっとうするためだけに、必死に生きる人間を造るのはもうごめんだ」
「理不尽に押しつけられた存在意義…」
アラタが口中でくりかえした声は、需の耳にもシマの耳にも届かない。
「そんなにご子息がかわいいのですか?」
「ああ、かわいいさ。あんな形で血を分けた事実が悔やまれるくらいだ。もっと平凡な環境でぬくぬく育ててやりたかったよ」
需は紫煙を吐き出して、煙草を揉みけした。
「さっさと殺せよ。俺は藍も凛も呼ばんぞ」
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